「おーい、総持。傘たのむ」
通りの良い声に、縁側で半ば舟を漕いでいた総持は、目を開けた。次いで、両腕を突き上げて伸びをする。
立ち上がると、額に落ちる前髪を鬱陶しげに払いのけながら、大またで声のした方へ向かう。足が庭に下りていたため、着物の裾が少し汚れている。
「亮太、お前また乱暴に――」
馴染みの学生の横に立つ美人に、総持の動きが止まる。亮太が紹介するよりも早く、女が口を開いた。
「絵を・・死んだ眼をした、生きているような絵を、描いて下さい」
「慎之介、客だ」
家の奥に向かって言うと、総持は無造作に手を伸ばした。呆気にとられている亮太の手から、大きく破れた傘を取り上げる。
その間に、奥から洋装の男が出てくる。こちらは、髷こそ結っていないものの、適当に短く切っている総持と違って、見事に長い髪をしている。男は、亮太には目もくれずに、唇を強く結んで立ち尽くす女性に向けて微笑した。
「こちらへ」
それを見送って、亮太は、平然と傘の具合を見ている総持に目を移す。
「便利屋って、絵も描くのか。しかし相変わらずだな。あんたの同居人」
総持は、心中同意した。
総持には、れっきとした人間の両親がいた。ついでに言えば、二人づついた祖父母も人間だった。
現在彼の人々は、老衰やら病気やら火事やらで他界してしまっている。一番の長生きは、江戸幕府の瓦解と新政権の樹立をしっかりと見て逝った。その年、総持は数えで十四だった。
総持の人外のものとしか思えない能力が発見されたのが五歳、封印を行ったのがその翌年。
封じきれなかった能力は、政治体勢の混乱期を経て、今では副業として活用されていた。
「慎之介、墨が足りない」
「そうか。トラ、それ取ってくれ」
小さな虎猫が、角の取れた固形の墨を前足で投げて寄越す。
汚れないように着物をたすきで上げた状態で、総持は柱にもたれかかった。服の袖をまくって墨を摺る慎之介の横を擦り抜けて、虎猫が総持の膝に飛び乗る。
「都合良く雨なんて降るのかい?」
子猫が口を利く。総持は、猫を抱くようにして自分の膝に覆い被さると、つまらなさそうに言った。
「風呂に入れば消えるだろ。風呂からなかなか上がらない嫁を身に行ってみたら、着物も荷物も残して、姿を消していた――怪談の出来あがり。新聞に載るかな」
「着物は?」
「あ、そうか。うーん、後で俺が・・・」
「僕が行く。総持じゃ危なっかしいし、下手したら犯人にされるだろう」
「実際、犯人なんだよなあ」
総持が、力なく笑う。
虎猫を手に掴んだまま体をずらして仰向けに寝転ぶ。落ちてくる前髪が鬱陶しい。
「出来たぞ」
「ありがとう」
観念したように起き上がると、移動して筆を持つ。
各種揃えられている筆が並んでいるが、そこから太めの一本を取る。墨を含ませる間に、総持は心中ぼやいていた。
――駆け落ちの手伝いだって? なんだって、恋人もいなくて男二人、猫と暮らしてる俺がそんな事やらにゃならんのだ。
貧乏なんて嫌いだ、と月並みな結論の出たところで、総持は硯から筆を引き上げた。
いつも、絵を描いている最中の意識はない。筆を紙にのせるまでは色々考えているし、描き終えてすぐの事も覚えている。筆をはしらせる感触も、どうやって描いたかも判るのに、その時に何を考えているのかだけは、全く認識されていない。
総持は、幾度か筆をかえて描いた絵を前にして、一番細い筆をとった。右下の余白に、名を書き入れる。
総持と慎之介は道具を片付けて部屋を出ると、茶の入った湯呑を持って縁側に移動した。
茶を飲む慎之介を見て、あの女は三三九度の酒で溶けるかも知れないなと思う。墨で描いただけあって、水には弱い。
封印を外せば、水が弱点になるものは生まれない。成長しない点を除けば、本物の生物と変わらない。
初めて描いたのは、猫。
封印のために描いたのは、青年。
「慎之介。あの人に手出すなよ」
「何故?」
「金もらえなくなりそうだからな。女なら誰でもいいなんて、ばあちゃん死んでから人格変わったな」
「静は別格だ」
父方の祖母の名は静といった。
「・・・若く描けって言った時点で、こんな事目論んでたのか・・・?」
総持は、溜息をつく代わりに茶をすすった。
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