青空に白い月


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「これはまた、派手に荒らされたね」

 幸が宝とともに借りていたのは、小さなアパートの一室だった。待ちきれず、鍵を開けた幸の肩越しに覗き込んだ和希は、呆れるよりも感心したように声を上げた。

 入った狭い上がり口からすぐ、部屋につながっているつくりだ。その部屋の中には、家具と思しきものは、和希に見える範囲内では、小さな箪笥とちゃぶ台のような低いテーブル。それと、本棚。あとは、雑誌と衣類などが雑多に散らかっている。

 とりわけ衣類が、棚や本棚の上の方に引っかかっている。まるで、子供が遊びで放り投げたかのようだ。本棚の本がきっちりと収まっている分、落差が激しい。

「…いや」

「何?」

 小さい声に聞き返すが、返事は返らず、幸が背をかがめ、靴を脱ぐ。そのまま、ずんずんと進む。

 和希もそれに倣ったが、敷き詰めるように散らばった服を踏んでいいものかと、足を浮かせたまま踏み出せない。

「ええと、あの?」

「上がれ。変なものは落ちてないはずだ」

「…ねえ。まさかこれ、元からってことはないよね?」

「…悪いか」

「大いに悪い、信じられない。片付けるよ」

「は?」

「それどころじゃないだろうけど、どうせやることないし。散らばってる服、着たやつ? 洗濯済み?」

 言葉を忘れたかのように立ち尽くす幸に、繰り返す。未洗濯のものなら洗濯かごに一時保留だし、洗濯されているものなら収納だ。和希は、当然とばかりに、そんな算段を立てる。それとも、どちらにしても洗った方がいいだろうか。食べかすなどは、見当たらないようだが。

 唸り声に顔を上げると、幸が、睨み付けていた。

「ふざけるな」

「言っておくけどボクは、遊びだってからかいだって、手を抜くことはあっても、ふざけてやることはないよ」

「状況がわかってるのか」

 低い声に、苛立っていると判る。他のクラスメイトであれば、一言たりとも口を開くことができなくなっているだろう。謝ることもできず、真っ青になるに違いない。

 しかし和希は、いっそ傲慢なほどに真っ直ぐに、幸を見つめた。

「しばらくここにいるんだろう。それで、どうするつもり? じっと、二人で陰気に顔をつき合わせていれば満足? ある程度どんな行動を取るかは、来る途中で話したはずだね。つき詰めて話すかい? 不確定部分をおいておかないと、柔軟な行動を取り損ねるおそれがあるから、ボクは奨めないね。それとも、杉岡宝さんの現状について話し合うか? 推測ばかりになると思うけどね」

「…悪かった」

「謝るようなことじゃない。キミが落ち着いていられないのもわかる。つもりだ。とりあえず着替えて、動物園の熊よろしくうろうろするなり、体を休めて座るなり、あらゆる状況のシュミレーションをするなりすればいいよ」

「間違っても慰めじゃないな」

 そうぼそりと言って、苦笑いを浮かべた。幸は、悪かった、ともう一度繰り返し、軽く肩をすくめた。そしてそのまま、自室があると思しき方へ姿を消す。

 竜見家には生憎、男性の居住者がおらず、室内なら多少寸足らずでも祖父の着物で事足りたが、それで外出させるというのも問題だ。しかし、洋服はといえば和希か節子、祖母のものは論外として、祖父のものはサイズが違う。着て来た学生服を洗濯はしたものの、乾いていないと節子に取り上げられた。

 そこで出されたのが、梅雨祭のために和希が作り、持ち帰りを拒否された衣装だった。目を惹くことは仕方がないが、和希は、自分を基準に動きやすいものを作ったから、途中、襲撃されてもある程度の立ち回りはこなせたはずだ。

 嫌がっていたそれを失念しているくらいだから、本当に、気が気ではなかったのだろう。無理に引き止めて悪かったかな、という気もしないでもないが、あのまま帰していれば、下手をすれば今頃、誰も知らないままに高杉と揃って行方不明だ。冗談ではない。

