満開の桜の木の下には死体が埋まっている。

 そう言ったのは、梶井基次郎という作家らしい。匠がそのことを知ったのは、この言葉を聞いたずっと後のことだった。

 誰に聞いたのか、いつ聞いたのか、全く覚えていない。読んだことも無い『西遊記』の内容を知っているように、それは、気付かないうちにすり込まれていたようだ。

「凄いなー、満開だ。よく花見客がいないよな―」

 延々と続く桜の木々を見上げながら、匠は呟いた。夜で、雨が降っているからかとも思うが、霧雨程度で花見客が諦めるとも思えない。

 ――それとも、知らないのか。

 駅から、徒歩約三十分。たかだかそれだけの距離だが、今まで匠は、歩いたことが無かった。いつも、バスか自家用車、でなければバイクか自転車だ。それらのときとは違った道を通っているとはいえ、こんな全く知らない道があるとは、意外だった。

 ――まあ、土地勘無いからな。

 家から歩いて五分とかからない場所にある郵便局の存在を長いこと知らず、わざわざ遠い郵便局に行っていたばかりか、郵便局の位置を訊かれ、間違えて銀行を教えた前科のある匠だ。そんな事もあるだろうと、納得する。

 だが、花見客がいないことは説明がつかない。知らないというのは、匠のような者ばかりが近辺に住んでいるならともかく、考えにくい。雑誌ででも紹介されていてもおかしくないくらいの見事さなのだ。

「・・・ここ出たらどこなんだろう」

 適当に歩いていたから、見当がつかない。方向は合っている筈なのだが。家に帰る途中で迷子なんて情けなすぎるぞと、心中呟く。

 不意に、道が開けた。広場のような、広い空間になっている。

「あれ?」

 広場の中心の、一際太い木の根元に、人がいる。長い髪をした、和装の女の人だ。木にしがみつくようにして、何やら呟いている。

 ――まずい人に会ったのかな?

 気でも触れているとしたら、匠の手には負えない。匠は、早くこの場を離れようとした。広場といっても、公園ほどは広くない。早足で行けばすぐだ。

 だが。

「あたしの子供だったんですよ」

 女が、顔を匠に向ける。手はまだ木の幹にかけられており、泣いていたのか、瞼か少し腫れている。満月なのと間近にいるのとで、そんな細かい事まで判ってしまう。

「まだ、ほんの赤ん坊だったんですよ。七歳までは神のうちって、今でもそうだったんですかねえ」

 匠を見ているのか、もっと遠くを見ているのか。

 早く立ち去ってしまおうと思うのだが、うまく足が動かない。ついに、立ち止まってしまった。

「でも、酷いじゃないですか。どうしてあたしの子なんです? ねえ?」

 女を見ると、笑っていた。だが、自分が笑っている事にも気付いていないようだった。

 女の着物には、桜が描かれていた。

「あの子、泣かないんですよ。判ってなかったこと無いだろうのに。最後まで、声一つたてずにいっちゃいましたよ。酷いじゃないですか」

 桜の木に向き直って、呟く。

「わかってたんですよ、あの子。こうしなきゃ皆が困るんだって。だから、黙って。優しい子だったんですよ」

 女が、立ち上がった。生気が無いような、まるで人形のような動きだった。誰かが、空から糸を引いている。

「でもね。あたしはどうすればいいんです? 残されたあたしは、どうすればいいんです。なんにも出来ないじゃないですか。あの子は、もういないんですよ」

 匠は、全く動けなかった。ただ、女の影が揺らめくのを、ぼうっと見ていた。

「だから決めたんです。人身御供に、代わりがいれば。あの子を、こいつから取り戻せるんです。あの子が帰って来るんです」

 匠は、駆け出した。後も見ず、ひたすら走る。後ろから女が追いかけてきたかどうかも判らなかった。両側に立つ桜の気が襲いかかるような気がして、頭を抱え、ひたすら走る。

 ――満開の桜の木の下には、死体が埋まっている。

 脳裏に浮かんだ、根が死体から養分を吸っている鮮明な映像が、どうやっても消えなかった。

 その日はじめて、匠は失神を体験した。必死に駆け込んだ家の玄関で、倒れているところを家族に発見されたのだった。



   このことに、これといった後日談はない。

 あの場から離れてみると、夢だったとまではいかないまでも、何かちょっとしたことを勘違いしたのではないか、という気にもなったのだ。だからこの話も、怪談で友人に話した以外には、兄に言ったくらいだった。

 あの桜並木や広場には、あれ以来行っていない。

 そもそも、歩きであの辺りを通ることの方が珍しいのだ。だが、存在の有無を確認しなかったのは、あの場所があってもなくても、完全に納得がいくとは思えなかったからだった。それと同じように、あの辺りで何かがあったかということを調べもしなかった。

 そして、日常に埋没していく。

 そして匠は、考えてみれば、こうやって生活していることさえ不思議になりうるのだという事に、思い至るのだった。

 なべて、事もなし。         



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