もくじ




vrykolakas

2002/2/21

「ヴリコラカスだったんだな」
 無表情に私を見る瞳を、随分前から知っていた。この眼差しが、いつか向けられるだろう事を。始めから、判っていたのだ――

 私がこの地を訪れた理由は、今となっては覚えてもいない。多分、深い理由はなかっただろうと思う。私は、比較的平和な日本で、至って「普通」に過ごしてきたはずなのだから。
 ただ気付いたら、私はヨーロッパの片隅で、「吸血鬼」になっていた。
 墓の中で目覚めた時の驚きだけは、今でも思い出せる。親切な人々のいる所で死んだのだろう。ただの異国人の私を、粗末ながらも木箱に入れて埋めてくれたのだ。
 そこから出て、妻に出会った。
 記憶や思考がはっきりしないだけで、「人」と大差のない私を、妻は愛してくれた。私が「吸血鬼」――「ヴリコラカス」だと知っていたというのに。
 私たちは結婚し、ささやかながらも暮らしていけた。土曜は全く動かなくなる私を、妻は苦心して村人たちに嘘の理由を告げ、守り通してくれた。判れば、退治されてしまう。
 そして私達には、息子が生まれた。
 黒髪と赤毛の妻から、金色の髪の子供が。別に、珍しい事ではない。
 「吸血鬼」と「人」の間に生まれた子は、「吸血鬼」を見分け、退治する能力が備わっている。
 そして今日、その日が来たのだ。

「家には火をつける。母さん、父さ――そいつから離れるんだ」
 それでも妻は、首を振った。あの優しい瞳で、息子を見つめる。あの子は、私を睨みつけた。
「火をつける。逃げたかったら、逃げれば良い。でも、もう僕の前には現れるな」
 息子は、それだけ言って外に出て行った。すぐに、カーテンに火がついたのが見えた。妻を抱きしめた。
「お前は、ここを出るべきだ。裁きを受けるべきなのは、私だけだよ」
「知ってたわ。あなたに合った日から、こんな日がくる事くらい」
 そう言って、妻は微笑んだ。
「それとも、いると邪魔?」
「―――いいや」
 火が近付く。
 妻を抱きしめて、私ははじめて人外としての能力を使った。炎を強めるために。焼き跡で死体が判別できなくても、不思議ではないように。私は既に死んでいて、何も残らないのだから。
 どうか――あの子が、幸福でありますように。

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vrykolakas  〜その後

2002/2/24

「いや・・・ッ、化物!」
 そう言って投げつけられたのは、生まれて何日も経っていない赤ん坊だった。自分がどういう状況に置かれているか判っているのかいないのか、激しく泣いている。
 俺と同じ、金髪の子供。
 ヴリコラカスと人の子が金髪という俗信は、本当の事なのかもしれない。もっとも、金髪などいくらでもいるのだが。
「こんな事をしたら、死んでしまいますよ」
「死ねば良いのよ、そんな化物!」
 こんな事になる前は、いつも温和な笑みを浮かべていた顔が、今は醜く崩れている。これでは、どちらが化物か判らない。
 彼女は、ヴリコラカスの犠牲者だった。寝所に忍び込んでいたヴリコラカスの子を孕み、子を産んだ。そのせいで、夫とも距離を置かれてしまっている。
「そいつを殺して! 簡単でしょ、あいつを殺したみたいに! さあ!」 
 そのヴリコラカスを退治したのは、俺だ。彼女は、産後の疲れから横たわったまま、俺を睨みつけた。
 近所の者が、息を呑んで耳を済ましているのを感じる。
「――僕が育てます。良いですね?」
 睨みつけたまま、何も言わない。その眼は、俺から赤ん坊に移っている。
「気が変わったら、いつでも来て下さい。――体にはお気をつけて」
 戸を閉めて、外に出る。
 赤ん坊は、泣き疲れたのか眠っていた。何も知らない寝顔。このまま、命を絶ってしまったほうが幸せだろうか? 俺のように、半ば畏怖され、忌避される術者になってどうする?
 それでも――せめて、自分で選んでもらおう。
 酷く残酷な事をしようとしているのかもしれない。傷付いた末に、死を選ぶのかもしれない。俺を、憎むかも知れない。
「お前の父親を殺したのは、俺だからな。恨むなら俺にしとけよ」
 火をつけるといったのに、殺すと言ったのに、優しく微笑んだ両親の顔がよぎる。
 あの人に、父に手を下した事を後悔するつもりはない。それなのに、あの笑顔だけが時々思い出される。少なくとも俺は、母親からあんな眼を向けられたことはない。それはきっと、幸せな事なのだろう。
 雪が、降ってきた。
 しかし、
「・・・子供育てた事なんてね―ぞ・・・」
 空には鉛色の雲。降りて来る灰色っぽい雪片。どうにも、見通しは良くない。

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2002/3/2

夢を見る。

 それはいつも決まって、同じ男が出てくるのだ。男は、扉を開けた私に向かって、口の端を上げて笑む。部屋の中も男も、これといった特徴はない。ただ、暗い。とても暗いのだ。
 蝋燭の光だけに切り取られた空間。
 男は、とても楽しそうに笑う。そして、絶望的な事を言う。
 ――毒を飲んだんだ そろそろ効いてくるかな
 足元に転がる幾つもの壜。
 ――ああ 血が止まらないねえ
 血に濡れた紅いナイフ。
 ――僕を 殺してくれるかい?
 優しい瞳で、男は死を望む。繰り返される、果てしない行為。

 願望といえば、そうかもしれない。
 何もしない日々は、無為だけが溜まって。辛いよりも酷く疲れる。
 記憶といえば、そうかもしれない。
 亡くした記憶は、戻ることがなくて。何一つ確かなものが判らない。

 男は笑っている。
 口の端を上げて。声を立てて。大きく口を開けて。酷く明るく。
 それは、紛れもなく私と、そして男自身に向けられたものなのだ。とても明るく、酷く楽しそうに。決まって男は、私を見据えたまま一人去っていく。
 ――僕を 殺してくれ
 ただ独り、残される。

 そんな 夢を見る。

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願い

2002/7/16
 

 眼が見えなければ。
 耳が聞こえなければ。
 この世界がなければ。
 はじめから、出会わなければ。
 ――苦しまずにいられたのに。


 美術室の中は、空気がこもっていた。どうしてこう、たかだか十数時間締めきっただけでこうなるのか。いつも通りに窓という窓を開け放しながら、優貴は心中溜息をついた。
 まだ誰もいない。
 まだ、他の部活仲間が来るには早い。
 昼の暑さを予告するかのような日差しに背を向けて、椅子に座った。目の前には、100号のキャンバス。
 綺麗な青い空間。幻想的な世界。所々に見られる遊び心。――優貴の、憧れて止まない技量、想像力。これが一人の手で描かれたなんて、信じられない。
 どのくらいの時間か、優貴はそれを見ていた。
「優貴」
「あ・・・・おはよう」
「おはよう」
 戸口に立つ桐香は、何故か息を弾ませていた。立ちあがった優貴が、首を傾げる。
「走ってきた?」
「え? うん、ちょっとね。優貴こそ、どうしてこんなに早いの」
 咎めるような声音に、わずかに眉をひそめる。この学校を描いた、自分の小さなキャンバスの前に移って、優貴は手を伸ばした。どの色を使うか、考える。
「いつも私が一番乗りだよ。珍しいのは桐香の方」
「えー、それってどういうこと」
「夏休みに時間通りに来たこと、今までで何回あった?」
「だって今日は」
「今日は?」
 水を汲んで絵の具を出して。筆を湿らせ、パレットに溶く。油絵よりも水彩が、優貴の好みだった。
 桐香からは返事がないが、敢えて無視することにした。絵に集中しよう。でなければ、壊れてしまう。ぎりぎりまで溜まっているキタナイ心が、溢れ出してしまう。

 ――出会わなければ。

「この絵、いつ完成?」
 肩越しに覗いているのが判った。絵筆を握る手に、力がこもる。
 写すことしか出来ない絵だ。こんなの、失敗したっていい。大体、何のために描いてるのか。
 プロになるのに十分な才能も技術もないのに、嫉妬だけ一人前なんて、どうしようもない。   
「もうすぐ」
「優貴、仕上げが綺麗だよね。絵が生き生きしてくる」
 教室に、ぽつぽつと他の部員が入ってくる。いつも通りに部活が始まると、桐香も自分の絵の前に座った。天日油の匂いがする。

