(雨のせいだ。ぜんっぶ雨が悪いっ・・・)
路地裏で寒さと雨に震えながら、明里[アカリ]は今日何度目になるか判らない溜息をついた。
午前中よりも雨脚が強くなっている。夕方には止むとの予報だったが、本当だろうか。いや、例えそれが本当だったとしても、このままだと風邪を引いてしまう。鉛色よりも明るい空を、建物の隙間から見上げて、両腕で体を抱いたまままた溜息をつく。
全く今日は、朝からついていなかった。
朝、目が覚めてから起きるまでに二十分ほどの間があった。二度寝をしたというのではなく、寒くて布団から出られなかったのだ。
両親が旅行に出かけたために俄か一人暮しとなった身だが、たった数日で大きな変化があるわけもなく、明里の部屋は当然として、家の中は特に変化がない。ヒーターがあるわけではないので、暖まりたければ起きて石油ストーブに火を入れるしかなかった。
外からは、雨音が聞こえる。昨日から振り続く雨は天気予報が的中したことを知らせているが、これから出かける身としては全く嬉しくない。
(あー・・・ストーブに火入れても暖まんないよなー。電気ストーブのが早いか)
「うしっ」
ようやく布団を跳ね除けると、即座に身支度を整え、トースターで正月の残りの餅を焼く。電気ストーブのスイッチを入れ、醤油と黄粉を絡めて食べる傍ら、新聞を広げてテレビをつける。昼にも再放送のある、十五分しかないドラマを聞き流しながら、新聞を読む。
仕事の都合でほとんど帰ってこない姉には不評で、自分でも行儀が悪いとは思いつつ直らない習慣だ。そもそも、食べにくい。
ドラマが終わる五分前には餅を食べ終え、流しに皿を移動させてからテレビと電気ストーブ、電気を消して、ナイロン製の上着を羽織る。雨を考えて、この冬にいつも着ているコートはやめた。
「雨だー・・・」
鍵を閉めた玄関の戸を背に、傘を開く。明里の家は一戸建てで、別に車庫もある。そこに自転車を置いているのだ。駅まで、とばして三十分弱。雨となると、更にかかる上に服も濡れる。
わかってはいたが、気が重かった。
車庫で一旦傘を置き、かばんを袋に入れる。そうして出ようとして、空気が抜けていることに気づいた。何故か、穴もあいていないようなのに時々空気が抜ける自転車に溜息をつき、空気を入れた。
苦労して三十分近く自転車をこぎ、駐輪場に入ってから定期がないことに気付き、仕方なくお金を払ってこの家に戻ってきたのは、これから一時間ほど後のことである。
定期は、いつも着ているコ−トのポケットに入っていた。切符を買って大学まで行くというのも考えたが、定期があるのに、と思うと、貧乏性故にそれもできない。深深と溜息をついて引き返してきた。
(しゃーない。午後から行こう)
つい一時間ほど前に鍵を閉めたばかりの戸を開けて、家に入る。真っ先に行ったのは、ストーブに火を入れることだった。次いで、濡れた上着とズボン、靴下をその前に並べる。望みは薄いが、乾いてくれないかと。
それから適当に時間を過ごし、昼食を取ってからストーブを消す。ズボンはどうにかはける状態になったが、他は無理だったので、違う上着と靴下をはいて家を出る。
(あーあー。なんでよりにもよって、今日)
大学の講義は既に後期試験も終わり、自由登校とでもいうべきものになっている。最短で一時間、長くて数回の特別講義が行われるが、これは希望者のみなのだ。
ただ、今日の一限に明里が受けるはずだった講義は、三回連続の一回目で、しかも実技中心のため、今日を逃したら自動的に後の二回も出られなくなるという代物だった。
(・・・結構、楽しみにしてたんだけどなあ・・・・・)
車庫に行って、朝と同じようにかばんを袋に入れる。そして何気なく、タイヤの空気を確認した。朝に入れたばかりだから大丈夫だろう、と思ったのだが、後輪が・・・・見事に、空気が抜けている。
「嘘っ?!」
