青空に白い月


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 端から夕闇に包まれる空に、星々がうっすらと光を取り戻していく。白くうすらぼんやりとしていた月も、空が濃い色になるにつれ、白々とした光で主張する。

 三人は、山の祠にいた。

 家屋に被害を出したくない、という巽の言葉に移動したのだが、興味が手伝い、人気のない場所ならいくらでもあるだろうこの無背の中で、梅雨蔡の言わば主役の祠を選んでいた。これでは巽の家屋に被害は無くとも、祠だけならまだしも、下手をしたら向かいの校舎を壊しかねないといった和希の主張は、気付けば却下されていた。

 今更文句を言うのも面倒で、和希は、刻一刻と染まっていく空を、祠の側の岩に腰かけて眺めやっていた。しかしこれで、今夜来なければ相当間抜けだ。

「無背の由来って、さ」

「なんだ急に」

「浅葱さんの話聞いてて、ふっと思ったんだ。元々の話し言葉っていうか、倭言葉での意味は知らないけど、漢字は、水無瀬の水が取れて何かの拍子に漢字が変わっただけかもしれないけど、どこかで誰かが、意味を込めてたかもしれないなって」

 はじめは「水の瀬」だった号が、「水の無い瀬」へと変わったように、多くのものは移り変わる。

 和希は、古典の授業で引いた漢和辞典の「背」の項を思い出した。「背水の陣」を学んだときに調べたものだ。そのときの国語教師は、漢文の授業では、ひたすらに辞書を引かせたものだった。

 わかっていると思っている漢字ほど意味を取るのが難しいんだ、なにしろこれは漢文、漢つまり中国の文章で、漢和辞典というのは古語の中日辞典なんだからなと、何故か活き活きと語っていた。

 せいぜいが二年前の出来事だというのに懐かしいと感じた和希は、鮮やかに蘇らせることのできる記憶との対比に、面白いものだと一人で感心した。そして、脱線しているなと頭の片隅で苦笑する。

「背という漢字には、そむくという意味がある。背信とか背反とかは、その意味で使ってるね。それに打消しの無をつけると、裏切らない、裏切ることはない、って、そういう意味になるんじゃないかなって。逆らうことはない、かも知れないけど」

「だとしたら、随分な皮肉だな」

 巽が、軽く肩をすくめた。幸には反応らしい反応は見られず、そこで、静かに沈黙が立ち降りた。

 梅雨の合間のよく晴れた一日だったからか、空気も、いくらか湿度が低いようだ。木々を揺らしていく風を感じながら、和希は、ぼんやりとそんなことを考えた。

 月明かりに、影が落ちる。こんなに明るいのわざわざ電気をつけるなんて馬鹿だなあと、度々思った。

「漢字を充てたのは、時代を下ってのことかもしれない。だからこそ、今度は裏切らないと、そうしたとも考えられるね」

「…お前は」

 何、と首を傾げた和希を、幸はまぶしげに目を細めて見遣った。だがすぐに、ついと視線を木々に戻してしまう。

「恥ずかしくないのか。そんな綺麗事を、平気で口にして」

「言霊という考え方があるね。口に出したことが力を持つ。幸も禍も、口に出さなければ顕現しない」

「……馬鹿か」

「かも知れないね。だけどボクは、伝えなかったことで後悔なんてしたくないんだ」

「カズ――」

 怪訝そうな幸のかおと気遣うような巽の声音は知っていたが、三人同時に、人以外の生き物の声が消え、風とは違った草木のざわめきが聞こえることに気付いていた。

「…離れていろ」

「と、言われても、囲まれてるんだけど」

 小声のまま、とりあえず、和希と水無瀬は祠に背をつけた。一歩踏み出した幸は、腕時計を外し、それを和希に投げて寄越した。少し外れて祠に当たりかけたところを、寸手で掴む。そのせいで転びかけた和希の体を、咄嗟に水無瀬が抱き止めていた。

