もくじ




放課後のこと

2003/11/28

「隠したの、川名って子だよ」
 ――はあ。
「あそこ、掃除用具入れの裏の隙間にある」
 ――それはそれは。
「ちょっと、聞いてるのー?」
 ――聞こえてますよ、厭でも。
「なんとか言いなさいよね。揉めてるんだから、言ってあげたら?」
 ――いや。そんなこと言われても、余計に話ややこしくするだけだと思うんだけど。だってフツウ、そんなこと知ってるなんてことないんだし。
 良くて超能力者、悪くて実行犯。何扱いされるにしても、ちょっと偶然やたまたまで済ませてもらえそうにはない。
 海晴はそう思うのだが、彼女の前で地上から二十センチほど浮いている「人物」はそうは思わないのか、ひっきりなしに海晴をせっついて来る。
 怒鳴りつけたい気分だが、そんなことをしても変人扱いだろう。
 あーあ、と、海晴は盛大に溜息をついて箒を握り締めた。
 一応掃除の時間であるはずの放課後だが、現在この教室で掃除をしようとしているのは、どうやら海晴一人。他は、掃除当番でない者が残って何かしているか、掃除どころでない人が数名。
 要領のいい何人かは、空気が悪いと察して、早々に掃除は放棄して帰ってしまった。残された海晴は、つまり要領が悪いということになる。
「やだもう、最悪っ! 誰よ、盗ったの!」
 やたらと傷んだ中途半端な長さの髪をした土井緑は、怒りながら、教室に残っている面々を睨みつけた。本気なのか八つ当たりなのかは知らないが、実は的を射ている、と知っているのは、海晴と川名杏子のみ。少なくとも、生きている者では、そのはずだ。
「ねえ、何もしないなら、帰れば?」
「・・・掃除は?」
「いいじゃんそんなのッ、鬱陶しいから帰ればっ!」
 思わず口に出していたらしく、思いがけず土井に睨みつけられ、おおっと、と口の中でだけ呟いて、体を小さくした。
 どうしても掃除がしたいわけでもなく、海晴自身帰りたいのだが、土井が邪魔で掃除用具を仕舞いに行けない。
 そもそもが少しばかり苦手な相手だというのに、ヒステリー気味な土井には、正直近寄りたくなかったのだ。しかしそれが、逆効果だったらしい。
 八つ当たり標的と定めたのか、土井は海晴目掛けて迫ってきた。
「あららー。どうするの?」
 ――こっちが訊きたいよ。どうしよう?
 自分にしか聞こえない声に心の中でだけ返事を返して、海晴は気を重くしながら目の前に「到着」した土井を見やった。 
 しかしそこで、救いの神が登場した。
「あー、まだこんなとこいた、三沢サン! 来てくれなきゃ練習始めらんないよー。カバン、これ? ほら行くよ」
「え。いや、あのさ―・・・」
「何持ってんの。えーっと、土井さん・・・だっけ? ごめん、これ戻しといてくれる?」
 呆気にとられて硬直している土井に箒を押しつけると、最早諦め気味の海晴の腕を掴んで、少年は教室を後にした。少年と海晴が出ていくと、教室には、期ぜずして揃った溜息の音が聞こえた。

「あのさー、腕離してくれない?」
「やだ」
「やだってねえ・・・。歩きにくいんだけど、すっごく」
「自業自得」
「・・・どこが」
 先ほど、一方的に話しかけてきていた少女とは別の意味で疲れる相手に、海晴は深深と溜息をついた。カバンも持つと言ったのだが、渡してくれない。
 そうやって部室まで到着すると、机の上にカバンを置いて、「で?」と言った。
「今度は何?」
 期待するような瞳に見つめられ、海晴は居心地悪げに目を逸らした。エサか散歩をねだる小犬とでも言えばいいのか、高校生にもなって、これほどに無邪気で愛くるしい少年というのも珍しい。
 嫌いではないが、いくらか苦手ではある。
「・・・掃除、手間取っただけ」
「本当に? また何か見たか聞いたかしたんじゃなくて?」
 そしてこの少年は、おそらくは唯一の、海晴の特異能力の理解者でもある。大抵の人には見えないものを見聞きするという、海晴の能力の。
 しかしこれ以上話を広げる気にもなれず、海晴は目を逸らしたまま、こくりと頷いた。
「うん」
「嘘だ」
 間髪入れず。
 じいっと、大きな目で見つめられて、逸らしようもなくて、海晴はもう一度、溜息をついた。
 こうして、事を洗いざらい話す羽目になったのが、今まで何度あったことか。
「ふうん」
 話を聞いて少年は、そうもらした。それだけで、「じゃあ始めようか」と海晴に向き直る。
「聞くだけ聞いてそれ?」
「まさか。帰るときに、教室寄って机の中にでも移しとけばいいでしょ・・・って、あれ? 今の。幸子サン?」
「あったりー」
「ねえ、どうなの、三沢サン」
 ごく稀にだけ聞こえる、という耳の持ち主に対して、とりあえず海晴は、肯定の意を表わすべく頷いた。

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その後の小さな英雄

2003/11/30

「後悔なんてしない。俺が俺である限り、後悔することなんてない」
 ――その言葉を聞いた者は、ごく少数。聞き損ねた者も、少数。 
 それが、多くの者にとっては、脅威が終焉を告げた日だった。――

「あ―・・・さすがに弱ってきてるなー」
 ぽつりと、少年は他人事のように呟いた。
「えーっと、あとどれくらいもつんだっけ?」
 自問して、首を傾げる。腕の確かな占者に占ってもらったはずだが、あまりよく覚えていない。
 それでなくても、このところ、記憶の劣化や損傷が激しい。水に濡らしてしまった羊皮紙のように、あちこちがぼやけている。
 少年は、森の中にいた。
 深い森で、近隣では「悪魔の森」として恐れられている。先の大魔王復活の折に出現した魔物が、未だ棲みついているのだと。
「どうせ死ぬなら剣をもって、と。サーシャの台詞だったかなあ、これは。リズだっけ? ・・・ザーシス、ではないよなあ・・・?」
 また呟いて、少年は剣を引き抜く。大分森を進んだが、前方に大きな力の気配を感じる。記憶はあてにならなくても、まだ五感が使えることに密かに安堵していた。
 少年は、今や世界を救った英雄だった。
 大魔王を倒し、歓喜をもって迎えられた英雄。
 しかし、知る者は少ないが、倒れる寸前の魔王の呪いを受け、余命は数えられるほどとなっている。
「ありゃー。俺としては、もっとよわっちいの希望だったんだけどな。戦いで死ぬなんて冗談じゃない。俺はひっそりこっそり死にたいんだ」
 姿を現した魔物を前に、明るく、妙な宣言をする。
 魔王を倒す途上で死んでいった仲間に対しても、生き残ってそれぞれ国の要職に就いた仲間たちに対しても。華々しく死んでしまったりしては、申し訳ないではないか。
 「英雄」は、既に語り継がれることが決まっているのだ。これ以上、綺麗なオチをつけて仲間たちを霞ませてなるものか。いささか捻じ曲がった決意を、少年はしている。
 だから、ここでは死ねない。きっといつか、この森の魔物を殺しに誰かが来るから。そのとき、自分の存在を示すものがあれば、見下されるならまだしも、勝手に伝説に付け加えられてしまいそうだ。
「てことで俺、まだ死ねないから。悪いけど、勝つよ」
 不適に、笑う。
「・・・後悔なんて、ぜってーしてやらねー」

 ――「英雄」が死んだのは、大魔王を倒した一年の後だった。
 街中の宿で絶命した顔は苦悶に彩られていたが、国は、そのことは内密に、ただ、大掛かりな国葬を行った。

 そして英雄の偉業は、永く語り継がれていった。

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きっと、誰よりも遠い

2003/12/10

 追いつけないと、思い知った。どんなに追いかけても、走っても、無駄なのだと。

 物心ついたときには既に、父は「凄い人」だった。数は多いのに、どれもがさりげなく、それでいてはっとさせられる。同じものは、一つもない。
 死後も名を称えられるのに、相応しい画家。
 それはぼくの自慢だったし、誇りでもあった。やがてはどこかに行ってしまうとしても、父の描き上げた絵を一番に見られるというのも嬉しかった。
 それはもう無邪気に、ぼくは、父から多くのものを学んでいった。キャンバスの張り方、絵の具の選び方、傷まない保存法、そして――描き方さえも。
 直接教えてもらったり、見ているうちに覚えたりと色々ではあったけれど、それは確かに、父から教わったものだった。
「だから――ぼくは、あの人のコピーでしかないんだ」
 どこかで見たことがあるような気がする、馴染んだ色遣い、タッチ。
 同じものが一つとしてないはずの、父の模倣作。
 それらが、耐えがたいほどの屈辱だった。誰の酷評も、父の絵と見比べたときに判る、絶望感ほど深くは、ぼくの胸を抉ることはないだろう。
「ずっと、あの人に追いつきたかった。追いつきたくて、だから、この道を選んだのに。ただ、追い越せもしないのに後を追っていただけなんだ・・・」
「ねえ。それ、本気で言ってるの? まさか」
 馬鹿じゃないのこいつ、といったかおをして、女は言った。むっとして、思わず睨みつける。
「君に――」
「何もわからないよ。いや正確に言うと、わかりたくない、ってとこかもしれないけどさ」
 目の大きな、ショートカットの女はそう言って、出窓の窓枠から、反動をつけて立ち上がった。猫みたいだと、思った。
 うーん、と大きく伸びをする。
「わっかんないなー。そんなことで、ご飯も食べないでそうやって、自分の絵ばっか見てたわけ? わっかんないなー」
「・・・それは、君には・・・」
「うん、凄すぎて追い越せない、なんて思う人なんていないからね。でもさ、それって当たり前のことなんだよ」
「え?」
「追い越すなんて、同じところにいるからできることでね。違うところにいたら、できっこないんだよね。まあ、出来たからどうなんだって感じもするけど」
 何を言ってるんだ、この女は。
「・・・ぼくは。同じところに、いる。・・・こうやって、同じように絵を描いて・・・」
「だーかーらー、同じじゃないって。そもそも、全く同じところに立とうだなんて、まず出来ることじゃないんだよ? 同じに見えて違うんだし、だからこそその人個人が大切なわけでしょうが」
「でも」
「あんたは。確かに、随分と近くにいるみたいだね、お父さんの。そのせいで、余計に判らなくなってるみたいだけど、違うでしょ?」 
 言っていることが判らなくて、ただただぽかんと女を見ていると、女は、溜息をついてぼくの絵を指差した。
「どうしてこんな、何もないような野原を描こうと思った? あんたのお父さんが描いた場所だから?」
「違う。・・・父さんは、こんなもの、描いてない」
 父が描いたのは、いつだって人のいる風景だ。こんな、何もない野原なんてつまらない場所、描いたことはない。
 それにこれは――。
「こんなもの! あんた、描くときにくだらない場所だって思いながら描いたわけ? それじゃあさぞかし、つまらない作業だっただろうね?」
「違う!」
「そう? さっきからずーっと見てたけどさ、すっごくつまらなそーなかおしてたのに?」
「違う・・・楽しかった。凄く、楽しかった。夢で見たところをそのまま、描き出せて。でも――できてみたらそれは、あの人の模倣だった」
 出来あがった秘密基地が、ただのガラクタの組合わせでしかないと知った子供のような、あの絶望。悔しくて、恥ずかしかった。
 好きなのに、大切なのに、違うのだと思い知らされた。――ぼくは、父を追うだけの出来損ないなのだと。何よりも、ぼくの大切なものがそれを告げるのだ。
 何度も、もうやめようと思って、でもできなかった。
「だからさあ、どうしてそこで模倣になっちゃうわけ? 違うでしょ。あんたのそれは、どれだけお父さんの影響を受けたものでも、例え貰ったものだとしても、あんた自身のものでしょ」
 女は、最後に意外なほど優しく笑うと、そのままぼくの前を横切って、扉に手をかけた。その体勢で振り返って、また笑う。
「管理人さん、帰って来たみたい。ありがとね、入れてくれて。あんたに会えて良かったよ、お隣さん。あたし、人の評判にだけ頼るのはやめることにする」
 そうして、彼女は足音も立てずに出ていってしまった。この寒い中に、鍵をなくしたから部屋に入れくれと言った彼女。
 笑顔を残して行った彼女は、しばらくすると戻ってきた。お礼と言われて呼ばれた夕食の後、猫のようなつり目の彼女は、にっこりと笑って、一枚の名刺を出したのだった。
 そこには、小規模ながら名の知られた、画廊の名があった。
「有名な親父の遺産を背負ったもの同士、なんてつもりはないけど、うちに絵を置くってこと、考えてくれない?」

