風呂に入り、食べそびれた夕食をとる。その間、幸は無言だった。
即刻帰る、ということはとりあえずは諦めたようだが、事情の説明もない。節子が食事を下げるのを待って、和希は幸に向き直った。
「幸いに、明日は休日だ。泊まって行くといい。部屋はいくらでも空いている」
「…そういう恰好で、そんな格好をするな」
「うん? キミでも、そんな反応をするんだね。意外意外」
風呂上りの浴衣姿で当然のように胡坐を組んでいた和希は、からかうように軽く言って、正座になおした。背筋が伸びるのは、ただの条件反射だ。
「今日は休んだ方がいいんだと思う。本当は。時間は早いけど、疲れているだろうからね。だから、休むと言うなら止めない。だけど、抜け出すのは無しだ。黙ってどこかへ行くようなら、どんな手を使っても、キミを探し出すよ。それに、もう一度繰り返すけれど、キミが心配しているものがどんなものかまでは知らないけれど、今の時点でボクの安全は保障されていない。何も告げずに、報復を受けるなり人質にされるなりした場合、キミは、その方が後悔するのじゃないかな」
「…関わるなと言っても、納得しないんだな。お前は」
「出来るわけがないだろう」
幸の保護者が殺されたというなら、思い違いでない限り、おそらく和希の手には余るだろう。そうして、幸を取り囲んでいた男たちをも考え合わせると、何らかの問題が生じていることはほぼ確実だ。保身を考えるなら、ここで手を引くべきだ。
そのくらいのことは、判っている。
本人が、和希を巻き込むことを避けているのだから、そこに甘えるべきなのだ。和希は、たかだか、経験の浅い高校生でしかない。
「話したくないのなら、それでも構わない。こちらで調べるまでだ」
「脅しだぞ、それは」
「そう取るなら、素直に話してほしいね。待てと言うなら、少しくらいは待つよ」
言葉のやり取りぐらいで、話を聴くことで、いくらかでも負担が除けるのならいい。しかし、その逆もある。そこで、我を通す気にはなれなかった。
「和希さん」
ふすまの外からかけられた声に応じ、入ってくるよう促す。節子は、顔を覗かせると、芙蓉の間に床を延べたと告げた。
「ありがとう。案内はするから、もういいよ。ごめん、節子さん。迷惑と心配と、かけた」
「しおらしいことを言わないでください。雹が降りますよ。長良さん、ご迷惑でしょうけど、和希さんのお相手をお願いしますね」
「迷惑って、ひどいな」
「おやすみなさい」
和希の、ボヤキともつかない反論には無視を決め込んで、母親のような笑みを残し、部屋を後にする。
ふすまが閉じられると、それを待ったわけでもないが、音も立てずに、和希は立ち上がった。無駄に裾をひるがえすこともない、和装に慣れた者の動きだ。
「とりあえず、部屋を移ろう。案内するよ」
「俺は――」
「まだ泊まるとは言ってない、かな。そんなに意地を張るなら、さっきの台詞、丸々繰り返そうか?」
「判った――話す」
苦りきった声に、座り直す。
幸は、和希に注意しておきながら、正座は苦手と見え、胡坐をかくようにして足を崩している。それに正座で向かい合う和希は、しっかりと背筋を伸ばした。
溜息とともに、言葉が零れ落ちる。
「今から何を見ても、叫ばないでいてくれると助かる」
「努力しよう」
曖昧ながらも誠実な返答に、浅く頷くと、幸は、自分の右手首に左手を伸ばした。銀色の腕時計の留め金を外し、腕から抜く。
風が、吹いたように感じた。
相対していた人物は、長良幸のはずだった。それは、変わりない。はずだ。
切り損ねたような中途半端に長い髪も、少しばかり色素が薄く見える髪も、ピアニストの役でもやれそうな手も、何も、変わらない。
ただ、瞳だけが、瞳孔が縦に長く、細くなっていた。銀をまぶしたような金色の瞳。蛇に似ているが、例えるなら、もっと異なった――神話の、龍の方が正確だろう。
瞳だけでなく、何かが大きく違う。爬虫類めいているとでもいうのか、吹いたように感じた風も、妙に生臭い。生理的な嫌悪感に、肌があわ立った。込み上げる嘔吐感を、どうにか押しとどめる。
声など、出ようはずもなかった。
そんな和希の様子を冷静に見つめ、幸は、時計を元に戻した。
空気が戻り、風が消える。緊張が切れてか、急に噴き出した汗を感じながらも、和希は、呼吸さえもぎこちなかった。
幸が、何事もなかったかのように立ち上がり、庭に面した障子と窓を開け放った。降り続ける雨に湿った空気が、それでもいくらか、心地よく感じられる。
「無理はしなくていい。宝でさえ、苦手だった」
淡々と紡がれた保護者の名に、和希は、はっとして顔を上げた。途端に、呼吸のぎこちなさが消える。それは、気にしなければ、意識せずにも行えることだ。
「俺も…好きじゃない。自分が自分でなくなるようで…俺の感じられる感覚が、遠くなる」
まるで懺悔でもするように、口にする。左手は、右手首を、存在を確かめるように、時計ごと握り締めていた。
「俺は、人間じゃないらしい。体組織自体が違うという話だ。聞いたことのある仮説では、ホモ=サピエンスとは違った経路をたどって進化したヒト、地球外生命体、といったところだ。神と呼ばれていた存在かもしれない、とも言っていたな」
言われただけでは、到底信じなかっただろう。しかし和希は、さっきの異様な「長良幸」を、見ている。あれは確かに、和希や節子と同じ存在ではありえなかった。