 ――出会わなければ。
 苦しまずにすんだのに。

 優貴が小休止に絵のない教室の前の方で話をしていたとき、それは起こった。
 破裂音、次いで色とりどりの紙が降る。クラッカーだと気付くまでに、数秒かかった。そして、友人たちが口々に「誕生日おめでとう」と言う。
 優貴は、ただ呆気にとられていた。
「誕生日おめでとう。はい、プレゼント」
「・・・誕生日?」
「でしょ、今日」
 もしかして忘れてた?と、誰かが言う。優貴は、素直に肯いた。何人かが呆れ顔になる。だと思った、という声も聞こえた。
 桐香が言い出したんだよ、これ。
「朝一で来てクラッカー仕掛けとこうと思ったのに、先に来てるんだもん、焦っちゃった」
 笑顔で、桐香は袋を差し出した。綺麗にラッピングされた包み紙は、綺麗な青色をしていた。
「はい」
「・・ありがとう」


 ――出会わなければ良かった。でも。
   会えて良かった。


 だからどうか、私の気持ちには気付かないでいて。

    
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壊れたもの

2003/9/8

「あ。間違えちゃった」
 そう呟いた少年の向かい側では、女が血を吐いて倒れたところだった。恐らく、苦痛で少年の声は届いていても、その意味までは解っていないだろう。
「今のところ、殺すつもりはなかったんだけどなあ。ごめんね?」
 女が絶命すると、少年は倒れたワイングラスを流しに運んだ。ワインがこぼれて染みを作っているテーブルクロスは、丸めてごみ箱に突っ込む。ちらりと、女に目をやった。
「だから、家には来ないほうがいいって言ったのに。――眼が、母さんに似てたんだけどなあ」  

 加藤俊哉。高校二年生。クラスに一人はいる、暗くもなく目立ちもしない生徒。
 学校に行きたいと思ったことは一度もなく、ただ、フリーターをやるよりも目立たないという理由だけで進学を決めた。
 ちょっとしたバイトのおかげで、金の心配はなかった。母子家庭で母さえ子供を置いて逃げた今でも、必要であれば保護者をしてくれる人はいくらでもいる。
 今や、俊哉の生活は、そのバイトを中心に回っていた。殺し屋の。

「あ、涼一さん? 俺。毒薬、在庫切れちゃった。今度くるとき持って来て?」
『何だ、またか。お前、私生活では使うなって言ってるだろ』
「いやあ、職業病ってやつ? どうも、状況が整っちゃうとね」
『わかった。明日、行こう。ニトログリセリンは?』
「いや、そっちは大丈夫。で、明日来るってことはまた仕事? 俺、昨日やったばっかだよ?」
『それで今日もやってるなら、問題はないだろう。今回は、俺がお目付け役で行くから』
「え、それホント? やりぃ、帰りになんかおごってくれよな、デザート付で。この前の食べ放題って約束、忘れてないよな? 何なら、バイキングのとこでもいいからさ」
『・・・明日、早朝に』
「うん。じゃな」
 電話を切って、俊哉は笑みを浮かべた。明日の夜は食べ放題決定だ。
 さて。その前に、この死体を片付けなきゃな。俊哉は、笑顔のままでその作業にかかった。

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邂逅

2002/9/14
 

 あれ。ここはどこだろう。
 ぼんやりと、ボクは周りを見渡した。何もない。ただ、朧に青い空間。ゆるゆると広がる空間。地面は、磨かれた青銅の鏡面のように見えた。
 何もない。
 なんにも、ない。
 何一つ。
 ボクはそこに、ただぼんやりと立っていた。そして、ここが水中であることに気づいた。水の中だけど、息は苦しくない。
 ただ、朧に青い空間が広がっている。
「来たんだ」
 気付くと、目の前に人が立っていた。それは、ボクだった。
「意外に早かったね。でも、絶対に来ると思ってた」
「何が?」
 ボクは、やっぱりぼんやりとしていた。こんな風に自分の顔なんて見たことがないから、何か不思議な感じがする。
 もう一人の「ボク」は、唇の端を持ち上げた。それだけで、ずいぶん意地悪そうな表情になった。
「ねえ、知ってる? どうしてあなたがここに来たのか」
「知らない」
 そう言って、ボクは「ボク」から目を逸らした。キライだ。この人は、キライ。頭の片隅で、そう告げる声がある。
 ――キライ。
「今嫌いだって思ったでしょ、あたしのこと。当然だよ。あなたが、あたしを封じ込めたんだから。嫌いだからって、封じ込めたんだから」
 睨み付ける瞳が、ボクに突き刺さる。
 ボクは、その眼をよく知っている。毎朝毎朝、鏡の向こうから、この瞳が睨み付けるから。
 やっぱりこの人はボクなんだと、確信した。酷く厭な気分だった。
「ねえ。わかる? あたしがここに閉じ込められて、どれだけ辛かったか。寂しかったか」
 ボクを睨み付ける。いつのまにか、目が逸らせなくなっていた。
「あなたはいいよ。外にいて、いくらでも自由にできて。あたしには、何もなかった」
 ゆっくりと伸びてきた手が、ボクを捕まえる。「ボク」は、体を引っ張って、耳元で囁いた。
「あなたのせいなんだよ?」
 ゆっくり、ゆっくりと。言葉が染み込んでいく。まるで、遅効性の毒のようだと、ボクは思った。
 「ボク」はボクに抱きついたような状態で、背中に手を回した。クスクスと、笑っているようだった。
「ねえ?」
 青くて何もない空間が、ボクの目の前には広がっていた。

 目を開けると、立って手を伸ばしたら届きそうな高さの天井が、目に入った。いつも通りの、自分の部屋。
 布団から出て、窓を開ける、時計を見ると、目覚し時計の鳴る一分ほど前だった。鬱陶しいので、目覚ましは切っておく。
「今日も学校かー」
 背伸びをして、姿見を見る。いつも通りの自分。
「急にあたしなんて言い出したら、みんなびっくりするんだろうなあ」
 笑って、あたしは制服を手に取った。この辺りでは珍しい、セーラーの制服だった。

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別れのとき 別れの場所

 
2002/10/7

「・・・・っ」
 泣きたくなんてなかった。
 泣いてしまったら、何か赦されたようで、それで終わりになってしまうようで。だから、泣きたくなんてなかったのに。
 それなのに、涙は止まらない。
 声が詰まる。
 息が、できないくらいに――。
 これしかなかったのだとわかっていても、それでも、血に濡れた両手を、固く掴んだまま離れない血を浴びた剣を、涙が濡らしていく。

 村は、血に染まっていた。ユリエが薬草を摘みに行った、半日ほどの間に。
 何が起きたのか、はじめは理解ができなかった。そしてその報せは、二日ほどしてから届いた。街からの旅人によってもたらされ、そしてユリエは、その旅人が来るまで、ずっと放心していた。
 何の覚悟もしていなかった。
 いくら人は簡単に死ぬからといって、誰がいつ死んでもおかしくはない毎日だからといって、こんな別れが訪れるとは考えもしなかった。
 平穏だけが取り柄のような村で。
 小規模な諍いや犯罪とも言えないような犯罪、山に住む動物の被害などはあっても、どこもが日溜りのような平穏にあふれていて。
 そう言うユリエを、旅人は気の毒そうに見ていた。――皆そう言うんだ。でもそれは、突然訪れた。それは、密やかに人の心に忍び込む。そして、人々を殺戮して回る。忍び込まれた人は、人の心を持たなくなって。
 一緒にこないかと、旅人に誘われた。
 だがユリエは首を振って、断った。旅人の去った後に、一人で村人の遺体を埋めて、墓を作る。ただひとつだけ見つからない遺体は、面倒見のいいトオルのものだった。
 きっと、復讐を。
 それだけを胸に、村を後にした。長く伸ばして、誰からも誉められた髪は、邪魔だから切って。風にそよぐのが好きだった長いスカートも、二度とはかないと決めて。
 同じようにして荒廃する国を、ユリエは回っていった。
 まるで世界の最期だと。それでも生きようとする人が、妙に哀しくて、愛しかった。けれどもそれはすべて、心の奥深くに突き刺さって、表面には決して出てこなかった。
 生きるために、トオルを殺すために。ユリエは、どんなことでもした。人殺しだろうと、トオルのような人でないものを殺すことだろうと。血の臭いにも、慣れていった。
 そして、トオルに再会したのだ。

 あの時と同じように、一人で土を掘って、墓を作る。できることなら村に一緒に埋めたかったが、それは無理だった。そしてそれ以前に、村に戻ることはできなかった。穢れているのは、トオルよりも、自分だから。
 もう自分は人ではないのかもしれないと、ユリエは思うようになっていた。
 長い間押し殺した心は、隅からひび割れて、今ではほとんど動かない。トオルを殺したときに流した涙も、その意味はわからなかった。ただ、泣いていた。それは、感情だろうか。
 ユリエは、立ち上がった。墓を見るのではなく、行く先を見て。
「私は、生きる。みんなの分を、生きなければいけないから。私は、死ねない」
 どんなことになっても。「生きる」為だけに「生きる」。
 歩き出す。決して、後ろを振り返ることはなかった。