「さて」

 片付けるか、と、近くにあったシャツを拾い上げる。

 これは、男二人だけの生活だからというよりは、性別に関係なく、どうしようもなく生活のできない二人が、共同生活を送ってしまった悲劇…あるいは喜劇じゃなかろうかと思ってしまう。和希とて、掃除好きというわけではないのだが、明らかに書籍にだけ注意を向けたこの部屋は、どうかと思う。節子が見たら、悲鳴を上げること受けあいだ。

 和希が六着ほどを拾い上げたときに、来客を知らせる音が鳴った。

「はいはい」

 郵便かお客サンか、と身軽に立ち上がった和希は、扉とは逆方向に小さく駆けた。開けなければ確認できない扉なので、お客サンだった場合、不用意に家に上げてしまうのはまずいだろう。

「家主さん家主さん」

「来たか」 

「わからない。開けていい?」

「訊く必要もないだろう」

「宝箱と思ったら吃驚箱、ってのが定例だけどねえ。さてこれはどっちやら」

 軽口を叩きながら、方向を変えた和希は、唐突に肩を掴まれ、間の抜けた声を漏らし、上向いた。幸が、真剣な顔で前を向いている。

「俺が出る。お前は――」

「窓でも見張ってよう」

 適当に決めて、立てかけてあったほうきを持って移動する。分散して襲う、というのも常套手段だ。おそらく幸は、そこまでは考えていなかったのだろう。一瞬、驚くような顔をした。本当に入ろうと思うならどこからでも入れるだろうが、とりあえず和希は、玄関の向かいの窓の辺りに立って、肯いて幸を促した。

 これで書留郵便なら、驚いた配達人の顔が見られるかもしれない。ぐちゃぐちゃの部屋と、窓でほうきを持って立つ人だ。和希なら、何事かと訊いてみたくなるくらいには驚く。

 ゆっくりと、幸が開け放つと、黒いスーツの男が立っていた。

 ここで、外開きの扉に頭をぶつけてたらコントなのに、と考えてしまった和希は、逃避しているなと、一人、苦笑をこぼした。残念ながら、そんな事態にはならなかったのだが。

「長良川幸、と、名乗っている方ですね?」

「…!」

「幸、殴ってもよくは転ばないいよ」

 とっさに拳を振り上げた幸に、静かに声を投げかける。安心はできないが、とりあえずは情報を持ってきてくれたらしい人物だ。無論、それは十分に取捨選択されたものだろうが、ないよりはずっといい。

 幸も、そのくらいのことはわかっているのだろう。すぐに、拳は下ろされた。

「そちらは、竜見のご長女ですか」

「正解を褒めてあげるから、名刺のひとつでももらいたいものだね。呼んでもいない訪問販売の人は、無理矢理にでも置いていくものだよ。品切れなら、口頭でも許してあげよう」

「お祖母様は、お元気ですか」

「おかげさまで、湯治に出かけようとはりきっていた。あの人も、きっかけを提供してくれたことに、感謝の言葉くらいはくれるかも知れないね」

「そちらは、私が頂くべき栄誉ではありませんね」

 互いに笑顔ながら――もっとも、男は黒の濃いサングラスで目元が隠れており、和希は、男に対しては逆光の位置に立っている――、氷山の一角の言葉をやり取りしている。芝居じみてるなあと、和希は、心の中だけで呟いた。

 それも、まったく面白くない芝居だ。

 和希は、溜息をつき、何気ない動作で外向きに開く窓を開けた。隣の部屋の窓から身を乗り出し、なんとか開けようと手を伸ばしていた別の黒スーツに、遠慮なくガラス窓の枠をぶつける。男は、その拍子に外れてしまった黒眼鏡をあたふたと掴もうとして、危うく落ちかける。その、おおきく泳がせた腕を、にっこりと笑って引っ張った。

 生憎とあるいは幸いに、落ちはしなかったが、大いに肝を冷やした黒スーツは、素顔をさらして、凍りついたように和希を凝視した。

「ああ、どこか覚えがあると思ったら。昨日、田んぼの中に尻餅をついて、両手で苗を握りしめてた人だね。そう言えば、梅雨祭にも来てたか。2‐6の屋台で焼きそば買ってた」

