悪夢の合間

 空が。赤かった。冗談みたいに。冗談であればいいと。これは間違いであればいいと。悪夢を見ていて、起きたら何事もなく失ったものが戻っていればどんなにいいかと。つい、願わずに入られないほどに。

 空が、赤かった。


 確かに、俺たちは異端だったかもしれない。でも、化け物は誰だ?

 俺たちが何をした。誰も襲わなかった。家畜に手をかけたことも、地域の集会を休んだことも、その雑役をサボったこともなかった。それなのに、この仕打ちは何だ。

 怪物は、誰だ?


「あ――――?」

 寝台から体を起こして、レキサンドラは首を回した。どのくらい寝ていたのか知らないが、体が痛い。死後硬直を体験するとしたらこれか?と、ひどく勝手な想像を働かせる。

「う―――」

 腹減ったなあ、と呟く元気もない。

 だが、とにかく外に出なければ何もない。いや、何かはあるかもしれないが、レキサンドラの予想が外れていなければ、とても食べれた状態ではないはずだ。この部屋の状態から見て、前に起きたときから少なくとも数年、下手したら数十年は眠っていたはずだ。

 ひとしきり体中の関節を回して体の調子をいくらか取り戻すと、地下階の井戸まで行く。水を汲み上げて顔を洗いかけて、面倒になってそのまま頭から無造作にかぶる。

「・・・っめてー・・・」

 何度かそれを繰り返して埃を落とすと、用意していた布で適当に水気を取り、無事そうな服に着替える。

「うわ、これも虫に食われてんじゃねーか。畜生、天下の公爵さまは楽でいいよなーっ。何だって飯ひとつで、こんな苦労しにゃならんのだ」

 いっそ、吸血鬼らしい吸血鬼なら、そこらで人襲や一発なのに。

 不穏当な台詞だが、ここまで茶化したことが言えるようになるまでに、大分かかった。

 レキサンドラは、自分が何という種族なのか知らない。だが少なくとも、人間ではないだろうと思う。普通の人間は何百年も生きないし、自分ほどの力もない。「吸血鬼」として認識しているのは、過去にそう呼ばれたことがあったからだ。

 だがそれは、引き裂かれるような、辛い記憶を伴う。

「あれ、おまえこんなとこで何してんの? ひょっとしてねぐらにしてるのか? ん?」

 人懐っこい笑みを浮かべた。その先には、一匹の野良と思しき子犬がいる。柔らかい茶色の毛をしたその犬は、警戒するでもなく、レキサンドラに首筋を撫でられ、うっとりと目を細めた。

 自分の髪と似た色を持つ犬に、レキサンドラは親近感を覚えていた。この髪は、母から譲り受けたものだ。黒に近い茶の瞳は、父から。鏡を見る度に、両親の存在を思い出す。

「おまえの親は?」

「死んだわ」

 一瞬、犬が返事をしたかと思った。だが首をめぐらすと、入り口の扉を背に、まだ幼いとも言える少女が立っていた。レキサンドラは知らないが、その背に背負っているのは、真っ赤なランドセルだった。

「ちょっとあなた、ここで何してるのよ。その子はあたしのよ。勝手に触らないで」

「いや、俺のやお前のって言う以前に、こいつはこいつのもんだと思うけど?」

 互いに刺だった声をしている。話題に上がっている子犬は、レキサンドラに抱き上げられたまま、無邪気に尻尾を振っていた。

 レキサンドラの両親を殺したのは、「人間」だった。レキサンドラの家族を化け物と罵り、そのくせ、自分たちの方が化け物のような形相をしていた。今でも、覚えている。忘れやしない。あのときの顔を。――化け物は誰だ? 

「変質者って、警察に言うわよ」

「じゃあ俺は、不法侵入で訴えるか。ここの権利書を持ってるのは俺だ」

「うそ」

「何なら見せようか?」

 両親が殺されて、屋敷に火をかけられて。その後レキサンドラは、中国に渡り、そして日本に来た。そのころ日本は鎖国を解いた直後で、異人というだけで避けられた。仲良くして裏切られるくらいなら、いっそその方が気分がいいと、レキサンドラは思っていた。

 この屋敷は、中国――その頃は、まだ元や明という名だった気がする――で金を稼ぎ、買ったものだった。あまり人の来ない、変わった洋館。それであれば、いくらか寝て時を過ごしても、さして問題にはならないと考えたのだ。

「そんなの聞いてないよ・・・・。ここなら、お化け屋敷で誰もこないから、いいと思ったのに・・・」

 泣きそうになっている少女に、レキサンドラは慌てた。大人なら男女関係なく放っておくが、子供となればそうも言ってられない。子供が泣くと、こっちが悪い事をしたような気分になってしまうのだ。

「おい、泣くなよ。いやその前に、何で泣くんだよ」

 子犬を抱いたまま慌てるレキサンドラを見て、少女は笑った。

 邪気のない笑みに、レキサンドラは過去の日を思い出した。その記憶に、赤い空が被さる。燃え上がった屋敷と、それを映して赤い――空。

「いいわ、あなたがここに住むの、許してあげる」

 いや、許しなんていらないけど。泣かれても困るので、レキサンドラはその台詞をどうにか呑み込んだ。

「代わりに、その子を飼ってくれない? いいでしょ?」

「ああ。でもその前に、何か買ってきてくれないか。腹減ってんだけど」

 その台詞にあわせたかのように、レキサンドラの腹が盛大に鳴る。少女は、今度こそ声を立てて笑った。

「凄い音。どれくらい食べてないの?」

「えーっと・・・・今、何年?」

「7年」

「・・・・それ、西暦?」

「西暦? うーん・・・・1995、だったかなあ」

「じゃあ、四、五十年食べてないな」

「見えないけど、ずいぶんおじいちゃんなのね」

 少女は、冗談ととったらしく、明るく笑った。


 その日の夜、レキサンドラは四十数年振りに食事をとって寝台についた。おざなりに埃を払っただけのベットのシーツの上では、茶色い子犬が、既に幸せそうな寝息を立てている。

 レキサンドラは、それを見て微笑した。少なくとも、こいつが生きている間はここで生活をしよう。あの少女も、また来ると言っていた。

 今でも、夢に見る。あの夜、イングランドの片田舎で起きた出来事を。手にたいまつや農具を持った村人たちが屋敷を囲み、両親を殺害し、火をつける様を。あの時父と母が自分を隠してくれなければ、そして、どうにか燃え盛る屋敷から逃げ出すことができなければ、その後の自分はなかった。 

 いっそ、あの時両親とともに死んでいればと思ったことも、数え切れないほどある。けれど、そうしていればこの呑気な子犬には会えなかった。親を保健所に連れて行かれたという、この子犬には。

「ま、いっか」

 呟いて、寝台に横たわる。次に起きるのは、明日の朝。どうか、あの夢を見ないように。そして、あの日の空を思い出す朝日の昇るころには眼の覚めないように。そう強く願って、レキサンドラは眠りについた。  



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