和希が目を開けると、巽の顔があった。
「あにさま――って違う、たつ兄。何がどうなった?」
自分のものでない記憶の余韻を振り払い、急いで身体を起こすと、勢い余って、巽に頭突きを喰らわせかけた。向こうが身体を引いてくれたおかげで免れたが、阿呆、と、額を叩かれた。
見れば和希の部屋で、まさか熱にうなされた夢なんておちじゃあと、和希は、もしかすると今までの人生はじめて、自分の記憶を危ぶんだ。寝起きで混濁した記憶と意識は、このときには既に、いつも通りに戻っていた。
巽は、なんだか懐かしい笑みを浮かべる。
「気分は? 何か飲むか食べるかするか?」
「幸は? 浅葱さんは? 会長もいたでしょ? あの大雨は? それに――」
あの記憶の数々。それは、鍵を掛けて仕舞った。科学的にどうであれ、例えば思い込みの産物としても、あの情報量では、耐えられない。発狂してもおかしくはなかった。断片はまだ残っているが、和希はあれらの記憶を、自分の意思で押し込めた。
しかし和希の記憶は、少しだけ遡って始まるようになった。両親の優しい手を、覚えている。
「とりあえずひとつに絞れよ、一度には無理だ。俺の知ってることでよければ、全部話すから」
「…幸は?」
「部屋を借りて寝てる。怪我もしてないから、安心しろ」
「何がどうなったの?」
「あー、ちょっと待て、腹減った。何かあるだろ、探してくるから、その間にしっかり着替えとけ」
「しっかり?」
言われて和希は、自分が、寝巻きに使っている浴衣を一枚羽織っただけだと気付いた。帯すら、ゆるく巻かれている程度だ。
考えてみれば濡れ鼠のはずで。巽も着替えている。巽も和服を選んだのは、祖父のシャツでは、多少窮屈だからだろうか。
和希は、そそくさと立ち上がって部屋を出ようとする巽の着物の裾を、体ごと倒して捉まえた。
「たつ兄が、着替えさせてくれた?」
「濡れてちゃ風邪ひくだろ?」
「うん、それはありがとう。ボクにも何か食べるもの、よろしく。起きてたら幸にも」
「…はいはい」
ふすまの閉まる音を聞きながら、和希は、畳に上半身を乗り出すような状態で寝そべっていた。怒るか恥ずかしがるかといった反応を取った方がいいのだろうが、そういった感情は生まれていない。ぼやりとする。
ただ、ぼんやりと。
結局、巽が入れたてのほうじ茶と土鍋のおじやを運んでくるまで、和希はそのままでいた。とりあえず、足音で身体を起こし、帯を締め直しはしたが、浴衣のままだ。梅雨冷のする日で、それだけでは少し肌寒く、出しっ放しにしていた白のパーカーを肩に羽織る。
「少年は寝てた。まあ、色々やって疲れたんだろうな。実際に動いたのは浅葱の方だけど」
「色々? 雨降らせただけじゃなくて?」
それぞれ、茶碗に湯気の立つおじやをすくい入れる。のりとごまが散らしてあり、白菜と葱、鮭を卵でとじてある。昨日夕飯だった塩鮭は残っていたのかと、和希は妙なところで感心した。
一口飲み込んで満足げに頷いた巽は、俺も詳しくは知らないが、と前置きをした。
「雨を降らせただろう? それで取り囲んでた奴らは完全に戦闘不能になって、俺たちも身動き取れなくなって、それからあいつは、一人であの胡散臭いオヤジに会いに行ったらしい。姿を見せたときには、腕時計を嵌めていた。で、そのままぐっすりお休みだ」
「はあ」
「大変だったんだぜ。お前と後輩君担いで、大分ましになったとはいえ雨の中! 道がぬかるんでるどころじゃなく水流れてるし、重いし」
「あ、ありがとう。って、会長は?」
「寝てる」
一体いつからうちは民宿代わりになったんだろうと、場違いなことを考える和希だった。