「なっ…何故!」

「サングラスで印象は変わるけど、さらされてるパーツは多いからね。体型だって変わるわけじゃないんだし。逐一照らし合わせれば、そのくらいの判別くらいはできるさ」

 勿論、写真機並みの性能を持つ脳をもち、自在に記憶を引き出せる和希だからこそ、実現できたことだ。

 男は、自分の半分ほども生きていないだろう少女に、怯えるような、化け物を見るような視線を投げつけた。それを鼻先で笑い飛ばすには、虚勢と予めの想定で十分だ。和希は、窓を閉めて玄関に視線を戻した。

 幸は、何が起きているのか判っていないらしくわずかに困惑顔だが、対する男の方は、口元に笑みを浮かべる余裕すらあった。

「同席許可は取ってあるよ」

 和希の身柄と単なる退席と、どちらが目的だったのかは知らないが、簡単に応じるつもりもない。そのつもりなら、昨夜、あの「長良幸」を見た時点で手を引いただろう。本人の希望通りに。そしてここでの宣言は、抜き差しならない状況に己と幸を追い込むものだと、理解しているつもりだった。

 まるで小説や漫画だ、と、皮肉交じりに思わないでもないが、実際の現実だ。

 祖母と節子は、無事に家を出られただろうかと、それだけは気に掛かった。迎えを寄越させると言っていたことと、この黒スーツの男が示唆以上を見せなかったことから、大丈夫だろうと、言い聞かせる。最後の切り札に取っておくことも考えられるが、果たして和希は、そこまで重視されているのだろうか。

 男は、軽く肩をすくめた。

「それでは、時間も無限ではありませんし、本題に入りましょうか。杉本氏は、現在私どもの施設にて休養を取られています。是非とも、あなたにもいらっしゃってほしいとのことです」

 どこが本題なんだか。

 そう、声に出さずに呟く。ここまできたら茶々を入れるつもりはないが、表皮だけの慇懃さが鼻につく。

 とにかく、これで目的地までは連れて行ってくれるはずだ。勿論、その先には、檻が門扉を開いて待っているはずだ。

「…宝が、本当にそう言ったのか」

「そうですね。多少は、違ったと思います」

「行く」

「幸!」

「文句は言わせない」

「わかった。それなら、ボクも一緒に行かせてもらう」

「駄目だ」

 敵意であるはずはないのだが、強い意思を込めて、睨み付けられる。さすがにこれでは、軽口の出ようもない。

 ぴんと張った空気を伴い、見つめあう二人を、黒スーツが面白そうに見やっていた。

「ここまで来て、それはないだろう。ボクも行くということで、話はついていたと思ったが?」

「勝手に思い込んだんだろ」

「幸。もう一度、そんなことでボクと言い争うつもりか」

「…頼む」

 静かに、言っただけだ。静かに、たった一言。

 深々と、和希は溜息をついた。

「好きにすればいい。それが、君の望みと言うならね。学校には、ちゃんと戻るのか?」

「さあ、どうだろうな」

「お話は済みましたか」

 嫌味な冷笑を浮かべて、黒スーツが口を挟む。それを睨み付けて、どうぞと、和希は幸の肩を突いて送り出した。幸は、和希と向かい合っているというのに、見ようともしない。無理に、視線を外して顔を背けていた。そしてそのまま、行ってしまう。

 扉が開き、閉まる。

 そうして、二人が出て行くと、和希は、部屋の受話器を取った。無断借用だが、このくらいで怒りはしないだろう。

「――はい。和希です。――ええ。そちらはどうです? ――それなら良かった。――いえ、ただの確認ですよ。――ええ。そうですね。車を一台、回してもらえると助かります。――はい。では、また後ほど」

 祖母との長くはない通話を終えると、和希は、ぐちゃぐちゃの部屋を最後に一瞥して、後にした。錠のかかる音がすると、それで、和希がここに残る理由はなくなった。

 さあて、長い一日になるか短い一生になるか。

 声には出さずに呟いて、和希は、アパートの前で大人しく、迎えの車を待った。


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