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でもさそれは、ありふれた日

2002/10/15
 

 朝起きたら、眼が碧色になっていた。
 発見者は私ではなくて母で、朝食をぶちまけかねない勢いで驚かれたおかげで、私は驚く機会を失った。何事も、やった者勝ちだ。

 仕方がないので、サングラスをかけていくことにした。何気なく買ったサングラスが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
 制服とサングラスの組み合わせは、アニメのキャラクターを現実に照らし合わせたくらい情けなかったけれど、仕方ない。どの途、自分では見えないことだ。
 母が病院に行けと騒いでいたけれど、そんなことをしていたら授業に遅れてしまう。一時間目は好きな生物で、午後には世界史もある。休むわけにはいかなかった。少ししたら元通りになるかもしれないし。
 案外、特別でもないかもしれないし。

 眼の色が変わったからといって、何が起こるわけでもなくて。
 ――突然未知の生命体が降りてきて、「あなたにしか地球は救えません!」とでも?
 そんなこと、あるわけがない。あったところで、断りたい。他の誰かに譲っておこう。私に託されたところで、地球も迷惑なだけだ。

 学校に着くと、授業間際だった。
 先生にサングラスを咎められるよりも前にクラスメイトに騒がれるかと思ったのだけれど、意外にも、仲間がいた。ついでに言うと、いつも以上に欠席者が多かった。
 ひょっとすると、クラスの半分以上が似たような状況になっていたのかもしれない。

 その夜、テレビでアナウンサーが、目の色に異常の出た十代の少年少女、主に中高生が多発したと伝えていた。

 ほら、やっぱり特別なんかじゃなかった。

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らぷんつぇる

2002/10/26

 あるとき、子を身篭った農家の女は、ちしゃの実を食べたいといった。仕方なく夫は、家の裏の魔女の畑に忍び込み、妻に与えた。しかしその後、また女は食べたいといった。再び忍び入った男の前に、魔女は立ちはだかった。
 そして、生まれてくる子と交換に、ちしゃの実を食べていいとの許可をもらう。
 娘が生まれ、約束通りに魔女が引き取りにくる。夫婦は嘆き悲しんだ。そこで、魔女と娘にとっての夫婦の物語、夫婦にとってのラプンツェルの物語は終わる。


「お母さん、これ着てみて」
「何度言えばわかるんだい。あたしはあんたの母親じゃないんだよ」 
「あら、お母さんよ。育ててくれた人をお母さんって言うのよ。だったら、間違いないわ」
 編み終えたばかりのセーターを手に、ラプンツェルはにっこりと微笑んだ。
 退屈がるからといって書庫を好きに使っていいなどと言うのではなかったと、レイチェルは密かに溜息をついた。どうにも、口達者でいけない。だが、では従順な娘がよかったのかと問われれば、口篭もってしまう。
 結局のところ、二人はうまくやっているのだ。
「着てみてよ。一度だけ。ね?」
「一度だけだよ」
 そう言って、渋々草色のセーターを受け取る。ちょっと派手じゃないかい、と口の中でだけ呟く。
 セーターをかぶろうと持ち上げて、レイチェルはぎょっとした。草色に、見事な金色が紛れ込んでいる。そしてそれは、床を伝い、ラプンツェルにまでつながっているのだった。
「ラプンツェル、編物ひとつ満足にできないのかい。また自分の髪を巻き込んでるよ」
「え? やだ、本当! ・・・どうしよう」
「・・・仕方ないねえ」
「ありがとう、お母さん」
「これっきりだよ」
 可愛らしく苦笑いするラプンツェルを横目に、レイチェルは咳払いをすると、壁に立てかけていた杖を取り上げる。杖を振り下ろすと、ラプンツェルの髪は、生き物のようにセーターの網目から抜けていった。
 子供のように目を輝かせて、ラプンツェルはそれを見ていた。レイチェルが魔法を使うのを見るのは、大好きだった。
「ねえお母さん、次は何がいい?」
 セーターを着たレイチェルが、苦い顔をする。いつものことだった。ラプンツェルは、こんな日がずっと続くと思っていた。


 王子がラプンツェツの住む塔に上ってきたのは、レイチェルが出掛けた後だった。
 レイチェルは、人々に頼まれたときには助言し、薬草などを渡すこともあった。その代わりに、様々なものを受け取る。物々交換だった。 王子は、レイチェルがラプンツェルの長い髪を塔から垂らさせて降りてくるのを目撃していたのだ。レイチェルを真似て、「ラプンツェル、髪を下ろしておくれ」と呼びかける。
「あなた誰?」
「・・・・・魔女が娘を攫ったというのは、本当だったんだな」
「聞いてる? あなたは何者なの?」
 自分と違って暗めの金髪の若者を前に、ラプンツェルの機嫌は下降していた。唯一好奇心が、それを押し留めている。
「ああ、悪かった。私はツォルン領地の領主の次男のキースだ。君は?」
「ラプンツェル」
 これが王子様ってものなのねと、ラプンツェルは心中で呟いた。書物で知識は得ているが、レイチェル以外の人と話すのは、これが初めてだった。
 それからしばらくの間話していたが、早々に飽きてしまっていた。よっぽど、本を読むか裁縫や家事でもするかしていた方がいい。
 自分のことしか話さない「王子様」は、ラプンツェルの好きなものにはならなかった。
「あら、大変。もうすぐ帰ってくるわ。見つからないうちに帰ったほうがいいわよ」
「あ、ああ・・・・」
 そそくさと帰る王子を見送ってラプンツェルは舌を出した。まだ、レイチェルが帰ってくるまでには時間がある。これ以上、くだらない話に付き合わされるのはうんざりだった。
 しかしその後も、王子は度々訪ねてきたのだった。


 一人残された塔の中で、レイチェルは草色のセーターを抱きかかえていた。その他にも、ラプンツェルのくれたものは多い。気付けば、身の回りのものはほとんどそうなっていた。
 十数年。ずっと、一緒に暮らしてきたのだ。
「ふん、いなくなって清々するよ・・・・」
 力なく呟く。部屋の隅には、切り落とされたラプンツェルの長い髪が一塊にして置かれている。
 ラプンツェルは、町へ降りて行った。
 それは、森に野イチゴ摘みに来た少女がきっかけだった。その少女を通じて外の世界を知り、また、別に友達を作って。レイチェルは何も言わなかった。
「さて、ここも引き払わなくちゃね」
 今度は、もっと森の奥に。誰もこないような場所に。誰にも、出会わないように。もともと一人が好きだったんだ、と、一人ごちる。
『ちゃんと、年に一度は帰ってくるからね』
 そう言って、ラプンツェルは塔を後にした。塔が自分の家だと、疑いもせずに。次に来たときにはなくなっているなどと、夢にも思わなかっただろう。
 だがこれは、決めていたことだった。
 ちしゃの実を与えた夫婦は、ラプンツェルを渡した。頼むから止めてくれとも言うことも、取り戻しに来ることもなかった。それはそれで賢明な判断だっただろうと、レイチェルは思う。ちしゃの実さえ手に入れられなかった農家の夫婦に、果たして子供が育てられただろうか。
 偽善ぶるわけではなく、ただ――寂しかったのだ。でも、その寂しさに誰かを縛り付けるのは厭だった。ラプンツェルには、誰よりも自由でいてほしかった。
「やれやれ・・・・年をとったねえ・・・・」
 呟いて、レイチェルは立ち上がった。
 そのときに、声が聞こえた。若い男の声だ。ラプンツェル、髪を垂らしておくれ。ラプンツェルが町へ行ったことを知らない友人かと思い、レイチェルはラプンツェルの髪を垂らした。
「やあ、ラプ・・・・ひぃ、魔女!」
 レイチェルが口を開くよりも早く、上ってきた男は、無様な叫び声を上げて落ちていった。運良く、茨の上に落ちて死にはしなかったようだ。それ以上、その男には気を払わなかった。
 杖を一振りすると、塔は跡形もなく消え去った。


 数年後、森の奥深くをさまよう女がいた。高い塔を見つけ、大声で魔女の名を呼ぶ。
 それから数日後には、女は自分の子供や夫も連れてきた。嬉しそうに輝く顔は、娘時代と全く変わらない。
 まだ、娘と魔女の物語は続いていた。

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晴れのち・・・はてな?