どのくらいの時間が経ったのかと時計を見れば、十二時を差している。当然夜の十二時だろうが、思っていたよりも、眠ってはいないようだ。
「それで、たつ兄は?」
「はい?」
「どう絡んでくるの。ボクが連絡して、手伝ってもらって、それ以外にも噛んでるんだよね?」
「色々と縁があってな。まあ、深く気にするな。俺がカズの嫌がることはしないって、判ってただろう?」
「まあね」
おなかがふくれると、腹立たしさもどこかへ消えてしまう。それでなくても、そもそも和希は、巽を疑ってはいなかったのだし、裏切られてもいない。だからこそ、問いかけも後になった。
しばらく二人は、食べることに専念した。
黙々と雨音を聞きながら食べ進み、二人分にはいささか多かったはずのご飯が姿を消すと、一足先に食べ終えていた巽が、じっと和希を見ていた。
「カズ。…まだ、気にしてるのか」
何を、というのは無駄な反応だ。
「だって、忘れられないよ。ボクは、覚えているからね」
「そういう問題じゃないだろう」
「じゃあ、どういう問題? 忘れた振りをして、仕舞い込んでればいい? 厭な思い出だからって、封をすればそれでいい? ボクは――お祖父様が好きだったのに、それも一緒に、押し込めてればいい? ボクには、記憶を薄れさせることなんてできないんだから」
祖父は、和希を男として扱った。そうやって、十年近くを過ごしていった。和希は、それが常識外れと知っても、祖父が好きだから、否定しようとはしなかった。
だが最期に、謝られてしまった。赦してくれと。――赦せるような対象が、そもそも和希の中にはなかったにもかかわらず。恨んでいるだろうと、そう、言われた。
何も言えなかった。
祖父が好きだった和希は、何も伝わっていなかったことに驚き、ただ無言で、まるで赦すことを拒むかのように、そこにいた。何も言わなくても伝わると、そう過信していた。
今更涙も出ない和希の頭を、巽の手が優しく撫でた。
「じいさん、頑固だったからなあ。全部知ってたよ、あの人は」
「――え」
「お前の気持ちを知っていて、それでも行動を変えられなかった自分を、赦せなかったんだよ。挙句に最後の最後にそんな言葉残して逝っちまうんだから、とんだ大馬鹿野郎だと、俺なんかは思うけどな。俺が言っても説得力ないか?」
「ううん」
今度こそ泣きそうになって、和希は、ただただ首を振った。
「――ああもう、お前は。なんでもかんでも信じるなよ。好きな奴だって、間違ったことくらいするし、嘘だってつく。たのむから、もっと疑ってくれよ。いや、今は嘘を言ってるつもりはないけど」
何も言えず、和希は困ってしまった。そんな和希を見て、巽が苦笑いする。
「全肯定されても甘えないでいられるほど、俺は強くないんだよ。カズ」
「…だから、ボクと距離をおいたの?」
呼び方を変えて、県外に出て、和希の前から姿を消した。勿論、通いたい大学が近くにはなかったからでもあるのだろうが。
巽は、ふっと息を吐いた。
「さて。少年でも、起こしに行くか。後輩君は、寝かせとけばいいだろ。起きるとうるさそうだし。馬鹿なことしないように引き止めるのにも、随分苦労したんだぜ」
「たつ兄」
「なんだ?」
「…ううん。ありがとう」
巽が出て行くと、和希は、長い溜息をついた。
人との間に壁を感じて、それを感じない人に対しては、どこまでも甘えてしまう。そうして、相手にも悪影響を与えるなら。いない方がいいのかなと考えかけて、和希は、母の手を思い出した。
助けてもらったのに、情けない。
和希は、食器を載せた盆を持って立ち上がった。外の様子が知りたい。ついでに、食器も片付けてしまおう。このまま置いていれば、節子が怒るのは目に見えている。
「降ってるなあ」
