青空に白い月


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 無背という地名は、今では存在しない――ことになっている。数年前、流行に乗ってうっかりと合併してしまったためだった。おかげで今では、県立高校や市立図書館の分館に名前が残る程度だ。

 それでも、地元では未だに、「無背」と呼ぶ。そこには、市名を決めるときに、県内で一番北に位置するなどという、安直な案が通ったことに腹を立てたためでもあった。

 無背は、よく言えば自然が多く、悪く言えばただの片田舎だ。

 そして今時珍しく、地域の人の結束は強かった。人情に厚く、因習が残っている。田舎の豪族を主張するかのような日本家屋も、あばら屋のような民家も、依然として残っていた。

 そのうちの一軒の前で、自転車を押す幸とそれに乗った和希が立ち止まった。

「悪いね、送ってもらっちゃって。お茶飲んでいく?」

 意外に広い背中を見るとはなしに見ながら、和希は、学校から歩いて自転車を押してくれた幸に話しかける。自転車は和希のもので、二人乗りをすれば、少なくとも途中までは早かったのだが、幸は頑として聞き入れようとしなかった。

 妙なところで突っぱねる。

 幸は、軽く捻って湿布の貼られた和希の右足首にちらりと視線を寄越し、無愛想に首を振った。

「いや」

「そう? 今日は、節子さんが駅の方まで出るって言ってたから、明月堂の羊羹買ってきてくれてると思うんだよね」

「明月堂?」

「えっ、知らない?」

 思わず身を乗り出して幸の顔を覗き込み、本当と知って絶句した。明月堂だよ明月堂、と、意味もなく言葉を繰り返す。

 市街地中央、この辺りでは一番大きな電車の駅の近くにある和菓子屋は、ちょっとした有名店だ。

 例えば、無背の外れにある真田貴和子は、老齢ながらのんびりと茶菓道を教えて暮らしているが、去年孫が無背高校に通うようになり、頻繁に尋ねるようになって以来、その孫に頼んで茶菓子を明月堂から購入してもらうようにした。それ以来、突如生徒が増えたらしい。

 祖父母のもとで育てられた和希だけでなく、同級生たちにも愛好家は多い。

「知らないなら、是非一度食べるべきだよ。甘いもの好きだよね?」

 捻った足も忘れて、自転車から飛び降りそうになった和希の腕を、幸が咄嗟に掴んだ。困惑したように、眉間にしわを寄せている。

「…家、入ると迷惑だろう」

「迷惑って何が」 

「俺は、異物だから」

 本気らしい自嘲の言葉に、和希は思いきり顔をしかめた。一応足を気遣ってそろりと着地し、自転車のハンドルを握る幸の肩を掴んで、正面から向かい合う。うっかりと、思い切り体重をかけてしまったが、びくともしない。

「そりゃあそうだよ。キミは、ボクの家族じゃないし、節子さんみたいに働きに来てるわけじゃあないからね」

「そういう」

「ことじゃないなら何。鬼子だって呼ばれてるから? それがどうかした。鬼子だろうが番長だろうが、キミがボクの友人であることには変わりないと思うけど?」

「…番長?」

「気にしないで、ただの連想だから」

 問題児、異端者として呼ばれる「鬼子」の名称に、「不良」を連想し、そこから安易に「番長」を連想したのだが、そこまで説明する必要もない。

 何かしら他者とは違った雰囲気をしており、遠い血縁だという人物と二人暮らしの曰くありげな状態、中学時代、別の片田舎でクラスメイトに刺されてその生徒と教師を殴って入院させたという噂。絶対に外さない腕時計も、何かありそうだ。

 退屈と表裏一体の平穏な無背では、明らかに浮き立っている。

 そして溝を、本人が認め、一層深く掘り下げていることも、和希は知っている。しかし和希には、それを放置しておくつもりは全くなかった。

 正義感からでも義務感からでもなく、それは単に、利己的な問題だ。

 「とにかく出来がよく」「豪士の跡継ぎ」という方向でではあるが、同じく周囲と距離のある和希にとって、おそらくは唯一、愚痴を言える相手だろうからだ。友人は多く、無背全体でも人望が厚い和希だが、それだけに、本心をさらけ出しての愚痴や弱さを見せられる人がいない。そして、衆目を集めるからには、和希自身のことにではなくても反感を持つ者もおり、下手なことをすれば陰湿な攻撃が待ち受ける。

 勝手ながら、幸を同盟者と定めてしまっているのだ。せめて自分相手には堀をほらないで欲しいと、はなはだ自分勝手なことを思う。

 今回の相手に名乗りを上げたのは、親しくなろうという魂胆を持ってこのことだ。

「とにかく、ボクはボク以外の人間が勝手に自己完結をしているのを見るのは好きじゃないんだ。それがじめじめと鬱陶しい方向ならなおのこと。そんなわけだから、遠慮だか自虐だかは却下するよ」

 いつもは怒ったように結ばれた唇の端が、わずかに持ち上げられる。眉間のしわは一層深くなっている。一瞬間を置いて、笑いを堪えていると知って、和希は、正直なところ当惑した。