 そんなことをしている間に、「長良幸」は「浅葱」へと替わり、異常なざわめきの主たちは、威圧的な演出の元、姿を現していた。

「手間をかけさせてくれる」

 取り囲むのは、迷彩服を着た男たち。幸を狙ったライトが煌々と照らし出した指揮官らしき者は、黒服に黒眼鏡だった。幸の家に来た人物だ。

 迷彩服も黒服に黒眼鏡も、どこの二流映画だと、巽に抱きかかえられたまま、和希は呆れ返った。

 だが二人に背を向けた浅葱は、失笑した様子もない。ただ無言で、片腕を振り上げた。

「み、水ッ?!」

 迷彩服の集団から口々に、似たような言葉が漏らされる。だが和希には何も感じられず、巽を見ても、こちらも、浅葱を見据えたまま、わずかに困惑顔だ。

 改めて迷彩服たちを見ると、まるで大水が流れてきたかのように、身体をのめらせ、もがいたりしている。狭い場所に密集しているだけに、誰かの振り上げた手が他の誰かに当たり、その為に倒れたりもしている。

 だが、黒服の男だけは、和希たちと同じように、何の変化も見られない。

「ねえ、仮説一」

「ほう」

「彼は幻術を使っている」

「ああ」

「仮説二。これに触れていたら幻術は利かない」

 そういって、握り締めている腕時計を示す。正しくは、それに使われている鉱石だか何だかだろう。

「俺は?」

「仮説二ダッシュで、ボクを掴んでるからとか? 離れてみたら、たつ兄も水が見えるかも」

「…試すのは後でいいぞ?」

「そう? じゃあ、仮説三。あの黒服もこれを持っている」

「かもなあ。で、何をするつもりだ?」

「たつ兄、ちょっと溺れててくれない?」

 落とさないよう時計を腕に嵌め、和希は、にこりと微笑んだ。巽が、厭そうに顔を歪める。

「カミサマなら、神通力使ってあっという間にやっつけりゃいいのに」

「吾を神と呼んだのはお前たちだ。そう名乗ったことはない」

「うわ、きいてやがった」

 そうと知っても抑えた声で、巽はぼやいた。

 浅葱は、相変わらず二人に背を向けたまま、微動だにしない。その向かいで、男がにぃと笑った。

「龍神。あなたは何故、こんな者たちとここにいる? 辰見も水瀬も、あなたを裏切った者たちではないですか」

 穏やかな声に、優越感がにじみ出ている。

「あなたの子を奪い、意のままに育てることであなたの監視役に当てた、水瀬。そんな子供とあなたを見捨てて分家に逃げた、辰見。憎み恨みこそすれ、気遣う理由などどこにもないでしょう」

「だからって、そっちに手を貸すことのほうが理由がなさそうだけど?」

 突然告げられたことに、驚きはしたがそれ以上に腹が立った。事実かどうかは措いて、男たちが高らかに糾弾できるとも思えない。

 和希は、煌々と照らし出された男を、睨みつけていた。

 かちりと、金属音がした。和希の腕から時計が外され、ぎこちなく、首をめぐらす。巽が、笑っていた。

「ごめん、和希君。少し幻を見ていてくれ」

 その言葉と共に肩を押され、巽にいくらか重心を預けたままになっていた和希は、呆気なく草の地面に倒れ込んだ。そうして、巽の手が離れたのと前後して、奔流に押されていた。 

「っ…ぅ」

 普段触れているものとは比べ物にならない、圧倒的な勢いに押され、そしてそれが頭まですっぽり包む高さが十分にあり、息ができない。目も、開けてはいられなかった。

「竜見!」

「おーっと、危ない。君は手出し無用」

「離してください、水無瀬先輩! あいつには何もしないって言ったじゃないですか!? だから俺は…ッ」

「君の役目は連絡係。それだけだ。俺が、案内役でしかないように」

 やり取りが聞こえ、呑まれそうになる意識を必死に保ち、和希は、会話の中身を聴き取った。そして、声の主を探る。一人は巽で、もう一人は――。

「無事か」

「う、うん、助かりました」 

 見れば、浅葱に抱え上げられている。気付けば服も体も濡れた様子はなく、そうだよ幻って自分で仮説立てたんじゃないか、と、和也は一人心の中で呟いた。水無瀬もそう言っていた。