雨が。あの土砂降りと比べれば同じものだとは信じられないような細い雫が、降り注いでいた。
廊下のガラス戸越しにそれを眺めながら、冷たい床を踏んで歩く。裸足に、ひやりと冷たかった。
「被害、出てないといいけど」
いやきっと出てるけど。苗が流れてなきゃいいなと、和希は思った。
「神様」に出会って、自分自身、あの本流のような記憶を体験したというのに、考えるのはそんなものだ。小さいなと、苦笑がこぼれた。
流しに食器を置くと、汚れが落ちやすいように水を張った。そのまま、節子が使っている丸椅子を持ち出して、流しの正面の窓を開けて、ぼんやりと外を眺める。色々とありすぎて、考えもまとまらない。何を考えればいいのかもわからない。下手に記憶力だけがいいと面倒さ倍増だと、和希は嘯いた。
「和希」
どのくらいそうしていたのか、声が聞こえた。電気もつけていない暗闇に、黒い人影が佇んでいた。
「浅葱さん? あれ、どうして?」
あの気配には、早くも慣れてしまった。そうして声は同じだが、幸が和希を名で呼ぶことはないだろう。闇で、相手の表情は判らなかった。
「長良幸は、吾に明け渡してしまった。和希。説得してはくれないか」
「幸が許してくれたら、って言ってなかった?」
「ああ。そう思っていた。だがあれは、吾の起こした結果を見て、比べて、吾がいる方が有益だからと、誰にも迷惑をかけないからと譲ろうとする。卑怯だ」
憮然とした声に、つい笑ってしまう。怒っていないところがおかしい。まあ怒ったところで、自分相手の喧嘩など不毛でしかないのだが。
「そりゃあ、話すくらいならいいけど。結局無理かもしれないよ?」
「それでも構わない。…和希」
「はい?」
「お前はあれを――いや、いい。フシャとは知らなかった」
「え?」
「気にするな。頼んだ」
再び言い逃げられて、待て、と言う間もなく、目の前に立っているのは幸だった。
フシャフシャ、と繰り返し、巫者かと漢字を当て嵌める。つまりは、巫女。なるほどと、和希は自分の能力の一端が腑に落ちた。
膨大な記憶の蓄積があれば、異能者と見做されただろう。また、それらを有効活用できれば、十分に不思議な脅威の力となる。情報や知識はいつの時代のどんな場所でも有用だ。
やはりどうあっても異人らしいと、和希は思った。しかし何故か、もうそれが厭わしくはない。
だが、今の問題はそれではなく。
「幸」
「竜見――?」
はっとした風に、幸は手首を押さえた。相変わらず影だけで顔は見えないが、動きに気付いた和希が、その腕を捉まえる。
「逃げるのなし」
「離せ、俺はっ」
「ここにいたくない? 全く? それを外してしまえば、幸の記憶は全く残らないんだろう? それでいいの?」
「…お前に何が判る」
「わからないから訊いてるんじゃないか。知ってるなら訊かないよ」
とりあえず、台所に立ち尽くすのも間抜けだと、和希は幸の手を引っ張って連れ出した。廊下に出ると、とうとう雨が止んだのか、雲の割れ目から、月だけが顔をのぞかせていた。
「ああ、止んだね。溜まってるらしい水も引くかな」
幸はむっつりと黙り込んだままで、和希は、盛大に溜息をついた。用心のために手首は離さないまま、冷えた廊下で向かい合う。
「言ってくれないとわからない。本当に厭なら、止める権利なんてないしね」
幸は頑なで、自分や祖父以上の頑固者ははじめて見たかもしれないと、和希は密かに嘆息した。いや、これは頑固というのだろうか。
「…俺は。いれば、迷惑を掛けるだけだ。…宝にも、お前にも。戻れば、簡単に片付くことだったのに。逃げて、危険な目に遭わせた」
「だからって、幸がいなくなる方が厭だ」
「何を――」
