「死に急ぎたいなら、ご自由に。止めやしませんよ」
まだ幼い子供の声。
挑発ととれないこともないが、あまりに素っ気も感心もなく、エル・クライス=リッテンハイムは、逆に冷静さが戻った。腹立たしいことこの上ないが、実際、下手に動き回ると危険だとの判断がつくほどには、理性が戻った。
そこでエルは、くるりと振り返った。
そこには、入り口を塞いだ土砂と、その土砂で右足首を捻り、記憶までも失った十歳前後の少年がいる。
「なんとかならないのか、記憶は」
「なんとかって、何ですか。僕自身の意志で記憶の欠損がどうにかなれば、こんなところで貴方と二人きりで思案に暮れることなんてありません」
「・・・ッ」
そうだった。こんな調子だったから、思わず背を向けたのだった。
思い出して、エルは忌々しげに息を吐き出した。
地下迷宮に、こんな少年と閉じ込められるとは。おまけに、出口を知るのは、その記憶の失われた少年だというのだからどうしようもない。
「まあ、思い出すのが先か、召使い達が発見して土砂を取り除くのが先かと行ったところでしょう。いくらなんでも、主人がいないまま園遊会が終わるということは考え難いと思いますよ」
「主人? 君は、その年でこんな屋敷の主人なのか?」
「どうでもいいけど、突っ立っているだけなら、ハンカチでも貸してもらえませんか」
一瞬、驚き、大変だろうといささか同情したが、やはり腹が立つ。
しかし、だからといって断わるほど大人げのないこともなく、ポケットを探って渡す。何をするのかと見ていると、石を包んで、捻った右の足首に当てている。
「・・・それは、何をしているんだ?」
「冷やしてるんです」
冷やすなら水だろうと思ったが、口にはしなかった。ここに水はないのだし、そういう以上冷たいのだろうと思ったのだ。
天然石の壁により掛かって、エルはそっと溜息をついた。
目をつぶると、ひんやりとした石壁の感覚が際立った。ああ本当に、石は冷たいのだと、感じる。
「君は――」
「人声がする。誰か、気付いたようですね」
「・・・記憶がないのに、随分と落ち着いているんだな」
「全て忘れたわけではありませんから。むしろ、貴方の方がよほどおめでたい」
「何?」
くすりと笑った様が、やけに堂に入っている。妙に大人びていて、何か、怒り損ねた。
そこでふと、エルは、名前を聞いていなかったことに気付いた。そういえば――この子のことを、何も知らない。
急に、背筋が冷たくなった。
人の声は、次第にはっきりと聞こえるようになってきた。どうやら、土砂を取り崩すことに成功しているらしい。
「いくら暗くたって、光は射し込んでるんだから。こんなお屋敷の主人が着るには粗末な服だって、気付いてもよさそうなものなのに」
「それじゃあ――君は――」
「旦那様ァ!」
土砂の壁だったものには、穴が空いていた。それまでとは比べものにならない量の光が射し込む。下男の人影がそこに浮かび上がり、エルは呆然とした。
「僕は・・・」
「危ない!」
「少年」の声に反応することもできず、エルの意識は、深い闇へと沈んでいった。
意識が戻ってまず目に入ったのは、天上界の描かれた天蓋だった。
周囲を見回しても誰もおらず、エルは、頼りなくふらつく足と手当はされているが痛む頭を叱咤して、どうにか戸口に辿り着いた。壁にすがりついていなければ、倒れそうだった。
「おおい、誰か」
始めは掠れていた声も、繰り返すうちに段々と調子を取り戻す。一番に駆けつけてきたのは、幼年時から世話になっている家令だった。
「お呼びでございましょうか、旦那様」
「あの子はどこだ。すぐに連れてきてくれ。――いや、足を挫いていたな。僕が行こう。どこだ?」
「あの子と申しますと?」
しわとひげであまり表情の読み取れない老人を睨み付けて、エルは思わず怒鳴りつけた。
「僕の娘だ! 地下で一緒に閉じ込められていた! あの子をどこにやった!?」
気の立っているエルに、老人は、ちらと眉を上げた。
「ようやく関心を持たれましたか。サラ、カーター嬢をこちらへお連れしなさい。旦那様、どうぞ部屋の中でお待ちください」
「僕が行くと――」
「自力で立つこともできない、みっともない姿をさらしたいというのであれば、ご自由に。止めはしません」
「・・・あれはお前の影響か」
溜息をついて渋々と、エルは部屋に戻った。椅子を引いて、それに腰掛ける。
待たされたのはほんの数分で、エルの待たせた数日間よりも遙かに短いというのに、とてつもなく長く、もどかしかった。
そうして少女が姿を現わすと、エルは早々に、口うるさい家令たちを閉め出した。少女にも椅子を勧める。
「――すまなかった」
「記憶は戻ったんですね。それは良かった」
地下迷宮のときと変わらない、冷ややかな反応に、エルはうなだれて頭を下げた。
「怒るのはわかる。本当に、すまなかった。・・・キャシーは元気かい?」
母親譲りの蜜色の髪と、父親譲りの緑色の眼をした少女は、汚れた男装のままだった。冷たく見上げられて、エルは、もう少しで目を逸らすところだった。
十四歳のこの少女は見るからに自分とキャロライン・カーターの子供で、その二人を放置した責は、ほとんどが――父の無言の圧力に屈した自分にあるのだ。この数日、会いに来た娘を避けて、迷い込んだ地下迷宮で事故に巻き込んだものまで、全て。
いつまでも、その呪縛を断ち切れなかった自分に。
「元気ですよ。貴方と会ったときくらいには。そうでなければ、僕がここにいるはずがないでしょう。母は、僕を愛してくれています」
「母は」という言葉に胸を突かれたが、エルはすぐに、顔色を変えて立ち上がった。まだふらつきながらも戸を開けて、待ち構えていた家令たちに指示を出す。
エルが少女の母親と出会ったとき、キャロラインは身売りをしようとしていた。貴族に名を連ねてはいたものの、それほどに生活が逼迫していたのだ。酷く痩せて、辛そうだった。
指示を出してしまうと当面やることはなく、再び椅子に腰掛けたエルは、頭を抱え込んだ。
「ああ・・・本当に、僕はなんてバカだったんだろう」
「全くです」
冷たく言い切って、だが少女は、軽く肩をすくめた。
「だけど、母もバカです。未だに貴方を信じているんだから。馬鹿同士なら、どうにかなるでしょう」
「・・・君は、怒らないのか・・・?」
「諦めました。片親だけならともかく、両親ともにバカなら、これは仕方がないでしょう。それに、まあ――」
そこで、少女は照れたように口ごもった。
「貴方が記憶喪失になったのは、僕を庇ったからだから仕方ないかと・・・ああ、やっぱり僕もバカ――何するんですか!!」
思わず抱きしめると、少女は真っ赤になった。しかしエルは、幸せに笑って、絶対に手を離そうとはしなかった。
「過去が消せるとは思わない。僕は、君たちにどんなに謝っても償えないことをしてきた。でも、どうかお願いだ。一緒に、ここからやり直していってくれないか」
「――うん。・・・・・・お父さん・・・」
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