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残酷?

2004/1/19
 

風が吹いていた。
 雨がないのがせめてもの救いで、吹き荒れる風は、夜が近付いて暗くなった空ややたらに多い木々と相俟って、いやに不気味な雰囲気をかもし出している。
 ぼんやりと、百合亜は窓を眺めていた。
「うわ暗っ! 電気つけろよ、電気!」
 そんな言葉と共に灯りがつけられて、百合亜は一瞬、まぶしさに目がくらんだ。咄嗟に閉じた目をあけると、そこには幼馴染が立っていた。
 呆れたように、でも安心したように笑っていた。
「ゆーりー。待っててくれるのは嬉しいんだけど、電気くらいつけててくれよ。帰ったと思って俺が置いて行ったらどうするつもりだよ?」
「だって絶対、確認するでしょ?」
「そりゃそうだけど。そういう問題でもないだろ」
「じゃあどういう問題?」
「いや・・・うーん・・・」
「それより早く帰ろうよ。今日は随分、長引いたんだね」
 机の横にかけていたかばんを取って、百合亜はにっこりと笑いかけた。何度も何度も繰り返して、すっかり作り慣れた笑顔。
 少年は、今度こそ安心したような笑顔になった。
「引継ぎで色々とな。でも、これで終わりだ。三日の引継ぎ式が終わったら、もう会議やら何やらでゆりを待たせることもない」
「生徒会長、お疲れ様」
「おう」
 今、百合亜の目の前で笑う少年は、校内のそれなりの有名人だ。
 それは生徒会長だからというだけではなく、女生徒を殴って停学処分を受けたこともあるのに生徒会長に期間の最後まで就任するという点で、余計に有名なのだった。
 それを思うと百合亜はいつも、胸を押しつぶされそうな気分になる。
「これからは寄り道とか、いっぱいしような」
「駄目。受験生でしょ」
「えーっ。そんな殺生な」
「図書館で勉強なら、付き合ってあげるよ」
「ちぇっ、それで手を打つよ」
 まるで恋人同士のように、二人は笑い合う。
 強い風に吹かれながら、二人は十分とかからない百合亜の家まで歩いて、そこで別れた。
「――バイバイ」
「ああ。また明日な」
 手を振って別れて、明日の朝には迎えに来る。傍から見れば、鬱陶しいくらいに仲のいい恋人。
 そう見えることは嬉しいけれど、本当にそれでいいのかと、何度も繰り返し考える。
 百合亜と少年は仲のいい幼馴染で、男と女の幼馴染にありがちな思春期の疎遠とも縁がなかった。同じ高校になったのはただ近いからという共通の事情だったが、友人を作るのが下手な百合亜にはありがたかった。――それが、間違いだったのだ。
 何かと人目を惹く幼馴染は、同年代の少女たちにとって格好の「恋人候補」だった。それなのに、気安く近くにいる恋人でもない百合亜は、邪魔だったのだ。
 小規模ないじめならいくらでもあった。それが大きなものに発展してしまったのは、いくつもの些細な要因が積み重なってしまったのだろう。
 経過や原因はどうであれ、百合亜の制服に火がついて火傷を負い、その実行者が自分を好きだったからだと知った幼馴染は、少女たちを殴って停学になった。
 それから、行きも帰りも、休み時間さえも、少年は側にいてくれる。嬉しいけれど、それはいいことだろうか。もう大丈夫だと、その一言がいえないことを、何度も悔やんだ。
 今も。決して見えないところで嫌がらせを受けたりはするが、百合亜がそれを、誰かに告げることはなかった。
 この、不安定な日常を壊さないために。
 嵐のような風を背にして、百合亜は家の玄関を開けた。明日にはまた、この扉を開けることになるだろう。

    
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遊びに来たよ

2004/1/31

「ぉーいぃ、あけろぉー」
「・・・」
 寝入り端に、何の遠慮も配慮もないドアの連打。
 雪は、隣近所からの苦情を考えて、どうにか玄関まで自分の体を引き擦って行った。
「ぉーいぃ・・・」
「五月蠅い。今何時だと思ってるんだ、馬鹿者」
「ぁははははー。ゆきちゃん怒ってるー」
「・・・大馬鹿者」
 にへらと笑いながら、酒臭い体がしなだれかかってくる。溜息をついて、雪はとりあえず、姉を部屋に引き入れた。
 そうして、即座に鍵を閉める。何しろ、物騒極まりない世の中だ。昔は鍵なんてそう頻繁に掛けなくて良かったのにねえ、と言う母も、今では田舎の家に鍵を掛けて暮らしているらしい。
 真っ直ぐに歩けない姉に肩を貸して、なんとか寝室まで運ぼうとする。ところが、姉は嫌がって、居間を目指した。
 居間を入れて三部屋と、台所と風呂とトイレ付き。それを何LDKと言うのかは知らないが、姉弟の二人暮らしにはこれでも足りると、雪は思っていた。
「飲むのー。ちゅーはいとってー」
「はいはい」
 こたつに張り付いて離れようとしない姉に適当に肯いて、冷蔵庫から炭酸入りのジュースを出す。酔っ払っていると判らないものらしい。
「あー! ゆきちゃん、いやなかおしてるー! いいじゃんー、ちょっとくらい遊びにきたってー! アタシだっていきぬきほしいのよー」
 姉の中で、この一年間はなかったことになったらしい。
 雪は今大学の三年で、姉はもう働いている。姉の転勤先がこちらに移って、去年からは少し大きめの部屋を借りて、同居している。それまでも頻繁に遊びに来ることのあった姉は、確かに、今日のように突然押し掛けることもあった。 
「それにぃ、ゆきちゃん、アタシが遊びに来ると笑うもんー」
「え?」
 姉は嫌いではないが、迷惑に思うことも多い。それなのに何を言う、と、雪は反射的に顔をしかめた。
 姉は、もうほとんど目を閉じて、寝言のようにして喋っていた。
「困ったみたいにわらうのー。すっごくかわいくて、やさしくてぇ。かぞくでよかったっておもうのー・・・」
「・・・大馬鹿大王め」
 苦笑して、ほとんど寝入ってしまった姉の手から、プルトップもあけられていないジュースの缶を、そっと取り上げる雪だった。

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声が聞こえる

2004/2/28
 

「おい。うるせぇよ」
「は?」
 突然声をかけられて、見返した顔も、思わず洩れた声も、相当に間の抜けたものだった。
 しかし、うるさいと言われてもわけがわからない。
 今この場所は、それは、静かとは言えない。なにしろ、移動中の電車の個室だ。敢えて擬音語で表すならば、ごとごとだとかがたごとだとかがったんごっとんだとか。一番安い三等車両と会って、揺れに対する配慮はほとんどない。当然、音に対してもだ。
 しかし、この男はそういうことに対して言ったのではないだろう。
 この個室には、たまたま二人きりだ。独り言にしては大きすぎるし、何よりも、目を見て言われた。不機嫌そうに、睨み付けられて。これがファルに対して言うのでなければ、この男は、相当に自分の世界に入り込んでいるだろう。
 しかし、さっきから二人は、この男が口を開くまで黙ったきりだった。
 互いに全く見も知らぬ相手で、この電車でたまたま一緒になって、個室まで一緒になってしまったものの、それは単に他に場所がなかったからというだけのことで、ただそれだけの接点で、それぞれに自分たちの「世界」へと分かれていくはずだった。
「うるせぇっつってんだろ」
「・・・それ、もしかして・・・や、もしかしなくてもだけど・・・僕に言ってます?」
「お前以外に誰がいるってんだ」
 やはり、自分らいしい。
 そう判断して、首を傾げる。しかしそれが、男の気に障ったらしかった。「ちくしょう」かなにか、口の中で呟いたようだった。
「っく、だからやなんだよ、人間って奴は」
「は?」
 やはり、間の抜けた声を出す。
 男は、それに構わず立ち上がった。ファルは思わず身を引いたが、そこは狭い個室。背もたれに当たると、それ以上さがれるはずもない。
「あのっ、僕何かしましたかっていうかその、出ますから! ここ移りますから!」
「黙ってろ」
「でもっ・・・!」
 伸ばされた手で、頭を殴るのかと思った。しかし、男の手は額に少し触れただけで、そのまま胸の辺りまで下がっていった。
 軽く、触れたか触れないかくらいに撫でられたような感触だ。  
「やっぱここか」
 もう、声も出ない。ファルは、ひたすら男の手を凝視したまま硬直していた。男は、胸の辺りに手を当てて、突然強く突いた。
 思わず呻き声が洩れ、そして――
「冗談じゃない、あの親父、勝手にくたばって。散々迷惑かけるだけかけておいて、こっちはそれにも負けないでこつこつ地道に頑張って、見返してやるって、いつか俺にかかった金全部のしつけて返してやるって、それ支えにきたっていうのに。なんでいきなり死ぬんだよ! なんでくたばるんだよ! なんなんだよ、そんなの・・・」
 はじめはぼうっとしていたが、少ししてそれが自分の口から流れ出しているのだと気付いて、慌てて口を押さえた。
 まだ何か言うように動いているが、必死でそれを押さえ込んで、やっとの思いで男を見た。男は、やはり機嫌が悪そうにファルを見ていた。
「それだ。さっきから、それがうるさくて仕方がなかった。言っちまえよ。そうすりゃ、ちったぁましになる」
 思いがけず、優しい瞳だった。
 不意に――いや、それまで堪えていたたががゆるんで、口を塞いでいた手を緩めた。しかしもう、その口からは嗚咽しか出てこなかった。

