姫神

「山原!」

「うわっ・・・何するんだ、各務[かがみ]」

 背後から体当たりを喰らわされて、柾木[まさき]はつんのめった。危うく顔からフェンスに激突するところを、右手を出して顔面強打だけは避ける。

「何、じゃない。さっきから手ふってただろ、反応なくて恥ずかしかったんだからな!」

「あー・・・悪い。気付かなかった」

「またかよ」

 いかにも運動を得意としていそうな角刈り頭の各務は、わざとらしく溜息をついて見せた。

 各務は、テニス部を途中で抜けてきたのか、いつものように大ホームランを打って球を拾いに来たのか、鮮やかな黄のリストバンドをして、左手にはラケットを握っていた。

 さぼるにしても球探しにしても、ラケットは邪魔ではないかと、柾木は思った。

 一方の柾木は、制服のままで手には画板と鉛筆その他。美術部員でもあるが、これは休んでいてできなかった授業の課題だ。

 グラウンドの片隅で、各務は画板を覗き込んだ。見事に真っ白だ。

「今からか?」

「ああ。なかなか場所が決まらなくて。校舎でも描こうかと」

 各務は首を捻った。この学校は山の中にあって、グラウンドも校舎へ通じる一辺を除いた三辺は、木が林立している。フェンス越しではあるが、絵に描くなら打ってつけのように思えた。

「お前、ちゃんと見えてるか?」

「見えてる」

「だけど、お前目悪いしなあ」

「一応は見えてる。さっさと部活に戻れよ」

 柾木が、右手をはえを追い払うように払うと、各務はあからさまに顔をしかめた。

「お前なあ。もっと友人付き合いは大切にしろよ?」

「友人? 誰が?」

「ひどい!」

 真顔で訊き返した柾木に、各務は「よよ」と泣き崩れて見せた。つくづく、見ていて飽きない。

 柾木は、深々と溜息をついた。

「今度はなんだ?」

「生物のノート貸して」

「・・・美術室の鞄の中」

 言い終えるよりも先に、「ありがとな!」と元気に言って、走り出していた。柾木は、それを見送るとまた、溜息を一つついて、校舎を描くべく場所を探して歩き始めた。

 各務は、悪い男ではない。むしろ、自然とクラスのまとめ役になり、言葉が足りず付き合いの悪い柾木にも構ってくるほどには、いい奴だ。様々な意味であくが強く、ともすればうっとうしがられもするだろうが、善人には違いない。

 生物のノートも、借りるあては他にも山ほどあったに違いなかった。

「また、あの騒々しいのか。、目が覚めてしもうたわ」

 校舎に向かいながら、柾木はどこを描こうかと、視力の関係でぼんやりとしか見えない校舎に、適当に視線をはしらせる。

「一度、あ奴にはがつんと言ってやった方がよいぞ」

 正面からか、それとも斜めからか。ひねくれて、見上げた図でもいい。束の間迷ってから、斜めから見上げたところにしようと決める。

「これ、柾木。何か言わぬか」

「少し黙っていてください、俺は課題があるんです」

「何?」

 左耳に響く甲高い声は、実は柾木にしか聞こえない。しかし、幻聴でもない――はずだ。

「我に向こうてなんという口を利くか! 世が世なれば、八つ裂きじゃぞ!」

 柾木の左肩の上で騒ぎ立てているのは、昔、山原家の奉っていた神であるらしい。柾木に言わせれば、既に零落しているのだから妖怪だ。どちらにしても、「この世ならざるもの」である。

