手紙を書こうと決めたのは、もう随分と前になる。「一生」と同じくらいには、年月が経っただろうか。
決めたのは、初めて仲間の「死者」と向かい合った日の夜だった。それは、「一生」を終えて数年後のこと。自分の終わりを想像して、打ち消しても打ち消しても打ち消し切れず、眠れない夜だった。
ああなりたくはない。しかし、いつかはなるのではないだろうか。そうして、仲間たちに厭な思いをさせて、終わりも判らないうちに終わるのだ。
だからこそ。
せめて、少しでも理性の残っている間に、手紙を書いていこうと思った。そうすれば、「終わり」が決められる。あの時のように突然、何の予告もなく訪れるのではなく、迎えられるだろうかと。そうして、少しでも、残していく仲間の負担を減らせるだろうかと。
「・・・恨まれるかのう」
「ん?」
「いや。では、すまないが頼まれてくれぬか――」
まだ墨の乾き切っていない三通の手紙に封をして、年はずっと上だろうが、見かけはそう変わらない桜黄桜に手渡す。その顔は、どこか晴れやかでもあった。
「それ」が叶わないものだということは、随分早くに悟っていた。だから、別段淋しくもなかったのだが、そう言うと決まって「かわいそうに」というかおをされるので、口に出すことはなくなった。
「それ」――「家族揃っての食卓」、というやつ。
母が、成一を生んで以来入退院を繰り返してゆったりと死へと歩いて行ったため、端からその場に、母は欠けている。
父は、とにかくひたすら働いていた。時間がない時間がないと言うが、実はそれが嬉しいのであって、閑でもあろうものなら機嫌を悪くしていることを知っている。
一番下の弟の成一は、小学校卒業と共に家を出てしまった。
二番目の弟の優一は、家庭教師の時間の配分で、食事時が違った。もっとも、一緒に食事をしたところで、読みかけの本から顔を上げないのだからいてもいなくても同じだ。
そういう自分も、成長するにつれて、家まで空腹で持たず、外で済ませることが増えた。
それでは、そうやって家族がバラバラになる前には「それ」はあったかと言えば、やはりなかったような気がする。
だから一時は、そういうものなのだと本当に思っていた。それでも、何ら不都合はなかったのだが。
「家族の食卓って、ずっと憧れだったの。そういうの、なかったから」
そう、はしゃぐように言う「彼女」――いずれは、「妻」になるだろう人。
さて、どうしたものか。
突然突きつけられた「それ」に、少しばかり頭を悩ます総一だった。
「――あなたが、太陽の祭司様?」
「――君は、月の祭司か」
初めて見たときは、ぎくりとした。思わず体を強ばらせてしまい、そのことに驚き、慌てたものだった。
月の民を、遠目には見たことがあった。しかし、髪も瞳も濃い銀色となると、祭司となることはほぼ確実で、太陽の民の目に触れるところになど来るはずもなかった。
「私、まだ祭司にはなっていないわ。これから塔に登るの」
「そんな人が、何故こんなところへ?」
自分も同じ立場であることはおくびにも出さず、ついそう訊いていた。単純な興味と、自分がここにいる理由を聞かれる前に、という打算からだった。
しかし少女は、気楽に笑うだけだった。
「ねえ、もう少し話し相手をしてもらえる?」
「塔には――」
「はじめてよ、私を見て逃げたり石を投げたりしない太陽の民の人は」
そう言って笑う銀色の少女は、伝え聞いていた月の民とはかけ離れていて、突っぱね損なってしまった。
それが、リュウランとアルシードの出会いだった。
窓の外に、花が揺れている。
「もう、コスモスの咲く時期に――ええ?」
間抜けなことを口走ったと、顧みる間もなく窓に飛びつく。
「そんなところで何やってるの!?」
うわあ、と声がして、男子生徒が二人、化け物でも見たような顔つきで振り返る。それが、窓の下のベランダ状のところでの行動だ。
たまたま残っていた他の生徒会役員たちも、何事かと近寄ってくる。
「答えてもらえる? 何をしているのかと、訊いているの」
「・・・校内緑化計画・・・」
「認めた覚えはないわよ。危ないから、早く入って」
深く、深く溜息をついて、悠は二人を招き入れた。
知った顔だ。先日、窓の下に土を入れて花を育てる、という無茶な計画を提出した園芸同好会員だ。
「あーあ、これ片付けるの、ちょっと大変ですよ、会長」
窓から覗き込んだ一人が言う。既に、土は撒かれていた。
しょんぼりと肩を落とす二人の手には、花の咲いた、根付きのコスモス。
「コスモスは、多少環境が悪くても育つんです!」
先程までのしおらしさはどこへやら、力説する男子生徒。
深く、深く。悠は溜息をつくのだった。
空を向いて、仰向けに寝転がる。
空は、厭になるほど青くて。
吸い込まれそうで、泳げそうで、とてつもない開放感がある。
「また、こんなところにいる」
影が落ちて、反射的に顔をしかめた。
「邪魔するなら向こうに行ってよ、少年」
「少年言うな。俺には、ちゃんと大空翔っていう名前があるんだからな」
「あったね、そんなのも。安直で即席なやつが」
そう言うと、少年は頬を膨らませた。
「そんなこと言うと、屋上にいたって告げ口するからな。立入禁止だろ、ここ」
「そんなこと言うと、二度とケーキ作ってあげないから」
「えっ、うそ、ウソだからな、今の」
慌てる少年に、こんな奴のせいで自殺を思い留まったのかと思うと、無性におかしかった。
青空が、厭になるほどに綺麗だった。
「・・・・・・これは何だ?」
「勝手に来て上がり込んで、そんな言い草はないでしょう」
紀東野は、自分でも渋々とその反応も仕方がないと認めながら、向かいにどっかりと腰を下ろした祭李道を冷ややかに睨み付けた。
「これでも言葉を選んだんだぞ」
「それは、ありがとうございます。お気遣い痛み入ります」
「だから、そう怒るなって」
酒を勧め、李道は「それ」をそっと見遣った。黒こげの物体だ。推測するに――野菜では、ないだろう。
魚か肉か。しかし、ここは山の中だ。そうすると。
「・・・鳥か?」
「よくわかりましたね」
うっかり、素直に驚いた反応を返してしまい、二人は顔を見合わせて笑った。
――まだ、身の回りのことを全て自分でやることに違和感のあった頃の話だ。
「・・・頼むから、泣き止んでくれ・・・」
ほとほと疲れ切って、ぐったりとしながら言うが、返ってくるのは、一向に衰えない怪獣のような泣き声。
やはり、俺に子育ては無理だったか。
そうかといって、頼める相手もいない。もっとも、誰が好き好んでヴリコラカスの子供など育てたいと思うか。
「・・・お前だっていい加減、疲れないのか・・・?」
何も知らない赤ん坊は、何かを求めるように手を伸ばし、泣き叫ぶ。
一通り、知り合いの産婆に世話の仕方は聞いたものの、果たしてこれで合っているものか。
ふと、このまま殺してしまった方が面倒もなく、この子供も不幸にならずに幸せかも知れないと思う。
手を伸ばして――触れた指を、小さな手が掴む。それは、熱いくらいに温かかった。
「・・・わかったよ」
あやすために小さな体を抱きかかえて、ゆする。小さな、小さな何も知らない命。
いつの間にか、昔聴いた子守歌をくちずさんでいた。
「アイリ様? また、こんなところに」
書庫の、丁度影になるところに身をひそめていたアイリは、セイに発見されて、小さく口を尖らせた。
「どうしていつもいつも、見つかるんだ」
「あなたが、必ず見つけろと言ったからですよ」
小さく微笑して、さらりと返す。
セイとアイリが、出会ってまだ間もない頃のことだ。シンに半ば強引に、アイリの遊び相手とされたセイは、わがままな少女に手を焼いていた。
目を離すとすぐに姿を隠す少女が、何から逃げるのか、よくわからずにいた。
だから一度、そんなに逃げたいのなら逃がしておいた方がいいのだろうかと、そう思って半ば放って置いたことがあった。
夕刻、自分から姿を現わしたアイリは、怒ったようにして、ぼろぼろと泣いていた。
『なぜさがしに来ない! どうして・・・いいか、これからはぜったいに見つけろ・・・!』
探してもらえるから隠れるのだと、そのときに知った。
そんな回想の残滓を頭から振り払って、セイは溜息をついた。
「ところで、今は勉強の時間だったはずですが?」
少し古びた校舎。懐かしいのに、違って見える設備の数々や、先生たち。
自分が、まだその前段階とは言え、「教師」として、母校にやってきていることに戸惑う。
そして、記憶にある多くは、大切だった人の思い出と重なる。
角を曲がった男子生徒の背を、見間違えて追いかけそうになる。自分たちが交わしたのと同じような会話を耳にして、立ち止まる。
それらが、全て記憶の中の、思い出の産物だとは知っているのに、まだ揺れる。四年は、まだ過去になりきらない。
そっと追憶に浸って、美希は美術室に踏み行った。
「いーい天気っ。絶好の海日和だよね」
――そうは言っても、わしらはずっと海におるぞ?
「あ、そっか。えっとじゃあ、遠出日和ってことで」
――はははは。やはりお前さんは面白いなあ
「あたしに言わせれば、リュシュさんだって。おかげで、大助かりなんだけどね」
――ふぉふぉふぉ。さて、飛ばすぞい。おっこちんようにな!