2002/11/30

 ――ええと。どうしよう。

 柾基[マサキ]は、戸惑っていた。どうも、今日一日でそれなりな人生の岐路をやり過ごしていった気がする。
 その一。本命の大学受験。
 まあこれは、ずっと前から判っていたことで、準備だってしてあった。どんな結果が出たところで、それ以上は望めないという結果であることは確かだろう。
 それはいい。
 その二。父の再婚。
 この歳になればもう、息子といえど、あまり口を出すことではないだろうと、柾基は思っている。よほど相性の悪い人でない限り、それなりにうまく行くだろう自信もある。
 しかしいくらなんでもそれを、今朝言うか?
 一人息子の受験日に、トーストをかじりながらあっさりと、「今日入籍するから」と。柾基はまだ、義母の顔すら知らない。その名前すら聞いていない。
 その上。
 その三。振られたところを、義理の弟に見られた。
 去年から付き合い出した彼女に、何故か試験の後で別れようといわれ、理由を訊くと、涙目で睨み付けられ、「馬鹿っ、もう顔も見たくないっ」と、言い逃げされ。そのとき見知った顔と目が合い、見られた、と思った瞬間に。
『兄さん、振られたの?』
 見知った顔が、直接の面識はないものの後輩であることに気付くまでにまず間があり、更に「兄さん」というのが一般的なものではなく、どうも家族としてのもらしいと理解するまでに膨大な間と、本人からの説明があり。
 今に至る。

「びっくりした。まさか話してないなんて思わなくて」
 色素が薄くて茶色っぽく見える眼が、苦笑をたたえて細められる。毛糸の帽子の下からのぞく髪も、同様に茶系統の色に見えた。ありふれたダッフルコートを着ているだけなのに、どこかヨーロッパあたりの血をひくモデルのようにも見える。
「あ、突然兄さんって呼んじゃったけど、よかった? 名前の方がいい?」
「いや、どっちでもいいけど」
 基紀[モトキ]と名乗った少年が、くすりと微笑する。
 柾基がこの少年を知っていたのは、今年の三年生を追い出す会の劇に、彼が役者として参加していたからだった。喜劇仕立ての物語の中で、常に笑顔で混乱を誘う天使役。女子の反応が物凄かったのを覚えている。
「嵯峨たちに聞いたのと印象が違うけど・・・俺や母さんのこと、怒ってる?」
「いや。ちょっと、突然すぎて」
 嵯峨というのは、柾基の部活の後輩のことだろう。そういえば、部の追い出し会で例の天使と同じクラスだと言っていた気がする。
 寒風吹きすさぶ中、柾基は混乱していた。――いや、今、人生の岐路と神の采配なんて考えても仕方ないし。変に転がる思考回路を整理しようと、奮闘してみる。
「あのさ、こっちに転校してきたの、三学期入ってからだって聞いたんだけど。それって、再婚のせい? 残ろうとかは思わなかったのか?」
「ああ、それ? うん、再婚のせいもあるけど、あのままあそこにいたら、誰か殺してそうだったし」
 ――えーっと。
 冗談なんだろうか、本気なんだろうか。っていうかなんだよそれ、その状況。いじめにでもあってたのか? でもいじめられそうな性格にも見えないんだけど。
 結局、混乱の度合いを深めただけだった。
「ねえ、場所変えない? 寒いのってあんまり好きじゃなくて」
「ああ・・・喫茶店とか?」
「家に帰ればいいんじゃないの? え? これも聞いてないの?」
「・・・だから俺、今朝入籍するって聞いたばっかなんだって」
 しみじみと、父が恨めしい。基紀だって、わざとやっているわけではないのだ。
「今日、引越しなんだよ?」
「・・・うそだろ?」
「ほんと。荷物届くの、夜だけど。お父さんの友達が運んでくれるって。それで、とりあえず俺だけ先に兄さんに会いに行っとけばって言われて。・・・言ったの、お父さんだよ?」
「・・・・・・・・・親父」
 深深と、溜息をつく。一体、何をさせたかったのか。何をしたかったのか。
「・・・まあ。じゃあ。行くか? ここにいても仕方ないし」
「うん。ところで兄さん、どうして振られたの?」
「俺がききたい・・・・」
 何か、初対面なのになじんでいる自分を自覚していた。

 こうして、柾基には家族が増えた。
 しばらくの間、柾基の父を見る目が氷点下以下だったというのは、余談の範疇だろう。後日、四人家族が揺るぎ無い日常になった後に、照れ臭かったのだと告げられるが、柾基には迷惑以外の何物でもなかった。

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疑問

 
2003/1/8

 二人は刀を構えた。
 一本は日本刀、もう一本は青竜刀。どちらも、刀身は青白く光っている。
 対する二人の前には、体が猿で尾が蛇という、鵺を連想させる・・・というか、出来損ないのような妖物。
 二人と一匹だけが、そこにはいた。

「前から、気になってたんだけど」
「ん?」
 ともにまだ小学生か中学生くらいの二人は、驚くほど似ていた。一目で双子と判る。もしこれで、表情の変化がなければ、本人たちでさえ見分けることは不可能だっただろう。
「どうして、同じようにお祖父さんに剣道習ってて、そんな構えになる?」
 背筋を伸ばして上段に構える少年に対して、もう一人の少年は、軽く曲げた右足を前方の中空に出し、右手を婉曲させて剣の先を妖物に向けて構えている。
 きっちりと服を着込んだ少年は、答を求めて、妖物を挟んで立つ少年を見た。こちらは、動きやすさだけを重視したくたびれたような服を着て、腰にはモデルガンがある。
「えーと。毎朝の太極拳の成果と、香港アクション映画の真似したらこうなったのと、どっちだと思う?」
「・・・馬鹿だろう、実は」
「今更気付くなよ。十三年も一緒に過ごしてきてそれかい」
 呆れたような表情をするが、構えは崩さない。見事なものだった。
 少年二人に挟まれた妖物は、猿の顔に、明らかな威嚇の表情を浮かべていた。この間に逃げればいいようなものだが、結界が張られているため、そうはいかなかった。
「ってかさー。いいかげん、疲れるんだけど。まだみつかんないの? こいつの弱点」
「弱点じゃなくて急所」
「いっしょいっしょ」
 気楽に言う少年に、溜息をつく。それなら自分でやれと言いたいが、じゃあ頭を切り落とそう、と即答されるのはわかっている。経験済みだった。
 あの時は、落とした首に更に襲われ、二人は生死の境をさまよいかけた。遅いことを心配した従兄弟が近くにいなければ、本当にあの世にでも行っていたかもしれない。
 いっそ、一人でやったほうが危険度が下がる気がする。
 それでも少年――最には、建が必要だった。
「尻尾。多分。・・・・あ。それと咽喉。・・・・・・で、終わり」
「んじゃ、俺ノドな」
 あっさりと言う。
 いつも思う。この兄弟には、恐怖心はないのだろうか。急所を探るために閉じていた眼を開くと、自分によく似た、だが確実に違う顔が笑みさえ浮かべていた。
「お前、尻尾。いいな?」
 うん。肯くと、二人は全く同時に飛び掛った。

 最後に浄化用の水を撒いて、終わり。
 聖水の入っていたペットボトルの蓋を閉めて、うし、と呟く。相方を見やると、脱力したような呆けたようなかおをしていた。
「最? おーい? 帰らねえの?」
 二人の手に、もう刀はない。建は、あれを精神物質か何かだろうと理解している。理解というと違うのだが、あるものはあるのだろうし、それを区分付けるなら精神物質になるのだろうという、漫画から引っ張ってきた知識が固定したものだった。
 両隣を空家に囲まれ、裏は川でその向こうは山。残る一辺に対する小道と砕を見比べ、建は頭を傾げた。
 こんな空き地で、まだ何をするというのか。清めは終わったし、そろそろ日付が変わる。明日も学校のある身としては、はやく帰って寝たいところだ。
「建は」
「はい?」
「強いね」
「はいぃ?」
 月明かりの下でまじまじと砕の顔を見て、建はどうにか舌打ちをとどまった。最がこういうかおをするときは、大抵がたいしたことのない事を気にしているときだ。
 建には大したことがなくても、最には違う。それが酷くもどかしかった。
「怖くない? 僕は怖い。一人前でもないのに、こうやってることが、ひどく怖い」
「あーのーなー」
 がっくりと首を落として、建は言った。ペットボトルを、モデルガンと一緒にベルトにとめる。
「俺が怖くないって思ってると思う? なわけないだろ。じいちゃんに散々話し聞かされてんだぜ? ありゃ絶対、体験記じゃなくて怪談だ」
「でも」
「何を勘違いしてるかしらねえけど、俺が大丈夫に見えてるんだとしたら、お前がいるからだ。こればっかは、半人前でよかったと思ってる」
 最と建は、半人前だ。能力が半人前というなら、前例はいくらだってある。特殊なのは、双子だったせいか、能力まで「一人分」を分け合ってしまった点だ。もっとも、最が九割弱に対して建が一割強といったところだが。
 その上、最の持つ力は、建がいなければ最大限の発揮はできない。力はこれから鍛えることもできるが、この特異体質ばかりはどうなるかわからない。
 そのため、二人は必ず一組で依頼を受けるのだ。
「ほら、帰る。また学校休むつもりか?」
「・・・うん」
 月明かりに照らされながら、二人は歩いていった。ちなみに、建が車を呼ぶということに思い至ったのは、翌日の朝のことだった。歩きたいのかと思った、という最の言葉頭をかきむしったのは、言うまでもない。