嘘でも冗談でもなく、抜けている。仕方なく空気を入れるが、嫌な予感がした。まさかこれ、原因不明の空気抜けじゃなくてパンクじゃなかろうかと、不吉な考えが頭を過る。
「こんにちは」
「・・・こんにちはー」
雨の中、配達にきた郵便局員と目が合い、少し引きつった笑顔で返す。多分、陰になってろくに見えてはいないだろうと思うが。
配達人が郵便受けに郵便物を入れに行っている間に空気を入れるが、やはりパンクしているようで、ある程度空気がたまると、入れた端から抜けていっている気がした。空気の抜ける音が聞こえるかと、タイヤに耳を近づけていると、局員が戻ってきた。
「空気入らないの?」
「はい、パンクしたみたいで」
「パンクしたのに乗ったらだめだよ。余計に穴があくから」
「はいー」
走り去る赤いバイクを見送って、明里は空気入れを片付けた。
(もう、いい)
自転車には乗れず、バスはいつ来るのか知らないが、多分間に合わないだろう。歩いたら、到底間に合うわけがない。
定期を忘れてなかったら、帰りが大変でも学校には行けたのに。多分そのときには雨は上がってただろうから、一時間かかろうと帰れたのに。そう考えて哀しくなるが、今更どうしようもない。溜息をついて、かばんを袋から出そうとして振り返り――動きを止めた。
(・・・今、何か変なもの、見えなかったか?)
一瞬視界に入っただだろうから、何かは判らなかった。ただ、強烈な印象がある。本の背表紙が並ぶ書架を歩いていて、見知った単語が目に飛び込んできたかのように。
そこで、周囲を見る。なるべくさっき見たところを見るようにして。
まず、車庫の中。単身赴任していた父の荷物が詰まれたそこは、車の入る余裕はなく、実際、車は車庫の外に置いていた。車庫の中は、いつものように雑然としてはいるが、特に引っかかるものはない。
ついで、雨の向こうに隣の家を透かし見て、いつもは父の車が置かれている路地。遠くにマンションとそのごみ置き場。向かいの家。その隣の草むらのような空き地。そして、明里の家。
「え」
一度首をぐるりと回してから、視線はごみ置き場、正確にはごみ置き場に立つ人とごみ袋に向かった。
傘ではなく半透明の合羽を着た人と、足元のごみ袋。ごみ袋からは、茶色っぽい髪と白い手が、出ていた。傍らに立つ人物は、どうにかそれを押し入れようとしているように見える。
「え・・・・?」
(あれって、あれって・・・人が入ってるみたいに見えるんだけど。いやでも。でもそんなことってある? 人? ごみ袋に?)
その瞬間、明里の脳裏を、今までに見たテレビドラマや推理小説の類が駆け抜けていった。そして、思わずあとずさりかけて、自転車に足をかけて、ひっくり返すとまではいかなくても、倒しかけて音を立ててしまった。
こっちを向くな、と思っても遅い。しっかりと、目が合った。
次の瞬間には、明里は走り出していた。ごみ捨て場とは逆方向に走り出し、自分が傘を持っていることに気付いたのはずいぶん後になってからだった。
そして今は、来たこともない路地裏の、どうにか雨をしのげる軒下に立っている。傘はたたんで隣に立てて。寒さに、両腕で自分を抱きしめる。いや、本当のところ、何か持っていなければ、震え出してしまうような気がするのだった。
(追いかけて、来たかな。どうなっただろう。・・・どうしよう。・・・・全部、雨のせいだ。雨さえ降らなかったら定期を忘れることはなくて、ちゃんと学校に行けたのに。雨さえ降らなかったら・・・)
落ち着こうと思うのだが、駄目だった。頭の中を、考えても仕方のないことばかりが回る。
「りゃ。和多[ワダ]さん?」
「・・・・え? あ」
明里より少し背が低く、長い癖っ毛を無理やり三編みにした少女が小首をかしげて目の前に立っていた。黄色の長靴に水色のレインコート、白い傘という格好は小学生のようだが、明里とは同い年で、確か誕生日もそう離れていなかったはずだ。中学を卒業して以来会っていなかったクラスメイトの、中原美空[ナカハラミソラ]だった。