「了解、船長!」
こうしてこの日、青い空と青い海の間で、イルカに乗ったゆらは、台風卵の材料を摘みにいった。
狭い檻の中にいることは、思ったよりもつらくない。
ここには空もあって、他の生き物たちもたくさんいる。
だから、そんなには辛くない。
何か――何かを、何か厭なものを、思い出しそうになるけれど、そんなにはつらくない。
ご飯が食べられなくて、ものすごくお腹がすくけど、だけどなんとかなっている。
よく怪我をするけど、大きな傷はそうなくて、だから、大丈夫。
そんなことは、つらくない。
つらいのは。
ここにいるのに、あの人たちはよくこっちを見るのに、攻撃だってしてくるのに、見てくれない。
見てくれない。話してくれない。笑ってくれない。
この、狭い檻に閉じ込められて。それだけが、つらい。
「おーい、花之助ー。ご飯だぞー」
真は、アジの干物を持って校内を歩き回っていた。
これも仕事で――しかし、つくづく変な学校だと思う。何故、ペットのアヒルを学校に持ってくる必要がある。
「アジの干物って・・・体に悪いんじゃないか?」
アヒルが何を食べるのかは知らないが、とりあえず、塩分たっぷりの干物はまずいのではないかと思う。
しかし飼い主は、泣きそうになりながら必死な様子で、アジの干物を握りしめて言ったのだった。
『頼む、なんとしても花之助を無事に見つけ出してくれ! あいつがいないと、俺は、俺はっ!』
「俺は」どうなるのか、是非とも知りたいところだが諦めよう。
そうして真は、干物を持って校舎を彷徨うのだった。
門が閉まっていたから校外には出ていないはずと断言し、飼い主は校舎外の校庭や中庭あたりを探している。生徒会に事情を話し、校門は出入り時以外は閉めてもらっている。
「・・・なんで、これだけ生徒がいて誰も見てないんだよ・・・」
呟きながら、真はまた、声を上げてアヒルの名を呼ぶのだった。
「おーい、花之助ーっ」
「始まり」が何だったのか、今となっては誰も知らない。冥界に於いてさえ、知る者はない。
例えば、路傍の占者の言だったろうか。
例えば、誰かの不安だっただろうか。
例えば、恨みを抱いたことだっただろうか。
例えば――
幾通りの可能性を挙げたところで、過去がゆらぐことはない。事実に辿り着けるかも不明だ。
しかし、それの「始まり」が、ささやかなものだったろうことは想像できる。
小さな波紋は徐々に大きくなり、やがては人の一生を、国の全てを、呑み込んだ。
その「始まり」は、おそらくはささやかなものだったに違いなかった。
『てっちゃん? これから来るんでしょ? ついでに洗剤買ってきて。台所用のやつ。お願いね』
「――判った」
短く言って、哲也は電話を切った。
正直、面倒だと思わないではないが、断わった方が面倒になることは目に見えている。
夏季は、医者よりも弁護士にでもなる方がよいのではないかと考えかけて、それにしては感情的すぎるかと、即座に否定する。本人が聞いたら怒るだろうが、しかし納得もするだろう。
そうして、三種類あった中から適当に一つを選んで買った洗剤を持って壱の家に行くと、ふわりと、透明な泡が目の前に来てはじけた。
「しゃぼんだま?」
「あっ、ゴクローサマ! てっちゃんもやる?」
「・・・洗剤要るのって、まさか、これで使い切ったからとか・・・」
「やあ、テツ。きれいだろう、久しぶりだよ」
にこにこと、笑う二人。
密かに脱力しながら、まあいいか、確かにきれいだと、哲也は思うのだった。
くるりと、鉛筆を指先で一回転させる。
「うーん」
もう一回転。
「うーん・・・」
机の上に広げているのは、半分ほどが字で埋まった原稿用紙。その次が、出てこない。
「司ちゃん、進んだ?」
「颯ー、駄目ー。もういい、今日は寝る」
「司ちゃん。美恵子さん、明日取りに来るんじゃなかった?」
「だからって、書けないものは書けない」
「それで済むことでもないよ。ほら、鉛筆削るから貸して」
半ば奪い取って、颯は小さな手で器用に小刀を使った。司は、それをぼーっと眺めている。
そして突然に、あ、と声を上げて、机の上の鉛筆を取り上げて、何か原稿用紙に書き付ける。
颯は、そんな司を見てくすりと笑うと、削った鉛筆を机に置き、そっと部屋を後にした。
羽山成皓の右腕には、常人には見えない刻印がある。
それは、餌と知らしめるための印と、響に聞いた。見えるのは、響の同族者のみらしい。
つまりは、持ち物に名前を書くような、そんなものなのだろうと、皓は思った。
「一体、どんな印なの?」
そう尋ねたことはあるのだが、口で表現するのは難しく、書くにも複雑だと断わられた。単にそれは、響が絵が下手だから描けないのではないかと、密かに疑う皓だった。
家畜に焼き印を押すようなものだが、普段は痛みもなく、大体忘れている。
しかし時折、主に響から遠く離れたときに鈍く痛むことがあり、「持ち主」から離れるとこうなるのかと、感心する。
「色々考えるねえ」
そこで笑える自分を、時々は恐ろしくも思う。
自分を餌と思い至らせるそれは、しかし、不思議と恐くも疎ましくもないのだった。
「・・・厭だ」
「そんなことを言わずに、ほら。きれいだろう? 都で評判の仕立屋に頼んだんだよ。今日は君の初夜会になるんだし・・・」
「それなら、出なくても構いません。そんな・・・そんなの、絶対に着ません!」
父と娘は、壁に掛けられた一着のドレスを間に挟み、もう長いこと睨み合っていた。
その間にも夜会の始まる時刻は刻々と近づいており、時間丁度に出る必要はないものの、エルはじりじりと焦っていた。
母のキャロラインは、既にドレスを着て、外出の準備も整っているだろう。
エルとしては、今日のこの王室主催の夜会で、正式に妻と娘を披露するつもりでいた。それなのに、娘は華麗な正装を拒むのだった。
「何が厭なんだい、言ってごらん」
じっと、娘は、探るように見つめる。信用できるかどうか、計っているのだと判る。
「・・・びらびらして、飾り立てて・・・媚びてるみたいで、厭だ」
男装して、屋敷に飛び込んできた少女。それまでの生活では、金のかかるドレスなど縁がなかっただろう。
急いだだろうかと、エルは心中で溜息をついた。
「それなら、もっと大人しいものに変えようか。つまらなければ、すぐに帰ってもいい。この先も、無理に出ろとは言わない。少し試してみて、それでも厭ならそれでもいいんだ。それでも厭なら、今回は諦めよう。――どうする?」
「・・・・・・行くよ」
にこりと、エルは微笑んだ。
この時代、それのみを商売とする宿屋はない。
それでも、そこそこの交通はあるため、子供などが家を出て空いた部屋に、金をもらって旅人を泊める家はある。あるいは、飲み屋の付属だ。
後者は措くとして、前者の場合、その家の者も一緒に住んでいるため、何か怪しいところがあれば断わられることがある。
が。
「すみません、少しの間泊めてもらえませんか? 師匠のところへ向かう途中なのだけど、僕の父が病を患ってしまって・・・一度戻りたくて。師兄たちがすぐにこの辺りに来るはずなので、しばらく待っていてくださいと、伝言を頼めませんか? ここから先、師兄たちに置いて行かれると、僕一人ではとても無理で・・・お願いします!」
いささか緊張したようにして、一生懸命に懇願する。少なくとも、相手にはそう見えるはずだ。
「ああ、いいよ。まかせときな。その人たちは、なんて名なんだい?」
「ラオ兄と史明兄です。あ、僕はリー・ラオです。ありがとうございます、お願いします!」
心底安堵した様子で言って、それから少し話をして、その場を去る。その頃には、すっかり相手を味方にしてしまっている。
「あそこに宿が取れるように頼んどいたから、日が暮れる頃にでも行ってくれ。ああ、俺たち三人は師匠のところに行く途中の半人前道士で、二人は俺の兄弟子だからな。俺とは別行動を取ってて、あそこで合流することになってたってことだから。じゃあ、しばらく戻らないけど問題起こさずにいてくれよな」
当然のようにさらりと指示を出す様は、先程の様子からは伺い知れない。
こいつ、きっと口先で十分に世間を渡り歩けるだろうなと、史明は思うのだった。
「・・・なあ、これ。手で直す意味、どこにあるんだ?」
「それは、苦労して時間をかけて、きっちり反省するというところにですよ」
竪琴を膝に抱え、悪戦苦闘する太陽神――シュライを、紅茶のカップ片手に見下ろしながら、月神
シュライは、絶句して弟を見遣った。
くすりと笑って、シュウリルは言葉を次ぐ。
「ほら、早くしてくださいよ。今日はリウたちに竪琴を披露するのですから。それとも、無理ですか? 兄さんでも? それなら仕方がない、」
「無理なもんか!」
途端にやる気を起こして、再度悪戦苦闘が始まる。シュウリルは、そんな兄を見て、くすくすと笑った。
のどかな、ある一日のことだ。
ミゾクチ製薬の社長、溝口雅也は、誘拐犯からの電話を受けたときに一度、心臓が止まったかと思った。
それは、既に何度も経験したものだった。
例えば、妻の貴和子が子供を身ごもったと聞いたとき、両親が事故で同時に死亡したと知ったとき、貴也が生まれ、貴和子が重篤に陥ったとき――。
息子が、「顕現者」と知ったときも。
そのときには、自分が製薬会社を経営していることに感謝した。ささやかだった研究施設は、息子の能力をなくすためにと、規模を大きくした。
しかし、未だ解決策は見つからない。
それなのに、貴也以外の「顕現者」の能力を抑える薬は完成した。そして、そのために息子は誘拐された。
犯人の要求を呑もうかと、考えなかったわけはない。
しかしそうすると、研究に費やした費用の回収は難しく、その上、貴也に盛大な文句を後々まで言われることは必須だった。
息子は、そう望むに違いないのだから――雅也は、犯人の要求を突っぱねた。
レキサンドラは、いわゆる「吸血鬼」、ヴァンパイアだが、伝えられるように、直射日光で灰になることはない。