幸は、素っ気無く、腕にはめた時計を一瞥した。ありふれたデザインに見える、銀色のそれ。
「これは、俺を抑えるためのものだ。昔はただの枷だったけど、それだと影響が強すぎて、ろくに考えることも出来なかった。見かねて、宝が調整するように言って、それが通った。おかげで、こうやって、ただの人の振りもできる」
「振り…」
「ああ。別物だから、振りだろう。あいつが無理を言って、これも研究の一環と言い張って、俺を外に出してくれた。だが、とうとう、堪忍袋の緒が切れたんだろうな。辞令を下しても抵抗した宝を殺してまで、俺を連れ戻そうとした」
わかるだろうと、言うような目が、和希を見下ろした。
わかるだろう、と。到底、ただの女子高生が関わることではないのだと。
和希は、一度だけ、呼吸を整えるために深呼吸をした。雨の、土の匂いがする。ここは、現在まで育った、見慣れた自分の家だ。大丈夫と、胸のうちで呟く。この一言が、これらの全てを失う元となっても。
今のここは、和希の知る、確かな場所だ。
「質問に答えてもらいたいんだけど、いいかな」
「――?」
「沈黙は承諾と取ろう」
明らかに意外そうな幸の様子を無視して、真っ直ぐに視線を向ける。怖くない、わけではない。
「宝さんが殺されたと、さっきからキミは言っている。どんな状態で?」
「…俺を庇って、腹を撃たれた」
「それで?」
「それで…?」
「近くに加害者がいたのなら、キミが宝さんを看取るまで、親切に待ってくれたとは思えない。それとも、人を殺したと、思考停止するような相手だったのかな」
「何が言いたい」
苛立たしげに睨み付けてくるが、その瞳は、ヒトのそれだ。教室で見かける、同級生。さっきの姿は夢だと、思い込もうとすればできるだろう。
「宝さんは、彼らを抑えるだけの力があったわけだろう? それが何に起因していたのかは知らないけど、何か強みがあったのだとすれば、そう易々と、死なせようとするとは思えない。それで済むなら、もっと早くに殺していただろうからね。堪忍袋の緒が切れたというからにはそれなりの長さだろうし、少なくとも、高校入学以来の数ヶ月、待ってくれていたわけだろう。勿論、宝さんの持っていた切り札が無効になり、必要がないと判断されたかもしれないけれど、可能性はあるんじゃないかな」
「あいつが生きてると…? そんなはずがない……!」
「何故?」
返事はなく、幸が、必死に考えているのが判った。望みを持ちたいと願いつつも、それが外れてしまったら一層の絶望が襲うと、それを恐れているかのようだ。
希望は、時として恐怖を育てる。それでも、縋らなければならないときがあるのも確かだ。
「確認くらい、するべきだろう。接触する気があるのなら、家に戻ったときを狙うかもしれない。おっと、今すぐに戻る、というのは無しだ」
「竜見」
「キミの生活くらい、探るなり報告を受けているなりしているだろう。ボクの存在なんて、すぐに露見する。あの時、追ってこなかったのが不思議なくらいだ。それとも逆に、知っていたから見逃したのかな。そしてそれだけ、彼らの側に、事を有利に運べるという自信があったのではないかな。荒事に持ち込まずともキミを抑えられると。宝さんを人質に立てられるなら、そう判断してもおかしくない、と考えるけど、キミの意見は?」
「そうだとしても、すぐに行くべきだろう」
「長良幸。キミは、疲れている。休息が必要だよ。ボク程度の重みを、支えられなかったことを忘れたわけじゃないだろう? 人質として捕らえているのなら、数時間を焦る必要はないだろう。冷静に物事も考えられない状態で行って、わざわざ相手に分を持たせるのは愚かしいことだと思うけど、違うかな」
全ては、宝が無事で相手側に捕らえられていることが前提にある。そうして実のところ、推測ばかりで、今にもこの場に踏み入られることがないとは限らないのだが、休息が必要なのは判りきった事だ。
幸は、しかめっ面で和希を睨み付けた。そこには、訝しげな様子も、いくらか含まれている。
何、と、首を傾げて促した。
「…怖くは、ないのか」
「怖くない、とは言えないね」
困惑する風の幸に、苦笑を返す。
「どの程度の危険なのかしらないけど、ボクは、死を願うほど生に飽いてはいないよ」
「違う。…俺を。恐れないのか」
「何? 恐れおののいて平伏した方が良かった?」
「茶化すな」
「はいはい」
肩をすくめ、唇の端に浮かんでいた笑みを消す。表情を消した幸を、真っ直ぐに見つめた。
「声を上げないよう努力するとは言ったけど、もし、あの状態で顔でも撫でられていたら、叫んでいたかもしれないと思うよ。はじめにあの姿を見せられていたら、逃げ出して、キミに関わろうともしなかったかもしれない」
和希の口調は、一貫して落ち着いている。
「でも、ボクは『長良幸』を知っているからね。キミ自体を怖いとは思わない。そのことで、縁を切りたいとは思わない」
「何故――」
「さあ。そう訊かれても困る。強いて言うなら、キミは、ボクにとってはじめての気兼ねせずに済む友人だから、ということにでもなるだろうね。さて、そろそろ寝ようか。全ては明日だ」
にこりと微笑み、そうして、和希は、当然のように手を伸ばした。幸は、それをぼんやりと眺めやった。
「部屋に案内したいんだけど、腰が抜けたらしいんだ。手を貸してくれないか」