夜明けの晩
かごめ かごめ
かごのなかの とりは
いつ いつ であう
よあけの ばんに
つると かめが すべった
うしろのしょうめん だあれ
◆ ◇ ◆
夜の闇を、歌声が伝っていく。
澄んだ歌声は、しかし何故か、聞いた者の不安を駆り立てた。
そして、歌声が聞かれるようになって以来、行方不明者が増加していた。
◆ ◇ ◆
「雨が降ってきましたよ。早く帰らないと、ずぶ濡れになるんじゃないですか?」
少年は、闇夜の広がる窓の外に眼を向けたまま、気の無い風に言った。
実際、窓ガラスを大粒の雨が叩いている。昼間は青空が広がっていたと云うのに、夕暮れとともに集まった雨雲は、今や重みに絶え切れずに雫を落としている。通り雨のような激しさだった。
少年の手が、正しく締められた藍色のネクタイの端を玩[もてあそ]ぶ。
「傘をお貸ししましょうか。何なら、返さなくても良い」
むっつりと黙り込んで来客用のソファーに身を沈める男の姿が映った窓ガラスに向かって、少年は深深と溜息をついた。
ネクタイから手を離し、代わりかのように冷たい窓枠に触れる。
「あのねえ。もうこんな時間ですよ。家には帰らなくて良いんですか。それともまさか、ここに泊まるつもりですか?」
「お前が素直に話せば、すぐにでも帰ってやる」
「だからそれは、何度も話したでしょう? それ以上のことなんて知りませんよ」
呆れたように男を振り返って、少年は溜息をついた。
しかし男は、睨みつけるようにして少年を見ている。そして、低く通る声で一言。
「そんなはずがない」
少年は、それに肩を竦めて応じた。
そうして欧州風の書斎机の上の白磁のティーカップに手を伸ばし、冷え切っているのに気付いて元に戻す。冬にはまだ間があるが、雨が降れば相当に冷える。
軽く溜息をつくと、少年は、顔を上げて部屋の隅にひっそりと佇んでいる青年に目を向けた。
「響[ヒビキ]、紅茶を淹れてくれ。それと、夕食だ」
あと四時間もすれば日付が変わる。
少年は、ちらりと男を見やった。
「ぼくの分と君と、こちらの刑事さんの分を。頼む」
「俺は要らん」
「曲がりなりにも客人を差し置いて食事をするのは、ぼくが厭なんです。食べたくなければ勝手にそうしてください」
反論しかける男を気にも止めず、青年は少年に一礼すると、静かに部屋を出ていった。
◆ ◇ ◆
羽山成皓[ハヤマナリ コウ]は、線の細い容姿には不似合いに、年齢を考えれば相応に、食欲を発揮した。
具だくさんのシチューに食べ応えのあるフランスパン、瑞々しいサラダに柔らかいプレーンオムレツ、白身魚のフライ。デザートのアイスを添えた温かいアップルパイに至るまで、残さずきれいに平らげた。
一方の梨木建造[ナシキ ケンゾウ]は、食事には一切手をつけずにいた。もっとも、それが痩せ我慢なのは腹の音からも判る。
このご時世、いくら経済が急成長しつつあるとはいえ、これだけの食材を普段の食事で用意するなどと、梨木には信じられない贅沢だった。
皓の食器は下げられ、湯気の上がるティーカップを、指先を暖めるように抱えて寛いでいる。響は、ひっそりとその後ろに控えていた。
そんな様子まで怪しいと勘繰るのは、僻[ひが]みだろうかと梨木は自問した。
最近この付近では失踪事件が多発しているのだが、梨木は皓が何らかの形でそれに関わっていると睨んでいる。下手をすれば、犯人かもしれないとすら思っていた。
皓は、最後に失踪者といるところを多く目撃されているのだ。そこに共通点――例えば、同じ学校に通っているとか同じところに勤めていると云ったものがあればここまで不自然ではないかもしれないが、そうではない。
むしろ、皓と会っていたというのが共通点ではないかと梨木は見ている。一度本人にそう仄めかしたところ、「どうしてそれで、ぼくの方が狙われていると云う発想にならないんです?」と、呆れたように訊き返された。