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平和な国

 
2003/1/11

「あーあー、日本て国は平和だよなー」
 見かけよりも低い声で、「少女」は呟いた。右肘をついてあごを乗せ、左手はクリームソーダのストローをもてあそぶ。
 ふう、と溜息をついて、ストローに口をつける。暖房のよく効いたところなので、冬にも関わらず冷たいものがおいしい。子供向けなのか女の子向けなのか、やたらと派手に飾り付けられたアイスクリームをつつく。
 うんざりとしたかおで自分のはいているプリーツスカートをちらりと見る。はあ、と深く溜息をついた。
「何でこんなカッコ」 
 加藤俊哉。れっきとした、高校生男子である。しかし今は、近くの高校の女子セーラー服を着ている。線の細い体つきや顔から少し見たくらいではばれないだろうが、万が一ばれたら、変態、とでも叫ばれかねない。
「ま、いいけどね」
 新しく入ってきた客に視線を向け、ストローから手を離す。左手は、即座にかばんの下を探った。手のひらに収まるくらいの黒い塊を取り出す。
 小型消音銃、ってほんとかよ?
 違えば、すぐに俊哉はつかまるだろうか。いや、逃げ切れる自信はある。――じゃあ、いいか。
 さすがに飲みかけのジュースをどうにかするのは無理だろうが、どうせ指紋もDNAも警察には記録されていない。この先に何かへまをしない限りは大丈夫だろう。
 頬杖をついたまま、俊哉はさっき入ってきた客に銃口を向けた。そちらには一度、短く視線を向けただけ。
「・・・っ」
 店内にかかっている曲がひときわ大きくなったところで、引き金を引く。標的のうめきも小さな銃の音も、どうにかそれに隠れた。その際も頬杖はついたままで、銃はほとんど手のひらに隠れている。反動にも、微動もしなかった。
「あっつー」
 言って、ストローを持つ。撃ったことで熱を帯びている銃は、かばんの中に入れた。
 俊哉がその店を出たのは、きっちりクリームソーダを飲み終えてからだった。業務用の笑顔で値段を告げる店員に、目も合わさずにお金を払う。店を出たところで、「さっきの子一人でさみしー」という声が聞こえた。
 客に聞こえちゃ失格だろう。
 苦笑して、そのまま俊哉はトイレに向かった。服を着替えて、この後は諒一と待ち合わせだ。今回の報告と、中華バイキングだ。諒一と食べ放題に行くのは、これで二度目だった。
「あ、涼一さんだ」
 どうせ俊哉のかばんについている盗聴機で聞いていただろうのに、三軒ほど離れた店の前に諒一が立っていた。ガラスに映った顔が、目線で挨拶をする。
 俊哉は肩をすくめた。
「・・・この格好見に来たんだろうなあ、絶対」
 はあ、と溜息をつく。

 俊哉の標的の死が報じられたのは、翌日の新聞でのことだった。

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闇に呼べば

 
2003/1/30

 暗い、闇。
 原始の闇に似たそれは、密やかに息づいていた。その存在を知る者はなく、だが、誰もがそれに繋がっている。
 例えば心の奥深くだとか、夢の端だとか、意識下の共有意識だとか。
 そこに、闇は潜む。
 じっと、誰かの声がかけられるのを待っている。


(やだ。何あれ。知らない。知らない。知らない・・・!)
 柚木[ユズキ]は、耳を両手でふさいだ。きつく、決して音が聞こえないように。何が起きているか、わからないように。目をつぶった。しっかりと、何も見えないように。
 けれど、本当は知っている。柚木の中から出てきた、黒い影のようなものが手当たり次第に全てを破壊していっていることを。
 教室は、おびただしい血と物と化した生徒たちが転がっている。机も椅子もばらばらに蹴散らされ、それどころか窓や戸も歪んでいる。
 音がしないのは、影が他へ移り、そしてこの場所には柚木以外に生き残っているものがいないからだった。
(知らない! あたしじゃない・・・違う・・・)
 強く考えるほどに、違う声が聞こえる。――だって「あれ」は、あたしの中から出てきた。あたしはいっつも思ってた。誰も要らないって。みんな、みんないなくなればいいんだって。だって――
 誰からも必要とされなくて、居場所もなくて。「友達」も「仲間」も、ひょっとしたら「家族」だって、いなかった。特にいじめられているわけでもなく、殊更に冷たくされたり虐待されているわけでもないのに、柚木は独りだった。
 だから――
(・・・・あたし、の、せい・・・・?)
「ユズキ?」
 痙攣したように体を竦め、時間をかけて手を下ろし、目を開けた。ゆっくりと顔を上げると、漆黒の髪に瞳、上から下まで黒い服を着て、手袋まで黒い、顔だけが白い人が立っていた。
 声からも風貌からも、男か女かも判らない。
「だ・・・れ・・・・?」
「君が呼んだんだろう? ボクは声がしたから来ただけだ」
「呼んだ・・・・?」
 少年――だと、柚木は判断した。中学生くらいか――は、特に興味もなさそうな表情のまま、頷いた。
「呼んだだろう? 闇に。だから来たんだ。ボクもあいつも」
「・・・あいつ」
 それが影だと、根拠もなく柚木は確信していた。
 少年は、それには頷かず、感情もなく教室を見渡した。柚木は、床に座り込んだまま、震える体をどうにか押さえた。
「殺しに来たの? あたしも。呼んだって、望んだってこと? 知らない、あたしは知らない! どうして・・・どうして・・・・」
 最後はすすり泣きに変わっていった声を、少年はひどく冷静に聞いていた。
 表情は、冷淡というよりは感情を知らないように見える。
「君はボクを呼んだ。だからもう、泣かなくていい。これは全て終わったんだから。――また、会えるかもしれないね」
「な・・に・・・・」
 ゆっくりと、蜜が落ちるようにゆっくりと、柚木は眠りに落ちていった。そこにあるのは、紛[まが(ご)]うこと無き闇だった。
「起きれば、元通りだから」
 声は、柚木には届かない。  


「ボクたちは何なんだろうねえ?」
 闇の中で、「少年」は言った。闇の中には沢山の「少年」と「同じ」者がいて、「常識」で考えるならば、到底存立していられるような状態ではなかった。
 闇の中で、問いに様々な応えが返る。
 途切れることのないそれは、唐突に止んだ。
「――呼んでる」
 呼ばれたものは静かに、闇を離れた。
 離れたものは、闇の一部だった。  
 それは、原始の闇に似ていた。

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ゆるやかな毒

 
2003/3/7

 ひたひたと、この身を侵していく。
 まるでそれは、遅効性の毒かのように。
 ゆるゆると、細胞の一つ一つを殺していく。  

 紅葉[クレハ]は、姿勢を伸ばして机に座っていた。手には図書館の文庫本。
 昨日買ったばかりの雑誌が読みたいところだが、もし学校にでも持ってきて隠されてはたまらない。図書館の本なら、謝ればすむし親にその代金だって請求できる。
「ああ、やだやだ。暗いよ、この部屋。空気が」
「仕方ないって、あれがいるんだから」
「休み時間くらい、どこかに行けよなー」
 明らかに自分に向けられた嫌味が耳に入るが、無視する。六年もこの囁きに付き合ってきたのだ。いいかげん、反応するのも疲れる。しかし不思議なのは、当人たちはそのときの声や表情の醜さに気付いていないのだろうかということだった。
 閉鎖的な女子校で、初等部から高等部までの一貫校。中学や高校になるたびにいくらか外部からの入学生があるとはいっても、そうそう顔触れは変わらない。
 ――飽きない人たちだ。
 つまらないとは思わないが、熱中するほど面白くもない本を読みながら、ちらりとそんなことを考える。自分は、もう飽き飽きしているというのに。
 家の体面というものを保つために口を閉ざし、本来は奔放な性格を押し込める。それは、紅葉にとって苦手ではあってもできないことではなかった。
 しかし、平気なわけではない。内から、腐っていく気がする。ゆっくりと毒に侵されるように、「日本人形のよう」と評される外見だけを残して、すべてどろどろに溶けさってしまうような。
 いつも通りに、三つの短い休み時間をそうやってやり過ごすと、一時間ほどある昼休みにはかばんを持って教室を出た。
「あー・・・疲れる」
 入学式の日にかぎをくすねておいた屋上に出て、紅葉は大きく伸びをした。背筋の伸びる感じが気持ちいい。春先の風はまだ冷たく、ばたばたと制服や髪をはためかせて行くが、気にしない。
 かばんの中には、コンビニで適当に選んだパンが二つとおにぎりが二つ。それと五〇〇ミリリットルの紙パックがひとつ。
 出入り口の扉に頭ごともたれて、パンをかじる。
 屋上は、滅多に人がこないからか荒れている。コンクリートは所々はがれ、どこからか飛んできた草が根付いている。不思議なことに、テニスのボールやサッカーボールも転がっていた。
 殺風景で、無機的。
 紅葉にはその方が嬉しい。人の欠点をあげつらうのが趣味のような人たちや、八つ当たりしかしてこない人たちに囲まれるよりよっぽどいい。
「・・・ビデオ、ちゃんと撮れてるかなー」
 昼頃再放送のバイクレースを思い浮かべ、ジュースをすする。母が変にいじって、予約を取り消したり見てしまったりしなければいいが。目下一番の趣味のあれを、家族たちが認めてくれるはずもない。
 家族は、自分たちが紅葉を圧迫しているという意識はないらしい。そして学校での現状も知らない。
 生き抜きはいくらでもできる。
 最近ではパソコン通信(*インターネットの前身のようなもの)という便利なものもあるし、テレビや本もある。
 だが、実際に何かをするとなれば別だ。駅前にたまっているような人たちに混ざってスケボーでもやろうものなら、即座に誰かが止めに入るだろう。紅葉、というよりも紅葉の父は、そういうことにうるさい人だから。
 ――いいかげん息詰まるってのに。
 蒼い空を見上げて、紅葉は溜息をついた。

