とばり

 天井には、灯りのない裸電球がひとつ。暮れかけの最後の残光が、部屋を斜めに横切っている。

 仰向けのまま手を持ち上げて、その掌を見る。包帯にくまなく包まれた手は、昔話の怪物みたいだった。でも、まだ動く。ひどくゆっくりしか動かず、鈍い痛みを伴ってはいるが。

「質素な地獄・・・な、わけないか」

「勝手に人んちを地獄にするなよ」

 頭の上から声がして、三十歳ほどの男の顔が目に入った。白っぽいような金髪を後ろで束ねた、軽そうな、それでいてどこか芯のありそうな――男。

「お前なあ、わかってんのか? こんなとこ素肌で帽子もなしなんて、本当にあの世行きだぞ? リルレイのやつら見習ってしょっちゅう泥塗りたくるとか布かぶっとくとかしないと。包帯、外すなよ。ひどい怪我してるんだから」

 ユエは、男から顔を背けた。耳も塞ぎたいくらいだが、手を動かすのは、ひどく億劫だった。向けた先には、夕暮れの砂地が広がっている。砂漠ではないが、木もない。そのうち砂漠になるのだろう。

 国境は越えられたのだろうかと、ユエは思った。今やほとんど意味を成していない区切りだが、ユエはこの国を出たかった。――どうでもいいと言えば、どうでもいいのだが。

「どうして助けたのよ」

 怪我の状態について長々と話していた男の声が、ぴたりと止む。

「死んでも良かったのに。助けてなんて、言った覚えない」

「あ、そ」

 男の立ち上がる気配がした。思わずそちらを見ると、すっかり夕闇に包まれ、影にしか見えなかった。――まるで、あの夜のように。意識せず、布団を握り締める。

 男は、笑うように口の端を持ち上げたようだった。体が強張る。だがユエの反応に反して、男の口から出たのは、からかうような軽い声だった。

「じゃ、メシいらねーな?」

「・・・勝手に助けたんだから、最後まで助けなさいよ」

 意思とは関係なく鳴る腹の音に、ユエは顔を赤くした。




 体が回復するまでの間、男――ジェインは、大雑把なのに不思議と行き届いた世話をしてくれた。

 ジェインによるとここは、国境の手前、西向きに出て五歩も歩けば国境を越える、という場所らしかった。いくら昔のように軍などが守っていない、意味もないようなものになっているとはいえ、よくやる。ユエは大いに呆れた。

「大体、こんなところで何やってるのよ?」

「こっち来てみて」

 ある日何気なく訊いてみると、嬉しそうに、ユエを手招いた。まだ十分には回復していないので、立ち上がろうとしてよろけるユエに、すかさずジェインが肩を抱くようにして支える。反射的に体を強張らせると、ごめん、と言って、改めて手を差し出す。ユエは、それにしがみつくようにして歩いた。

 ユエのいた部屋を一歩出ると、目の前に立派なカウンターがあった。

「・・・何、これ」

「店やってるんだ。客なんてほとんどないけど、商売やってて半年ごとに来る奴とか、ふらっと来てふらっと出てく奴とか、化け物の棲み家じゃないかっておっかなびっくり入ってくる奴とか。野菜育ててるから食べられるし他のものと交換もできるし酒は元から沢山あったしで、これくらいでもどうにか暮らしていけてる」

「野菜?」

「うん。キャベツとかほうれん草とか、ねぎに大根、トマトに・・・」

「こんなところでどうして、水が沢山要りそうなやつができるのよ」

 道理で粥に青野菜がふんだんに使われていたわけだと思いながらも、ユエは信じられない思いでいた。朽ちていくだけだと思っていた土地が、何かを育むとは。

 ジェインはユエの手を引き、カウンターを出て椅子に座らせた。

「地下水脈があるから、そのおかげだと思う。このままだとそのうち枯れるだろうけど・・・・その前に草でも木でも、増やせたらいいなってのが、俺のささやかな野望」

 子供みたいだと、ユエは思った、自分よりも年上なのに、その素直さにびっくりさせられる。微笑したユエを、ジェインは眩しそうに見ていた。

「どうかした?」

 視線に気づいたユエが問い掛けると、ジェインは慌てて首を振った。慌てた声で、「何か飲むか、ジュースでもカクテルでも水割りでも、何でもできるぞ」と言って、一人カウンターの中に戻る。じゃあカクテル、と言うと、慣れた手つきで酒と果汁を合わせた。