そもそも、伝説や伝承といったものは、誤解や脚色に基づいたものが多い。それに倣うかのように、吸血鬼の「弱点」も量産されていた。例えそれがどんなに作りものめいても、吸血鬼そのものが作り物めいていると、嗤うように。
「まぶし・・・」
差し込む光に目を細めて、レキサンドラはカーテンを閉めた。弱点や苦手なのではなく、嫌いだ。
日の光は、あまりに明るくて、きれいで暖かくて。幼い日の夢を、思わせるから。――嫌いだった。
「高弘、開けたわよ。起きられる?」
「ん・・・だいじょーぶ」
ぼんやりと、眠いような眠ったような表情で、高弘は視線を向けた。
有利は、小さな丸盆をサイドテーブルに乗せると、体を起こす高弘にさりげなく手を貸した。
「何度あったの?」
「だいじょーぶ、そんなに・・・」
うっすらと笑みさえ浮かべて言う弟にお盆ごと缶詰の洋梨が入った器を渡すと、これもさりげなく、有利は体温計に手を伸ばした。この家の体温計はデジタルではなく、従って、強く振るかしばらく置いておかなければ数値は消えない。
見てみると、やはり高弘に振って戻すだけの体力はなかったらしく、三十八度を少し超えたところまで、赤い色が延びていた。
「大丈夫、ねえ。それ食べたら、ちゃんと薬飲むのよ」
「それ」は、高弘が熱を出したときの定番だ。桃はよく聞くけど、と環は言うが、有利はその理由を知っている。
幼い日、両親の他出時に発熱した高弘に、慌てた有利が家中を探して食べさせたのだ。
それは、小さな思い出だった。
前略――と書かれて始まったその手紙は、哲也の祖父からだった。
思わずまじまじと見つめるが、やはりそれは、どう見ても哲也宛だ。
父にではなく、自分に。息子にではなく、孫に。
子供より孫が可愛いというのはよく聞く話だが、しかし、ほぼ没干渉の間柄のせいで、確執はあるのだろうかと、まだ考えてしまう。
父と母は父方の両親には、とうとう結婚を赦されなかったという話を聞いた。強固に反対したのは祖母であったらしいが、祖母の死語も、祖父とは手紙のやりとりもなかった。
それが突然。
ほとんどはじめて見た祖父の字は、書道の手本のように達筆だった。崩された字が所々読みにくかったが、そこに今年の夏に遊びに来ないかと、控えめに誘いの言葉が書かれているのが判った。
行こうかと、何故かふと、そのとき哲也は思ったのだった。
薬を、用意した。
正直なところ、正面切って身柄を拘束するということに、気後れしたのだ。
シュムは変わった少女で、妹を思わせるからだけでなく、付き合いがあれば面白いと――「友達」でいられたらいいと、思っていた。
しかし、契約は結んでしまった。
それならせめて、シュムには余計な苦痛のないように、そして自分にも負担の少ないようにと、自ら薬を用意した。
風見和幸は、伯耆和夜と並んでラケットを構えていた。
周囲からは、適当に煽るような声援が飛んでいる。
「あのさ・・・今更だけど、なんで俺達がこんなことやってんの?」
「温泉と言えば卓球でしょう。勝手に負けたら承知しないから」
「えっ、マジでやるのか?!」
「当然。やるからには勝つのよ。勝ったら、ジュース課長のおごりなのよ」
あまりに活き活きと笑うので、そんなセコイ、と突っ込むこともできず、せめて精一杯やろうと思う和幸だった。
――ある、社員旅行での一幕。
ハンカチは、なるべく吸収のいいものを用意する。この場合、タオルでもいい。
泣く、といったところで大泣きするわけでもないので、目が赤くなることさえ少ない。
「うーん、それでも傍から見たら泣いてるって判るのか」
佐奈は、ハンカチを握りしめたまま呟いて溜息をついた。
今日、泣いているところを目撃されてしまい、目撃者は、一瞬だけ気まずそうな表情をして、そのまま足早に立ち去ってしまった。
「・・・ま、いいか」
ぼつと呟き、佐奈は仰向けになったまま、とびきりきれいな空を見た。
俊葉は、時計を見た。
待ち合わせの――ほぼ一方的に告げられた――時間は、どうやら過ぎてしまっている。しかし、司は姿を見せない。
「またあの人は・・・」
約束事を軽く見る人ではないと思うのだが、他に注意を取られると、さらっと忘れてしまうことがある。
幼なじみの俊葉は、幾度か、そういった被害に遭っていた。例えば、一日待ちぼうけを喰らうとか。
そこで帰らない自分も自分だとは思うのだが。
「ごめんーっ、遅れた。さっ、登ろうか!」
「え・・・ええっ?!」
「星見るんだから。高いとこのが見晴らしいいじゃないか。何のために、こんな時間にこんなとこで待ち合わせしたと思った?」
そういって、先に登り始めてしまった司を追って、溜息を置いて、俊葉も続く。
司のおかげで、そらで絵さえ描けそうな腕時計が、まだ蛍光塗料を光らせていた。
「・・・なんで俺が」
溜息をつく。
境内の掃除は良和の仕事と、決められてしまった。それというのも、お前は桜の精と出会ったのだから――いやそれ、こじつけじゃない?
反論は試みたが受け容れられず、一度、まあいいかと思ってしまったのが運の尽き。
普段はそう大変でもないが、落葉樹が多いだけに、秋頃、紅葉期を過ぎた頃は大変だ。
「お前さー。もうちょっと遠慮して葉ぁ散らそうとか思わないのかよ」
数年前には切る切らないで祖父ともめた桜の木の幹を軽く叩き、良和は、軽く苦笑した。
「ねえ、雪だよ! お父さん、雪!」
この地域では、初雪らしい。それに、リューシュは無邪気に喜んでいた。飽きることなく空を見上げている。そんな様子に、ジェインも嬉しげに微笑む。
多分、積もることはないだろう。この辺りでは、雪が降ること自体が珍しい。
「すごいね、きれいだ!」
「ああ。はしゃぎすぎて風邪をひくなよ」
「大丈夫だよ。ねえ、ちょっと向こうに行ってくるね」
返事も待たずに、リューシュは走り出した。
それを見送って、ジェインも空を見上げた。灰色の空から、やはり灰色に見える切片が降り注ぐ。
雪など降ることのなかった砂漠地帯を思い出して、ジェインはそっと呟いた。
「君も、空で見ているか? ユエ――」
遠い、しかし今でも近しい、名前だった。
「なーなー、どっちがいいと思う? 花火と爆竹」
「あー? 両方いっぺんにやっちまえば?」
「あっ、なーる」
「ルイス、あまり煽らない方がいいんじゃないですか? 両方とも、すごい音がしますよ」
「何? それじゃあ駄目だ。その時間、俺、ディタ先生の個人レッスン」
「知るかよそんなの。新夜祭だろ、新年だろ、だったらやっぱ爆竹だよな、明月」
「・・・僕に振りますか」
「だってそういう風習なんだろ? うん、やっぱ両方にしよっと。調達行って来るー」
「・・・・・・変わらないなあ」
「・・・・・・変わりませんねえ」
インド洋上空を、鯨が飛んだらしい。
種類までは忘れた。
母は、「まあ、珍しいわねえ」と言ったが、鰯が飛ぶなら鯨が飛んだって珍しくはないと思う。
・・・常識を、再度定義し直す必要があるらしい。
「星を流した、か」
さして面白くもなさそうに、呟いた。隣に座る星神が、怪訝そうに首を傾げる。
そうと気付きながら、口の端を上げて、ただ笑う。
「変化があると、人界に知らせてるんだろ?」
「まあ、そう言えなくもないけどな。お遊びって言うか、悪あがきって言うか。昔の名残にしがみつきたいんだろうなあ」
「ラオはさあ、物言いが厳しすぎるよ。結局それって、自分も周りも不愉快にさせるだけだろ。年とるに従って悪化してない、それ?」
「・・・お前は、年とって小生意気になったよな」
「ラオほどじゃないけどな。それより、下に降りれる道見つけたっての、どこ?」
にこりと笑って、星神は話題を変えた。
休みを取った。――というよりも、取らされた。
『ちょっと待てセイ、お前、ちゃんと休み取ってるか? いや、そんなはずがない。非番替わってやったりしてるの、いやと言うほど見たぞ』
ある日突然、義兄のシンに呼び止められて、気付くと半月程の長期休暇の手続きをとられていた。
確かに、このところ休みは取っていなかった。それで能率が落ちることもあるのだから、それでは駄目には違いなかった。
しかし、こうやって長い休みを目の前に置かれたところで、何をしたいと思うでもなく。
「あらあら、ちいぼっちゃん。折角の休みだというのに、何をなさってるんです」
「あ・・・いや、その。掃除でも・・・」
「あたしの仕事を取り上げないでくださいよ。若いんだから、どこかに遊びに行けばいいでしょうに」
「う、うん、そうだけど・・・」
女中に部屋を追い出され、セイは仕方なく外に出た。
シンであれば、閑を持て余すこともないだろうと考えて、城での日常を思い浮かべて、ぼうっとするのだった。
結局、セイの休暇は、ほとんどのところがぼんやりとして終わっていった。
学校が楽しい、というのはいいことだろうと思う。
最近は変化がでてきたものの、現在の日本では、まだ、学校は「避けて通れない」感がある。それなら、楽しんでしまった方がずっと楽に違いないのだ。
しかし紅葉は、そう考えながらも好きにはなれなかった。――いや、好きにはならせてもらえなかった。
小学校――初等部に通っていた六年間、陰湿にいじめられてきたら、好きになりようがないと思う。学校は勉強するところではあるが、その勉強の多くは、「人付き合い」なのだろう。
よくぞぐれなかった、と、紅葉は、時々自分を茶化す。ただ、ぐれてはいないかも知れないが、確実にひねくれてはいるはずだ。
如何にして穏便に現状を抜け出すか、それが紅葉の目下の悩みであった。
呼ぶ声が、聞こえる。
「・・・誰だ・・・?」
応えが返ることはないが、そっと、彼は言葉を吐き出した。
「俺を、呼ぶのか――勝手に呼べばいい」
平坦な声が、どこか皮肉げに響く。
「それだけの覚悟はしておけ」
声は、誰にも届くことはなかった。
「今回当たりだったなー。三流のドツボってとこで」