「言ったじゃないか。幸が大好きだって。そう言った相手は、浅葱さんじゃなくて幸なんだよ。あの人は幸が羨ましいって言って、生きていてほしいって言ってるのに、遠慮する必要がどこにある?」
「竜見、お前…」
「何?」
手は、もう離してしまった。
差し込んだ月の光に、うっすらとではあるが、呆然とした幸の顔が見えた。そうして、ふっと笑う。
「…もう少し、いてもいいか?」
「いいに決まってる」
良かった、と胸を撫で下ろす。好きにすればいいとは言ったが、いなくなるのが厭なのも本当で、恐かった。
安心すると、日常が戻る。
「あ。とりあえず、何か食べた方がよくない? 簡単になら」
「暗いところで何してる、飯なら作ったぞ」
「あー。絶対全部聞いてたな、たつ兄」
言葉と一緒に明かりのついた台所に、足を向ける。行ってみれば、一口大のサンドウィッチが並んでいた。本気を出せば手早い。
「そうだ、少年。杉岡氏は無事だ。今は神戸の学園都市にいる」
「どうしてそんな遠くに?」
「俺の大学があるから。教授にも一枚噛んでもらったんだが、どうやら知り合いだったらしくてな。何か知らんが、少年が無事だと知ったら、二人で酒盛りを始めて研究分野のことやら何やらで盛り上がって、他の奴はついていけてないらしい」
「…あの人も、なかなかに面白い人なんだね…」
さすがは幸の育ての親だ、と、ふっと和希は視線を遠くへ飛ばした。
そうして壁掛け時計が目に入り、あ、と短く声を上げる。
「明日、学校あるのに。うわー、面倒だなー。休みたい」
「休めば? どうせ梅雨祭の片付けだろ。というより、休みじゃないか?」
「どうして?」
「土砂崩れ。おかげで俺は、お前と後輩君担いで難儀した。いやあ、ここは無事でよかった。俺の家なんて、流されてるかも知らん」
「そ…そういうことは早く言ってよたつ兄…」
確かに、あの降りなら不思議はない。早々に土砂崩れが起こり、山津波にならなかっただけましとも言える。
しかし呆れ顔の和希に対し、巽は、からからと笑った。
「何、民家がまばらなおかげで、そこまで大したことにはなってない。後片付けが大変なくらいだろう。ただ、道がいくらかつぶれてるから、多分学校はない。むしろいいこと尽くめだろ?」
「いや、よくはないと思う」
溜息をついて、いつの間にか黙々とサンドウィッチをつまんでいる幸を見て、しかしそれでよかったのかもしれない、とも思う。幸は、もう二、三日、休んで杉岡と話をした方がいいだろう。
本当に全てが片付いたのかは知らないが、一旦は、これで収まったと考えてもいいのかもしれない。
「ところで、カズ。俺のこと好きか?」
「うん、好きだよ? 何、突然」
「いやいや、気にするな」
そう言って巽は、幸に笑いかけた。「ふふん」とでも言いそうな笑い方で、うわ柄悪い、と、和希は軽く顔をしかめた。何か妙なところで、幸に対抗意識を持っているような気がする。
「…竜見」
「はい?」
「いい性格をしてるな、こいつは」
「カズ。友達を作るなら、もうちょっと選んだ方がいいぜ?」
「…巻き込まないでくれる? 二人の気が合ったのはよく判ったから。もう、寝るよ。お祖母様と節子さんの部屋以外なら、適当に使っていいよ。おやすみ」
ああ疲れた、と、小さくぼやく。起きたら、何が起こったかの確認をして、祖母と節子に連絡を取ろう。本当に片が付いているのなら、明日には、日常に戻れているだろう。
「ああ、カズ。俺、明日か明後日には大学に戻るから」
「…わかった」
「で、秋には教育実習で一旦戻ってくるからな」
「何!?」
和希よりも先に、幸が厭そうな声を上げた。驚いて振り返っていた和希は、睨む幸と、不敵に笑う巽の両方を見ることになった。
なんだか、楽しそうだと思った。