 電車が駅に着くと、男とファルはそこで降りた。何の挨拶もなく、無言で別れた。
 そうして、おそらくは二度と、男とファルの人生が交わることはなかった。  

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四年に一度

 
2004/2/29

 きょろきょろと、早矢は辺りを見回した。
 一面に、本。
 ずっしりと並ぶそれらは、かなり威圧感があるが、早矢にとっては嬉しい限りだった。どれも、見たことのないものばかりだ。
 多分、勉強が好きなのにできないでいる、まだ書物の貴重だった頃の人が抱くような、そんな押さえきれない期待感がある。もしくは、よく知らない場所を探検する、子供のような。
 正に、よく知らない場所ではあるのだけど。
「・・・っわ・・・・ぁ・・・!」
 第一声が、それだった。
 早矢は国会図書館に行ったことなどない(何しろ遠い)のだが、もしかするとこんな感じなのかもしれない。しかし、こっちの方が凄いだろうという気もする。
 相撲取り二人がすれ違うのには足りるだけの間隔を空けて、いくつもの、天井まできっちりと届いた棚が立ち並ぶ。壁というものは、通路分だけ見える天井と床しかない。
 これはもう、本好き、あるいは読書好きの楽園と言うしかないのではないだろうか。
 思わず、手近な本を取って読み耽る。通路に座り込むことは、本来なら邪魔になるので避けたいところだが、他に人も通らないので、この際いいことにしてしまう。
 見るものがいれば、「取り憑かれたような」と表現したかもしれない。
 本をめくる手ももどかしく、読み終えると次を引っぱり出す。読んだ本は戻して、次の獲物を引きずり出す。
 そんな状態で、早矢が我に返ったのは、六冊目の本を読んでいる途中だった。ここにきてはじめての足音に、はっとして顔を上げる。
 すると、まだ若い、せいぜい高校生くらいにしか見えないのに、黒いスーツを着込んで水色のネクタイを締めた少年が立っていた。
「・・・見つけた」
「へ?」
「あーっ、ここかよ! ここだったのか! 俺もう、全ッ然見当違いなとこ探してて――って、それ何冊目!?」
 大きな独り言を言っていたかと思えば、慌てるように叫ばれて、早矢は、背もたれ代わりにしていた本棚に、強く背を押しつけた。逃げたいところだが、立ち上がっている間に取り押さえられてしまいそうだ。
 少年は、早矢のそんな様子に気付いてか気付かずか、畳みかけるように顔を近づけてきた。
「なあ、何冊目だよ?!」
「馬鹿者」
 今度は足音もなく、少年の隣に出現した青年に目を見張る。やはり黒のスーツで、こちらは緑のネクタイ。何故か、レンズの嵌まっていない縁だけの眼鏡をかけている。 
 顔立ちがいいところが、余計に胡散臭い。
 しかし少年は、馬鹿呼ばわりされたついでに頭をはたかれたにもかかわらず、ぴっと背筋を伸ばした。眼が、まるで主人を見る子犬だ。
「先輩!」
「この大馬鹿大王。万年未熟見習い」
「そ、そこまで・・・」
「言う。この子だって、好きで――」
 そこで、早矢がひしと抱えたままの本に目をやり、軽く溜息をついてから続ける。
「・・・結果はともあれ、好きで来たわけじゃないんだ。そういった人たちに、速やかにお帰りいただくのが俺たちの仕事だろう。怯えさせてどうする」
 うなだれる少年を放置して、青年は早矢に笑い掛けた。笑うと、ひょうきんな感じがして親しみが持てた。
「お嬢さん、ごめんな、驚かせて。こいつは、まだ未熟でね。色々と焦ってたんだ。ごめんな」
「・・・ちょっと、びっくりしただけだし・・・」
「そう? その本、面白い?」
 にこやかに持っている本を示されて、うん、と、大きく頷いた。
 ちょっと予想のつかない展開で、まるで本当にあることみたいで、凄くわくわくして。言葉のもどかしさを実感しながら、早矢は夢中で語っていた。青年は、それを相槌を打ちながら聞いてくれる。
 そうして一段落つくと、「他の本は?」と重ねて問われ、結局、早矢はここで読んだ本全てについて語っていた。
 全ての本について語り終わると、青年は、笑顔で「じゃあ、それで六冊目なんだね」と言った。何の疑問もなく、早矢は肯いた。
 さすが先輩、と少年が呟いた気がした。
「ところで、今日が何日か思い出せる?」
「今日って・・・二月二十九日?」
「その通り。ここは、四年に一度だけ開かれる書庫だ。残念だろうけど、長居は危険だよ。さあ、君を五ヶ月と十日と二十七分後の地点に返そう――」  

 くるりと。
 世界が弧を描いた。

 はっと、早矢は我に返った。その瞬間に、お弁当の唐揚げを口に放り込んでいた。
「ぐ?」
「早矢、どうした? 変なものでも入ってた?」
「ん――・・・んーん」 
 口に唐揚げが入ったままで喋ることもできず、早矢は、ただ首を振った。それだけで伝わったらしく、呆れ顔ではあったが、友人はそれ以上訊こうとはしなかった。
 ここは教室で、今は昼休み。
 当然知っているはずの記憶を呼び起こすのに、少しかかった。今は、七月の十日。期末試験も終わって、あと少しで夏休み。それを思い出すのにも、少し間があった。
 クラス替えがあって、文化祭があって、実力に定期に期末と、三回も試験を受けてと、記憶はある。
 しかし同時に、ついさっきまで家でそろそろ昼ご飯を食べようかと考えていて、そして突然見知らぬところで膨大な本に囲まれていたという記憶もある。
 何なんだこれは。
 呆然として、早矢は、機械的に唐揚げを頬張っていた。窓の外は、完全に夏空をしていて、開けても全く涼しくはならなかった。

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それぞれの事情

2004/4/19
 

「流、映画見に行かない?」
「いいよ。で、今度は何?」
 放課後の、部室。
 映画研究会(制作部)の部室は乱雑極まりなかったが、二年前、一人の新入部員が入って以来、それなりの清潔さと秩序を持つようになっていた。
 そこで二人は、卒業制作の台本候補を読んでいたところだった。他にも二人、同様のことをしている部員がいる。
「これなんか面白いかと思うけど。三流アドベンチャー」
「いや、じゃなくて」
 近くの映画情報誌を取って、広げる卓真に、コメディーの台本を手にしたまま、紅葉は手を振った。
「何が目的? 誰に引き合わされる?」
「何だよそれ、まるで俺が企んでるみたいに」
「へえ、じゃあ今までのは企んでなかったのか? 元の彼女とお茶したり、断ったのにつきまとってきてた女の子と会ったり、挙げ句の果てには許嫁候補とまで会ったり。あれは?」
「いや・・・まあ、そりゃあ少しは・・・」
 口ごもる卓真を睨み付けて、やっぱり、と、紅葉は息を吐いた。しかし、本当に怒っている風ではない。
「別に誰に会わせられようといいけどさ、どうせなら、ちゃんと彼女つくってその子に頼めよ」
「彼女には頼めないだろ、こんなこと」
「・・・私は何だ」
「流なら、多分何があっても平気だろう?」
「逆恨みして刺されたら、毎日メロン入りの果物詰め合わせ持って見舞いに来るように」
 本気とも冗談とも着かない口調で言いつける。
 紅葉は何気なく、卓真の眼鏡を取り上げて、かけてみた。度がきつくて、すぐに外すことになった。
「眼悪すぎだぞ、お前」
 そんなことを言いながらも、てきぱきと待ち合わせの日時を決めていく。慣れた行動だった。

「リュウってさ、天然だよな」
 台本候補で声が卓真と紅葉のところまで届かないよう気遣いながら、壮太は、隣の一人[カズト]に囁きかけた。
 壮太たちの位置から見て、楽しそうに、慣れた様子で休日の約束をする二人は、何も知らなければ恋人同士に見える。
 紅葉は和的な美人で、卓真もそう見栄えは悪くないので、余計にそう見えるのだろう。ぴったりのカップルだ、と。
 しかし現実には、紅葉は今のところ、恋人づくりには興味がないようだった。
「タクが二人きりで、自分から遊びに誘う女の子なんて、自分だけなんて気付いてないんだろーな」
「まあ、そういう奴だから」
「それにしても鈍いよなー」
 やれやれと溜息をつく壮太は、他校に年下の彼女がいる。人は見掛けに依らないものだ。
「あ、もう一人鈍いのが来た」
 そう言って、開けっ放しの戸口の向こうに見えた友人に、壮太は手を振った。
「みててばればれなのに、自覚がないってとこが大鈍だよなー」
 からからと、壮太は笑った。

 その隣で、一人は黙々と台本を選んでいた。これが、この学校で最後の映画製作。頼りはないが信頼できる友人たちに恵まれ、それが作れるのだ。
 ある意味、一番恋愛沙汰に縁がないのは、一人と言えるだろう。 

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雨舞

2004/5/15

 雨の音が聞こえる。
 雨は嫌いだ。あの女の葬式を思い出す。

 雨の降る夜だった。我に返って口を押さえても、もう遅い。霧夜が、こちらを見ていた。
 相棒は、苦笑した。
「この町でそんなことを気にしていたら、身がもたないよ」
「まあな」
 そんなことは判ってる。この町には、雨が多い。きっと、生まれたときも父親がくたばったときも母親が死んだときも自分の葬式も、全部雨だった奴だってそう珍しくないだろう。
「でも、忘れられない」
「どうしてそう、二元論にしようとするかな」
 呆れた、と言いたげに頭を振る。
 何度も読み返してぼろぼろになった本を閉じて、霧夜は机の上のりんごを転がした。赤いりんごは、血にぬれた首に見えた。

 あの女は、まるで、全てを裏切って生きていた。
 肉親も、友人も、恋人も夫も、子供も。通りすがりの花売りも。そうして、たった一人で、大勢に囲まれて、「奇麗に」死んでいった。
 あるいは、それが恋人だったら、嘲りの笑みなり怒りの声なりとともに、記憶の片隅に押しやれたかもしれなかった。でも。
 あの女は、よりにもよって俺を生んだのだ。