にこにこと上機嫌の紅葉に、卓真も笑みを返した。ひとしきり、見たばかりの映画の話に花が咲く。
ファーストフード店で昼食の傍らの会話で、周囲には、話題はさておき似たような年代が多かった。
「ところでさ、気付いてた? このところ、私たちに見張りついてたの」
「・・・ああ。まあ、なんとなく」
ポテトをつまみ、ふうと、紅葉は溜息をついた。
「何回か外で会って、トラブル処理係してたからさ。いい加減、うちの父に気付かれた」
「それで、どうして見張り?」
「斎木の家が、娘の結婚相手としてそう悪くないから。それとなく話持っていこうと画策中――らしい」
「そいつはまあ」
同じく溜息をついて、卓真はジュースを飲んだ。
「いっそ、俺達が映画のネタだな」
「ああ、それ、もう提案した」
「一人に? 返事は?」
「考えとく」
ふうん、と呟いて、二人は再び映画の話題に戻っていった。
ざわざわと、うるさくて目をつぶる。耳を閉じても消えない音は、せめて姿が見えなければ、気のせいとはいえ少しだけましになる。
こんな能力は、ほしかったわけではなくて。
ほしがる珍妙な者は――例えば部活仲間の少年――沢山いるのだから、そちらに譲れるものなら譲りたい。
非科学的だ、という。そんなものが存在するなら、足の踏み場もないほどいるのだろうな、という。――ああ、確かに。
しかし、気のせいでも思い込みでも、海晴にとってそれが現実である以上、どうしようもなく、それらは「ある」のだ。
その存在は、ざわざわと、うるさい。
誰かに――譲れるものなら、譲りたいと。海晴は、そう思うのだった。
意識が戻ったのは、ほぼ最期に見た海岸線。
遺体が漂着したのは、なんてことない砂浜。
実感も何もなくて、ただ呆然としていた。何が起きたのか把握していなかった――わけではなかったのだけど。
そこが終わりで、始まりだった。
だからこそ、俺はそこで、ただぼんやりと考え事がしたかったのだ。
黄桜の管理する代理道は、満開の桜が咲き乱れている。常に満開で、そのくせ散り落ちていく。奇妙な世界だった。桜の種類は一種ではなく、本来ならば開花の季節が異なる花々が、並んで開いた花弁を見せつける。
稀にではあるが、桜黄桜が一人きりで出かけるところがあった。
満開の枝垂桜の下で、何かを探すように、思い出すように見上げる。そこに待ち人がいたのは、ずっと前のことだと、知ってはいる。この場所でないとも、知っている。
「鬼にしたのはお前達だ、か」
変な女だった。枝垂桜の下でただ話すだけの密会に、どれだけ救われたか。姉が殺され、低く燃えるような憎悪に呑まれた中でさえ、彼女だけは憎めなかった。
そっと、枝垂桜の幹に額を押し当てて、黄桜は佇んでいた。その肩に、頭に、桜が舞った。
口の中が腫れていた。
昨夜散々に殴られて、切れていたのだから仕方ない、と思いながら、それでもハラクは、顔をしかめて血の匂いの残る唾を吐いた。
まだ、自分は幼い。しかし庇護者はいないのだから、己の力のみで生き延びるしかない。
血を流そうと、目を、腕をなくそうとも、生きている限りは生きる。
ただそれを望むだけだ。
ハラクは、泥の沈んだ水から上手に上澄みだけを含み、腫れた口の中を漱いだ。
「へえ、きれいだなあ。真っ白だ。どうしたんだ、これ?」
そう言って亮太が持ち上げた白磁器を、総持はちらりと横目で見た。
「代替わりにもらった。伊万里の産だそうだ」
「ふうん?」
わかったようなわからないような返事をよこす。
総持は、一人密かに溜息をついた。例の絵を描いたのだが、それの報酬が壺となると――しかもいくつももらったのだが、一体、行商でもしろというのだろうか。
「買っていかないか、値段は相場で」
「うーん?」
亮太が、首を捻る。
これからは、先に相手の懐状態を調べてから依頼を受けようか、とも思う総持だった。しかし、それも手間のかかる話だ。
「最近食欲ないわね。ちょっとくらいの批判でへこたれてるようじゃまだまだよ」
いっそすがすがしいような口調で、隣人は慣れた風に家に押し入った。
いつも、扉を閉めるタイミングを間違えて失敗する。
「はい、これあげるわ」
「な、何ですか、これ?」
「リュウタン、っていうらしいわ。リンドウを煎じたもので、胃薬――なのかしら? 胃の働きを活発にしてくれるのだったと思うけど。生薬だから、早めに飲んでね」
「いや、あの」
「今日はこれで失礼するわね。明日は、個展の打ち合わせをしましょう。じゃあね」
何も書かれていない薬の包みを残して、そうして、隣人は去って行ってしまった。
泣けもしない葬式の時の雨は、凍えるほどに冷たかった。
自分と違って、大泣きする半分だけ血の繋がった弟の涙は、温かかったけれどやはりすぐに冷えて、雨に混じった。
冷たくて、凍える。
それは、まるで俺の中にある感情のようだった。
冷えて、それなのに形を取ることはなく、多くのものに浸み入っていく。
いっそ雪や雹にでもなれば、形を取れば、まだ楽なのに。
「気になるよなあ」
「・・・何が」
双海は、大概自分も付き合いがいい、と思いながら、みかんを一房、口に放り込んだ。こたつの向かい側では、兄の鳴海が、やはりみかんを手に持ち、それをしげしげと見ている。
「ほら、あれさあ。どうなったんだろ、あの後」
「・・・あれって何」
「覚えてないか? 俺が見た夢でさー、」
「判ったから」
全てを言わせず、すぱりと続きを封じる。
鳴海は、そんな弟に腹を立てることもなく、やっぱり気になるよなー、と呟いている。
これは、絶対に来ると、双海はそろりと腰を浮かせた。こたつを出るのは少々惜しいが、天然ボケの兄につき合うと、精神的に物凄く疲れる。
が。遅かった。
「なあ、結局どれが一番の橙色ってことになったんだろうな?」
「・・・何飲んでるんだよ」
「ん? チューハイ」
「・・・・・・今、朝って判ってるか」
さんさんと、朝日が射し込む。
そんな穏やかな光景の下で、寝間着姿のまま缶のチューハイを呷る姉の姿に、雪は、焼いたトーストを載せた皿を持ったまま、静かに脱力した。
確かこの人は、昨夜酔って帰ってきたはずだ。
それが、いつ寝間着に着替えたかというのも驚きだが、どこをどうして朝酒になるのか。アルコール度数はそうないとは言え、酒には違いない。
「朝だから飲んでるんじゃない。迎え酒。あー、頭痛い」
「・・・言っとくけど、迎え酒がいいなんてただの錯覚だからな。水でも飲んだ方がよっぽどましだ」
「え、嘘?」
馬鹿だ、やはりこの人は馬鹿だと、自分の分のトーストを囓りながら、こっそりと溜息をつく雪だった。
さほど音も立てずに、三人は山道を歩いていた。登る、と言った方が正しいのだろうか。
一人は、十余の狩衣を着た少年。二人は、まるで忍び装束のような格好の男たち。月明かりもなく判り難いが、三人とも、似た髪の色をしている。
「もう戻っていいよ。兄様への報告は、僕一人で十分だ」
ぴくりと、二人ともが反応を示したのを受けて、少年は、ふうわりと笑んだ。
「我が侭を言ったのはあの人の方だからね。これ以上の無理はないと思うよ。だから、もう君たちに用はない」
他に叱責や愚痴を受ける者は要らないと、言外に言う。
二人は、それを悟って、ただ静かに頭を下げた。
暗闇の中、しかしそれを察知して、少年は再び微笑した。二人が山へ去ると、少年は一人きりで山道を登った。
等間隔の振動に揺られながら、高成は半ば眠っていた。
振動が心地よくて、鞄に入れたままの母の遺骨も、遺品も、座席に置く気にもなれず抱えたままだったが、あまり気にならなかった。
重みごと、揺られて、ぽかりと、どこかに放り出される感覚。
「次は――、――に止まります」
聞き慣れない駅名に、しかし引っかかりを覚え、高成は居心地の良い感覚を無理矢理抜け出し、切符を確かめた。
やはり、そこには先程アナウンスされた駅名が書かれていた。
汽車――いや、今では電車と呼ぶのか――が止まると、開けたままの電車の窓を一瞥して、高成はそれから降りた。
菊の花があったのは、知人――バイト先の、同じくバイトの初老の男からもらったかららしかった。一鉢、丸々くれたのだそうだ。
「重陽の節句の頃か」
「え? ・・・九月九日、だった? もう十月・・・ああ、旧暦か」
成一は、そう言って一人で納得した。
今となっては一般的ではないだろう知識を知る友人に、黄桜は苦笑した。知識の幅の広い成一は、同年代とは随分毛色が違うのだろうと、黄桜でさえ思っていた。
「これで、花を浮かべると菊酒になるんだが」
「やめよう。折角きれいに咲いてるんだから。わざわざむしり取ることもないだろ」
「ああ」
ゆっくりと、微笑して。
黄桜は、酒を飲み干した。
「ねえ、ご先祖様ってかなり羽振りが良かったって聞いてるのよ。大名や華族だとかってわけじゃないけど、でも、そういった人たちとの結婚もしたくらいには」
「ふうん。それがどうかしたのか?」
さして興味のなさそうに応じる葵を睨み付けて、茜は先を続けた。
「つまりよ。かなりいい家柄ってことじゃないの? どうして、今はそうじゃないのかしら」
「あー。大金持ちだったかも知れないと」
「うーん、家柄がいいからお金があるとは限らないけど」
「それがどうしたんだよ。お嬢様になりたかったのか?」
からかい気味に言われて、茜は頬を膨らませた。
「ちょっと気になっただけよ。お嬢様なんて、柄じゃないわ」
「へーえ、よくわかってるじゃないか」
「葵がおぼっちゃまっていうよりは合ってると思うけどね」
そうして言い合って、しかしそれも、そのうちに止んでしまう。二人は、ただ、少し閑なだけだった。
数が多ければ、それは一般的に――普通に、なる。
未だ、原因は解明されていない。しかし、日本の十代中頃の少年少女のほとんどが、今では瞳の色が変わっている。
そうするとそれは、特殊ではあるが一般的になってしまうわけで。
やはり、特別なことなんて何もなく、私にとって日々は、ただただ平穏に、退屈に、過ぎ去っていくのだった。
