「逃げるな、衣装合わせにならないだろ!」
「聞いてないぞこんなの、俺は!」 無背の神童は、逃げの体勢に入りかけた鬼子の白い半袖シャツの裾を掴んで、怒気を込めてにっこりと微笑んだ。
「衣装を決めるときに任せるって言ったよね? 原案も見せたよね? 仮縫いの時にもいたよね? そこまでやっときながら聞いてないってのは、ちょっとおかしいだろう? ねえ、何か間違ったことを言ってる?」
ぐ、と、言葉に詰まって動きを止めた隙に、裾から移って、しっかりと腕を掴む。それがすがりつくようにも見え、見ようによっては仲のいいカップルなのだが、周囲は確実に距離を置いている。もっとも、それどころではないというのもある。
学校を上げての梅雨祭は、すぐそこに迫っているのだ。
梅雨祭の片付けの最中には来年のことに思いを馳せる、というくらいには、熱が入っている。個人参加でも団体参加でも、手を抜く者はいないのが常識だった。――基本としては。
「だって、女物なんて」
「違いなんてあんまりないじゃない。それにちゃんと、設定図に書いてます。こっちがキミでこっちがボク。この絵、見せたね? 見て、納得したからこれでいいって言ったんだと思ったけど?」
もしかすると唯一の、梅雨祭に乗り気でない友人に、無背の神童と呼ばれる竜見和希は、手書きの衣装設定図を突きつけた。
活き活きとした瞳に、うっかり目線をやってしまったクラスメイトたちが、わざとやったに違いない、と確信する。特別、注釈を与えることもなく見せたのだろう。中には、異端児の長良幸に、ほんのりと同情心を抱く者もあった。
しかしそれも、じっくりと見ていれば、そして仮縫いの段階でも気付けたはずのことだ。そのことは、幸にも自覚があるらしく、反論の言葉は出なかった。そもそも、言う通りに、少し見たくらいでは判らないくらいの差異だ。
小柄な少女に追いつめられて、同年代の中でも身長のある青年は、足掻くように天井を仰いだ。確かめるように、右手首の腕時計を見るのは、ただの癖だ。しかし、妙案は出なかったらしい。
「わかった。俺が悪かった」
「いやだなあ、まるでボクがいじめたみたいだ」
そんなことを言いながらも、既に衣装を着せかけている。羽織っていくものだから、脱ぐ必要がないのは楽でいい。
しかしこれでは着せ替え人形のようで、覚悟を決めた幸は、和希の手から衣装を奪い取り、渋々と身に纏った。和希も、腹を括ったらしいと見定め、自分の分を身につける。
布をたっぷりと使った服は、下手をすると裾を踏みつけそうだった。唐風の衣装にしたのだと、和希が、今度は裏面はなしに笑顔を見せる。
和希は、いっそ異常なほどの記憶力で神童とまで称えられるが、そのせいか応用しかできないのだと知っている。しかし、それは卑下したものではなく、時には大いに有効だ。
そういったことを役立てられるのは、嬉しい。
「…ひらひらしてる」
「素っ気ない感想ありがとう。当日は、ガクランは脱いでね。着るなら、Vネックのシャツやランニングで。草履に履き替えるのも忘れないように。腕時計は――」
「外せない」
有無をいわせず言い切る言葉に、一瞬だけ目を見開いて、和希はこくりと肯いた。
拘りの一つや二つ、誰にでもあるものだ。例えば和希は、中学に入る少し前から延ばし始めた髪を、肩よりも短くするつもりはない。そして、幸が体育の時でさえ時計を外さず、しかも、教師にも渋々と認められているのは、周知のところだ。
「わかった。じゃあ、袖に隠すように気をつけて」
「ああ。…男女逆転する意味、あるのか?」
「あんまりない」
素直にそう告げると、絶句する。その間抜け面に吹き出してしまい、慌てて謝った。
「意表を突けるかな、と思ってさ。奇策の外道だけど、どうせなら優勝狙いたいし。参加するなら頂点だ」
「参加するならって、これ、全校強制参加だろ」
そうでなければ参加していない、と言外に言う幸に、和希は、わかってないなあと肩をすくめた。
「強制だろうが自由だろうが、参加は参加。やる以上は全力を尽くさないと、企画者にも他の参加者にも失礼ってものだろう? ま、現時点でキミが一番礼を欠いている相手は、ボクだと思うけどね」
「お前が勝手に仕切ったんだろう」
「酷いなあ、ヒトが丹誠込めてふたり分も作ったっていうのに」
「それは――ご」
「楽しんでやったんだけどね。梅雨祭、キミがさぼらず参加してくれるなら、苦労も報われるってものだ」
そう言って笑って、和希は、確認は済んだから脱いでいいよと、明るく告げた。