 まるでそれは、遅効性の毒のように。
 ゆるゆるとこの身を侵していく。
 行動を始めなければ。――たとえ、手遅れだとしても。

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夕暮れの時間

 
2003/4/6

 真っ赤に染まった夕暮れの空の下を、少女は歩いていた。日本人形のように黒く美しい髪をしており、明かに着慣れている着物は、上等で良く似合っていた。
 目的は特にない。ただ、少し腹を立てたのだ。兄を、困らせてやりたかった。
 勝った勝ったと浮かれ、だが、其処彼処[そこかしこ]に不安の影が犇[ひしめ]いている。敏感な者、空気を読むのに長けている者、そして賢明な者は、そっとあたりを窺っている。下手をすれば特高に引っ張られかねないので、口に出しはしないが。
 少女も、知っている。それは、自身の能力ではなく、風変わりな伯父の困った――しかし、少女にとってはありがたい――子供も一人の人間として相手をする癖のおかげだった。
 それは、兄に対しても同じで。だから兄も、少女と同じように戦争に浮かれる日本の先にあるものを、知っているはずなのに。
 それなのに。
 ――兄[あに]さんは、行ってしまう。
 軍人になるのだと言う。行かないでと、いくら少女が言っても、困ったように笑うだけだった。それは、何度か見た表情だった。そうやって笑うときの兄は、決して意見を変えない。
「兄さんの、ばか」
 赤く染まる橋の欄干を見て、少女は力なく呟いた。その手元に、ふわりと薄い色の花弁が舞い降りてくる。土手に植えられた桜だった。
 他に人はいない。
 こんな時間に人気のないところにいるのは危ないと、少女にも判っていた。きっと今ごろは、温厚な兄が顔色を変えて自分を探している。それくらい、わかっていた。
 それでも、少女は動けずにいた。
 ――私が死んだら、殺されたら、兄さんは悲しんでくれるだろうか。ずっと、覚えていてくれるだろうか。
 どこか昏[クラ]いところから浮かんできた考えに、少女は慄然とした。
 ――何を考えているんだろう。止めよう、帰ろう。
 少女は踵を返したが、そのまま体を強張らせて立ち竦んだ。逆光で顔は見えないが、誰かがこちらに向かって歩いてくる。少女の頭の中を、今までに聞いたり読んだりした猟奇事件が駆け巡った。
 しかし、逆光の人物は、少女を見止めて明るい声をあげた。
「お嬢さん。こんなところでどうしたんです? 危ないですよ」
 見知った書生の声に、少女は胸を撫で下ろした。危ないなら送ってくれるわよね、と大人びた口調で切り返し、少女は橋を離れた。

 結果から言えば、書生について行ったのは間違いだった。
 少女は、その青年に殺されたのだから。
 殺して、亡骸は桜の木の根元に埋められた。いつからか伝えられた言葉の如く、その桜に限っては確実に「満開の桜の木下には死体が埋まっている」のだ。

 その後、書生である青年は発狂し、田舎に帰っていった。しかし一月と経たずに、果てたと言う。自殺か事故か衰弱か、知るのは家人のみであった。
 姿を消した少女は、発見されなかった。生死すら判らぬままに、一番少女を気にかけていた兄は演習中の事故で片足をなくし、縁談は多数あったものの、全て断って長い余生を過ごした。
 伯父と父は戦死、母は病に倒れた。そして、屋敷は空襲に消え、使用人たちは去っていった。
 その頃、ある桜の木に不思議な子供が現れると言う噂が流れた。花をつける季節になると、じいっとその木を見ているのだと。子供は、少年にしては髪が長く、少女にしては短い髪をしていたと言う。
 しかしその噂も、敗戦、続く復興に紛れ、いつしか消えていった。

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夢戦

2003/4/14

「全く。こんな能力があるなんて知ってたら、もの書きなんて職業選ばなかったのに」
 溜息をひとつ。
 司は、うんざりしたように周囲を見渡した。辺り一面血に染まり、それなのに不思議と死体らしきものは転がっていない。
「今更遅いよ。司ちゃんの本が読まれる以上、もう辞められないしね?」
「書くの止めたら飯の食い上げだしな」
 自分同様に血の海に立ち尽くす二人の少年を、司は軽く睨みつけた。そしてふいと視線を逸らし、軽く溜息をつく。
「夢の案内人って言ったら獏なのに、どうして狐と猫なんだよ」
「知らない」
 期せずして答えの声が重なった。
 司は、そんな二人を面白そうに見やってから、右腕を一振りした。何もなかったはずの空間から、一振りの日本刀が出現する。
 慣れた手つきで軽々と抜き身の刀を下げ持って、もう一度周囲を見渡す。そうしていると、遠くから悲鳴が聞こえてきた。
「やっと来たね」
「なあ司、今日は簡単そうだから、俺、先に帰って寝てていい?」
「夾[キョウ]。よくもまあそんなことが言えるな? 人がこうやって無料奉仕してるってのに」
「俺だって無料奉仕だろーが」
「でもずるい。拠って却下」
「ひでえ!」
 司と夾がそんなやり取りをしている間にも、悲鳴は近づいてくる。今では、少年が映画の「エイリアン」に出てくるような怪物に追われているのが視認できる。
 少年は、すがるようにして、必死に司たちの元へ駆けて来る。その様子を見て司は肩をすくめると、特に気負いもなく淡々と、少年に向かって歩を進めた。
「颯[ソウ]、弱点」
「特になし」
「はあ?」
 思いきり不服そうに、司は声を漏らした。しかし足を緩めることもなく進み、少年は無視して怪物と向き合った。
 少年の方は、夾が保護している。その近くで颯が、少し面白がるように首を傾げ、怪物を見ていた。
「こんなの出した覚えないんだけどなー?」
 今にも襲い掛かってきそうな怪物を前に、呑気に呟く。その呟きを耳にした颯が、一瞬考えるように視線をさまよわせ、手を打った。
「無限華だよ。最後の方に出てきた獏の慣れの果てが、これじゃない?」
「えー。もっとこう、かわいいの考えてたんだけどな」
「いや、こんなもんだろ。ってか、司のかわいいって定義がわからん」
「夾もかわいいよ?」
 笑いを含んだ返答に、夾が憮然とし、颯が笑いを堪えるように口元に手をやる。
「さて、冗談はこのくらいか」
 急激に、司を取り巻く空気が変わる。一気に気温が下がったかのようだった。
 冷たい空気に、何度もそれを目撃しているはずの颯爽や夾までが、思わず息を呑む。夾の傍に逃げ込んだ少年は、力いっぱい身を縮めた。
 無造作に、提げていた刀を構える。飽くまで片手で、斜めに怪物に向き合う。
 そして流れるように、刀を動かして怪物を切り刻んでいく。その際の返り血も、気にする素振りは見せなかった。代わりかのように、安全圏に居る少年が幾度も体を強張らせていた。
 最後に、怪物が燃え上がった。
「・・・さいころステーキみたい」
 その一言と共に空気が緩み、気温を取り戻す。
 今や夾は腹を抱えて笑い転げ、颯も堪え切れずに噴出している。少年一人、呆気に取られていた。
 そんな少年に、司が歩み寄る。
 返り血を盛大に浴びた姿に反射的に体を強張らせた少年だったが、あやすような優しい笑みに、思わず見惚れた。
「また随分と、若返ったな?」
「・・・・え?」
 わけがわからず訊き返した少年に、司は小さく肩をすくめて応じた。少年に向かって、右手を伸ばす。いつの間にか、その手からは刀が消えていた。
「本にのめりこむのもほどほどに。特に、夢幻彼方の本はね」
 司は、掌で少年の目を覆った。