「少し、不思議なんだけどね」
ぼつりと言った昔馴染みに、恵里華――エイカは、小さく首を傾げた。
そうやって促され、十六夜――イザヤは、なんとなく苦笑して言葉を繋いだ。
「あのときやったのは、極端に言えば不老不死の実現だったわけだろう? どうして、僕たちみたいないらない人間でやったんだろう。不老不死を望む人なんて、それこそ山ほどいるだろうのに」
「きっと、成功したらどんどん不老不死人間が造られていったんじゃない? 実現しなくて良かったわよね、そんなことぞっとしない」
不機嫌、というよりも気分が悪そうに言う少女に、そうだねと、十六夜は返した。
不老不死。少なくとも肉体は、滅びることを逃れ、不変であることを望むそれ。
実際になるとちょっと厭なんだけどな、と苦笑気味に思いながら、十六夜は、酔えもしない酒を飲み干した。
井戸が、枯れていた。
「ここも、もう駄目か」
ぼそりと呟いて、ジェインは次に移る場所を考えた。どこでも同じだろうと思う反面、それでもと思う。
砂漠が広がり、緑が減り、水が尽きる。そのどれがはじめでどれが結果なのか、無学なジェインは知らない。解決策があるのかさえ、知らない。
ただなんとなく、それらによってうち捨てられた場所が哀しくて、少しでも長く保たせられないか、少しでも抗えないかと、無駄に努力をしてしまうだけで。
「うん、がんばろ」
馬鹿馬鹿しいと辞めようと思うこともあるけれど、これでいい。
捨てられても、要らなくても、きっと、それでもいい。
「おいおい、息子。セイの結婚をお前が後押ししているというのは、本当か?」
「ああ、これはこれは父上様。お久しぶりです。その通りですが、何か?」
王家に次ぐ名家の当主と次期当主は、何故かたまたま顔を合わせた鐘楼で、片方はどこか無表情に、片方は満面に笑みを浮かべ、対峙していた。
この二人、全く知らない者が見ても、親子だろうと推測できるほどには似ている。容姿もだが、一見正反対のような雰囲気にも、何か似通ったものがあった。
はあと、親の方が盛大に溜息をつく。
「欲はないのか、お前は」
「すみませんねえ、不肖の息子で。用件がそれだけなら、失礼しますよ。これから狸親父どもに会わなければなりませんのでね。では」
仮面のように笑みを崩さず去った息子を見送って、それの製造元は苦笑した。
不肖どころか、全くもってよく似た親子だと、自他共に認めるほどだ。王位そのものを欲しがらないところなど、実にそっくりだった。
修羅だ――と、言われた。
なんとなく気になって、俊哉は家に帰って辞典を引いた。どこにしまったかも忘れた国語辞典を引っぱり出すのには少々時間を喰ったが、とりあえずは無事に発見した。
無視したところでどうということもなかったのだが、銃を向けられて恐怖に歪んだ瞳の向こうに、それ以外の何かが混じっていて、少し気になった。
それでなくても、失敗ではないものの標的に気付かれた、という失態に、意識を他に移したかったのかも知れない。
「んー?」
首を傾げる。
守護神だとか、悪神だとか。つまりは神に例えられたと――そういう解釈でいいのか?と、思うが、何か釈然としない。
「まあ、なんだっていいけど」
呟いた俊哉は、標的が最期に見たものが彼にとっての血まみれた武神だと、ついに知ることはなかった。
柾木はいつも、眼鏡を持ち歩いている。
さすがに、見えなければまずい状況があるということもだが、拒否したところで、常人にはあまり縁のない世界が、身近でもあるためだ。
身近で、当然で。
たかだか、ガラス一枚を隔てた世界。しかしそれは、大きく異なる。
今の自分が、そのガラスの中に収まっているような、酷く中途半端なところにいるという自覚が、柾木にはあった。あったが――まだ、選べずにいた。
「迷宮に閉じ込めて知らん振り、っていうのはどう?」
「いいわねえ、それ」
真っ先に乗ってきたのは、サラだった。
「でもそれなら、壊せない素材にしないとですね。あの人も、なかなかに魔術を使うですし」
やはり乗ったシノが、穏やかに言う。
「そうね、ちょっと費用がかかるか」
「そんなの、錬金術師を仲間にしちゃえば問題ないわよ。そういえば、シドって錬金術使えるって聞いたわよ」
「それじゃあ、問題一つ解決ですね」
「・・・おい、何物騒な話してるんだ?」
どこか引きつったようなトレジャーに、三人はにっこりと笑みを返した。
「気にしないで、ちょっとした鬱憤晴らしよ」
嘘だ――と、やはり聞くともなしに聞いていたジーンは、命知らずにも口に出すことはなく、思う。
いつか、あの王子は仲間の手に掛かって果てるのではないかと、こっそりと思うキィツの男連中であった。
「ふぁあ」
隠すでもなく、堂々と欠伸をする淋烈を、指南役が鋭く睨み付けた。
「左君、次を読みなさい」
「はい」
烈は皇子で、淋姓のものは沢山いるし、その姓を呼び捨てにできるわけもない。かといってまだ官職にも就いておらず、便宜上、母方の姓で呼ばれるのが一般的だった。
目の端に浮かんだ涙をこすり落として、烈は教本を声に出して読む。その後、指南役が解説を加えるなどして、その日もとりあえず、無事に勉強は終わった。
しかしその後で、帰り支度を始めた学友――名家の子弟の一人を捕まえて、にやりと笑う。
「なあ、いい話があるけど、ちょっと乗らないか? 多分、ちょっとした手間賃くらいはもらえると思うぜ」
「よし、乗った」
烈と仲のいい少年は、そういって座り直した。烈がそう言う以上そうなのだろうと、体験によって学んでいる。名家と言えばこれ以上にない王族の割りに、烈は目端が利く。
烈は、先程読まされた教本の、自分の読んだ箇所を指し示した。
「ここ、字が違う。スイレンのスイは、水じゃなくてねむるの睡だ。版師が間違えたんだろうけど、直すにしても口止めにしても、何かしらもらえるだろうぜ?」
「へえ、気付かなかった」
「絡まれるかも知れないから、使いにでも行かせた方がいいかもな」
「そうだな。じゃあ、上手くいったら明日報せるな。分け前は何がいい?」
「女の子が喜ぶようなもの」
「またか。いい加減、誰が相手なのか教えてくれてもいいのに」
その後、二、三の雑談をして、少年は帰っていった。手にはいるのは、烈や少年にとっては些少に過ぎる金額だろう。しかし、何かの対価というのが嬉しい。
そしてほとんど城内を出られない烈は、分け前に、大切な妹への贈り物を頼むのが、常となっていた。
ぎゃあぎゃあと、水鳥が鳴き喚いている。
「・・・、・・・!」
誰かが、呼んでいるような気がして、キリトは、知らずに眉をひそめた。
水鳥は、赤子の泣き声のようで。それに怯えて、キリトはよく母のところに泣いて駆けていった。母の傍にいれば、安心だった。
ふわりと、誰かに頭を撫でられたような気がした。
そうなってようやく、キリトは目を覚ました。誰か――誰がいるというのか、自分は、逃げている途中だというのに。
「っ!」
「やっと起きた? まったく、いつまでも寝ちゃって」
「・・・に」
「に?」
「人形が喋ってるーッ!?」
大絶叫が響き渡り、驚いた水鳥たちは、一斉に騒ぎ立てたのだった。
野宿の場合、一行の中で陸と戒が料理に当たる。旅が続くうちに、そこに幸が加わるようにもなった。
彼らは旅人や庶民の常として、そう豊富ではないものの、食材に敬意を払い、余すことなく活用する。中でも、陸の鶏の活用は徹底していた。
「ねえ、鶏に何かあるの?」
「はあ?」
「だって、凄く徹底的に使うじゃない」
本人にはあまり自覚がなかったらしく、何を言ってるんだとばかりに訊き返されていささか気分を害しながらも、幸は補足した。
言われて陸は、短く考え込んでから顔を上げた。
「今まで、鶏肉食うって言ったら大体、切羽詰って仲間の鶏つぶしてたからな。無駄にしたら悪いだろ」
「・・・仲間って?」
「売られてきて、一緒に見世物になってたんだ。仲間だろ」
至極当然とばかりに、あっさりと言う。
しみじみと、危ないくらいに素直な子だわと、思う幸だった。
「ねえ。由利はさあ、やっぱり広樹君と結婚するんだよね?」
無言で、由利はそんなことを言った友人を睨み付けた。
「それだけは有り得ない。絶対」
「まーたそんなこと言って」
「あれと結婚するなんて、強いて言うならこの極細ペンの端ほどにしか可能性はない」
きっぱりと断言する由利に、しかし、友人やその他たまたま耳にした級友たちは、いや逆だろうと、こっそり突っ込んでいた。
「ねえ。最後には土下座して謝ったって、本当?」
「え? ――ああ、あの男の子? 可乃ちゃんはどう思う?」
夕刻、やはり閉店後の「あめむら」で、凧糸のついた三角の飴をなめながら訊いた可乃子は、にこやかな笑顔で質問し返されて、言葉に詰まった。
「・・・嘘、つくような奴じゃないけど・・・」
「けど?」
にこにこと、笑顔が客に向けるものとは違って、あまりに素直で、可乃子はいよいよ言葉に詰まった。適当にはぐらかすことはできるが、それも、躊躇われる。
「・・・・・・あんたが、そんなことするなんて・・・信じられない」
一瞬、驚いたようなかおをして、それが優しい笑顔に変わる。
「ねえ、可乃ちゃん。もし僕が本当にそうしたんだったら、厭? 嫌いになる?」
「別に・・・それくらい。情けないのなんて、いつものことじゃない」
「厳しいなあ、可乃ちゃんは」
「それで、本当のところはどうなの」
「あのね、可乃ちゃん。真実や事実は、それを見る人の数だけあるんだよ。一つしかないように言われてるけど、そんなことはないんだ。みんな、好き勝手に見たいものを見てる。だから、可乃ちゃんも、見たい真実を見てくれればいい」
穏やかに、しかしきっぱりと言った後で、でも、と青年は付け加えた。
「可乃ちゃんが誰にとっても強い僕がいいなら、勿論そうするよ?」
「・・・っ、先、帰るから!」
「ああっ、待ってよ可乃ちゃん!」
