彼女に初めて出会ったのは、夜の森の中だった。
そのとき僕は、死ぬつもりだった。婚約まで交わした恋人を兄に奪われ、仕事先でも些細なことから喧嘩をして、僕か相手がやめなければ収まりがつかない状態になっていた。
生きるのに疲れたといえば、少し大げさになる。そのときの僕の行動は、子供が拗ねて癇癪を起こすのと大差なかった。おもちゃを投げつける代わりに自分を投げつける、ただそれだけのことだった。きっと、上手く死ねて、その上霊魂でも残ったなら、酷く後悔しただろうことが容易に想像できる。
彼女に出会わなければ、僕は今ここにいなかった。
「っ・・・」
手の甲に鋭い痛みがはしった。これから死のうとしているというのに、ただそれだけでも結構痛かった。そして気づくと、僕の手からはナイフが消えていた。痛みに、どこかに放り出してしまったのだろうか。
諦めて帰るなんて厭すぎるし、餓死はしたくない。その辺りの枝ででも胸を突くというのも、できれば遠慮したかった。
仕方なく、月明かりだけの森の中で、僕はナイフを探した。
そのとき、声がした。静かな、それでいて際立った声。
「黒金[クロガネ]。今は返してやれ。どうせこいつは必要なくなる。後でもらえばいい」
声が出なかった。人がいるとは思っていなかったせいでもあるが。それよりも、目の前に立つ少女に目を奪われた。十代の終わりくらいだろうか。月光を反射して銀に見える長い髪と、吸い込まれるような瞳。簡素な、白い服をまとっていた。
頭上から一声、烏の鳴き声がした。闇に紛れて、その姿は見えない。そしてその声とほぼ同時に、僕の頭を掠めて、ナイフが地面に突き刺さった。
「おい、お前。死ぬのは勝手だが、もう少し離れてやってくれ。ここでしなれると私が迷惑だ」
「な・・・っ」
さっきとは違った意味で何も言えずにいると、少女は興味を失ったかのようにふいと、森の向こうに消えてしまった。
呆然と、少女の言葉を反芻する。
無性に、腹が立った。これから死のうとしている人間に。止めもしないで、迷惑だから他でやれって? ペットの烏に、後でもらえばいいって言うか?
腹立ち紛れにナイフを深く刺さった地面から抜いて、少女の後を追った。このままでは死にきれないと、本気で思った。
茂みを抜けると、広場のような空間があった。そこに、落ちぶれかけた小屋が立っている。少女は、その広場のちょうど真中辺りに立っていた。月に、ぼうと見入っている。
少女に向かって文句を言おうとしたとき、足に強い衝撃を感じた。その勢いで、地面に倒れこむ。衝撃に一度目をつぶり、開くとそこには、白い狼と、その向こうに無表情で佇む少女が見えた。
大きな狼が、牙を剥く。
「白銀[シロガネ]。いいんだ、それは。どうせすぐにいなくなる。お前が相手をするまでもない」
狼が、言葉を理解したかのように僕から離れる。そして、少女に寄り添った。甘えているように、僕には見えた。
どのくらいか、そうしていた。僕はなんとなく、少女たちを見ていた。彼女は、森に住む動物と仲が良いようだった。動物たちに、とても好かれているように見えた。
月がだいぶ傾いたころ、少女は僕を見た。
「お前、死ぬつもりでここに来たんじゃなかったのか」
「・・・・・その、つもりだった」
「だったということは、今はないのか」
「・・・うん」
かといって、家に帰る気にもなれなかった。第一、戻るつもりがなかったから、道だってろくに覚えていない。
相変わらず表情のない顔で、少女は僕の顔を覗き込んだ。
「それなら、話をしていってくれないか。私は、夜しか外にいられないから、昼のことは何も知らないんだ。昔、ばあ様に聞いた話しか知らない。聞きたいんだ。――いいか?」
僕が見入られたかのような状態で頷くと、彼女は初めて、かすかに笑った。でも、それが精一杯の喜びの現われなのだと、何故か判った。
それから僕は、彼女とともに過ごした。夜を中心に、でも彼女の憧れる昼もいくらかは起きるようにして。食料はいくらでも、ある場所を動物たちが教えてくれた。
彼女は、日に当たってはいけない病気だったらしい。日のあたる昼間は小屋を締め切って眠り、夜にだけ外に出た。そして太陽に憧れがあったらしく、いくらでも僕から話を聞きたがった。
『何も知らないでいた方が、幸せだったのかもしれないな。夜しか知らなければ、こんなに憧れずにいられた』
彼女が何気なく言った一言に、僕は酷く動揺した。
何故なのか、それは今でも解からないでいる。自分の存在が悪いような、そんな気がしたのかもしれない。けれど、それも推測でしかない。自分で自分の心を推測するなんて、不毛な気もするが仕方がない。
『憧れなんて。実現しなければ、苦しいだけなのにな』
そう言って、彼女は寂しげに笑った。
彼女の笑みは、いつ見ても儚げだった。そしてそれは、夜によく映えた。
そんな彼女が死んだのは、炎天下でのことだった。
「――ああ。タカト。どうしたんだ、泣いてるのか」
彼女は、不思議そうに僕を見た。その声は弱々しくて、いつもの静かさとは違った、静謐さに満ちていた。
僕たちの肌や髪を、熱い太陽の光がやいていくのがわかった。
「どうして・・・・。年齢順に行くなら、僕からのはずだろ・・・?」
彼女は、外に出たのだ。明るい、太陽の支配する時間に。そんなことをすれば、死ぬと判っていながら。それほどに、彼女の憧れは増大していた。何かに責任を問うなら、それは僕しかなかった。
僕が話さなければ。出会わなければ。彼女は、こんなことはしなかったのかもしれない。寿命が尽きるまで、あの夜の森にいたのかもしれない。
「タカト。泣かないで。私は嬉しいんだ、昼が、見れて、みんなが、生きてるのが・・・・夜とは違う」
小屋に運ぼうとした僕を止めて、彼女はやはり寂しげに笑った。
「ありがとう」
それが、最期だった。
静かに、ただ静かに、彼女は逝った。太陽の光に肌が青黒く変色していたけれど、それは確かに、あの彼女だった。
あれからどれくらい経ったのか、今ではもう把握できないでいる。僕の髪はとっくに白くなっていて、もしあのときの彼女に会っても、判らないかもしれない。
白銀と黒金は、あの後、彼女を追うように死んでいった。
僕は、それを少し羨ましく思いながらも、今もここにいる。一度拾った命を、捨てることはできなかった。まだ未練がましく、ここにいる。
ただ望むべくは――彼女のように、静かに逝けますように。
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