翌日、幸は学校に来なかった。
和希が力也をふったことは校内に知れ渡っていて、しみじみとその人気を実感する羽目となった。それにしても何故、と思ったら、階下で階段を上っていた女子生徒に、声が届いてしまっていたらしい。力也が去ってすぐに、その女生徒も立ち去ったのがせめてもの救いといったところか。
このくらいなら、困った笑い話で済ませられる。周囲との関係や立場がいささか悪くなろうとも、どうにか過ごせる。
そんな状態で、その上、昨日の衣装審査では、和希のクラスの代表が二等を取ったため、見物の客足も増え、クラス出店も忙しかった。ちなみに、クラス代表は花嫁と魔術師と見紛うような衣装で、一位を獲得したのは、力也の組だった。中身だけは純情可憐な少女、という寸劇がその勝因だ。
だから、和希が幸の欠席を本当に訝しく思ったのは、随分と後になってのことだった。帰宅しようとして、節子に夕食はいらないと告げていたことを思いだしたのだ。
そう言えば、一緒に夕食をという話はどうなったのだろうと、電話をかけてみる気になった。
生憎と携帯電話は持っていないし、持っていたところで無背では電波の通じないところも多いので、学校の公衆電話で番号を押した。
長くコール音が続き、挙げ句に、誰も出ることなく、回線が切れてしまった。
「家にいないのか?」
首を傾げる。
梅雨祭の一般公開は日曜で、今日は月曜。揃って出かけているのも妙だと思う。幸は、何やかやと言いながらも、和希の知る限り学校を休むことも遅刻することもなく、増して、明日は振り替えの休日だ。それを踏まえての旅行ということも考えられないでもないが、昨日の別れ際の様子では、そんなこともなかった。
突然の用事。誰かの訃報でも届いたのかと、不吉な考えにたどり着く。葬式に予定は立てられない。
「今度訊くか」
今日一緒に夕食をとると、はっきりと約束したわけでもない。また学校で会えるだろうから、その時に何があったのか訊けばいい。そう考えて、思考を切り替える。
節子のことだから、頼めば、一人分の夕食くらい簡単に作ってくれるだろう。それか、距離はあるが市の繁華街にでも出て、どこかで食べてもいい。さてどうしようかと迷っていると、ふと、やってくる力也と目が合ってしまった。
正直なところ、かなり気まずい。しかし、今更目を逸らすわけにもいかず。
「…見回りですか?」
「ああ。毎年、粘る奴らがいるからなあ。まあ俺も、去年までそのクチだったけど」
梅雨祭や体育祭、文化祭の後の校舎の見回りは、生徒会と教師の協力作業が恒例となっている。余韻に浸って校内で打ち上げでもしたいのか、トイレや掃除用具入れに忍んでやり過ごそうという生徒が、呆れるほどにいるらしい。
雑談を続けるべきか帰るべきかと、わずかに逡巡している間に、力也が大きく息を吐いた。和希を見つめる瞳が、あまりに優しくて身じろぎする。
「ありがとうな」
「何が、ですか」
「こんな状態になって、もう口もきいてくれないと思ってた」
「そうした方が良かったんですかね、一般論で考えて」
「いいや」
どうして。どうしてそうも、優しく返すのか。
走って逃げれば良かったかと、少し、思う。和希は、溜息を押し潰した。
「ええと、じゃあ帰りますね。お邪魔しました」
「あ…ああ。気をつけて帰れよ。真っ直ぐにな」
「小学生ですか?」
苦笑いして、会釈のような一礼を残し、身を翻す。
教室棟のある二階からは、直接駐輪場に繋がっている。和希は、そこに自分の自転車を見つけ、財布程度しか入っていないカバンを前かごに放り込んだ。
小さな盆地のような無背でも、坂や砂利道に妨害されはするものの、自転車は有用だ。スクーターよりも多いほどで、こんな田舎だというのに、下手をすれば自動車よりも普及率が高い。健康な人たちだ。
鍵を外してペダルに足をかけ、さてどうしたものかと思案する。
「お好み焼きでも食べに行くか」
繁華街ではなく、無背の外れにある個人店を思い浮かべ、ペダルに体重を乗せた。学校からだと、自転車で三十分ほど。その距離を遠いと思うほど、和希は交通の便に優れたところに住んではいない。むしろ、近い。
途中で幸たちの家の近くを通るなと、考えはした。しかしだからどうといったものではない。
「うあー」
和希が、自転車を走らせながら空を仰いだのは、学校を出て二十分ほどが経過してからのことだった。怪しいと思っていた雨雲が、いよいよ活動を始めてしまった。
ここまで来るとお好み焼き屋の方が近い。せめて食べてから雨に濡れようと、ハンドルを強く握りしめた。
その途端に、目の前に飛び出してきたものがある。
「あ…っぶないなあ、って、ん?」
人だよなあこれ、と、どこか呑気に首を傾げる。雨空に暗くなった田舎道で、ずよれた黒服と遭遇する確率はどれほどだろう。上品なヤクザ、といった印象なのだが。
「うっ」
離れたところから聞こえた呻き声に顔を上げると、そこにも黒服がいる。
「…田舎ロケ?」
そんな話は伝わっていない。こんな狭い場所でそれはないと、判ってはいるが呟きたくもなる。
黒服を着込んだ戦闘要員のような集団と、それに囲まれているらしき誰かがいるとなると、ドラマや映画の情景だ。
しかし、そう呑気にしているのも如何なものか。
「ちょっと、警察呼ぶよ?」
叫ぶが、自転車の前に倒れ出た男は意識を失っているらしく、少し離れたところでやり合っている集団はこちらを見もしない。民家までは少し距離があり、人を呼びに行くべきだとは思うものの、その間に取り囲まれている誰かが連れ去られるかも知れないと思うと、二の足を踏んでしまう。