顔を真っ赤にして、店を出て行ってしまった少女を追って、青年は、あたふたと店を閉めた。
「例えば、雷を落とすとする。それにも二つの方法がある。わかるな?」
「うん。雷神の名を借りて要請するのと、直接、俺自身が頼んでするやつとだろ?」
「その通り。ところで、雷神の名は覚えているか?」
「・・・えーっと」
途端に、視線を宙にさまよわせる。天敬尊は、そんな弟子に溜息をついて見せた。
むうと、少年は頬を膨らませる。
「覚えてなくたって、雷くらい呼べるもん」
「片方ができるからと言って、もう片方を疎かにしていいものではない。明日までに、この内の半分は覚えるように」
そう言って指し示された冊子を見て、少年が呻く。しかし、否とは言わなかった。
アオイは、キリエの知らない様々な世界を巡っていた。
そもそも、キリエの知る世界など狭く限られている。ずっと、防衛署に入れるように頑張って、入ったら入ったで仕事に必死になって。
「砂漠で・・・砂漠って、乾いてるから、物凄く星がきれいに見えるんだ。地上に何もないから、余計に。光が凍った宝石みたいで。適当に砂丘に半分埋もれながらそれ見て、ぼーっとして。ここで砂蛇でも蠍でも出て来て、刺してくれないかなあって、厭なこと考えてた」
遠い目で、そんなことを口にするアオイは、とても遠くに感じられた。
葬儀は、淡々と行なわれた。
しかし、――そう珍しくないこととはいえ――永眠したものはまだ若く、それだけに両親の悲しみは、見ている限りでも深かった。そしてそれ以上に、その兄は憔悴して見えた。
皐月は、その理由を知っていた。
知っていたけれど、やはり淡々と、葬儀に参列して、帰って行った。
兄――六月と違って、皐月の中で、五月の葬儀は既に終わっていた。
「あら、珍しい」
郵便受けを開けて、有利は呟いた。
ダイレクトメールと一緒にそれを取ると、宛名の住所を確認して、溜息をつく。
「やっぱりねえ」
「何がやっぱり? その中、俺宛の郵便ない?」
顔をのぞかせた弟に、はいと言って、一通だけ取り上げていた封書を渡す。一瞬、不思議そうにした高弘だが、すぐに気付いて、少し顔をしかめる。
「親父たち、また住所間違えてるのか?」
「ねえ。郵便屋さんも、もう慣れちゃったわね」
「って、それじゃなくて。他には? 今日、私立の通知来るはずなんだけど」
「ああ、今日合格発表だったの。受かってるといいわね」
「いや、だから郵便くれって」
意味のない姉の嫌がらせに、密かに溜息をつく高弘だった。
ジェイムスとアンジーの結婚は、決して多くの人の祝福を受けたわけではなかった。
一言で言ってしまえば、身分があまりに違うからだ。身分が違うという一点のみで、その他の事柄はまず無視される。
唯一の支持者は弟のみという状況で、しかし、結局は結婚してしまった。
アンジーが貴族の養子になって肩書きだけでも整える、という意見を突っぱね、それでも成功させてしまった。
やはりあの兄には敵わないと、エバンスが実感した一件だった。
「なんとなくだけど、ジャックの豆の木って、空豆だったような気がするのよね」
夕飯用に空豆を煮ながら、夏季はそんなことを言い出した。
「ヨーロッパに、空豆の黒い線ははじけたときに慌てて縫い閉じたときの糸だって昔話があるくらいだから、なかったってことはないだろうし」
ふうん、と適当に相槌を返しながら、哲也は活字を追ったまま顔を上げない。
夏季も慣れたもので、腹も立てずに豆の煮込み具合を見る。
「うん、おいしい」
戸棚を開けて、丁度いい器を見つけてそれに一部を移すと、しっかり火が消えているのを確認して、蓋を閉める。
「じゃああたし、いっちゃんにこれ届けてくるわね。てっちゃんも、ちゃんとおじさんと食べてね」
「ああ。――そう言えば、空豆って名前は莢が空に向かって伸びるからで・・・」
ようやく顔を上げた哲也は、夏季が、お裾分けついでに煮てくれた空豆をおいて、既に姿を消してしまったことを知った。
幼年時、シンにとって自分の両親は謎だった。
二人とも、忙しく働いている。そして、あまり仲が悪いわけでもないらしい。
そんな夫婦は、シンの知る限り、貴族ではいなかった。庶民ならいるかも知れないが、少なくとも、主な付き合いのある人々ではない。
その上、あの両親は、物語もかくやというような恋愛を経て、周りを大いに慌てふためかせ、夫婦となったらしい。
とてもではないが、想像できない。いや、想像はできるが、それはあの両親とは繋がらない。
「父上。ほんとうに、そんなおおそうどうをおこしたんですか? どうして?」
そう訊くと父は苦笑して、もっと大きくなったら、いつか話すよとはぐらかすのだった。
そしてシンは、そんなことを言うなんてきっと嘘なんだと、思った。これもよくある噂に違いないと。
だって、貴族の夫婦というのは、普通恋愛などしないものなのだから。
「なあ。彰の方が、ロクダイより年上なんだよな?」
「そうだけど、それがどうかした?」
機嫌がいいらしく、素直に返ってきた言葉に、正義は疑問の先を続ける。
「なんで、ロクダイは着物ばっか着てて、彰は全然着ないんだ? この前の祭りの時、浴衣も着なかっただろ?」
その夏祭りの時には、正義も浴衣を着た。
それは、彰が仕立てたのだが、正義とロクダイの分は作ったにもかかわらず、自身の分は作らなかった。それが少しだけ、不思議だった。
うーん、と言って、彰は少し首を傾げた。
「昔は、母親がうるさくってずっと着物だったから。その反動ってとこかなあ」
にこりと笑う彰に、正義は軽く、「そっか」とだけ返した。
しかし本当は、それが彰の決着だったのかと、気付いた。自分は、それが料理だったように。
水たまりに映った顔は、眉を下げて、少し困ったようだった。
「そんな情けないかおしたって」
無駄だよ。
機嫌良く笑いかけて、あたしは水を踏んで、学校に向かった。
「火傷は、流水の方がいいんだよ。ただ冷やせばいいってものじゃあない」
そういって祖母は、やんわりと美里の腕を掴んで、井戸水の通った水道水に、掌をさらさせる。
「氷つかんでたって駄目なんだよ」
言葉は淡々として、冷たくさえ聞こえる。
美里も、火傷の痛みに少し唇をかむが、何も言わずに静かに聞く。
静かに、淡々と。時間は過ぎていった。
今でも時々、匠はあの女の空虚な眼を思い出す。
全てが夢のようになった記憶の中で、あの眼だけが、くっきりと思い浮かぶ。虚ろな、何も見ていない目。
それは、あの女の心を映し出しているかのようで。――骸骨を覗き込んでいるようだったと、思う。
「ふわー、助かった」
白華は、目に入った洞穴に飛び込んで、恐る恐る空を見上げた。まだ、狙っていた獲物は手に入れていないから帰れない。
しかし容赦なく、近くに盛大に雷が落ちて、一時、音が飛ぶ。目の前に落ちたときよりはましだと、ぼんやりと無音の時を過ごす。
「・・・って、ここで安心してもいいのかなー」
心の中で呟いて、暗い洞穴の奥に目をやる。先居者がいれば、下手をすれば争い事になる。人であればなんとかなるだろうが、人外の生物となれば、言い訳も聞いてくれない。
少しの間借りるだけだから、どうか大人しくしててください。
刺激することになってもいけないので、口には出さないまま、いるかいないかも判らない先居者にお願いする。
外では雷が鳴り、雨は、一層激しく降っていた。
「あれー?」
「おはよ。・・・何かついてるか、俺の顔? 鼻、とか言うのは却下だからな」
教室で、腐れ縁の幼なじみにそう言うと、信二は自分の席に座った。まだ少し、体が重い。
「何だよ、俺はそんなこと言わないぜ?」
「忘れてるなら教えてやる。この間お前が言った台詞だ」
うぐ、と大げさに言葉に詰まる。それも見慣れた光景で、それよりも何が「あれー」だと、そこを追求する。
いやいやと、幼なじみは首を振った。
「今回は早かったなと思って」
「まだ微熱あるけど。ああ、でもまあ、いつもよりは少し早く治ったかな」
少しだけ、自分でも不思議そうに言った。特に、心当たりはないのだが。
壱の家には、沢山の本がある。
それは家の至るところにあって、おそらく、本がないのは便所と風呂くらいのものだ。
整理をして、書庫がわりに部屋を二、三あてがった方がいいかも知れない、とは思うのだが、そこかしこに本のある生活に慣れてしまい、それなりに位置も把握しているものだから、このままでもいいかと、つい思ってしまう。
それに、思いがけない場所から思いがけない本に出会う楽しみもある。
「これ全部、おじいさんが集めたの?」
「半分くらいは。残りは、おじいちゃんのお父さんとか、そのもっと前の人とか。おばあちゃんの本もあるし」
「お前もそれに荷担してるだろ」
近所の古本屋から、近頃どうも壱への配達人と見られているきらいのある哲也は、本棚から適当に抜いた白文の論語を読みながら、少しだけ機嫌悪そうに言った。
壱は、届けられた本をちらりと見て微笑すると、夏季に目を向けた。
「それで、問題は解けたのかな?」
言外に、そんなことを気にしている場合じゃないだろう、と含まれて、夏季は再度、解けない問題に取り組むのだった。
あれは何かの呪いだったに違いないと、その夫婦は思った。
みずみずしいちしゃの実。それを食べたくなるように、何か良からぬ術を使ったに違いないと。
それは恐ろしく、まだ何か呪いをかけられていやしないかと、怯えることもあった。
しかし、その効用は素晴らしかった。――おかげで、夫婦は呪いに憤り、嘆き、悲しみ、娘を失ったことを自分たちのせいにすることはないのだから。
実のところ、その日の夜、シュムには最後のあたりの記憶がなかった。
カイと競うようにして酒を飲み、周りの者もつられるようにして飲み干していったため、空いた酒瓶がどんどん増えていって、所狭しと立ち並んだことは覚えている。
途中までは、確かに覚えている。そもそもが、盗賊を捕らえるための罠だったのだから、酒を過ごして正体不明、では意味がないのだ。