 窓の外で、雨が強まったようだった。
「こんな日に外に出るだなんて、気の毒だね」
 隣の部屋の戸が開く音と出て行く足音を聞いて、霧夜が歌うように、呟くように言った。その手は、まだりんごを転がしている。
「・・・・最悪だった。雨で道がぬかるんで、下ろしたての服に泥がはねて。靴だって水浸し。俺は、早く靴や服を脱ぎたかった。たくさんの奴らが泣く棺の中身なんて、どうでも良かったんだ」
 惜しい才能だった。素晴らしい人だった。
 悲しむ声は、ただ上滑りして聞こえた。言ってる方は本気で、でも俺には、関係のないことで。
「半分だけ血のつながった弟が、泣きながら服の裾をつかんでるのも鬱陶しかった。あの女から解放されて、喜びたいくらいだったのに、喜べなかった。雨のせいなのか、弟のせいなのか判らなかった。それとも、あの男のせいなのかもしれなかった」
 あの女が何をしても許していた。それは、寛容ではなくて卑小さのもたらすもので、それがたまらなく厭だった。
 どうして俺は、両親なんてものから生まれなくちゃならなかったんだろう。一人で死ぬなら、一人で生まれたっていいはずなのに。
「雨が、降らなかったら・・・」
 雨音と、霧夜の転がすりんごの音。
「いいことを教えてあげようか」
 長い間、黙って話を聞いているのかいないのか判らないような様子だった霧夜は、りんごを転がしながら、暗記しているものをそらんじるようにして言った。
「雨はただの水滴で、空から降ってきて地におりて、やがては川に、そして海に流れていく。その後は、少しずつ空に昇っていって、また雨になって降りてくる。その繰り返し」
「・・・何が言いたい?」
「ちょっとした知識をね。晴れてるときだって、雨が水蒸気になって空に上っていってるって考えたらさ、いつも雨の中なんだって気がしない?」
「だから何なんだよ」
「つまり、こだわることはないってことだよ。考え方一つで、世界は簡単に変わる」
 突然、霧夜はりんごを投げてよこした。
「落ち着いて思い出せるようになるまで、あまり気にしない方がいいと思うけどなあ。沈めてしまえばいいんだよ、奥深くに」
 まあ、それができたら苦労しないんだろうけど。
 小さく肩をすくめて、本に手を伸ばす。そしてもう一度こちらを見て、苦笑いをした。
「そんなかおをしなくても。手っ取り早いことは、雨の日に楽しい思い出を作ることだろうね。何なら、今から遊びにいく?」
 さっき、気の毒にと言った口でそんなことを言う。そう言うと、あれは出掛けるのが気の毒だって言ったんだよ、と、そ知らぬ顔で言う。遊ぶのであれば問題はないらしい。
「・・・何やって?」
「篠山邸前の空き地、行こうか。あそこの近くに、施設があるだろう。空き地は、いい遊び場になってるらしいよ。仲間に入れてもらおう」
「それ、偵察兼ねてないか?」
「さあ?」
 次の標的は篠山鷹也、篠山家の次男。
 結論から言うと、やはり偵察込みだった。しかし、それ以上に楽しかったのも確かで。雨も、案外悪くないと思ったのは、それが始めだった。

 それでも、あの女を思い出すのだけれど。
 以前ほど、胸を痛めることはない。

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座敷

2004/6/8

「おーい。おい、ねえって。なあ。聞こえてんだろ?」
 短く立った髪に、尖った輪郭。
 もっと鋭い印象を与えてもよさそうなものなのに、何故か、それはない。むしろ、日溜まりを思わせる。
 そんな少年は、天窓からだけ陽の射し込む、地下の座敷牢の格子に寄りかかって立っていた。
「まったくさあ、いつもいつも無視してくれちゃって。一人だけだとテンポずれるもんなのか?」
 まだ返事はなく、少年は、「ちぇっ」と呟いた。
「いいじゃん、悠々自適の生活。働かなくったって生きていける。いいねえ、羨ましいよ」
「それなら替わろうか?」
 静かな。
 凛とした声に、少年は背筋を伸ばした。
 そうして、笑顔になる。
「やっと、声が聞けた」
「・・・囚われる身が羨ましいと言うならば、いつでも替わってやる。その気になったら来い」
「もう少しだから」
 にこりと笑う。いや。ずっと、笑っている。
「多分あと少しだから、それまで、待ってて」
「何を・・・?」
 いつまで待っても背を向けたままだが、訝しげな牢の住人に、少年は、見えもしないのに手をひらひらと振った。
「また来るよ」

 まるで、一切の未練などないような声で。
 少女は、思わず、振り返りそうになった。それを必死で、自制する。
 ただ、去っていく足音を聴いた。
「・・・何を」
 すっかり、足音が消え去ってから呟く。
 少女がこの牢に閉じ込められて、それはもう、気が遠くなるほどの年月が経つ。
 騙されて。
 人と関わるなと、あれほど言われたのに。
 そんな甘さ故に、囚われた。
 そして少女は、この家に富をもたらした――らしい。だからこそ、彼らは彼女を捕らえている。
 少年が少女の元を訪れたのは、まだ彼が幼い頃だった。
 早くに亡くした母を求めていた少年は、少女を見て、必死に近付いてきた。
 きっと、母の面影を見たのだろう。
 そして今も――少年は、少女を訪ねる。
 一言も口を利かない日もあるというのに、よく来るものだと、少女は思う。
 そして――
「何を待てばいいのだろう」
 また、信じ始めていることに。あるいは、裏切られ、囚われてからもずっと、信じたいと思っていたことに、少女は気付いていなかった。

 家の当主が死に、牢が開け放たれるのは、まだ、もう少し先の話――

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春呼び

 
2005/1/12

「わっ、つっ、ちょ、待っ・・・!」
 くるくると風に翻弄されながら、少年は、空を舞う花弁を追った。
 薄く色付いたそれは、冬の花には珍しく、かすかではあるが色がついている。この花が咲くと、春も近い、と、人々は思うのだった。
 この花が咲き、散り始めるころになると、いよいよもって、春の到来だ。そのため、「春呼び」とも呼ばれる。
「待って待って待って!」
 一生懸命に、精一杯に真剣ながらも、見る者に微笑を誘う。こんな情景も、春が近いと実感させるうちの一つだ。
 ひとりでに散った春呼びの花弁を、落とすことなく掴めたら、一つ願い事が叶う。そんな、言い伝えがある。
 主に子供たちが、遊び半分に花弁を追いかける。
 それは、意外に難しかった。小さく薄い花弁は、かすかな風にも流され、掴もうと伸ばした腕の動きにさえ、ひらりと向きを変える。
 叶えてくれるのは、小さな願い。
 だから、もしも大きなことを願うのなら、何度も何度も、捕まえなければならない。それでも足りなければ、願いは叶わない。
 人々は、戯れ半分に花弁を追う。
「・・・った!」
 うまく掴めたらしい少年が、喜びに顔をほころばせる。外で遊んで、農作業で灼かれて、黒くなった元気そうな少年は、良くいる子供だ。
 少年は、喜びも束の間、掴んだ花弁をそっと上着の内ポケットに忍ばせると、また、花弁を追いかけ始めた。
「っ・・・!」
 小さく叫びながら、一生懸命に、宙を舞う花弁に手を伸ばす。
 夕方。
 少年は、まだ夜のとばりが早く、真っ暗になった中で、じっと春呼びの木を見上げた。もう、野良仕事をしていた人たちも見掛けない。夜闇は、家の中で凌ぐのであって、外に出るものではない。
 じっと、睨み付けるように。少年は、春呼びの、白くほのかな花の咲き乱れた木を見上げた。太い幹には、触れようともしない。
 上着の胸の部分を押さえて、声を張り上げる。
「春呼び! かあちゃん、病気なんだよ! しぬのは・・・わかってる。冬はこせないって、医者がいってた」
 泣きそうに、声が震える。それでも少年は、涙はこぼさなかった。
「だけど・・・ここまできたんだ。春は、ちかいんだ。なあ・・・春呼び。はやく、春を呼んでくれよ。せめて、春まで。花がいっぱいさいてて、動物だってたくさんいて、かあちゃんのすきな春を、はやく呼んでくれよ。せめてさいごに、春を。みせて、やってよ・・・」
 幹に頭を押しつけて、目を閉じる。静かに、涙が流れた。
 冷たい風が吹いて、春呼びの花を散らす。静かな音を立てながら、闇色に染まった白い花弁が、ふわりと舞い降りた。
 少年は、それを見上げることもなく、春呼びの幹に寄りかかっている。
 しばらく、そうしていた。姿を見せた月に、少年は、背を向けていた。
「なあ。たのむよ。・・・いっぱい、あつめたんだ。花びら。来年には、おれは、ここにいない。都にいくんだ。弟子いりして、ひとりでいきていく。もう、誰もいないから。・・・さいごに。たのむよ。おなじ村でそだったよしみで、さ」
 ゆっくりと、少年は体を起こして、春呼びを見上げた。
 うすい、闇色に染まった、白っぽい花弁。
 少年は、過ぎった風に舞った花びらを、鼻先にとめた。そっと、手で押さえるようにしてつまむ。
 薄い、ちっぽけな花弁。
「たのむよ」
 呟くように言って、少年は、くるりと身を翻した。
 帰ろう、母の元へ。今では、眠る時間の多くなった母の元へ。共に過ごせる時は、あと、わずかだから。

 ――春は、もうそこまで来ていた。

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薬局

 
2005/2/16

 薄汚い店だな、と、三弥は、早くも入ったことを後悔していた。
 風邪薬くらい、どこで買っても同じと思ったのだが、間違っていただろうか。市販品でも、消費期限が切れているかも知れない。
 やめるか、と、忍ばせ気味だった足を止めて、身を翻そうとする。そこに、声がかかった。
「おや、いらっしゃい」
「――」
 しまった、逃げられない。
 渋々と顔を上げると、白衣を着て眼鏡をかけた、いかにもな店員が、にこりと、嘘臭い笑顔で迎えた。まだ若く、大学生くらいに見える。しかし、三弥を見て、少しばかり意外そうに目が開かれた。
「何がお入り用で?」
「風邪薬が、ほしいんですけど。ありますか?」
「風邪薬、ですか。あまりお奨めできませんねえ」
 薬屋のくせに、妙なことを言う。三弥は、思わず眉をひそめた。
 店員は、それに応えて軽く肩をすくめる。
「症状が楽になった気はするけど、結局のところ、治る時間は変わりませんからねえ。どうせなら、漢方でも飲んで体質改善を目指す方がお奨めですね」
 効く保証はないけど、と付け加えられた呟きも、しっかりと耳に届く。
「・・・じゃあ、漢方、ください」
「置いてないよ」
「――は?」
 店員の嘘臭い笑みが、チェシャネコの笑いのように見える。一体、どこに誘導しようというのか。
「それにしても、お客さん、物好きだねえ。こんな小さな店、見つけるだけならともかく入って薬買おうとするなんて」
「だってここ、薬屋だろ」
「間違ってはないけどね。ただ、用途が限られていてね。病気用の薬品は置いていないよ。残念だったね」
「ありか、そんなの?」
 薬屋と看板を出しておきながら、病院の処方箋に応じてしか薬を出していない、とでも言うならまだしも、なんだそれは。
 三弥は、思い切り胡乱な視線を向けた。それでも、店員は笑みを崩さない。それどころか、ますます猫っぽい。
「迷い込んだんだよ、君は。一応、間違えないように小さく看板は出していたけど、いやあ、一般客が来るのは、実に久しぶりだね」
 大丈夫かこいつは。その言葉は呑み込んで、ちらりと、出口に視線を向ける。逃げ道は確保しておきたい。
「ここは、殺し絡みの専門店でね。主製品は、毒薬。だから、君には必要ないと思うよ。わかった?」
「・・・」
「疑ってるね? まあ、どうでもいいけどね。信じて警察駆け込んでも、無視してこのまま帰っても、お好きなように」
 にやにやと笑う店員に、背を向ける。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
 三弥の背に、思いの外重い声がかけられた。
「死にたくなったらまた来なよ、そのときは売ってやる」
 誰がと、言い切ることはできなかった。それは、毒にも似た感情なのかも知れない。