「何してるの、こんなとこで?」
「中、原さん・・・?」
「うん。わっ、ど、どうした、何?」
こらえきれずに泣き出してしまった明里を前に、美空は大袈裟なほどに慌てた。レインコートの擦れる音と、美空が水溜りを踏み散らす音がする。
「うにゃー、泣かないでー、困るよー・・・」
心底困った声で言う。
だが、明里が落ち着いたころには、大きな目を更に大きく見開いて、驚いているようにも心配しているようにも見える不思議な表情で、明里を見上げた。頭の上では、白いかさがくるくると回されていた。
「今からお昼食べるんだけど、その間で良かったら話、聞くよ? 何にもならないかもしれないけど、話すだけでも、結構楽になれるもんだし」
「・・・いい?」
「うん。本当に、聞くだけになるかもしれないけどね」
美空が入ったのは、どこにでもあるファーストフード店だった。既に昼食を食べた明里はホットココアだけにした。
「髪と、手?」
「そう。ごみ袋から、見えてた」
セットメニューのハンバーガーをかじりながら、美空はまた、目を見開いた。それが癖なのだろうが、暗闇の中の瞳孔の広がった猫を連想させた。
「にゅー・・・・・。中原さん、まだ視力いいまま?」
「少しは落ちたけど、まだ両目1.0はある」
「いいなー、あたし、もう眼鏡いるんだよねー、実は」
コンタクトレンズもつけていないような眼で、美空はどこか遠くを見た。
真剣に怯えていたのだが、こうやっていると、気のせいだったような気もしてくる。美空の雰囲気というのではなく、暖房がかかった暖かい店内で、冷たい雨の降る外界と切り離されているような空間に落ち着いているせいだろう。
それでも、外に出た途端に恐れが襲ってくるのは目に見えていた。
「警察とか、行くべきかな・・・」
「んー。もう、ごみ持って行ってると思うよ?」
「え?」
「つまり、証拠がない」
ポテトを摘んで、それをぴしり、と擬音付でつきつける。
真剣に考えてくれているのだろうかと不安になるが、不思議と茶化しているような感じはしない。中学時代から、美空はどこか不思議な雰囲気があった。女子には珍しく、群れることはせず、かといって独りというわけでもなく。
「で、その人は見たことあったの? 近所の人?」
「・・・ううん、わからない。・・・近所の人の顔なんて知らないし、合羽のフード被ってたから、ちゃんと見えなかったし」
「にゅー。んじゃあ、三枝さんじゃなかった?とかって訊いても無駄だよねえ」
「サエグサ?」
紅茶とは別に注文したシェエイクのストローを咥えた格好で、まるでおもちゃの人形のように、美空は肯いた。
平日の昼とあって、店内は小学生未満の子供や主婦らしい女性客がほとんどだった。住宅街の中にあるということもあるだろう。他の店であれば、他に大学生や受験を控えてほとんど学校のない高校生もいただろう。
店内から浮くというほどではなく、他の客たちはそれぞれの会話に熱中しているようなので、明里は密かに安心した。
「学校の先輩なんだけど、確か中原さんの家の近くのマンションに住んでたと思うんだよね。大学からこっちに移ってきたんだけど」
ハンバーガーの、残りの一欠けらを口に放り込む。
「酔っ払うと、やたらいろんな物を持って帰っちゃうひとでねー。冗談じゃなくてほんとに、カーネルサンダーさんとかぺこちゃんとか、果ては背もたれに広告の載ったベンチとか、部屋にあるんだよ。で、時々こっそり捨ててるらしいからそれかな、って」
ハンバーガーの包みを丸めてポテトの入っていた空箱に放り込み、更に空になったシェイクのカップに入れる。紅茶も飲みほす。
「中原さん、一緒に来る? 今からサークルに行くんだけど、そこなら三枝さんに会えるよ。違ってたら、また別の方法考えよう」
トレイを一つにまとめて、二人は立ち上がった。
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