――それは、十分に判っていた。
「判ってたはずなのになあ?」
「何がだよ?」
思わず声に出していたらしく、聞き咎めたカイが訝しげに声を掛ける。
しかしカイは、話を聞いて、呆れたかおをした。
「それ、本当か?」
「本当って、何が? 自分で張った罠だから、ちゃんと理解してたんだけど?」
「いや、そうじゃなくて。・・・まさか、覚えてないとは思わなかった。いくらかテンションが上がってたけど、正気に見えたのになあ」
「え?」
「器用に酒瓶避けて、親父に部屋借りて、また酒瓶やら飲みつぶれた奴やら器用に避けて、部屋に入って自分で服脱いで寝てたんだぞ?」
本当に覚えてないのか、と念押しされて、「あれー?」と、首を傾げるシュムだった。
「うわあ、水晶だ。真ん丸だし、かなり――なあ、これはいくらだ?」
明らかに冷やかしだった風が、調子はそのままで本気になったと見定めて、エーリクは驚いた。
下級貴族だった自分よりも、旅一座で育ったせいか、何かと旅の生活に慣れている人だ。荷物にしかならない水晶玉を、欲しがるとも思えないのに何故と、首を傾げている間に、サイははじめに言われた値の三割ほどの値で、買い取ったようだった。
「何かあるんですか?」
「うん、友達が持ってたものだ。懐かしくて。・・・悪い、無駄遣いした。俺の分、食事減らしていいから」
「構いませんよ、それくらいなら。友人というのは?」
苦笑するようにして笑うのは、過去を懐かしむときと、エーリクには判っている。過去といってもサイにはせいぜい二十年そこらしかないが、それでも、過去には違いない。戻れない、昔だ。
「二十過ぎたくらい・・・そうだな、丁度お前と同じくらいの年か。すっごい美人でさ、ひらひらした衣装で剣舞がめっちゃ上手で。はじめは俺が一方的に懐いてたけど、そのうち向こうもかわいがってくれるようになって。趣味で、占いしてた。真ん中に赤い石が入った、珍しいやつで。この傷は、俺が付けたんだ。めちゃめちゃ怒られた」
旅が始まって以来の、砕けた口調は元々の地だったのだろう。その方が合っていると、エーリクは思う。
しかし、懐かしむ声は、寂しそうで。気付いてしまう。
「これも、何かの縁ですね」
きっと、その人はもういないのだろう。サイの母と同じように、炎に呑まれて。
サイは、エーリクの言葉にただ頷いた。
彼ら――それらは、自分たちが、あるいは自分が、何なのかを知らない。
ただ、それらは常に闇の中にいる。いや、闇の一部として在る。
深い、原始にも似た闇。
呼ばれ、そのときだけ、仮初めに離れ、そしてまた戻る。ただ、それだけのことだ。
「ねえねえ、知ってた? 裸でいる人のことをラゾクって言うんだって」
移動中の雑談で、美空のそんな言葉に、明里は首を傾げた。何だそれは。
「知らない? あたしも友達に聞いてさー、何だそれは、って大笑いしたんだけど。やー、変な言葉造るよねえ」
「略語とかも」
「うん。馴染んじゃうと違和感ないとこがこわいよね。キムタクとか」
あはははは、と明るく笑い飛ばす。
服は濡れて、まだ雨も降っていて。それでも、気が軽くなっているのを、明里は判っていた。
水鏡の水は、いつも一定の量を保っている。
ただ置いておいても、普通の水ならいつの間にか減っているものだ。しかしそうかと言って、何か水とは違うものかと言えば、そうではないような気がする。
老婆は、一度だけ、見たことがある。
尖った塔の頂点にあたる、高い天井から、ゆっくりと円い水の珠が落ちてきて、静かに水面に沈んでいった。
丸い、小さな珠。水のそれは、雫の形になることも、水面に触れると共に形を崩すこともなく、水に沈み、跡形もなく消える。
それは、不思議な――奇妙な光景だった。
小さな、見捨てられたかのような祠。後ろは岩壁で、前は、小ぢんまりとした小屋のような家が立っている。普段は静かなその場所が、今は騒がしかった。
「やめろ! 誰がお前等なんぞに渡すものか!」
既に老人の域に達した男が、かすれた声をあげる。頭からは、血が流れていた。
「おい、あったか」
「いや」
「・・・あったぞ!」
数人の兵士とおぼしき男たちが好き勝手に部屋を荒らし、目的のものを見つけたようだった。老人の眼に、暗い絶望の炎がともる。中心格の男は見つけ出した箱の中身を確認し、酷薄な笑みを浮かべた。
これで、老人は必要なくなった。
「やれ」
男が冷たく言い放ったのと同時に、老人は必死に小屋の外へ出た。だがそこは、裏へ通じる扉だ。その先には、壁と祠しかない。勿論、男たちはその事を知っていた。小屋からは、下卑た笑い声が聞こえる。
「もう知らぬ・・・こんな世など、わしは知らぬ・・・・」
老人の手が、祠の中に張り巡らされた符を破いた。それが、老人と男たちがこの世界に別れを告げた瞬間だった。
そして、それは革命の、小さな始まりだった。
「どうせ死ぬなら、剣を持って。だろ?」
そう言って、彼は笑う。ざくりと、襲いかかってきた相手を切り裂いた後でのことだった。
「まーったくもう。キミは、職人だろうに。本当なら、キミが持つのは剣じゃなくて物差しでしょう?」
「言うな言うな。こいつは、厭だったってのに弟子入りさせられたんだよ。それじゃなきゃ、あんなにあっさり仲間になったはずもないだろう」
「おうよ。これは、俺にとっては渡りに船だったってわけだ」
馬鹿みたいにはしゃいで、まるでこれから隣町までちょっとだけ遠出をするように、楽しむ。
だから楽しくて、忘れそうだった。――魔王を倒すために、命を賭しているのだと。
只人も、巫女も、職人も、盗賊も。剣士も、祭司も、騎士も。
「誰か、必ず生き残って俺の言葉残しとけよ」
「ふん、そんなの、生き残った奴が全てを正直に伝えると思うなよ」
喧嘩も、楽しかった。
けれど全ては、もう遠い、記憶にだけ残る出来事。
「・・・何をしている」
「やあ、桜。今日も不機嫌そうだな?」
「お前を見るまでは、気分良く暮らしていた」
聞くだけで不機嫌と判る同僚の声に、竹葉は嫌味たっぷりに笑顔を返した。
「つれないな。折角俺が、こんなにも沢山の書物を持ってきてやったというのに」
「どうせ、不要だから捨てに来ただけだろう」
本当のところを突きながら拒絶しないのだから、どうにも可笑しい。書痴だからなあ、と、竹葉は笑った。
山と積んだ本は、全て、竹葉が自分で集めたものだ。様々な思想書や、科学の本。
それらは全て、何かを信じる、という一点では同じものだった。そこに神を置いても、外から見る分にはさほど支障ないように思える。
「ああ、不要になったのでな。やはり俺は、こういったものは合わないようだ」
窓の外に咲き乱れる桜に目を細めて、竹葉は微笑した。
「真兄ちゃん、これやる」
「ありがとう。で、何これ?」
木綿豆腐のような色をした物体を受け取ってから、真は首を傾げた。少し不格好なそれは、とりあえず固形物ではある。
「セッケン。がっこーで作ったけど、汚れ落ちねーもん」
「へえ、そんなこともやってるんだなあ。楽しかったか?」
要らないものを押しつけていると、気付いてないはずもないだろうのに、にこにこと笑う真を、克也は呆れて見遣った。馬鹿だろうか、これは。
「別に。大したことしてない」
「理科の実験とか好きだったんだよなあ。理科実験室とか独特で。ああ、なんか懐かしくなってきた」
にこにこと笑う真は、しかし笑顔で、不細工な手作り石鹸を返してきた。
「折角作ったんだから、とりあえず美佐子さんと和成さんに見せてからな。その後で、二人がいいって言うなら改めてくれよ」
なんとなく悔しくて、克也は目を逸らした。
満月に、想像を重ねる。
「なあ、黒鉄。お前も知っているのだろう、太陽を。もっと大きいのか? ああ、でも光の色が違うと、タカトが言っていたな」
肩に止まる鴉に言葉を投げかけて、ぽかりと浮かぶ白っぽい満月を、愛おしそうに見上げる。
「きっと、きれいだろうなあ。月に負けないくらいに。一度、見てみたい」
はしゃぐ子供のように言って、くるくると一人で踊る。
やがて、果実を摘んできたタカトや白銀を迎え、少女たちは月明かりの下で食事を摂った。
「あ、風花」
「え?」
同僚の呟きに、麻里はあたりを見た。花など見当たらない。
訝しげに見ると、同僚は、困ったような顔で微笑んだ。
「晴れているときに降る雪を、風花って言うんです。キツネの嫁入りの雪版が、風花なんです」
「そうなの。知らなかったわ」
「前に、何かで見たんです。そのときは――好きだったから、きれいな呼び方だなあって思って、覚えてたんです」
過去形の言葉にそのまま頷いて、麻里は、降ってくる雪を眺めた。青い空からの雪片は、小さな花に見えないこともなかった。
右の棚に、本。左の棚に、書物。前の棚に、本。後ろの棚に、書籍。
この世界は、本によって構成されていると言っても、おそらくは過言ではない。
「先輩ーっ、せーんぱーいっ! どこですかーっ!」
「大声を出すな、粗忽者」
上から振ってきた低い静かな声に、黒のスーツに着られた少年は間抜けなかおを上げた。棚に掛けたはしごから見下ろすのが、彼の「先輩」で、こちらも黒のスーツを着ている。
「あのですね、先輩! 訪問者が来たらしいです」
「それを報せに来たのか?」
「はい!」
この世界に紛れ込んだ異物は、訪問者と呼ばれ、丁重にお帰り願うことになる。大体は人間で、その者の生活する暦の、特殊な日だけに迷い込む可能性がある。
それは、この世界の構成物には成り得ない。
「それはご苦労様。しかし、これからはもっと静かに」
「それじゃあ俺、探してきます!」
「・・・・・・おい」
どたばたと走っていった少年をうっかり見送ってしまい、青年は、深々と溜息をついた。
その日、少女にとっては、彼は光だったのかも知れない。否、光を映す、宝石。
きらきらと光彩を放ち、眩しい光を見せる者だった。
「お母さん・・・?」
安心して、安堵して、心から嬉しく思う表情。そんな手放しの安らぎに、少女は、瞬間言葉を失った。