 山原の家系は、常に「見えぬもの」を見る目を持つ者を排出するが、柾木もその父も、例に漏れずで、おかげで日常生活では、大小様々な被害を被っていた。

 不届き者と言われようとも、日々の目に見える生活こそが大切なのが現代である。一般に認められない能力は、害にしかならないものだ。

 実際、視力が低下して以来、何故か「見る」能力も低下した柾木だが、そうでなければ、今以上に奇人扱いされていただろうことは想像に難くない。

「その世でなくて残念でしたね」

 素っ気なく言い置いて、以降、一切取り合わない柾木だった。おかげで、課題の粗方終わった夕方には、耳鳴りがするかと思うほどだった。

 基本的に、「見えざるもの」たちは、見えなければ声も聞こえない。それでも影響が及ぶことはあるが、それも見える者と見えない者とでは、影響力の差は段違いだ。

 だから、今は見えていないため、声も聞こえないはずなのだが。波長が合うのかよほど力があるのか、奉っていた家柄か、聞こえてしまうのだ。

「柾木は、存外絵心があるな」

 わめき疲れて少しの間黙っていた声が、今度は、思わず零れたような、ぽつりとした呟きを漏らす。

 画板には、主線が掴めないほどに重なった線絵が張られている。鉛筆の線を残したまま水彩で着色するつもりなので、スケッチを終えるとすぐに、美術室に向かった。

 校舎の中は薄暗く、視力が良くても下手をすると転びそうだが、慣れている柾木は、既に感覚だけで歩けるようになっていた。

「柾木」

「ええ」

 いささか緊張した声に、柾木は聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で応じると、前方を見据えたまま、美術室に入った。入り口の斜め向かいの窓際にある消火器には、一瞥も向けない。

 教室に入ると、絵を描いているらしい二、三人と話をしていたらしい数人が一度、柾木に目を向けて、それぞれやっていたことに戻っていった。

 柾木は、真っ直ぐに自分の鞄を置いていた机に向かうと、それを掴み取り、画板に絵を張り付けたまま、授業用の棚に戻した。着色は、明日の朝早めに来てやればいい。

 翻した背中に、声がかかった。

「山原君、各務君が鞄いじってたよ?」

「ああ、知ってる」

「そうなんだ? 帰るの?」

「ああ」

 準備室から出てきた少女は、制服の上から汚れよけに割烹着を着ていた。その割烹着も、無秩序な絵の具に彩られてしまっている。

 じいっと柾木を見上げてから、年よりも幼く見える顔に笑みを咲かせた。

「学内展覧会、締め切り来週だからね? あのお社の絵でしょ、楽しみにしてるよ」

 教室の片隅に立てかけられた絵は、二人の位置からは見えない。それは、昔はあったという山原の敷地内の社を、伝聞のみで想像して描いたものだった。完成には、もう少しかかる。

「成原」

「ん?」

「――いや、やっぱりいい。じゃあな」

 途中でやめるな、気になるーッという元気な声を後にして、教室を出た。

 できればすぐにでも帰った方がいいと、言ったところで従うとも思えない。ましてや、なるべく美術室には近付くなとでも言えば、どうなることか。

 すぐ近くの渡り廊下まで行って、柾木は壁にもたれかかった。鞄を探って、紺の眼鏡ケースを取り出す。少し躊躇ってから、ケースを開けた。黒縁の、細いフレームの眼鏡だ。

「コト姫、いけますか?」

「分からん奴じゃな。さっきは無視しようとしたであろう?」

「気が変わったんです」

「まあ、我にはどうでも良いことよ」

 くすりと笑った気配に、柾木は不服げに眉間にしわを寄せたものの、渋々と眼鏡をかけた。

 授業中でさえ、頑固に最前列に陣取って使おうとしない眼鏡だ。眼鏡の役目はものを見やすくすること――視力強化だが、柾木の場合、それは見たくないものを見ることにも直結するのだ。

 半透明の巨大アメーバやイクラほどの目玉の群、牙のある黒いもやなどが飛び交っていれば、授業どころではなくなる。眼鏡がなければ、気配程度で済むのだ。

 はっきりと遠くまでピントのあった視界では、豪勢な和装の美人が立っていた。これが、山原家の祭神だ。

「なかなか喰いでがありそうじゃな。柾木、眼鏡をかけた方が男前じゃぞ」

「お褒めに預かり恐悦至極」

 本来の姿に戻れて機嫌の良いコト姫に、柾木は素っ気なく肩をすくめる。見る者がいなければ、この姿を維持できないということだった。

 コト姫に従って美術室の前まで戻り、消火器に視線を向ける。

 黒い濡れたような、触れたら何か手にまとわりついてきそうな毛皮。紅い眼が、酔ったように濁っていた。強いて言うならば、ざんばらに毛を切られた大型の長毛種犬に似ている。それも、捨てられて人間に散々害を加えられた犬だ。