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渡守

 
2005/5/3

「おや、また来たんですか。よほど死にたいらしいですねェ」
 そんな風に気安く声をかけられて、優は、胡散臭そうに男を見遣った。
 観光地にでもありそうな船に乗った、よくわからない重ね着の、中途半端に髪の長い男。道端で見掛けても、おそらくは避けて通る。しかしここは、道と呼べるものはない、草原だった。目の前には、それを両断する大きな川。
 誰だと露骨に顔をしかめたら、いきなり吹き出された。
「いやァ、すみませんねェ。毎回変わらない反応をするものだから、つい可笑しくッてねェ。ああ、そう言っても何のことか判らないでしょうねェ、起きたら忘れちまうんだから」
 変な人だ、関わるのをやめよう、と背を向けたところで、ぴたりと動きが止まる。ここは――何処だ?
「俗に言う三途の川ですよ、ここは」
「何?!」
「本当のところどうなのかなんて知りませんがねェ。あたしゃァそんなものだと思ってますよ。自殺者専用の三途の川」
「嘘だ、そんなはずがない!」
 必死に否定する自分を、別の自分が醒めた目で見つめる。否定する必要もないことなのに、何故そうやって否定しようとするのか。否定すればそれは、逆説で真実と認めることにも繋がるのに。
 しかし、前後のふっつりと消えた記憶は、そして、変わったところなど無いように見えて酷く不自然な草原と川は、疑念を補強してしまう。
「ああ、安心なさい。あんたはまだ死んでやいませんよ。本当に死んだ奴ってのは、船の中に出ますからねェ」
 にかりと、男が優に笑いかける。
「草原に出てくるのは、死にたがってるか生死の境を彷徨ってるってとこですかねェ。意識が戻れば、こっちのことなんて忘れちまってますよ。あんたも、何も覚えてないでしょ?」
「それはどういう・・・」
「おや、判りませんか?」
 今までにも、来たことがあるということなのか。知って、優は呆然とした。男の言葉を疑えない自分にも。
 しかし、死にたがっていておかしくない環境で、容易に納得ができてしまって。
「自殺したやつはねェ、船に乗って、揺られて一旦はあっちの岸の近くまで行くんですよ。だけど、降りるのは先に船に乗った方。漕ぎ手が降りるんです。揺られてきた奴は、慣れない手つきで櫂を漕いでこっちに戻って、誰かが来るのを待つんですよ」
 ぞくりと、背筋が冷えた。
 時間がかかるというだけのことで、賽の河原のようなものでもないのに、何故か。
 男は、そんな優の様子にか、ちらりと苦笑した。
「まあ、あんたは大丈夫でしょう。何回も何回も、あたしが見た中で一番多くそこに来てますけどねェ、そこから先には近付いてこようとはしないんですから」
 そう言って、二、三メートルほどの、優と船の――男の距離を示す。お互いに相手の表情さえも読み取れるのに、手が届くことはない距離。
 幅跳びの記録にすらろくに残らない距離が、安全圏だと男は言う。
「護りたいものや楽しみでもあるんでしょう。そっから近付いちゃァいけませんよ。何かの拍子に、あたしが引きずり込まないとも限らない。いいですかい、生きたいと思うなら、ここには来ちゃァいけないんですよ」
 男の目は、意外にも優しかった。
 その言葉が、今までにも聞かされたものなのか、今初めて聞くものなのか、優には判別がつかなかった。

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セイギノミカタ

 
2005/5/14

「正義の味方にならないかい?」
 いきなり。近所のコンビニに雑誌を買いに行こうとして角を曲がってこんな風に声をかけられたら、どんな反応を取るべきだろうか。
 水倉春菜、二十三歳、無職(求職中)。
 ねずみ色のパーカを羽織ったジーンズ姿の彼女は、一瞬たりとも足を止めず、黒スーツの目の前を通り過ぎた。
 黒スーツは、慌てて春菜の後を追う。
「ちょ、待てって! 正義の味方だぞ!? ぐっとこないか?!」
「どこの誰にとっての正義。そんなちゃちい設定で引っかけたいなら、せめて、暇持て余してる中高生にでもしときなさい」
「それは偏見だぞ。中高生だって、彼らなりに時間はいっぱい使ってるはずだ」
「どうでもいいけどあたしのところに来るのはお門違い。通報される前に他を当たって」
 目的地にたどり着いて、自動ドアをくぐる。店員の半ば自動的な声を聞き流して、春菜は真っ直ぐに、雑誌コーナーに歩み寄った。
 黒スーツは、わたわたとその後を追った。
 根木空彦、二十四歳、無職(大金持ち)。
 黒いスーツに黒い眼鏡と、日本国土で日本人がやるには怪しすぎる格好で、コンビニ店員の胡乱そうな視線もものともせず、雑誌を選ぶ春菜の背後から覗き込んだ。
「また、求人雑誌? この間の会社もクビになったんだ?」
「部下だからって、人の生活を根ほり葉ほり聞く奴が悪い。殴ったくらいでびーび泣くなっての」
「春ちゃんに本気で殴られたら、ヒグマでも倒れると思うよ」
 ぎろりと、春菜が睨み付けると、空彦はにやりと笑みを浮かべた。
「給料は払うよ。一般的な大卒の給料と同じくらいをね。他に仲間はいるけど、上司は総司令の僕だけだ。どう、心が動かない?」
 大学を卒業してからの一年半というもの、いくつもの会社を、上司や上層部との反りが合わずに辞めざるを得なくなっている春菜は、実際、いくらか惹かれるものがあった。この幼なじみは、癖のある奴ではあるが、免疫ができている。
 わずかに動いた眉に感情を読み取って、空彦は、更に言葉を重ねた。
「バイクを一台、必須品として支給するつもりでいる。どう、正義の味方、やるつもりはない?」
「やる!」
 思わず叫んでしまってから我に返るが、もう遅い。空彦は、掌に隠していたICレコーダーを見せて、にこりと微笑んだ。
「春ちゃんって、言ったことは必ず守る人だよね?」
 雑誌を棚に戻して、深々と、溜息をついた。
 ――水倉春菜、二十三歳、正義の味方(予定)。

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眼鏡の理由

 
2005/7/15

「お兄さん」
「んー?」
 濃い色のサングラスをかけた青年は、呼び止められて首を傾げ、あ、と言って手を打った。眼元が隠れていると言うのに、表情豊かだ。
「ちなっちゃん。やあやあ、おはよう」
「・・・もう夕方ですよ?」
「あれ。そう言えばそうだ、学校もすっかり終わってたね」
 千夏は、そんな義兄の様子に、思わず笑ってしまった。おろしたての制服が、桜を散らす風に揺れる。
 学ランを着崩した義兄は、嬉しそうに、千夏の頭を撫でた。
 驚いて見上げると、あれ、と慌てたような声をあげる。
「これセクハラ? 厭?」
「う、ううん。びっくりしただけです」
「そう? 今から帰り? 部活は?」
「不思議なんですけどね。入学式の日の勧誘は禁止らしいですよ。だから、説明も全部明日から。って、お兄さん、去年一年生だったんでしょう?」
 ごく自然に、並んで歩き出す。帰るところは同じなのだから、当然と言えば当然の成り行きだ。
 千夏が、この義兄――計と家族になったのは、数ヶ月前のことだ。紅葉の頃に身内のみにお披露目し、しかし千夏だけは、中学卒業までは一人暮らしをしたいと言い張って実現したため、義兄を呼ぶには、まだ些かの違和感がある。
 春休みもあったのだが、昼から夜にかけてバイトに行き、朝に寝るという生活を送っていた義兄とは、接点がなかった。
 特殊な人だ、ということだけは、方々から聞いている。
「俺は、部活入る気なかったし。むしろ、つくったし」
「え、何部ですか?」
「眼鏡部」
「・・・・・・それは、笑い飛ばせばいいんですか」
「ええっ、いや本当ホントウ。名ばかりの顧問も、ちゃんといるって」
 千夏が、胡乱そうに視線を向けると、大げさなくらいに手を振って否定する。どうしたものかと、迷ってしまう。
 ちなみに、義父の義兄の評は「七割が冗談と勢いとはったりで造られている」で、義兄の義父の評は「くだらないところで大法螺を吹く駄目人間」だった。数少ない交流のもたらした、印象深い言葉だ。
「ほらさ、俺のサングラス、目立つから。馬鹿連中が、それ口実に。校長の許可ももらって、堂々とかけてる奴が部員。一目で判るから、からかっていいよ」
 さらりと、明るく告げられたことなのに、千夏は、思わず義兄の顔を窺っていた。
 それに気付いた義兄は、ぽんぽんと、また、千夏の頭を軽く撫でる。
「いい人たちに囲まれて、お兄さん幸せ者なんだよ」
 のんびりと、真実を告げるような声。
 それなのに、にこりと笑った顔が、ついと逸らされた。すうと、空気が変わる。義兄は、赤い郵便ポストの向こうを、見ているようだった。
「人つけ回すの、趣味いいと思えねーけど?」
「・・・ふん。気付いたなら、話は早い」
 そう言って、赤いポストの裏から、間違った自衛隊員のような格好の男が、ぬうと姿を表した。
「鹿島計。私と一緒に来てもらおう」
「厭だ」
「こちらが下手に出ているうちに、素直に従った方が身のためだ。それとも、そこの娘、鹿島千夏か。それを、人質にでも取られたいか?」
「ったく、仕方ねーなー」
 ちなっちゃん、そこにいてねと、言って、義兄はためらいの欠片もない様子で、男のすぐ目の前まで歩いて行った。
 にやりと、いやらしく笑う男に対し、深々と溜息をつき、うつむけた顔を上げるのと同時に、サングラスを外した、ようだった。千夏の位置からでは、動きしか見えない。
 義兄の顔を真正面から見た男は、固まったように動きを止め、驚愕に眼を見開いて、見る見る脂汗を流した。
 そうして、義兄が何か囁きかけると、スキンヘッドの男は、顔に驚愕を張り付かせたまま、足早に去って行った。
 千夏が、あっけに取られて男の後姿を見送っているうちに、義兄は、サングラスを掛け直していた。千夏の隣へと戻ってくる。
「ごめんごめん、変なのに巻き込んで」
「それは・・・大丈夫、です、けど・・・」
「計くん! さっきの男に何を言った?!」
 小走りに駆けてきたスーツの男の人を、義兄は、宮下さん、と名を呼んだ。二十歳半ばほどだろうその人は、少し怒っているようだった。
「あのくらい、私を呼べば問題はなかっただろう?」
「活躍の場を減らして申し訳ないけど、さっきの奴、駅前で裸踊りしてるだろうから早く連絡した方がいいよ。猥褻物陳列罪、大義名分できたね」
「・・・っ、君って奴は」
 言いながらも、ストラップのひとつもついていない携帯電話を取り出して、誰かと話をする。
 短い通話を終えると、宮下は、千夏に目を留めて、どうにか微笑を浮かべた。
「今日が、入学式だったね。おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
「宮下さん、ちなっちゃん狙い? 一回りも年違うんだから、ちょっと考えなよ?」
「千夏ちゃん、こんな子の影響を受けないようにね。――それじゃあ、失礼」
 そう言い置いて、宮下は身を翻した。そうは言っても、どこかで立ち止まるのだろう。宮下の目下の仕事は、義兄の監視と保護だ。
 義兄の、特殊さによるものだ。
 邪眼、凶眼、イーヴィル・アイ。おそらくは他にも呼び名もあるだろう、それの持ち主。
 ただ、睨めば殺すというものではなく、告げた言葉に従わせるというところが、伝承とは異なる。そして、それだけに使い道が広い。義兄がサングラスを外そうとしないのは、そのためだ。
 色の濃いプラスチックが、影響を殺してくれる。
「あの人、言いたい放題言ってくれて」
 そんなぼやきを口にしながら、義兄は、千夏を促して歩き出す。
「ちなっちゃん。怖いなら、そう言ってくれていいよ。なるべく、ちなっちゃんの前ではやらないようにするから。家だって、出てもいいし。学校変えるのは、勘弁してほしいけど。一応あそこ、この辺で一番の進学校だから」
 義兄は、官僚になるのだという。
 どうせ、得質のせいで国の体制側に組み込まれるのだから、それなら、末端で指示だけされるよりも、いくばくでも見渡せる位置にいくのだと。
 けれど、そんなことを思い返したいわけではなくて。千夏は、真新しい通学かばんを、強く、握り締めた。
「怖くないなんて、言いません。人を簡単に操れるのは、使いようによっては、とても恐ろしいです」
「・・・うん」
「だけど、お兄さんが、怖いわけじゃないです。お母さんだって、かっこいい息子が出来たって、凄く喜んでるんです。知らないわけじゃ、ないでしょう」
 間を置いて、に、と、唇が持ち上がる。目元が隠れているのに、なんて表情の豊かな顔だろう。
「ちなっちゃんは?」
「はい?」
「かっこいい自慢の兄が出来たって、喜んでくれないの?」
「喜んでますよ」
 嘘のない言葉が、桜吹雪にまぎれた。

