「付き合ってくれないか」
予想外だ、と、和希は、硬直した体勢のまま、相手の胸元にあるスカーフを眺めやった。衣装を着替えていないのは、和希も同じだった。
祖父の拘りによって、小学校を卒業する間際まで、祖父が亡くなるまで、少なくとも家では男としての扱いを受けて育った。そのせいもあるのか、和希の色恋に関する感情は幼い。未だ、友達に男女の区別はなく、恋愛は遠い。成長が遅すぎると思うものの、感性ばかりはどうしようもない。
この人のことは好きだ、と思う。劣等感を刺激されはするが、好きだ。しかし、その「好き」は、微塵も色を含まない。
「――今から打ち上げの買い出しとか、そういうのですか」
「竜見」
傷付いたような、咎める声に、焦りを憶える。あまりに真剣な表情が、いつもとは別人に見える。
そして、ふざけた格好にも関わらず、「男」をまざまざと見せつけられ、感情の奥底に押しやったはずの想いが、空気を探して浮上しようとする。それは厭だ。
「ごめんなさい」
顔を上げることもなく伝えた言葉に、相手の肩から、力が抜けたのがわかった。
「…そっか」
「ごめんなさい」
「謝るなよ。なんとなく、わかってた気もする。――悪かったな」
首を振るのが精一杯で、そうしていると、二、三言葉を残して、力也は去って行った。
行ってしまうと、大きく息を吐いた。
「女の子、だなあ…」
呟いて、天井を見上げる。
梅雨祭第一日目も終わり、明日には一般公開はしない二日目が続くこともあり、校内にはまだ多く生徒が残っている。それでも、屋上に続く扉の前には、誰もやってこないだろう。屋上は開放されておらず、時々さぼる生徒がたまっていることはあるが、授業中でもないのだから、帰ればいいだけのことだ。
あーあと、瞼を下ろす。
女として扱われることには、居心地の悪い違和感を憶えてしまう。髪を伸ばしているのは、自覚を持つためだというのに役に立っていない。
「竜見」
「え、うぁ?!」
「…大丈夫か?」
突然現われた幸に、咄嗟に後ずさろうとしてもたれていた壁にぶつかり、妙な具合に身体が傾いだ。体勢を立て直して声の主を見ると、下の踊り場から、呆れたように見上げてきていた。
「な、何?」
「大丈夫か」
「…一応。何か用でも? もう帰ったと思ってた」
「宝が。羊羹の礼に、一緒に飯でもどうかって言ってきたから」
誰だそれはと言いかけて、もらった名刺を思い出す。照れくささを隠すように、怒ったような表情をする幸に、和希は、微笑をこぼした。
「それでわざわざ探してくれたのか。ありがとう、だけどよく判ったね?」
「なんとなく」
「それは立派な探知能力だ」
和希が階段を下りるのを、幸は、黙って見つめていた。
ああ、返事を待ってるなと、思う。待機を命じられた犬のようで、微笑ましいと言ったら怒るだろう。幸は、既に制服に着替えていた。
最後の一段を抜かして、両足を揃えて着地する。
「こんなこと言われても困るだけだろうと思うけど、今、キミに会えて良かったよ。気分として救われた」
揺れていた思いが、静かに収まる。それが良いことでも悪いことでも、とにかく和希にはありがたい。
幸は、困惑するように顔をしかめた。
「前から言おうと思ってた」
「何?」
「…俺には、関わらない方がいい」
「どうして?」
「幸せになれることは、きっと、ないから」
本気かと、思うまでもない。酷く真剣な表情は、役者であれば大したものだ。そして和希は、幸が、そんな引け目のようなものを引きずっていることに、なんとなく気付いていた。
冷ややかに、笑みを形作る。
「それは、随分と皮肉な命名だ。名付け親は誰?」
「冗談で言ってるわけじゃない、俺は、化け物にしかなれない」
苛立つような声だった。和希には、「化け物」という言葉が、何故か、酷く禍々しく聞こえた。おそらくそれは、幸がそう思っているからなのだろう。