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孤独ナ檻

 
2003/4/24

 もう、忘れてしまった。
 自分が誰だったのか。
 自分が何だったのか。
 傍らに、誰かがいてくれたような気がする。誰かが、名を呼んでくれたような気がする。
 名前――。
 もう、忘れてしまった。

 ずっとずっと、長い間。それはそれは長く、「自分」さえも忘れるほどの時間が経っていた。
 「少女」は、暗闇で眼を覚ました。
 いや、もっと早くに目覚めていたのかもしれない。それどころか、眠ってさえいなかったのかもしれない。
 「少女」は、ぼんやりと周囲を見まわした。うつろな瞳が、暗い岩の亀裂の向こうにある、光に向けられる。
 見たいと、「少女」は思った。
 あの明るいものが、見たい。ここにある暗いものじゃなくて、なにかきらきらしてきれいなもの。
 見たいと、痛いほどに思った。
 どうやったのか判らないが、「少女」は亀裂に近寄っていた。自分が歩けることも忘れていたのに、無意識のうちに歩いていたのだ。
 光に触れようと、手を伸ばす。それは、かすかにではあったが暖かかった。
「―――!」
 瞳に、光が灯る。
 「少女」は、亀裂に手を伸ばした。冷たい岩肌は、卵の殻のように容易[たやす]く、崩れ落ちた。
 陽にも当たらず、痩せ細って白い腕で、できるようなことではなかった。しかし、やった本人を含めて、そんなことを知る者はここにはいない。
 全身に光を浴びた少女は、恐れるように、それでも焦がれるように、更に手を伸ばした。足が動き、岩屋の外にでる。
 風が、頬を撫でた。
 光が、溢れていた。
 そして「少女」は、やわらかな緑の草木に目を奪われ、青く蒼く果てしなく広がる空に魅了された。
 ――涙が、零れ落ちた。
 しかし「少女」は、そんなことに気付きもせず、ただぼうっと空を見上げていた。
 「少女」は自由を手に入れ、だが、その使い方はなにも知らなかった。
 ただただ涙を流し、空を見上げる「少女」は、近くを通りかかった男たちに拾われ、名を与えられた。
 だがやがては、別れが訪れる。
 その次に待っていた出会いによって、「少女」は新たな物語へと踏み出して行った。

 誰かを、知っていた。
 確かに、誰かを知っていた。
 大好きで、かけがえのなかった人。
 失うなどと、考えてもいなかった人。
 けれど別れは、確実に訪れた。
 今はもう、忘れてしまった。
 誰かを知っていたという、記憶も失った。
 あるのはただ、真っ白な空白。
 それは、自由と名付けられていた。

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2003/5/20

 時々、泣きたくなるような空がある。
 何故なのかはわからないのだが、泣きたくなるのだ。
 それは、白と青の対比あざやかな空だったり深い赤の空だったり濃紺にぽつぽつと白い星の浮かぶ空だったりで、一定しない。一つ断言するならば、それはとてつもなくきれいなのだ。

 そんな空に出会ったとき、佐奈[サナ]はオオムネ実際に泣く。
 なるべく人の居ない場所に駆け込んで、ぼけっと空を見上げて「泣く」。
 佐奈はそんな泣き場所をいくつも持っているが、それは田舎ゆえの利点だと認識していた。心底、田舎に暮らしていて良かったと思う。

 この日も、そんな空が広がっていた。

 夕暮れに、薄く闇色付いていく空を見上げる視線が、にじむ。泣きながら寝ると耳に涙が入って中耳炎になるらしいので、しっかりとハンカチの用意もしている。
「お? なんだお前、また泣いてるのか」
 呆れたような面白がるような声と能天気な犬の鳴き声が聞こえて、佐奈はただ真っ直ぐに上に向けていた目線をずらした。
 眼鏡をかけたひょろりとした青年が居る。
「カズ兄ちゃんこそ。なんでいっつも、あたしが行くとこに出現するの」
「タクの散歩」
 比較的最近やってきた数雄[カズオ]は、薄茶色の毛をした柔らかそうな子犬を持ち上げて見せた。
 抱かれた仔犬が、嬉しそうに尾を振っている。
 数雄は、十七歳の一応高校二年生。しかし今は、学校には行っていない。ある日突然に、行けなくなったらしい。
 だから数雄は、この片田舎に黒のボストンバックと汚れた仔犬を一匹つれただけでやってきた。
「何が見える?」
 はじめて泣いているのを見られたとき、数雄は見て見ぬ振りをして立ち去った。
 声をかけられたのは、それからもう五回ほどは泣いているときに遭遇した後だった。失恋でもしたのかと思ったと、そのとき数雄は言った。
 今ではなんとなく会話を交わすが、こんな風に訊いてくるのははじめてだった。
「空。凄くきれい」
 ごろんと、数雄も佐奈の隣に寝転んだ。
「ああ、ホントだ」
 その一言が、耳に心地良かった。

 それから何度か、佐奈と数雄は一緒に空を見上げた。ぽつりぽつりと雲や星について話す数雄は、とても博識だった。
 数雄が去ったのは、夏の終わりだった。たった半年、それだけだった。

 今でも佐奈は、泣きたくなるような空に出会う。

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顕現

 
2003/5/24

「ってぇ・・・」
 無造作に突き倒され、貴也は右半身を強く打った。しっかりと頭も打ち付けてしまい、そのせいで眼鏡が吹っ飛んだ。
「こらテメエ、俺身動きとれね―んだぞ?! ってか、人質ってのはもうちょっと丁寧に扱うもんだろうがよ、おい!? こらーっ、無視すんじゃねーっ!」

 溝口貴也が誘拐されたのは、何の変哲もない夏休みの一日だった。
 誘拐といっても直接の金銭目的ではなく、必要なのは貴也の父の一言だったらしい。新薬の発表をするなという、一言。シュウキョウジョウノリユウ、らしい。

「・・・腹減ったぁ・・・」
 冷たいコンクリートの床に右半身を下にしたまま、貴也は呟いた。冷たくてしんどくて、閑だ。
 おまけに、小学生とでも言うならまだしも、高校生になってこれとあっては、後で様々な人たちに何かと言われるのが目に見えている。
 ――からかわれるんだろーな―。
 呑気にそんなことを考えながら、貴也は溜息をついた。父親が条件を呑むとも思えないから、無事に帰れる保証は一切ないはずなのだが、貴也に危機感はない。
「・・・そろそろかな?」
 この倉庫に入れられてから半日ほど経った頃、貴也はそう呟いた。
 それに応じるかのように、野太い悲鳴が上がった。次いで、必死に走って来る足音。貴也は、思わず笑みをもらした。
「おいっ!」
 勢い良い良く開けられた扉と、必死の形相の男。もっとも、寝転がっている貴也には、想像でしかわからないのだが。
「お前、顕現者か?! この悪魔め!」
「おいおいおい、何だよそれ? ってか、何が起きてるわけ?」
「何がだとっ?! この化け物どもは貴様のせいだろ?!」
 男は、わざわざ貴也の目の前までやってきて怒鳴った。しかし貴也は、呑気そうに笑うだけだった。
「俺、眼鏡落ちてるからね。何か居るわけ?」
「何がだとっ・・・! この、異常者め!」
「あれ、あんたがそういうこと言うわけ? その「異常者」を「まとも」にするための薬の販売を、あんたは阻止しようとしてたんじゃねーの?」
「貴様!」
 今にも貴也の首を締めかねない勢いだった男が、不意に倒れてきた。貴也が、慌てて転がって押しつぶされることを回避する。
 鈍い音がして、男の体は真正面からコンクリートの床に衝突した。
 あー、こりゃ後で大変だわと思いながら、貴也は首を捻って顔を上げた。表情のない、女の姿が目に入る。
「真咲さん、もっと早く来れなかったの?」
「その前に、あなたが私から離れなければこんなことにはならなかったと思いますが?」
「・・・ロープ、解いてくれる?」
 真咲にロープを解いて――というよりは、ナイフで断ち切って――もらうと、貴也は約半日ぶりに体の自由を取り戻した。
 手足をさすると、跡が痛い。
 しかし真咲は、そんな貴也を気遣うでもなく地面に落ちた眼鏡を拾い上げ、貴也に差し出した。
「ああ。かけてほしい?」
「ふざけないでください。・・・辛いのは、判りますが・・・」
 はじめて、真咲は表情らしきものを浮かべた。辛そうに、わずかに眉を持ち上げる。
 貴也は、軽く方をすくめて眼鏡を受け取った。眼鏡をかける。――途端に、視界がより明瞭になり、様々なものが見える。
「消えた?」
「・・・はい」
「そ。じゃあ、行こうか。新薬の発表は? もう終わった?」
「はい。ですが、まだあなたの説明を待って、解散はしていません」
「待たなくていいのに」
 苦笑して、貴也は立ち上がった。長時間の拘束に一度足をふらつかせたが、それだけだった。