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条件反射

05/9/9

「おわ・・・っ」
 咄嗟に、手が伸びた。
 一体何をと思う間もなく衝撃がきて、呻き声に似たものが漏れる。ヒト一人、成長途中だろう年齢としても、腕で丸ごと支えるのは辛いものがある。その上、暴れるのだからたまったものじゃない。
 見なかった振りをして放り出してやろうか、と思ったが、伝わる重みは確かで、なかったものにするには、生々しすぎた。どうにか、その少女の体を引きずり上げる。
「放してッ」
「また身投げされたら気分悪いから、断る」
 肩で息をしながら、そう返すと、憎憎しげに睨み付けられた。理不尽だと、思わないでもないが、まあ仕方がない。ただのお節介だ。それよりも、タバコで弱った体に、急な運動が堪えた。
 掴んだ少女の腕から手に触れると、緊張でか恐怖でか、冷たくなっているのが判った。
 身体機能は、時として恥ずかしくなるほどに正直だ。
「カンケーないじゃん、ほっといてよッ」
「通り掛かったんだから関係がなくはないだろ。怒るなら、自分の間の悪さにでも怒れ」
「・・・さいてー」
 廃ビルとはいえ、街のただ中だ。しかし、取り壊しの期日も迫り、関係者でさえ、もう立ち入る必要はない。必要がないどころか、一部の床は、いい加減劣化し、下手をすると、最上階から七階分一気に吹き抜けを作成する、などというありがたくない事態にならないとも限らない。
 早い話が、明日の取り壊し時も含め、一切の立ち入り禁止地帯だ。
 セーラー服の少女の存在理由は知らないが、上下手祐(かみしもて・たすく)の理由は明快だ。仕事。この、一言に尽きる。
「はいはい、最低で結構。とにかく出るぞ。暴れるなら担いで行くから、厭なら大人しくしてろ」
 少女は、長い髪を揺らして顔を背けたが、担がれるのが厭なのか、渋々と祐に従った。
 祐は、高校生だろうけど中学生かもなあと、今年で三十になるはずの己に照らし合わせながら、心中のみで首を傾げる。年を取ったからというよりも、これまでの生涯で総じて、年齢判断には自信がない。まさか小学生ではないだろう。
 黙々と歩いて、飛び込まれては厄介だから、危険箇所はさりげなく避けるようにしながら、二人は出口まで、難なくたどり着いた。
 出て一息ついたところで、いまだ少女の手首をつかんでいたことに気付き、ようやく手を放した。少女は、悪態でもついて走り去るかと思ったが、じっと、祐を見つめてきた。
 ああ、厭な予感、と思うが、もう遅い。
「何も聞かないの?」
「何を訊くってんだよ?」
「だってフツー、聞くでしょ。あんなところで何してたんだとか、死ぬなんて何考えてるんだ、とか」
「聞いて、説教のひとつでも垂れたら満足か? そんなことまで知るかよ」
 少女は、ただ純粋に、不思議そうに。首を傾げた。
「じゃあどうして助けたの?」
「薬缶が鳴ったら止めるだろ、肩叩かれたら振り向くだろ、物落としそうになったら受け止めようとするだろ」
 つまりは、半ば、経験による条件反射だ。
「いいか。死ね、と言うつもりはまったくない。だが、死ぬなと言うつもりもない」
「止めたじゃん、さっき」
「ああ。目の前で飛び降りられたら、止められるものなら止めるさ」
「ムジュンしてる」
「俺の目に見えないところでなら、勝手にやれ。ただ通り掛かっただけの奴に全責任を持てるほど、超人じゃないんでな。そもそも、考え抜いて、選んだ結果だ。本当なら止めるべきじゃないんだろうが、手が出るんだから仕方ない。厭なら見えないところに行け」
 きょとんと、少女は目を丸くした。
 理解できているのかと訝ったが、少女は、小さく噴き出すと、いきなり笑い出した。楽しそうなのはいいが、笑われているのはおそらくは自分で、祐は、顔をしかめた。笑うようなことを言った覚えはない。
「変なヤツ」
 変でかまわないから、どこかに行ってくれ、と思う。ビルの壁の落書きを取ってきてくれ、という小石が宝物のような依頼は、まだ遂行されていないのだ。こんな少女がいては、うかうかと入る気にもなれない。
 それを知ってか知らずか、少女は、ひとしきり笑うと、ポケットから紙片を取り出し、祐に笑顔でそれを向けた。
「メーシあげる。そっちもちょうだい? 持ってるでしょ?」
 差し出されたそれは、プリクラの写真の入ったものだった。祐には、それが流行り物なのか、少女が変り種なのかすら判らない。受け取るとこれ以後も縁ができるだろうと思ったが、溜息ひとつでそれを押しやる。
 こちらも、ポケットから白い紙片を取り出した。
「ほれ。言っとくが、依頼以外で来ても追い払うからな」
「へー、探偵なんだ。ホントにいるんだ、わー、スゴイ」
「とっとと帰れ。もう現れるな」
「はーいっ」
 軽く応じて背を向けるが、二度と現れないかは、自信がない。
 祐には、金輪際名前も聞きたくない、と言われた相手からしつこく電話がかかってきたり、また今度、と言われた相手の消息が途絶えたといったことが、数え切れないほどある。かと思えば、警察や家族といった、第三者から連絡が来る事もある。
 さて、この少女はどうなるのか。
「そうだ」
 数歩行って、思いつきのように声を上げ、振り返る。しかし瞳は、そんな言動を裏切って、危ういほどに真剣だった。
「通り掛かりで責任を持つつもりはない、って言ったけど、じゃあ、友達や恋人が死のうとしてたら、どうするの?」
 ざくりと、古傷を抉ってくれる。
 それでも祐は、つまらなさそうに、投げやり気味に応じた。それくらいの外側をつくろえるまでには、時間が経った。その程度にしか、経っていない。
「死んだ方がいいなら、止めないさ。そうじゃないなら、どんなに嫌がられたって止める」
「良し悪しって、誰が決めるの?」
「俺が基準」
「うわ、かってー」
 瞳の真剣さがゆるみ、笑う。「じゃあね」と、少女は去って行った。今度は、足を止めることはない。
 祐は、それを見送って、溜息をひとつこぼすと、タバコに火をつけた。最後の一本。しかし、封の切っていない新品は、離れたところに止めた車の中に、ちゃんと置いてある。
 一服ついたら、仕事に取りかかろう。まだ日は高く、急ぐ仕事でもないが、明日には消えるビルだ。あり余る時間がある、というわけでもない。