 出されたのは、オレンジがベースだった。

「キレイ。・・・私、お酒飲むの初めてだなあ」

「え、そうなのか。そんなに強くないから大丈夫だと思うけど・・・」

「おいしいよ。ありがとう」

 一口飲んで笑いかけると、やはり眩しそうに目を細める。そして、ゆっくりと深呼吸をした。ユエは、不思議そうに首を傾げた。

 ユエを、真正面から見る。

「あのさ、ここで・・・・・・・・俺と暮らしてくれないか?」

 一瞬で表情の消えたユエに、ジェインは慌てた。

「いやなら断っていいんだ、だからって追い出したりしない、体がちゃんと直るまでいればいいし、俺といるのが厭なら町に送って行くから、こればっかりは仕方ないから・・・・おい、大丈夫か」

 血の気が引くのを自覚しながら、ジェインの声にも応えず、ただ、ゆっくりと意識を手放した。

 椅子から落ちかけたユエの腕をどうにか掴んだジェインは、困惑した表情を浮かべた。倒れ際にユエの呟いた言葉が、不安を掻き立てた。

 ――もっと早く、会えてたら・・・・




 目を開けると、やはり裸電球がぶら下がっていた。電気は通っていないということなので、必要であれば夜間はろうそくをともしている。電球は、ただの飾りと化していた。

 サイドテーブルに載せたままだった自分の服に手を伸ばして、音を立てないように立ち上がる。夜陰に紛れて、出ていってしまおう。

 そのとき、灯りがともった。離れたテーブルの上で、ろうそくの炎が揺れる。表情のないジェインの顔が、意思の強い瞳を伴って照らし出される。 

「どこに行くんだ」

「・・・・・・ごめん」

「あてはあるのか?」

 躊躇ってから、小さく首を振る。でも、これ以上迷惑はかけられないから、と言う前に、ジェインがユエを真っ向から見た。

「じゃあ行かせられない」

「・・・関係ないじゃない。私のことなんて、ほっといてよ・・・!」

「最後まで助けろって言ったの、誰だよ。何か抱えてるなら、吐き出してみないか。言うだけならタダだし、それで気が楽になることもある。それとも俺じゃ、聞き役にもなれないか?」

「――――明かり、消してくれない?」

 それでなくても頼りなかった明かりが消える。

 静かだった。

 遠くに虫や動物の気配がし、声も聞こえる。闇の向こうには確かにジェインもいるのに、ひどく静かだった。

 ――私、強姦されたの。村のみんなに知られて、予見者に身篭ってるって言われた。

 ――いらない。そんな子供なんて。そんな私なんて要らない。

 予見者の言葉が必ずしも当たるわけではないということも、何の慰めにもならなくて。

 あのときの恐怖は、きっと一生忘れない。その後の村人や、家族の態度も、視線も、すべて。

 違う場所に行きたかった。誰も自分を知らないところ。死ぬのはまだ少し、怖かったから。

 ここでジェインに出会って眠っていたその願いは、求婚の言葉で目覚めた。より、死に近い形をもって。――自分の「穢れ」を、思い知らされる。

「俺、生まれてすぐに殺されかけたんだ」

 淡々とした声が、闇の奥から聞こえた。

「なんでか知らないけど、本当に生まれてすぐに、まだ体調も回復してないはずの母親に床に叩きつけられた。で、産婆が虫の息だった俺を引き取って、人売りに売ったんだ。そのときはたまたま買い手がなくて、気付いたら、人売りでも強盗でも殺人でも、なんでもするような奴らの中で子守りしてた。仲間になってた」

 そこで、間が空いた。ユエは何故か、ジェインが苦笑いしているような気がした。そしてとても――泣きたくなった。

「色々やった。地獄も見たし、多分、誰かに地獄を見せもした。でも、本当は許されないことなのかもしれないけど、俺はこうやって生きてて、ユエにも一緒に生きてほしいとか思ってる。生まれた瞬間にはもう存在を否定されてた奴がだぜ? ・・・お前や、その子供に生きてほしいって思うのは、わがままかもしれないけどさ。もう少し、いてくれないか? 俺の側じゃなくても、いいから・・・」

 ゆっくりと、ユエは立ち上がった。闇が横たわっているが、どうにか歩ける。

「ねえ。まだちゃんと、名前聞いてないよ。それ、私の名前にもなるんでしょ?」

 ユエは、よろめくようにしてジェインに抱きついた。    

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