 ミゾクチ製薬が開発した薬は、近年突発的に出現した「顕現者」の能力抑制を行うものだった。
 「顕現者」は、個人差はあるものの、突然奇妙なもの――例えば、阿波踊りをするシロナガスクジラ――が見え、その状態で放置しておくとやがて、それが他の人々も見える状態になる――顕現してしまう。
 対処法はないと見られていたが、この度ミゾクチ製薬が開発した薬は見事にそれを抑制した。
 それに、薬を服用することを神から授かった体に対する冒涜と見る団体が反対し、ミゾクチ製薬社長の息子であり、高校生にして薬品開発者の溝口貴也を誘拐する今回の事件に発展した・・・と、されている。
 実際には他製薬会社の思惑があるのだろう。

「真咲さん、食事に行こう? 何が食べたい?」
 記者団に対する説明を終えてから、貴也は後ろにひっそりと控えている真崎を振り返った。袖口が縛られて鬱血している部分に触れて痛いので、ワイシャツのボタンを外しながらのことだった。
「・・・いちいち私に訊かなくても、あなたが行くところにご一緒します」
「駄目だよ、真咲さん」
 やはり表情を変えもしない真咲に、貴也は笑みを向けた。貴也は、眼鏡をかけているときの方が印象が柔らかかった。
「この薬のおかげで金一封も出たしね。なんでも好きなものをおごってやる、って上司の気分なの、今」
 さらりと言ってのける。
 今回の新薬は、商品化に向けた研究から出てきたものではなかった。言うなれば、会社の研究施設を私設化した上での副産物だったのだ。
 貴也は「顕現者」だが、一般的なそれとは多分に異なる。
 ほとんどの「顕現者」がいつ何が見えるようになるか判らないのに対して、貴也の場合は、眼鏡をかけているときはいつでも見えるのだ。眼鏡を外すと見えなくなるが、代わりに半日ほど放置した時点で、それまで貴也に見えていたものが顕現する。
 それをどうにかするための研究であり、飽くまで副産物だったのだ。
「ホントに、なんでもおごるよ?」
 疲れているはずなのにそうとは見せず、貴也は言う。
 真咲は、覚悟を決めた。
「そうですね。でしたら――」

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常識と日常と

 
2003/8/25

「お袋がさー、昨日また皿割っちゃってさー」
「ふーん」
「何枚目だっての。親父も兄貴たちもお袋には甘いからさー、もう野放し」
「へえ」
「昨日の皿はいいかげん高いやつだったから、修理屋呼んだんだ」
「ほお」
「それがまた美人でさー。兄貴たちが見惚れちゃってもう大変。でも本人は、お袋に説教してあっさり修理だけして帰っちゃったけどね」
「あの兄さんたちが? それは凄いな」
「だろ? あ、でも俺は美人だとは思ったけどでれっとなんかしなかったから。なんたって俺の将来の夢はユウのお婿さん・・・」
 繰り出された拳を、平然と紙一重でかわし、広樹はにっこりと笑った。
「で、そこの刀みたいのは何?」
「っ! てめえ、そういう突っ込みはさっさとするかしないかどっちかにしろっつってんだろっ!」
 由利の怒鳴り声が響き渡るが、誰もそちらを見ようとはしなかった。触らぬ神には祟りなし、である。

 広樹と由利は、何の因果か幼馴染というものをやっている。保育園で、向かいの席に座って以来の縁だ。
 以来、広樹は何かと由利の傍につき、「お婿さんになる」と公言して憚らない。母親が某資産家と再婚し、様々なところで様々な変化があった後も、それは変わらなかった。
「ほらユウ、そうむくれないで。おいしいよこれ?」 
 差し出されたのは、素朴なカップケーキ。今度の文化祭でクラス出店する際のメニューの試作品だ。
 クラスメイトたちが忙しげに立ち動く中、二人はのんびりと机を挟んで向かい合って座っている。普通ならここで文句の一つも飛んでくるところだが、これはクラス公認の事態だった。
「・・・それよりお前、そのビラビラ、良く平気だな?」
「え、似合わない?」
 意外そうに、フリルのついたドレス・・・と呼びたくなるワンピースの裾を持ち上げる。かつらも被っていて、元々線の細い顔立ちをしているせいか、下手な女より女らしく見えるところが恐ろしい。あとは、これに手製の腕輪やヘアバンドがつくらしい。
 クラスの手先の器用な者が何人かがかりで作ったもので、今は附属の小道具を直しに走っている。広樹は、その為に汚してはならないし居場所がわからなくなるからそこにいろと、厳命されているのだ。
 広樹は、やや心配そうに由利を見やった。
「似合ってなくはないけど・・・てか、似合いすぎ。また男に告白されても知らないからな」
「ああ、それ? 別に、俺にはもうユウがいるし。大体、俺に喧嘩なんかで勝てる奴なんてそういないでしょ、ユウのおかげで」
「・・・だからなんでそれを、表に出さないんだよ」
「だって俺、ユウがわかってくれたらそれでいいもん」
 穏やかに笑う広樹を、由利は少しばかり複雑な思いで見た。
 広樹の母曰く、広樹は本当に自己主張のない子供だったらしい。これでやっていけるのかと、心配になったとも言う。それは今も変らず残り、今のように女装だろうが使い走りだろうが、平気でやるところがある。
 しかし由利に関する部分は譲らず、ありがとうと広樹の母から礼を言われたこともあるが、由利としては納得がいかない。何故自分なのか。
「俺のことはいいからさ。その刀は?」
「ああ――木刀なんだけど、見るか?」
 袱紗に入った木刀を出そうとして、由利は厭な感触を憶えた。木刀にしては、重い。堅い。何かが変わっている。
 恐る恐る覗き込んで――そんな必要はなく、ただ少し出せばいいだけなのだが――低く呻いた。中にあるのは、鉄の塊。
 由利の反応に、怪訝そうに広樹が顔を寄せる。由利は、投げやりに袱紗ごと刀――おそらくは、それなりに精密な模擬刀――を突き出した。反射的に、広樹がそれを受け取る。
「何これ?」
「何って、刀、だろ」
「木刀って言わなかった?」
「言ったし、朝には木刀だった。ついでに言うと、今朝まで木刀なんてものは部屋のどこにもなかった。買った覚えもない、なのに財布から金が減ってるのは不条理だと――!」
 慌ててかばんを探って財布を探し当てると、中を見て再び呻いた。残金、四円也。
「あららら」
 呑気な声をだした広樹の顔を思わず睨みつけるが、彼に何の責任もないことは判りきっている。
「えーっと。つまりこれ、勝手に現れて、しかもユウの財布からはその代金と思われる金額が消えてるってこと?」
 幼馴染は、由利が言っていないことまで推測してまとめると、「押し売りより厄介だねえ」といって、何故か嘆息した。
 由利は、げんなりと肯く。
「まあ、クレジットカードとか作ってなくて良かったね、ってとこじゃない? 作ってたらさ、途方もない額のお金が引き出されて、どこの道楽者が買うんだよ、ってな刀が来てたよ、きっと」
「・・・まあな」
「まだ良かったね。じゃあ、今日の昼は俺がおごるよ」
「いいよ。貸してくれたら、返す」
「そ?」
 そうして、やはり広樹は、穏やかな笑みを浮かべるのだった。
 この二人は、これくらいでは驚かない。既に、幼少時からの免疫がある。一般常識で考えられない事態が頻発すれば、それはもう、ある種の常識なのだ。
「でもあれだね。学校の兎がパンダに変わったよりはましかな」
「いや、金魚がうち泳いでたときよりまし程度」
「ああ、あれ。片付けが大変だったねえ」
 ほのぼのと会話をする二人。
 しかも、由利の怪奇現象ぶりは周知のものであり、危険事態にも自力で解決するべく、武術や裁縫や応急処置やと、様々なものを習いつけ、いつも傍らにいることを望んだ広樹も、由利と同じくらいかそれ以上のものを身につけている。
 ある意味で、プロフェッショナルな二人であった。
「ユウー、木が切れないーっ」
 所在を明確にしろと言い渡され、仕事をしていないときにはこうして判りやすい場所にいる。
 由利は、面倒げに、しかし即座に立ち上がった。
「あ―。ハイハイ、・・・つか、教室で大工作業するなってのに。じゃ」
「うん。あ、これ預かっとこうか?」
「よろしく」
 これも、日常であった

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