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雨上がり/a>

 
2006/1/1

「あんたも雨宿り?」
 飛び込んだ洞窟の奥からの声に、フィリシスは、とりあえず返事をして、濡れ切った体を引きずるようにして奥に進んだ、炎の色が見えていた。
「災難だね、にわか雨。服、脱いだ方がいいよ。風邪を引く」
 十代中頃の少年は、そう言いながら焚き火に薪をくべた。薪が一山積んであり、薪売りかと、フィリシスは考えるまでもなく思った。
 商品を燃やしていいのかと言いかけて止めて、言葉に甘えて服を脱ぐ。しぼると、それなりに水が出た。そうして不意に、少年が全く濡れていないことに気付いた。
「お前は、雨宿りじゃないのか」
「んーとね、雨宿りと言えば、雨宿り」
 薪の位置を変えて、炎を調節する。
 長い前髪の間からわずかにのぞいた少年の瞳は、炎の色を反射してか、鮮やかな赤紫に見えた。
「移動中に昼寝したくてここに陣取って、起きたら雨だったんだよね。だから、雨が上がるまでは足止め。この勢いだから通り雨だろうけど、少し長いよね」
「お・・・」
「すっごい雨ですねえ。お邪魔していいですか?」
 顔を上げようとしない少年に声を掛け損ねたフィリシスは、洞窟に入ってきた小男に顔をしかめた。直接の知人ではないが、同業者だ。
 少年が、やはり顔を上げずに穏やかに許可を与えたので、横にずれて場所を空ける。
「いやあ、すみませんねえ。お二人も、旅の途中で? ああ、私は行商をやってるんですよ。何か買われますか? お安くしておきますよ」
「どんなものがあるの?」
「日用品がほとんどですよ。薬草に髪飾り、グレタの織物・・・」
 馴れ馴れしい言動にむっつりと黙り込んだフィリシスの傍らで、行商人と名乗った男が荷を広げ、少年が覗き込む。幾つか、興味を惹かれた物を手に取っているようだった。
「そうだ、湯は沸かせますかね? 余り物のハーブ茶があるんです。いかがです?」
「鍋と水があるよ」
 ごそごそと、少年は背嚢を探った。臨時のお茶会が開かれ、フィリシスにもそれは振舞われた。
 それからしばらくして。フィリシスは、眠ったふりをして事態を静観していた。
 小男が、そろりと少年の様子を窺う。焚き火の近くには、空になった三つのカップと、空の鍋。ハーブに、眠り薬か何かが盛られていたのだろう。少年は、規則正しい寝息を立て、小男は、臆病なほどに慎重に、その少年を調べているのだった。
 完全に薬が利いているのを確信したのか、小男は、ナイフを取り出すと、少年に向けた。
「あのさ」
 予想外の少年の声に、小男は動きを止めた。呼吸さえも止まっているかもしれない。
「俺、暴力とかあんまり好きじゃないから、追い剥ぎくらいなら見逃そうと思ってるんだよ。でも、命や自由を無くしてもいいと思うほど無抵抗主義じゃないからね。やめるなら今のうちだよ」
「ッ!」
 小男が、思い切ってというよりも恐怖に駆られ、ナイフを振り下ろす。
 しかし少年は、それを容易に逃れた。小男は目をつぶり、ただ突き下ろしただけなのだから、そう不思議なことでもないだろう。
 立ち上がった少年は、逆に小男の足を払い、体制の崩れた男を見下ろす。
「誰に依頼されたのか、どっちが目的なのか知らないけどさ。あなた程度じゃ、俺には敵わないよ。これでも結構、場数こなしてるんだから」
「そんなことがあるかッ」
 激昂して、小男は、でたらめにナイフを持った腕を振り回した。少年は冷静に、男から距離を取ってそれを見つめている。
「だって。思い切りは悪いし動きはそーゆー仕事にしては遅いし。――あっ」
 一歩進んだ小男が地面の出っ張りにつまずき、再び体勢を崩した。
 その瞬間、驚いて見開いた小男と、見ていた少年の目が合った、ようだった。そして二人は、同じように青ざめた。
 次に起こった事は、まるで夢の中の感触だった。
 小男が倒れ、少年が目をつぶり――小男が体を起こし、少年が目を開き――ナイフの切っ先を己の首に向け、少年が小男に走り寄り――「やめろッ」――ナイフが胸に埋まり――掻き切り――鮮血。
 少年は、成す術もなく、血溜まりに崩れ落ちた小男の傍らに、膝をついた。血を吹く首は、半ば以上ナイフが食い込み、骨で止まっているようだった。虚ろに、目を見開く。
 予想外の事態に、眠った振りを止めたフィリシスは、少年に近付き、顔を覗き込んだ。目が合った途端に少年は、びくりと身を引いた。しかし、数十秒して、恐る恐る顔を上げる。
 フィリシスの足を見つめて、口を開く。
「あんた――大丈夫?」
「何がだ」
「死にたくとか、なってない? 体が勝手に動くとか、ない?」
「何故俺が死なねばならんのだ」
「――――――良かった」
 長い沈黙と、深く吐かれた息。力が抜けたのか、少年は地面に座りこんだ。危うく、血溜まりに浸るところを、咄嗟に手を掴んで位置をずらさせる。もっとも、足はすでに血に染まってしまってるのだが。
「良かった。――本当に、良かった」
 馬鹿になったように繰り返す少年に、フィリシスは、腰にくくりつけていた水筒を外して、少年に渡した。
「飲め。薬は入っていない」
 証明するために先に一口飲むが、見えてはいなかっただろう。少年は、ひたすらに下を向いていた。
 しかし素直に、口に運ぶ。
「――ッ、何これ、きつすぎ!」
「気付代わりだからな」
 飲んでむせた少年は、涙目でフィリシスを見上げて、即座に慌てて、目を逸らした。そうして、小男の死体と距離を取って後ずさる。
「人が死ぬのを見たのは、はじめてか?」
「まさか」
 自嘲するように言い捨てて、束の間、少年は口を閉ざし、雨音に耳を澄ませた。
「邪眼って、聞いたことある?」
「ああ」
「俺がそれ。目が合った奴は、みんな死んじゃう。最初に殺したのは、生まれてほとんどすぐ。産婆だったってさ。髪伸ばしても、見えるんだから厭になるよ。目隠しをしても、何かの拍子で外れたりしてね。死ぬのは怖くて、そのうちに、名が知れ渡ったよ。知ってる? 邪眼って、潰したら凄い力を持つんだって。本等かどうかは知らないけどさ。邪眼の盲目者を手に入れたら、世界制覇も夢じゃないんだって。だから、目を潰して手に入れようとする奴や、殺して禍根を絶とうとする奴や、いろんなのを殺してきたよ」
 訥々と語る。
 少年の演技だけでない人懐っこさや、人を気遣う配慮、死を傷む様子から、そんな能力を持ちながらも、幸せに育てられたのだろうと察せられた。この少年は、生きることの楽しさを知っている。
 幼い頃に売られ、それ以来各地を転々とした末に殺人家業をこなす自分とは逆だと、フィリシスは、なんとなく苦笑した。
「色々、調べたんだよ。邪眼について。稀に耐性のある人もいるって。あんた、運が良かったよ。あ、雨止んだ?」
 ひょいと首を傾げて、少年は洞窟の入り口の方向を見遣った。つられて振り向いたフィリシスは、確かに雨音はしないなと、心中で呟く。
「じゃあね。こんなのに遭遇しちゃってあれだけど、元気で」
「おい」
「ん? 何?」
 自分でも呼び止めたことに戸惑いながら、フィリシスは、一度考えて、言葉を選んだ。――今目の前にいるのは、まだ己の半分くらいしか生きていない、少年。
「俺は、あいつと同業者だ」
「?」
「この体質なら、お前を殺せるだろうな。目を潰すのも、簡単だろう」
 少年の表情は、うつむいていて判らないが、緊張していることは判った。
 そうしてフィリシスは、あっさりと肩をすくめた。
「そういうことだ。生き延びたいなら、迂闊なことは口にするな」
 呆気に取られている少年を置いて、外に出る。すぐに、まとわりついていた血の匂いが薄れていった。
 歩き出そうとしたところを、袖をつかまれる。うつむいた少年が、引っ張っていた。
「あのさ。俺がついて入ったら、迷惑? ――この山越えるまででいいんだけど。町の手前で、別れるまで」
「好きにしろ」
「ありがとう!」
 ごく自然に、二人は歩き出した。薪を引っ張った少年はいささか大荷物だったが、手を貸そうとは思わない。少年も、助けてくれとは言わない。
 妙なものになつかれたと、思うフィリシスだった。

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譲り合い

 
2006/1/13

「お前が看守か」
 エーリクがにこやかに挨拶をしようとした、矢先の言葉だった。
 言葉の内容と、温度のない声音とに呆気に取られて、次いで納得する。道理で、王子の自室でという、内々の初顔合わせだったわけだ。一般での披露目までに親しくなっておく必要が、教育係、あるいはお守りという役目上あるからかと思っていたのだが、これでは、やすやすと人前には出せまい。実の父である陛下をところ構わず罵った、という噂も、きっと本当だろう。
 そう考えて、一緒に連れてきた小間使いが愕然としていることに気付き、軽く肩を叩く。
「まだ混乱されているようですね。後で呼びます。下がっていてください」
「あの・・・でも」
「下がっていなさい」
 言葉を重ねてようやく、少女は、申し分けなさそうに部屋を後にした。顔を上げる許しをもらう間もなく、気の毒ではある。
 しかしエーリクも、顔こそ上げているが、どうしたものかと、笑顔の裏で頭を悩ませた。彼が主君になるのだから、反感を買うのは得策ではないと理性が告げるが、初対面の相手にその口の訊き方は何だと、一言いいたいと思ってしまう。
「看守の紹介なんざいらん。出て行け」
「看守以外の紹介なら別でしょう。はじめましてライン家次男のエーリクと申します今後あなたの隋人ともなりますので以後お見知りおきの程を先ほどの少女が新しく身の回りの世話を行います」
 ほぼ息継ぎもなしに言いきると、王子は、ぼかんとこちらを見ていた。
「ご質問は?」
「・・・出て行け」
 すぐに仮面を被り直してしまった少年に、エーリクは胸の内で溜息をついた。あそこで笑うか怒るかすれば、もっと扱いやすいのだが。
「仰せのままに。その前に、一つご忠告申し上げましょう」
 忠告などともったいぶって言えば、下手をすれば首が飛ぶ。だが、わずか半月ほど前に城へ連れて来られた少年は、精一杯不機嫌そうに睨みつけるだけだった。
「あなたがどこの何者であれ、女性を泣かせるのは褒められた行いではありません。下働きの者の噂話では、あなたはとんでもない暴君ですよ。おかげで、ルウ・・・さっきの少女は、部屋に入る前からひどく怯えていました。何を不満に思っておいでか私は存じ上げませんが、身分を拒絶することと下風に起つしかない者に当たり散らすこととは話が別です。十六におなりと伺いましたが、四歳の幼児の方が、そこのところをわきまえているようですね。それに、彼らから反感を買おうが、あなたの立場は変わりませんよ。悪化するだけのことです」
 一応、彼がここにいることが本人の意思を無視しての出来事とは知っている。しかしだからと言って、前の世話係を気鬱に追い込んだ責任は逃れられない。
 後は後任者の仕事かなと胸中で呟いて、エーリクは一礼し、部屋を出ようとした。それで、教育係を替えろと言われて終わりと、そう思っていた。
 王子から、呼び止める声がかかるまでは。
 振り返ると、不機嫌そうな顔があった。
「お前をキョウイクガカりから外させたとして、どうなる」
「は? 次は、キャロット家かサメロア家の者が任じられることと・・・
「もういい」
 はい?と、口に出さずに首を傾げると、王子は、目を逸らした。
「次が来るなら、お前で我慢する」
「ありがとうございます」
 これは変り種だと、改めて実感するエーリクの前で、少年は決まり悪そうに俯いて、言葉を零した。
「・・・あの女は、どうなった」
「休養のためと称して、家に帰されました。自分が一番の出世だと喜んでいたので気の毒ですが、働けない人間を養う必要もありませんので」
「!」
 思わず上げられた顔に、まざまざと後悔の色が読み取れ、エーリクは、その場で主を決めた。もちろん、主君は国王陛下ではあるのだが、エーリクにとって彼は既定のものであり、多分に、義理や責任を伴って刷り込まれたものであった。
 この少年は、自分で決めた唯一人の主だ。
「出立は明日です。あなたが引止めれば、そうして優しいお言葉をおかけてになれば、すぐにも復帰しましょう」
「それなら・・・でも、さっきの奴は」
「世話係が二人でも三人でも、問題はありません。二十人や三十人となれば、いささか問題になるかもしれませんが。二人を、ということでよろしいですか?」
「・・・ああ。頼む」
 聞き慣れた傲慢さではなく、縋るような言葉に、エーリクの口元は、わずかに緩んだ。
 卑しい女との間にできた王子は、やはり同じように卑しい出の者に任せるという宰相の判断は、当面当たったようだ。侯爵家の鼻つまみ者も役に立てるのだなと、心の中でだけ肩をすくめる。
 泣いて仕事を投げ出した前任の世話係を立ち直らせるのは、言ったほどには簡単ではないだろうが、少年の気質がこれであれば、難しくはないだろう。応じて、今度こそ部屋を出た。