同僚や上司たちも梨木とは別意見らしく、それどころか、元華族で辿れば皇族にさえ連なる羽山成家を無闇に刺激するなと、釘を刺される始末。戦争に負けても何も変わっていないと、つい愚痴りたくなる。
そして、そんな「羽山成」も、梨木が疑う根拠の一角を成していた。
皓は、羽山成の若く病弱な当主が死んだ途端に姿を現した。紅子[ベニコ]という少女――前党首の双子の兄と名乗り、少年はこの洋館を訪れた。
当然、目の前から巨万の富を掻っ攫っていった皓に対して親族たちは厳しく当たり、荒探しにかかった。例え出自が本当だとしても、何とか引きずり落とそうと意気込んでいた。
しかしそれもある日を境にぱたりと止み、今ではこの二十歳にも満たない少年が羽山成を統括しているのだった。
突然に、皓は大きく息を吐いた。
整った顔を睨みつけたまま、半ば己の考えに埋没していた梨木は、そこで我に返った。途端に、まだ目の前に並べられている料理の匂いを感じ、雨音とどこかから聞こえる歌声が耳に入った。
「刑事さん、あなたは間が悪い。いや、そういう性分と言うべきでしょうね。よりにもよって今日来るとは」
「何?」
苦笑するような少年を訝しげに見たまま、梨木は背筋が毛羽立つのを感じた。どうしようもなく、後ろを振り返りたい衝動に駆られる。
「怖いでしょう? あなたは、相容れない人のようですから」
思わず立ち上がると、いつの間にか近くには、響が立っていた。
響は、皓が連れてきた青年だった。まだ二十代後半のはずなのだが、やけに落ち着いていて生気というものを感じさせない。
長身と無個性に整った無表情な顔が、梨木を威圧した。歌声が、心なし近付いたようだった。
梨木は、二人から逃れるようにして後ずさった。しかし、目は皓から逸らせずにいる。
「お、お前ら・・・何、何だ・・・・」
「ファウスト博士とメフィストフェレス、と言うと解り易いでしょうね」
もちろん梨木はそれが何のことか知らず、皓もそうであることを知っていた。
そして梨木は、何故か力が抜けて足から崩れ落ちながら、この歌を知っている、と思った。
さっきから聞こえていた、澄んだ歌声。
――かごめ かごめ
そんな、歌い出しでは無かっただろうか。
ゆっくりと、梨木は自分の意識を手放していた。真っ暗だと、最後に思ったのを覚えている。
◆ ◇ ◆
ある地方では、子供たちが周囲を回ることで中心に居る者を催眠状態にして神を下ろす風習があった。
終わりの無い円形を描き、回る行為は、異界への扉を開く行為でもあった。
◆ ◇ ◆
「やあ、いらっしゃい。直接会うのは初めてだね」
そう言って、皓はにこやかに出迎えた。むしろ、その傍らに立つ響の方が緊張している。
まだ八つほどの少女は、真っ直ぐに皓を見据えた。
色素が薄く細くて癖の無い髪に、同じく色素の薄い瞳。家の中にも関わらず、黒いズボンに白のシャツは第一ボタンまできっちりと止め、ネクタイまで締めている。線の細い少年。
それが、少女の漆黒の瞳に映る皓だった。
「座るかい?」
そこに、意識を失っている梨木が横たわっていることを知りながら、皓は来客用のソファーを示した。
少女はそれには応えず、じいっと皓と響を見詰めた。この部屋に入る前から歌声は止み、口は真横に引き結ばれている。
不意に、その唇が開かれた。
「あなたは誰?」
「ぼくは皓。こっちは響。君は?」
「・・・あなたは、何?」
会話を成す気が無い、あるいはその能力の無い少女に問われ、皓は小さく笑った。少し前であれば、この問いに迷っただろう。
「自己紹介はこの辺にしておこう。君が連れ去った人たちを返してここから去れば、ぼくは何を言うつもりもない。さあ、どうする?」
やはり笑顔でそう告げても、少女はぼうっと皓を見ていた。
雨音が強く響く。
「似てる」
「え?」
思わず聞き返した皓に応じずに、少女は、外で降る雨にも似た大粒の涙を零した。
◆ ◇ ◆
皓は一人、室内から尽きることなく落ちてくる雨を見上げていた。