こういった判断は苦手だ。
「あーっ、もう」
諦めて、溜息をひとつ。改めて、ハンドルを握る。
そしてそのまま、器用にあぜ道を突っ走り、集団の中に飛び込む。どうやら一人二人踏みつけたようだが、輪が少し緩んだ程度なのは、さすがプロと言うべきなのか。何のプロかは知らないが。
「あ」
輪の中心にいたのは、幸だった。
ぐるりと黒服に囲まれながら、約一日ぶりに顔を合わせた級友は、殴られたのか蹴られたのか、薄汚れた学生服で、唖然として和希を見つめていた。驚いたのは和希も同じだが、とりあえず用意していた言葉はある。
「乗って」
「――!」
状況がよくわからないまま、とりあえずは飛び乗った幸をつれて、一目散に黒服たちを後にする。田舎道に二人乗りの自転車ではさすがに追いつかれると思ったが、何故か、男たちが追ってくることはなかった。
雨の滴が、とうとう空から落ちてきていた。
和希が家にたどり着いたのは、学校を出てから一時間以上が経ってからのことだった。下手をすると、二時間弱。
道中、荷台から降りようとする幸を、「走ってる途中で飛び降りたら、バランス崩してボクも倒れるからやめてね」と脅しながらのことだから、余計に時間を喰った。その上に、雨は、随分と景気よく降り注いでくれたのだ。
「とりあえずタオルとお風呂。話はその後だね」
「俺はいい」
「はーい、帰らない。事情説明したくないならそれはそれで、良くないけど良しとしよう。だけど、そのままってのはなしでしょう。そりゃ、家に送らないで勝手に連れてきたのは悪いけど」
いくらなんでも動転していたのだ。
しかし幸は、反論もせずに背を向ける。和希は咄嗟に、その肩を掴んだ。自転車に乗ったまま体を捻ったものだから、バランスを崩し、思い切り幸に体重をかけてしまった。
ぐらりと、その身体が傾ぎ、二人と自転車は、濡れきった草地に倒れ込んだ。
「ごめん…!」
体を起こそうともがき、焦ったことで、余計に幸の身体を踏みつけてしまう。どうにか起き上がったときには、二人とも、草で身体が剥き出しの部分を切ってしまっていた。
「…ごめん」
「気をつけろ」
「うん。本当に、ごめん。だけど、この間は支えられたよね?」
雨の中だからといって、負荷が強かったとはいえ、あそこまで無様に倒れるのは、普段から考えると珍しい。一昨日は、平気だった。
「何が起きてるのかは知らないけど、疲れてるのは確実だ。雨が止むまでだけでも、休んだ方がいい」
「構うな!」
怒鳴り声に、思わず身を竦めてしまう。
しかしそれは、赤ん坊の癇癪のようにも聞こえた。
「俺に構うな! 俺は…ッ」
「こんな状態の友人を放っておけというのか。ボクは、ボクを見損ないたくはない」
逆に静かな声で、睨みつける。
行動の基準は、結局のところは自分だ。誰かのために事を起こして、何かあったときにその誰かを恨むのだけは厭だ。それくらいなら、ただのわがままを通したい。
和希を睨み付けた幸の顔は、泣きそうに歪んでいた。雨に、泣いたところで隠れてしまうだろう。
「宝が、殺された」
昨日、夕飯を一緒にと誘われた人。もしかしたら、それは今日実現していたかもしれない。話をしてみたいと、思った。
「俺がここにいることを、あいつらは許しはしない。いままでずっと、宝が庇ってくれてたんだ。…だから、殺された」
嘘だろうと、問い質したくなる。人が死ぬ事自体は、珍しくない。突然の事故や、老衰、病死。どこにでも、転がっているものだ。
それでも、殺されたということは、同じようにあるはずなのに、妙に遠い。
「宝まで手にかけたんだ。他の奴に、容赦するわけがない」
「きっと、もう遅い」
こぼれ落ちた声が、思った以上に冷静だと、どこか痺れた頭の奥で思う。雨に濡れきって、身体は芯から冷えていた。蒸し暑さよりも、冷たさが勝る。
「姿を見られてる。制服だし、自転車の鑑札だって読み取れたかも知れない。キミがどこかに行ったからって、ボクが安全だなんて保障は、どこにもない」
「このまま残るよりは、ましなはずだ」
「どうだろうね。キミがいなくなったら、ボクは探すよ。そうしたら、口封じでもされるかな」
泣き顔に、歪む。
和希は、そっとその頭を撫でた。濡れた髪は、安物の皮のような感触がする。
二人とも、言葉もなく、どのくらいかそうしていた。
足音と人の来る気配に、身を固くした。
「和希さん…何してるんですか、そんなになって!」
「節子さん」
見慣れた顔に、つい、安堵の息が漏れる。幸は警戒したまま、押し黙る。
「声がすると思ったら…風邪を引きますよ、ほら。あなたも。何か着替えを用意します」
きっぱりとした、強い言葉に急き立てられ、幸も無言で立ち上がった。
自転車を置いてきますから、すみませんけど和希さん、タオルを自分で出してください。
そう言われて、幸を伴って玄関へと向かう。節子が自分の差している傘を貸してくれようとしたが、これだけぬれたら同じだと、断った。雨は、一向に衰える気配がない。
玄関の引き戸を開けて、早くタオルを出そうと靴を脱ぎかけた和希の腕を掴み、幸は、感情を押し殺したような囁きを発した。
「あの人も、全て、失うかも知れないんだ」
「天秤にかけるには、情報が少なすぎるよ」
足を踏み出すと、靴下から水がにじみ出る感覚がして、床の木材が水を吸うのが判った。