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しんでれら

 
2005/6/25

「シンデレラ、床が汚れてるわ!」
「はーい」
「シンデレラ、私のドレスどこ? 紫のやつ」
「はいはい」
「シンデレラー、金のネックレスどこー?」
「はいはいはい」
 質素な格好をした少女は、それなりに重い掃除用具一式を肩に担ぎ、義母や義姉たちの間を走り回っていた。
 猫が上がりこんで泥で汚れた床を拭き、暖炉の上で毛づくろいをしていた猫の足の裏をぬぐう。上の義姉のドレスは、かび臭さを払うために陰干ししており、下の義姉のネックレスは、金具が壊れているからと、本人が修理に出していた。
 実質的にこの家を取り仕切っているシンデレラが、もしもいなくなれば、義母たちが無事に生活をこなせるのかは怪しい。どうにもずぼらな人たちなのだから。
「ネックレスを受け取ってきますから、姉さまたちは食事をなさっていてください。スープ皿は出してあります」
「ええ、まだおなかも減ってないわよ?」
「これから、ドレスを着てお化粧をするんですよ。今食べなければ、パーティー会場でしか食べる機会がありません。いいんですか、王子様にがっついていると思われて」
「それは駄目!」
「それじゃあ、出てきます。妙な人が来ても、入れないでくださいよ」
 掃除用具を目に付きにくい隅に置き、誇り避けにかぶっていた布やエプロンを外す。
 いかにも下働きといった格好に、娘たちを先に行かせた義母が、眉を寄せた。
「あなたも、もう年頃なのだし、もっと相応の格好をなさいな。今日の夜会も、本当に行かなくていいの?」
「だから、苦手なんです。着飾るの。気にしないで、楽しんできてくださいね」
 そう言って、身軽に家を後にする。
 あの人たちが来てくれて良かった、と思う。早くに母を亡くし、一年のほとんどを商業で留守にする父で、シンデレラは一人だった。住み込みの召使でも雇えばいいようなものだが、家事が趣味のせいで、いたところでやることがない。
 あの人たちのおかげで、家はずいぶんとにぎやかになった。世話を焼く相手がいることも、嬉しかった。

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絶対

 

「絶対なんて、絶対にないんだよ」
 そう言って、少女は笑った。

 少女の姿をはじめて目にしたのは、奴隷市の舞台の上でのことだった。
 染め抜きの布を無造作に身にまとった少女は、客席――競り場の端にいたのだが、むしろそのために、わざと横を向いていた男と目が合ったのだった。
 目が合った途端に、少女は驚いたように目を見開いて、しばらくそうしていたかと思うと突然に、競りに加わった。
 結果、その日三番目の高値というそれなりの値がついたのだが、全ての競りが終わって「商品」の受け取りに来た少女は、逃げないように腰と両手を縛られた男に、買い手がよく言うような言葉は何一つかけなかった。
 代わりに、意外な一言。
「あなた、名前は?」
「奴隷に名前なんてありませんよ。好きに呼んでください」
 横からしゃしゃり出てきた商人は、自分では「物好きめ」という内心を隠しおおせたつもりだったろうが、顔には却ってはっきりと、そう書いてあった。
 少女は、「そう」と素っ気無く言って、縄を受け取った。
 ところが少女は、男を連れたまま俥に乗るなり男の縄を解き、仰天する付き人を気にも留めず、男に微笑みかけたのだった。
「言葉はわかるね? じゃあ、そのまま話を聞いて。逃げるのは、それからでも遅くないからね」
 そう言って、男の浅黒い手に自分の白い手を重ねた。振りほどくのはわけもなかったが、男は何故か、そうする気にはならなかった。少し前までは、隙あらば逃げようと思っていたというのに。
 逃げる気配のない男に、少女は言葉を続けた。
「取引をしたいんだ。何日か私の話し相手になってくれれば、平民の身分を用意させよう。どうかな?」
 奴隷になれば、何もかもを失う。身分も例外ではなく、それは、多くの奴隷にとってのどから手が出るくらいに焦がれるものだった。身分があれば、「人」になれる。奴隷は、それ以下なのだから。
 都合の良すぎる話に睨みつけると、少女はくすりと笑った。
「何故という問いには、閑だからと答えよう。金持ちの道楽と考えてくれればいい。何日か、では不安かな。何かと日を延ばして、身分をエサにずっと縛り付けることもできるからね。では、三日。私の母の亡くなった日を期日としよう。不安なら、正式な書類も用意させる」
 考えた末に同意すると、少女は俥を出すよう指示して言った。
「ところで、名前は?」
 今、男は少女とともに全てを塞がれた部屋にいた。二人が出会って、一年と三日が経っていた。
 男は、期日が訪れて自由の身になるのと同時に、少女に仕えることを決めた。始めは渋っていた少女だが、気の利く世話係と適度に遠慮のない話し相手、そして頼りになる護衛を同時に手に入れたと気付いてしまった上に、「自由の身故に選んだ」と言われると、認めざるを得なかった。
「でもね。今更だけど、一年前にどこかに行っていれば、こんな目に逢うことはなかったんだよ?」
 それなのにどうして、と少女が溜息をつく。ではお前を一人こんな目に逢わせ、のうのうと生きていれば良かったのかと心中で問う。しかし実際には、違うことを口にした。
「それよりも、どういう意味だ?」
「何が?」
「絶対なんて――」
「『絶対にない』?」
 くすりと笑う。その笑顔は、一年前と驚くほど変わらない。
「その通りの意味だよ。何事も変化を重ねるこの世には、絶対なんてものはあり得ない。字義の上でしかね。長老達は、守備よく怪物を閉じ込めた、これで絶対に大丈夫だ、と安心しているだろうけどね」
 楽しげに言うが、こればかりは長老たちが正しいのではないかと、男は暗澹とした思いに囚われた。
 唯一の出入り口を外から塗り固め、地に埋めた。そのうち、酸欠で死ぬことになるだろう。これこそ「絶対」に脱出不可能な部屋だ。おまけに、奇妙な力をもつという少女を封じるために、何重にも札や術が施してあるらしい。
 そんな男の視線を受けて、少女は細い肩を竦めた。
「まあ、普通の力は使えないんだけどね。ちゃんと外に出すから、とりあえずそっちの隅に行ってて――手を出さないで」
 せめて自害用にと、一緒に放り込まれていた短刀を手にした少女に、男は駆け寄ろうとしたが、鋭く諌められて立ち竦む。
 そうしているうちに、少女は躊躇いもなく短刀で腕を切り裂いた。鮮血が、滴り落ちる。男は顔色を変えて、少女に走り寄った。
「来るな! ――言ってなかったけど、この血はものを溶かすんだよ。危ないから来ちゃ駄目だ」
「何を――するつもりだ」
「この床を溶かして、せめて札だけでも破れば、力が使えるようになる」
「馬鹿な! その前に死ぬぞ!」
「いいや。どうせ死ぬなら、空を見てからにするよ。それまでは、気力だけだってやってやる」
 滴る血が、少女の肌や服を灼[ヤ]く。
 男は、少女に睨みつけられ、それ以上近付けずにいた。
「絶対無事にここから出す、って言いたいとこだけど、保証できないな。何か訊きたいこととかあったら、今のうちに言いなね。・・・話してる方が、気、紛れるし」
 痛みと出血量に顔をしかめながらも、少女はどうにか笑顔を作った。却って、それが痛々しい。
 男は、唇を噛んでいた。
「・・・何故、俺を買った?」
「ああ、それ」
 今まで幾度もはぐらかしてきた質問だった。少女が苦笑する。
「だから――って、ここまで来て誤魔化すのもね。本当のことを言うと、目が合ったときに、なんとなく、話したいと思ったんだ。この人なら、親からも忌まれた怪物でも、真っ直ぐに見てくれるんじゃないかって。根拠もないんだけどね」
「それなら、どうして・・・」
「期限をつけたのは、怖かったから。怪物だってばれたら、皆と同じように怯えられるだけだと思った」
 見る目がなかったねと、笑う。
 奇妙な力のことも、腕にある得体の知れない鱗のことも、知りながら受け入れてくれた。
「それに――っと。上着、貸してくれる? 返せないけど。投げて」
 切りつけた方の腕を押さえて、少女が体勢を変える。血の気を失って、その顔は蒼褪めていた。血を止めるのだと察して、男は上着を脱いで歩み寄った。
 少女が、身体を引く。
「おい。止めるんだろう」
「だから、来るなってば」
 言う声に、力がない。よろけた身体を、血にはかまわず支える。男の掌が、音を立てて灼けた。
 腕にきつく巻いた上着は、早くも煙を上げていた。
「一人で無理をするな」
「・・・ごめん」
 曖昧に笑う。
「じゃあ、言葉に甘えて。もう少し、体支えててくれる?」
「ああ」
 半ば男に体を預けたまま、少女は傷を負っているのとは逆の、右腕を横に伸ばした。すっかり血の気の引いた指を、どうにか伸ばす。それを、上に振り上げるだけだった。
 それだけで、上に向けて大きな爆発のようなものが起きる。それは、見事に天井と土を吹き飛ばした。
「おい、シェアラ・・・シェアラ!」
 月の光を浴びて、ぐったりともたれかかる身体は重く、男は、今にも狂乱に陥りそうな自分を、必死に押さえていた。
「・・・ありがとう、ガーディア・・・あなたがいてくれたから、まだ人間でいられた」

 あの日の出会いでより救われたのは、果たしてどちらだったのか。二人とも、答は知らない。
 ただ、月が冴え冴えと光って、美しかった。
「・・・死ぬなよ」
 そっと、身体を抱えて跳躍する。少女ほどではないにしても、男も多少は「人」から外れている。それ故に、奴隷市で高値がつくほどだった。高い距離を飛び、地面に降り立った。
「移動して、大丈夫か?」
「・・・ん・・・平気、だよ」
 到底大丈夫には見えなかったが、肯いて、男は少女を抱えたまま歩き出した。知り合いの闇医者のところに行くつもりだった。
「シェアラ。絶対なんてないって言ったけど、俺は絶対に、ずっとお前の傍にいるから」
「・・・ありがと、ガーディア」
 そう言って、少女は笑った。

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