「お父さん、あと何日くらい?」
「うーん。この調子なら、五日ってとこかな」
リューシュは、枯れ枝を焚火に投げ込んだ。五日かあと呟いて、草の上に仰向けに倒れる。生い茂った木々の間からは、辛うじて星空が見える。
「なんだ、疲れたか?」
「ううん」
日にやけたジェインの顔がほころんでいるだろうことは、見なくても判った。優しい父は厳しいときもあるが、概ね親ばかだ、と思う。リューシュにとってそれは、父を嫌う要素には成り得なかった。苦笑はするが、父のことは大好きだ。
二人は、各地を回って商いをしている。放浪しつつ暮らしていければ充分なので、商う規模は小さい。何年もこんな暮らしをしているので、旅の話を心待ちにしていてもてなしてくれるところも少なくない。母はリューシュが生まれてすぐに亡くなっていたが、それをひっくるめても、リューシュは今の生活が気に入っていた。
深い森だろうと険しい山だろうと何もない砂漠だろうと、辛くなどない。知識の豊富な父の話を聞いたり周りのものを見ていれば、街中でなくても充分に楽しい。
ジェインにそう言おうかとも思ったが、照れくさくなってやめた。
「次の街って、リューネばあちゃんがいる所だよね」
「ああ。まだ元気にやってるって話だ。楽しみだな、夜語り」
「うん。俺、厄災の獣の話が好きだな」
「そいつは渋いな」
リューネという老婆に、リューシュは気にいられている。リューシュもリューネによくなついていて、街に寄ると必ず、リューネに暖炉の近くで色々な話を聞かせてもらうのが恒例になっていた。ジェインも、それにどうにか入れてもらって「でかい子供だねえ」と、怖い顔をしたリューネに笑われている。
厄災の獣というのも、そのときに聞かせてもらった話だ。
厄災の獣は、想像の産物ではない。実際に存在している。物理的・時間的な「距離」を喰う獣であり、稀に剥製の姿を目にしたりもする。
リューネが話してくれたのは、この獣の誕生の話だった。神の生まれた頃の話だ。
「お父さんは会ったことあるの?」
「ああ。見事なたてがみをしていた。そんなかおするなよ、距離に倦んでなかったら何もしないから」
「お父さん」
「ん?」
「――なんでもない。おやすみ」
「おやすみ」
荷からぼろをとり、体に巻いて寝る。少し蒸し暑いが、こうしなければ虫刺されだらけになってしまう。リューシュは、横になってもすぐには眠らず、しばらくはぼうっと炎を眺めていた。
獣に喰われた「距離」はどうなるのだろうと、リューシュは思った。喰われた人がどうなるかは聞いたことがある。一定区間を絶対に通れなくなる。その人にとってその区間は、存在しないも同然になるのだ。無理に行こうとしても、気付くと通りすぎている。リューネの話に依れば、獣が「距離」を喰うのは罰であり、食うたびに悲しみ、苦しむ。
父はその行方を知っているだろうか、と思った。
リューシュが目覚めたとき、まだ夜は空けていなかった。
何故目が覚めたのだろうと、体を起こし掛けて目をみはった。焚火の向こう、父の傍らにそれは立っていた。炎を反射する、白い毛皮とたてがみ。長い耳と細いしっぽ、大きな口と鋭い牙。厄災の獣。
お父さん、と叫ぼうとして、声が出ないことを知った。体が、何一つ言うことを聞かなかった。
そこに、男が現れた。助かった、と安堵する。だがジェインはそうは思わなかったようだった。
「まだこんなことをしてるのか」
「――ジェイン・ケラルドか。へえぇ、なつかしいなあ。今は子守りでもやってるのか? あぁ?」
「また金持ち連中に売るのか、シラスからトリアまでを喰われて懲りたんじゃなかったのか」
「はっ。やめてどうなる? のたれ死ぬのがおちだ。俺はお前ほど利口じゃねぇからなあ。それとも何か、俺に金でもめぐんでくれるのか?」
「生憎、犬にくれてやる金はない。やったところで使い方が判らないだろう」
リューシュは、これほどに厳しい父の声は聞いたことがなかった。人の家の物を壊したまま黙っていたときも酷く怒られたが、その比ではない。さっきまでとは違った意味で、リューシュは動けなかった。
一方ジェインは、悠然とあぐらをかいていた。相対する男が、卑屈そうにすら見える。
「――貴様!」
「反応が遅いな。前よりも頭が悪くなったか?」
「なっ――」
抜き身の剣を使う間もなく、男は倒れた。ジェインが鳩尾を殴ったのだ。崩れ落ちた男の体を抱きかかえる父の表情は、見えなかった。
「リューシュ。起きてるんだろ」
男を近くの木の根元に寝かせて、ジェインはリューシュを振り返った。その言葉にようやく、動きを取り戻す。
だが安心したのも束の間で、災厄の獣が、まだ焚火の側に立っているのに気付いた。父は、そこに無造作に近付いていく。
「お父さん!」
「ん? ああ、心配するな」
息子の切羽詰った声に苦笑する。白い獣は、ジェインを観察するように見ていた。よほど、さっきの男よりも威厳というものがある。
白い毛皮が血に濡れているのを見取って、ジェインは荷を引き寄せた。獣には頓着していないように、平気で背を向ける。リューシュは、気が気ではなかった。だが下手に動いて、獣を刺激してしまってはまずい。そのままにしておくしかなかった。
――大丈夫。あのお父さんがそう言ったんだ。
「ほら、怪我してるところ出せ。――うわ、こりゃ酷い」
父の言葉を理解しているかのように傷口を見せる獣を、リューシュは不思議な気持ちで見ていた。そして、ジェインが、白い獣を友人にするように対等に扱っていることに気付く。
「リューシュ、こっちくるか? ちゃんとしてりゃ噛み付きゃしないって。なあ?」
獣が、漆黒の瞳を向ける、リューシュは、緊張しながら足を動かした。手と足が一緒に出てるぞ、と父に笑われた。
手当てされ、左の前足に包帯を巻かれた白い獣は、リューシュには大きかった。下手をすると、自分よりも大きいかもしれない。ただただ目を見開いてみていると、獣の方から身を寄せてきた。
「うわあ・・・」
あたたかくて、長く白い毛が気持ちいい。つい、今まで散々聞いた「悪評」も忘れて、両腕で抱きしめる。日の当たる草原のように、お日様の匂いがした。
しばらくそうしていたが、やがて、白い獣は去っていった。
「大きかったね・・・」
「一年もすれば、お前の方が大きくなるさ。育ち盛りだからな。俺だって、そのうち抜かされるかもしれない」
「ねえ、お父さん」
「ん?」
一瞬、男の転がっている方に目をやる。移動させる時に何かしたのか、一向に起きる気配はなかった。
「・・・食べられた『距離』はどうなるの?」
しばらく考え込んだあと、ジェインはさあなあ、と言った。
「俺より、リューネさんに聞いた方がいいかもな」
ジェインは、向かい側からぼろを拾ってくると、リューネに被せた。そして、自分にもたれさせる。こうやって眠るのは、久しぶりだった。
「でもな、一つ覚えとけ。『距離』を喰われた奴は、それ相応のことをしてるんだ」
うん、とリューシュは夢うつつで応えた。心地よい眠気に、意識がとけていく。俺だって本当なら、と父が言った気がした。
リューネは、あの白い獣の腹の中にも「距離」は入っていたのだろうかと、考えるでもなく考えていた。夢の中で、「距離」は沢山集まって、不思議な世界を創り出していた。
空では星が、白く輝いていた。
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