そんなものは、もう長い間、近くにはなかった。
「お母さ・・・」
「違う! 私は、私は、お前の母などではない!」
苛立って叫ぶと、子供は、びくりと、怯えた目をした。それでいいと、思った。
それなのに――子供は、首を傾げて、覗き込んでくるのだった。瞳に浮かぶのは、心配。
「泣いてるの?」
そう言って牢の格子越しに伸ばされた手は、温かくて。涙は、余計に止まらなかった。
空が、すっかり瑠璃色に染まった頃。父が帰ってきた。
「あれ、久しぶり」
「やっと仕事が終わったんだぞー。もっとねぎらってくれよー。もう何日も徹夜したんだぞーっ」
拗ねるように言う父は、半ば自棄になっている。
「あらあら、お帰りなさい。凄いクマね。どうする、ご飯食べる? お風呂はいる? そのまま寝ちゃう?」
「木綿子ーっ、会いたかったよーっ」
「私もよ。それで、どうするの?」
「お風呂入ってご飯食べるー。三日ぶりの木綿子のご飯ー」
「はいはい」
くすくすと笑って準備に行った母は、こういうところは案外凄い。
とりあえずネクタイを緩めた父は、置いたままにしていた古ぼけた団扇を見て、驚いたように目を見開いて、次いで、にやりと笑った。
「これ、使ったのか?」
「うん」
「色々あっただろう?」
そう言う父は、まるで共犯者のようだった。
瑠璃色だった空は、気付くと墨の色に変わっていた。
桐香のことを思うとき、深い海が思い浮かぶ。
深い、海。深くて、蒼い空間。まるで、桐香が描いた絵のような、そんな海が思い浮かぶ。
暗い、本当なら光の届かない海の底。
様々なものが積もり積もったそこに、おそらくは優貴の醜い妬心も沈んでいるのだろうと、そう、思う。
そのときの気持ちは、草原で昼寝をして、目が覚めたときに似ていた。
寝ている間に誰もいなくなっていて、そのことに気付いて呆然とするのに、草原が、あまりにきれいでのどかなものだから、不安感が薄れる。
けれど、そのときと違って今は、どこにも帰るところはなくて。どこに行ったって、それは帰る場所ではなくて。
「・・・やっぱり、残るか?」
「ううん」
首を振って、リオは笑った。記憶の中の、草原と青空を振り払う。
「行こう」
前に進まなければ、帰るところは戻らないから。
何なんだろう、一体。
「和幸さん、今日の晩ご飯は何がいいですか?」
「映子さんの作るものなら何でも」
「それじゃあ、訊いた意味がないじゃないですか」
「兄さん、時間は?」
朝から、馬鹿馬鹿しくも幸せそうな再婚夫婦の会話に呆気にとられていた柾基は、義弟の言葉に、ようやく我に返った。
まだ余裕はあるが、折角の助け船。
「もう出ないと。――いってきます」
「いってらっしゃい」
渋々と言った言葉に、あたたかな返事が返り、送り出される。数日続けば、これも日常だ。
「早めに慣れないと、多分、ずっとあの調子だよ。途中まで、乗ってく?」
「いや、いいよ。余裕あるから」
「そう? じゃあね」
口実ではなく、一緒に家を出た義弟は、そう言うと、自転車に乗って颯爽と去っていった。
新しい二人の家族は、すんなりと――ではないかも知れないが、柾基の日常に溶け込んでいた。
私の名前を付けたのは、おばあちゃんだった。
どんな経緯でそうなったのかは知らないけど、それは確かなことで、だからと言うわけでもないけど、私はおばあちゃん子だった。
だけど、私には「おばあちゃん」でいるおばあちゃんしか想像できなかった。
――とてもねえ。優しい人だったよ。少しの間しか一緒にいられなかったけど、今でも時々思うよ。あんなことが起きなくて、ずっと一緒にいられたら、一緒に年を取っていけたら、きっと幸せだっただろうってね。
そのときには幼くて、よくわからずにいた。
でも、今では少し、わかるような気がする。きっと年を取れば、私にも「おばあちゃん」の私しか想像できない、そんな孫ができるのかも知れない。それはきっと、幸せなことだろう。
アラキは、車窓を眺めやった。
この電車の窓は、見る者が望んだ――あるいは、ふさわしい風景を映し出すらしい、と気付いたのはいつのことだったか。
とにかく、この窓のおかげで、アラキは自分以外の者がこの電車に乗ったことを知る。そして、誰もいないときは、車内の反射さえもない不思議な闇の板。自分は何も望んでいないのかと、つい錯覚しそうになる。
一度、窓を開けた訪問者がいた。
そこに車窓に見えたのと同じ風景があったときには、その客人のために安堵したものだった。
「僕には、ヒントすらくれないのか」
例えば、忘れてしまった「探し物」を思い出すきっかけになるような風景とか。そんなものも見せてくれないのか。
期待もせずに窓を見つめると、アラキは目を閉じた。慣れた電車のリズムに見を委ねると、車窓に何か映っているような気にもなった。
目を開けば、闇しかないと知っているのだけれど。
その地域では、遺体は花の根本に沈める。
「それで、実を食べるのか? 共食いじゃねえのか、それは?」
「食物連鎖、と言ってほしいですね。少し短いだけで、巡りめぐっているという点で変わりはありません」
薄気味悪そうに言った陸に、戒が苦笑気味に訂正を入れる。
戻は、それらを聞くともなしに聞きながら、眼下に広がる、睡蓮の一種の群生地を眺めやった。綺麗に花を咲かせるその下には、代々の死体が、骸骨が、埋もれている。
養父が寝物語に話してくれた異国の話の数々の、その舞台を、直に訪ねる日が来るとは、正直、思っていなかった。それも、こんなにも早く。
ぼんやりとそんなことを考えていると、幸と空の、意外にも通る声が聞こえた。
「でも、共食いなんてそう珍しい話じゃないわよね?」
「ねえ」
短い髪が、まるで元からそんな色だったかのように、真っ赤に染まっていた。酸化して、空気に触れるそばから黒ずんでいくそれは、ほんの少し前まで、確実に人の体内を流れていたものだった。
血。血液。命の源。
本来の持ち主たちは、もう息絶えてしまっている。しかしまだ直後で、動脈の傷口からは鮮血が吹き上がっていた。
「あー。また髪、延びてきたなー」
血でごわごわとする前髪を引っ張って、ぽつりと平坦に、ショートは呟いた。
血を流さずに殺すことも、きっとできる。
しかしそれは面白くない気がして、ショートは、盛大に吹き上げた血に染まるのが常だった。
服は替えればいいが、髪は洗うしかない。いっそ坊主にしてもいいのだが、なんとなく、風で髪がそよぐのは心地よくて好きだった。
「まあいいか」
ぼつりと。
呟いて、ショート――「死に神」との二つ名を持つ青年は、血に染まった髪から手を離して、水場を探そうと首を巡らせた。
二人は刀を構えた。
一本は日本刀、もう一本は青竜刀。どちらも、刀身は青白く光っている。
「・・・理由、わかったな」
「・・・うん」
容姿の似通った少年二人は、対象を挟み撃ちにして、ごくりとつばを飲み込んだ。
二人の間には、男に見えるものが立っていた。人間に見えるそれはしかし、人ではなく、人に害を成すものだ。
二人は、それを斃すためにいた。
「ヒトガタしてるってだけで、こんなにやりにくいとは思わなかったよな、正直」
「そうだね」
挟み込んだそれが動けば、間合いを詰める。刀の切っ先を突きつける。
しかし、なかなか踏み切れずにいた。
祖父が、二人に今回の仕事を回すのを躊躇った意味が、今に至って、二人にも飲み込めた。だが、いつかはぶつかることだ。下手をすれば、今回のようにヒトガタをしているのではなく、人に寄生したものを、人ごと切り捨てることもあるだろう。
「――建、道だけ塞いで」
「お前一人に押しつけると思うか、ボケ。いっせーのっ」
同時に踏み込んで、そして、終わった。
青ざめて、泣きそうなかおの兄弟を見て、はじめて異物を退治したときと一緒だなと、建は思った。おそらく、自分もそんなかおをしていることだろう。
「――なんか、あれだ。こういうときは、半人前で助かったと思うぜ」
頷く兄弟に、建は眼を瞑った。
「好きな季節?」
「そう。文芸部でね、登場人物だけ共通で、それぞれ違う部員が、違う季節の話を書くの。八人いるから、一つの季節に二人。明日誰がどの季節か決めるんだけど、いつにしようかと思って」
「有利の好きな季節にすればいいだろ」
「あら。私、どの季節もそれなりに好きよ? だから迷ってるの」
「だからって、あたしに訊かなくても」
「いいじゃない、環ちゃんが好きな季節。いつ?」
「んー。じゃあとりあえず冬で」
「そう。ありがとう。じゃあ、ネタ提供頼むわね。あのね、登場人物は」
「って待て、なんであたしが! そもそもそれ確定じゃないだろ!?」
「ふふふ。気にしない気にしない」
「気にするとかの問題じゃないだろっ?!」
「なあ。意志が強いって、どうやって判るんだ? 目安でもあるのか?」
正義の唐突な質問に、彰は一瞬驚いて、にこりと笑みを返した。
「魂を水に入れてみて、沈んだら採用。稲の実を水に入れて、沈んだ方が身が詰まってるのと同じ原理なんだよ」
「・・・待て」
「何?」
「魂なんて水に入れられるのか? っていうかそもそも、魂なんてないだろうが?!」
「そんなことないよ? ねえ、ロクダイ」
手に持った壺をどこに置こうかと思案していたロクダイは、いきなり話を振られたにも関わらず、平然と肯定した。
そんな二人の、鮮やかな連係プレーに、正義は、それ以上突っ込む木も失せて、脱力する。
「・・・つまり教える気はないってことだな」
はあと、溜息をつく正義をおいて、彰は二階に行ってしまった。
壺を、正義の背後の棚に置こうと移動したロクダイは、苦笑を閃かせて言った。
「心配せずとも、そのときになれば判るものじゃよ――魂が沈むというのは、比喩としては正しいがな」
――結局のところ、正義の疑問は解決しなかった。
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