少し、泣きたくなる。
すうと、深呼吸をひとつ。ここで、泣くなんて厭だ。哀れむわけでも、責めたいわけでもないのだから。
「昨日、キミは自分が異物だと言った。ボクだって、それは同じだ」
「何を」
「勿論ボクは、キミが何をもって異物と自認しているのかなんて知らない。知らないものと、同じだと言うつもりはないよ。でも、他と違うものとしてなら、同じことだ」
「…誰からも慕われているのに?」
「慕う、ね」
苦笑いが口の端に浮かぶ。
「昼間の月を考えてくれないか。例えが少し、きれいすぎるけど。昼の白い月は、雲に紛れるように見えるけど、確実に違うものだ。似ていても、全く違う。かといって、太陽と同じわけでもない。まあ、雲よりは近いかもしれないけどね」
自分でもどこか的の外れているような例えが、しかし、和希にはひどくしっくりときていた。いつから、そんなイメージを持つようになったのかは覚えていない。
「昼の月は、どれだけ白くても、雲になんてなれない。キミは、ボクの異常な記憶力の良さを知っているだろう?」
戸惑うように、頷くのを確かめて、一度、唾で口をしめらせる。喉は、緊張で干上がっていて、それも難しかった。
「だけど、病院なり大学なりに、調べてもらいに行ったことはない。使いこなせてるからいいとか、遠いし時間を取られるなんて、表向きの理由だよ。検査して解明することで、強大な何かが発見されると確約されていても、きっとボクは肯かない。だって――怖いんだ」
幸の驚いたかおに、思わず苦笑してしまう。どんな風に思われているのかと、和希は、こんなときながら思った。
理解なんて、所詮は思い込みの上に成り立っているもので、誰かのそれと合致することなど、まずはない。共通の認識を持っているという、実際には馬鹿げた思いの上にある、ただの虚像だ。
そういった意味では、和希も、幸のことを本人の自覚とは別に捉えているのだろう。
「祖父が、病院や検査がとにかく嫌いな人でね。そのおかげで、そういったところに行かされることもなかった。祖父は四年ほど前に亡くなったから、行こうと思えばいつでも行ける。実際、そうした方がいいと勧めてくる人もいる。理由は色々だけどね。サヴァン症候群、一部の発達障害のある人が特異能力を示すように、今は表立ってないだけで障害があると困るだろうと言ったり、解明したら世紀の発見になるかも知れないと言ったり。だけどボクは、そうやって明確に線を引かれたら、絶望するよ。確として突きつけられたら、ボクは、ここには居残れない」
人と違うことは、怖くない。脳に欠陥があろうと、他者にはないところが発達していようと、そのこと自体は怖くない。怖いのは、それによって変わる周囲の目だ。
これ以上、違うものとして見られたくはない。解明は、最後の一線を引き込んでしまう。
打ち消される可能性よりも、それが怖くて、手を出せない。怯えて、そちらに歩むことはできない。
「俺が言いたいのは、そんなことじゃなくて…」
待っても続かない言葉に、和希は一度、静かに目を閉じる。深呼吸。受け止めて、齟齬を訂正しようとしてくれることが、ひどく嬉しかった。ただ、それだけのことが。
しばらくして、幸は、振り払うように首を振った。
上げられた顔には、自嘲するような、諦めるような笑みが浮かび、和希は、軽く失望する。再び、閉ざされてしまった。
「飯、どうする」
「良かったら、明日にしてもらえないか。ごはん、もう家で準備してるはずだから。わがまま言うけど」
殊更に平静を保つのは、ささやかなプライドとでも呼ぶべきものなのだろう。
幸は、いつもと変わらない、感情の読めない微苦笑を刻んだ。
「いや、いきなり言うあいつが悪い。伝えとく」
「ありがとう」
そう、和希は笑顔で言った。
このときの返事を、悔やむことになるとは、思ってもいなかった。
明日もごく普通に来るのだと、そう、思っていた。