 自分勝手と自覚があるだけに、怒られるかも知れないとは予想したが、笑われるとは思っていなかった。

「…何か、笑うようなこと言った?」 

「いや。…いい奴だな、お前は」

「勝手だ、って怒られると思った」

「確かに勝手だ。だけど、怒るようなことでもないだろう。多分」

 くくと、声を殺して笑う。つい洩れてしまったという風なあたり、ひねくれている。

 しかしまあ、悪い方向にはいかなかったようだと、ほっと、肩から力を抜く。

「じゃあ、立ち話もなんだし、家に」

「いいや、帰る」

「えー」

「お前を送るだけでも、かなりの譲歩だったんだ。このあたりで観念しろ」

「だけどそれは、キミの荷物に躓いたっていう正当な理由があったと思うけど」

「それでも、お前の信者にいくらでも送りたがってる奴がいただろう」

 信者ねと、苦笑気味に呟く。確かに、和希を生き神のように扱う人もいる。そうでなくても、面倒見のいいクラスメイトも、大勢いた。

 軽く、肩をすくめる。

「あそこで、キミに頼まなかったらどうなってたと思う? キミには非難がいったんだよ。恩の一つくらい、感じてみない?」

「お節介」

「予想通りの返答をありがとう」

 至極あっさりと返して、はあと溜息をこぼす。

「まあ、そこまで言うなら仕方ないね。ちょっと待ってて」

 とりあえずは捻った足を気遣いながら、早足で行く。さすがに家の、母屋までの道とあって、慣れているだけに歩きやすい。

「おい?」

「いいから待っててって。勝手に帰ったりしたら、後日をお楽しみに」

 ひらりと、後ろも見ずに手を振ると、手入れの行き届いた庭を向けて、古びているががっしりとした玄関を避けて裏戸を気軽にくぐる。

 大きな、古い日本家屋。かなり古くに立てられたという話だが、よくもこんな行き来しにくい山裾に、これだけの資材を運んで後々にまで耐え得るものをつくったものだと思う。

 幼い頃には、広すぎる家に少ない人で、怯えた覚えがある。それでも泣いた覚えがないのは、その頃から意地を張り通していたから――だろうか。

 生まれて、一年目の年。きっちり一年の後に、和希はこの家で暮らすようになった。祖父母と、家事を取り仕切る住み込みの節子と通いの何人かの家政婦。それが、和希の「家族」になった。

 両親が事故で亡くなり、誰もが、何かにつけて「可哀想だ」「不憫だ」と言葉を残していった。和希が覚えている一番古い記憶は、そんな言葉が行き交う両親の葬儀の席から、鮮明さを伴って開始する。

 そんなところでまで、記憶力の良さを発揮しなくてもいい、と思う。そうでなければせめて、もう少し早くから、始めてほしい。

 今ではそれなりに使いこなせる記憶力も、当時はそうではなかったらしく、一連の映像として残っている。脳裏に再生されるのは、両親の抜け殻ばかり、周囲の気の毒がる様子ばかりだ。

「おや、おかえりなさい、和希さん。足をどうされたんです」

 特に意識をすることもなく、それでも目的地にたどり着けていたらしい和希は、中年家政婦の節子の声に、我に返った。

 湿布を貼ったせいで不自然に膨らんだ靴下のくるぶしは、見るからに違和感を主張しているだろう。心配そうに眉をひそめていた。

 山本節子は、他に身寄りもないということで、和希が生まれる以前から住み込みで竜見家で働いているとのことだった。おそらく、物質的な範囲では、節子がこの家のことを一番理解しているのだろう。そして、和希にとっては育ての親と言っても差し支えない。

「捻っただけ。少し大袈裟でさ。ねえ、節子さん」

「なんです?」

 決して丁寧な口調を崩さない節子だが、冷たい感じは全くない。和希は、節子のこの「なんです?」という言葉を数えることもできないくらいに聞いてきた。

「明月堂、行ってきた?」

「はい。ちゃんと買ってきましたよ、羊羹。早速召し上がりますか?」

「うん、いや、少し、分けてもらえないかと思って。友達が、食べたことがないって言ったから」

「まあ。それは是非とも、差し上げませんとね」

 節子は、笑うとお多福の面のようになる。柔和な、優しい顔だ。

 上がってもらえという言葉を適当に誤魔化して礼を言って受け取り、駆け出そうとすると、やんわりとたしなめられた。足を気遣ってのことでもあるが、家の中を走り回ることを、節子が良しとした試しはない。

 来たときと同じ道をそのまま引き返して家の前に戻ると、使い込まれた自転車とともに、幸がぼんやりと待っていた。

 和希の姿に即座に気付き、いささか不服そうな視線を寄越す。

「やあ、ごめん。これ」

「何だ?」

「羊羹。明月堂の」

 げ、と漏らした声が、確かに聞こえた。そんな反応に、むと、眉根を寄せる。

「一度食べてみなって。甘党だってことは知ってるんだから。明月堂の和菓子を食べずに過ごすなんて勿体ない」

 幸は、学校での昼食は常に食堂か購買なのだが、ほとんどデザート類や菓子パンばかりを食べている。それ以外のものを食べただけでも噂になるくらいには、密かに注目の的だ。

 ただ、誰もが遠巻きにするだけに、面と向かって理由を質す者はなかった。

 自覚はないのか、少しだけ、焦ったように幸の目線が空を彷徨った。

「…やけに熱心だな」

「言っとくけど、この辺りじゃあ、明月堂の無断広報係は多いよ。市に合併して、唯一嬉しいのはあの明月堂と同じ行政区域に入ったことだ、なんていうわけのわからないことまで言う人もいるくらいだからね」

 事実だ。

 しかし幸は、胡乱そうに見返す。とにかく、と、和希は羊羹の入った包みを押し付けた。

「また明日。送ってくれて、どうもありがとう」

「俺は…」

「初めてだろう、無背の梅雨祭。キミが引っ越してきたの、夏休みの終わりだったらしいから。少しでいいから、期待してくれていいと思うよ」

 そうして不承不承ながら、幸は帰途に着くようだった。歩くと遠いから自転車を貸そうかと言ったが、きっぱりと断わられた。もしかして、乗れないのだろうか。あるいは、借りをつくるのがそんなにも厭か。

 幸の腕時計が、夕日に近い陽の光を反射する。梅雨の合間の晴空は、うっすらとかげりを見せ始めていた。 


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