ふと思いついて、窓枠に手をかける。落とし金を上げて外に窓を押すと、軋みながらも簡単に開いた。
雨に手を伸ばす。ひんやりとした空気よりも更に、雨は冷たかった。
「風邪を引く」
気配もなく背後に立った響に動じることもなく、皓は、室内に戻そうと伸ばされた手をやんわりと払った。
「大丈夫。響がそうしてくれたんじゃないか。――わかった。わかったから。拭くものを」
無言で訴えかける響に、皓は降参とでも言うように手を上げて、体ごと振り向く。響がすかさずタオルを渡し、窓を閉めた。
皓は、手を拭うと椅子に座って、無表情のままに見下ろす響ににっこりと笑いかけた。
「刑事さんたち、送ってくれたんだね? あの子は?」
「奥の部屋を整えた」
「そう。ありがとう」
失踪事件の原因となった少女は、今までのことを全て語り、今は眠っている。
一人で連れ去った人々を出すことは出来なかったが、響が協力することでそれは解決した。気を失っていたのを幸いと、響に気絶したままの梨木と共に警察署の無人の一角に届けさせた。
明日の朝には大騒ぎになるだろうが、それよりも問題なのは、少女の方だった。
少女は、ただ寂しかったのだ。何故生まれたのか、どうしてここに居るのかも解らないままに一人ぼっちで、ただ歌っていた。それが同じように寂しい思いを抱えていた人々を引き寄せ、消してしまったのは少女の意思によるものではなかった。
そのうち、少女は気付いたのだ。自分と同じ「異質なモノ」の気配に。
それからは、皓――正確には、響――を追ってこの屋敷に辿り着いた。
「あれをどうするつもりだ?」
他者の前では主人に対するように振る舞い、誰がいなくとも皓の命じることに従う響は、淡々と問いを口にした。
皓は、浮かべていた微笑を消し、どこか遠くを見るように視線を上げた。
「ねえ響。きっとぼくは、響に出会っていなければあの子について行っただろう。知っていても、きっと」
「コウ?」
「ぼくは響に出会った。そのことに、とても感謝している」
「俺は――」
いつか、お前を殺すものだ。
響は、薄色の瞳に見詰められ、何故か言えないままに口を閉じた。それでも、皓が続きを知っていることも知っていた。
くすりと、皓が笑った。
「響のおかげでぼくは自由を手に入れた」
指を組んで、そこに顎を乗せる。
「『ファウスト』を読んでいて、思ったんだ。メフィストフェレスはなんて優しいんだろう、とね。あそこまで破格の条件を出す必要は無かっただろうと、ぼくは思うんだ」
悪魔と契約をして、若さや力を手に入れたファウスト博士。散々メフィストフェレスを使っておいて最後には天国に逃れるなんて、なんて卑怯なのだろうと、思った。
「ぼくは逃げたりしないから、安心して良いよ」
男から女に、病巣だらけだった体から健康に。その上、響は誠実に付き従う。
自分の魂にそこまでの価値は無いと思いながらも、皓――紅子は契約を交わした。魂と引き換えに、自由を。
そこまで考えて、皓は苦笑して響を振り仰いだ。
「悪いね。どうせ従うなら、絶世の美女の方が良かっただろうに」
「いや・・・俺たちが見るのは、魂だ。問題は中身だ」
「ふうん」
小さく首を傾げて、皓はカップを手に取った。中身はやはり冷えてしまっているが、躊躇うことなく飲み干す。
コップを置く音が意外に響いて、皓は方眉を上げた。
「とりあえず、あの子は出来る限り保護したいと思っている。保護者という役どころをやってみたいとも思っていたしね。名前を考えなければな」
皓の楽しむ口振りに、響は軽い既視感を憶えた。
はじめて出会ったときも、こうだった。契約を交わし、響を「響」と名付け、自らを「コウ」と名付けたときも。
「――夜明けの晩に 鶴と亀が滑った」
気付くと口ずさんでいた皓を、響は黙って眺めた。
白く光る、脆そうな硬質の魂。その持ち主が、今の彼の主人だった。
「後ろの正面 だあれ」
夜は、深々と更けて行く。
話置場 中表紙