 「見える」ときと見えないときとでは、その威圧感は比べようもないものだったが、柾木は眉をひそめるに留まった。

 コト姫が近付くと、「犬」は毛を逆立てて、背筋の凍るような声を挙げて唸った。しかし、コト姫は口の端に笑みさえ浮かべている。

「主と我とでは、年期が違う、それさえもわからぬか?」

 懼れげもなく手を伸ばすと、噛みつこうとするように一旦身を引いた「犬」に、無造作に触れた。ついで、雷のような鳴き声――悲鳴が長く続き、段々と弱くなっていく。

 やがては、それも完全に消え去った。

「・・・これは?」

「可愛いじゃろう?」

 無邪気に、柾木の足下にまとわりついてくる黒い子犬。やはり濡れたような毛皮だが、厭わしさはない。実際、可愛いとさえ言える。

 柾木は、仏頂面でコト姫を見遣った。しかし、既に美人の姿はなく、代わりに日本人形のようなものが柾木の左肩に座っている。これも、コト姫には違いない。

「手を抜いたんですか?」

「何、害はない。只人には見えぬしな」

「・・・まあ、コト姫が言うならそうなんでしょうけど」

 柾木は、少し困ったように呟いただけだった。

「あれー、まだ帰ってなかったの?」

 明るい声に、柾木は慌てて顔を上げた。帰り支度を済ませた成原かすみが、出入り口からひょいと顔をのぞかせていた。

 美術室からは、人の声が聞こえる。しかしそれは、現在の生徒のものではなく。美術室に鍵をかける成原を、柾木はぼんやりと見つめていた。

 コト姫が元の姿に戻っているときは、別の位相の世界にいる。その間に、他の部員たちは帰ってしまったのだろう。

「あ! 眼鏡かけてる! 初めて見た!」

 正面から柾木を見上げた成原は、無邪気に声を上げた。

「いつもかけてればいいのに」

「ああ・・・」

「似合うのに。かっこいいよ?」

「ま、俺には劣るけどな」

「・・・どこから湧いてでた、各務」

 突然割り込んできた各務に、柾木は冷たい視線を向けた。相手は、ひでーっ、と言って明るくふてくされている。

 成原は、そんな二人の様子に微笑した。そして突然、腕時計を見て慌てる。

「用事あるんだ、先帰るね、じゃあね、また明日!」

 ぱたぱたと走り去っていく成原を見送って、柾木はようやく眼鏡を外した。かけ慣れていないのと、久々に色々と見たのとで、軽く眩暈がする。

「あれ、外すのか?」

「ああ」

「かけてた方が安全だぞ」

「俺にはこの方がいい。それより、どうしてここに?」

 訝しんで見ると、各務はとりあえず帰ろうと言って、柾木を引っ張っていく。

「いやな。校舎に入るの見たから、丁度俺も終わったし、一緒に帰ろうと。途中でコピーとったら、すぐノート返せるしな。なのになかなか出てこないからさー」

 ひらひらとさせる手には、外し忘れたのか、リストバンドがついたままだった。制服の袖から見えるのが、少し不似合いだった。

「あ、もしかして、俺邪魔した? えーっと、成原?あの子と帰りたかった?」

「別に」

「そ? なんだ、面白くない奴だなー。ところでお前、そんな子犬連れてた?」

 思わず固まる柾木に気付かず、各務は、今の正木には何も映らない空間に手を伸ばした。耳元で、コト姫の「なんと・・・」という呟きが聞こえた。

「なあ、こいつって種類何?」

 無邪気に訊いてくるが、見上げた柾木の左肩に、何かを見たような様子はない。そうすると、コト姫は見えていないのだろうが――「犬」には、どうにも触っているようだ。

「なあ?」

「――そこ、何もいないんだけど」

「え?」

 きょとんと、不思議そうに見返された眼は、どこかあの「子犬」に似ていた。

 そして、目を大きく見開く。

「えーっ? 何、嘘初めてだ、リストバンドしてるのに?!」

「――は?」

「何ナニ、なんで? やっぱ他に見える奴いると増幅されんの? なあ、お前は何ともないのか?」

 ちょっと待て。

 この反応はなんだ、もしかして、と、柾木はいやな想像をした。いや、違う、違うに決まっていると、首を振るが、呆気なくそれは無駄になった。

「だって、お前も見えるんだろ? 幽霊とか」

 ――仲間なんていらない、平穏な日常がほしいと、叶わない願いをかける柾木だった。     



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