その森の奥には、一つの塔があった。
遠い昔に立てられたもので、今では住む者もない。ただ、領主から認められた老婆が一人、ひっそりと近くに居を構え、塔の掃除をしていた。村の者は皆、そんな老婆を魔女と呼んでいた。
時に、その塔をおとなう者がいた。
こっそりと、あるいは堂々と。男、あるいは女が。少年、または少女が。しかし、出てくるのを見た者はなかった。
ある日、そこを一人の老人がおとなった。
老人は、くたびれた旅装に身を包み、ひっそりと森に入り、塔の入り口に立った。
「おや、あんたか。また来たのかい?」
突然、背後から聞こえた声に驚くこともなく、老人は、ただ静かに振り返った。哀しそうな微笑を浮かべながら。
「私を覚えているのか」
「ああ、覚えてるよ。遠見をしたのは皆。どうした、あんたは。その姿になって、まだ望むのかい」
「・・・あのときは失礼をした。あなたは、随分と親切だったんだな」
「馬鹿をお言いでないよ」
白くなった長い髪をひっつめにした老婆は、そう言って怒ったように顔を背けた。そして、わずかに躊躇うように唇を結んでから、口を開いた。
「それで、奥方と子供は助かったんだろうね」
「ああ。助けたよ。――扉を、開けてくれないか」
言葉に振り返ると、老婆は、探るような耐えるような、不思議な色合いの瞳で老人の瞳を覗き込んだ。
一瞬か永遠か。
老女は、つと目を逸らすと、鍵を使って古くなった扉を押し開けた。
時間そのものを留めたかのような古い空気の中を、二人の老人は、天へと向かって伸びる螺旋階段をゆっくりと上っていく。
「ここには、よく戻ってくる者がいるのか?」
「いいや。――あんたが初めてだよ、あたしの知る限りは。何故だい」
「私が戻っても、驚かなかったからそうかと・・・」
螺旋の先には扉が立ちふさがっており、老女は、それにも鍵を差し込んだ。
音を立てて開いた扉の向こうには、大きな円い水鏡があった。立派な体格の青年が一人、寝そべっても十分に収まるだろう大きさだった。
「何を、願う?」
「ただの我が儘だ。妻たちの笑顔が、見たい」
水鏡の淵に手をかけて、しかし水面には背を向けたまま、苦く、老人は笑った。
「ここで妻と息子の命を救う手段を見せてもらって以来、城には戻っていない。願いと引き換えに、多く年をとったと言っても信じてもらえるだろうか? 信じてもらえたところで、困らせるだけだ。私は、旅に出たまま行方知れずになったのだと、それでいい。――あれから、色々なところを旅したよ。もう、終わりにしたいのだ」
一度は躊躇って、老人は、目をつぶったまま振り返った。そうして、ゆっくりと目を開く。
そこに何を見たのか、しばし水鏡に見入った老人は、目を開いたまま涙を流していた。
そして。
ゆっくりと、前のめりに倒れる。
水が穏やかに老いた体を受け止め、優しく中へと引き込んでいく。しばらくして、塔に一人残された老女は、短く息を吐き、水鏡を覗き込んだ。
水中から浮かび上がってくる幼子を、当然のように抱き上げる。
「気の毒にねえ。水鏡に気に入られちまったね」
ぽつりと呟いて、老女は赤ん坊を抱いて塔を降りていった。
これからしばらくは子育てが続き、その全てが終わると自分は解放されるのだと、老女は知っていた。それは、今まで過ごしたときに比べれば、ずっと短い時間だ。
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