 死ななくて良かった、と息を吐く。迷彩服たちは軒並み気を失っているようだが、あれだけ凄い幻覚とあれば、中に、心臓麻痺を起こしている者が混じっていてもおかしくない。

「ありがとう。下ろしてもらえます?」

「いや。片付くまで、我慢してくれ」

「はあ」

 疲れないかと思ってのことだったのだが、一顧だにくれることなく、きっぱりと言ってのけられてしまった。

 その浅葱の肩越しに後方を見ると、巽と、巽に羽交い絞めにされた力也がいた。涼しげなかおと泣きそうな必死のかおとが対照的で、覚悟の差が窺い知れた。

「余裕だな。だが、私にはこんなものは通用しない」

 黒眼鏡が、口元を歪めて笑う。

「水無瀬。早くそれを何とかしろ」

「はいはい」

 軽い返事をした水無瀬は、力也の頚動脈を押さえた。ほんの数秒で、力也の身体から力が抜け、くずおれた。叫んでいた声も、聞こえなくなった。

「たつ兄。――水無瀬さん」

「なんだ?」

「杉岡さんは、どこにいるの?」

「あの新製品の実験は、本当に成功してるんだよ」

「わかった」

 そんなことを話している間に、ぽつりと、雫が落ちかかってきた。

「雨――?」

 見上げた空からは星も月も姿を消し、白濁した闇が目に入った。いつの間にか、雲が張っている。

 浅葱の横顔を見ると、少し、笑ったようだった。

「掴まっていろ」

「はい?」

 雨が、降ってきた。

 徐々に強まる雨は、夕立や通り雨、五月雨の勢いを上回り、豪雨という言葉でも足りないだろう。とっさに浅葱のシャツの胸元にしがみついた和希は、とりあえず呼吸確保のため、顔をうつむかせていた。水滴が痛い。

 風の吹き狂う音に、雨の音。いっそ滝の中にいるのではないかと思うような、雷の音が聞こえないことが不思議なくらいの。支えてくれる腕だけが、妙なくらいにはっきりと感じられた。

 そうして、思い出す。

 温かな腕。痛いくらいに、抱きしめてくれた身体。強い衝撃と、それでも離されない手。温かなそれらは次第に冷たく、硬くなり、独りで残されるとただ悟り、かなしくて、おそろしくて仕方がなかった。

 両親が事故に遭った車には、和希も乗っていたのだという。人のあまり来ない場所で、通り掛かった人が見つけたときには、誰も生存者はいないと思い込まれていたと。だが和希はそこにいて、そうして、本当であれば全てを、見聞きしていたのだと。

 全て、人から聞いた話だ。話だった。そう、思っていた。――本当は、全て覚えていたのに。

 はじめて父と顔をあわせたときも、母に触れたときも、産道を降りる感触も、羊水の中も、そうしてそれよりもずっと遡った、「和希」の体験していないはずの体験も、全て。和希は、覚えていた。

 大粒の雨に混じって、和希の頬を、涙が伝った。

「……アサギ」

「うん?」

「ごめん。わたしがいなければ、あなたは、ずっとあなたでいられた」

「…和希?」

「ごめん。ごめんなさい。わたしが、わたしがあなたを好きになんてならなかったら」

「―――!」

 浅葱が、誰かの名を呼んだ気がした。

 自分に連なる数多の記憶を思い出しながら、和希は、ゆっくりと意識を手放した。雨の音を、どこか遠くで聞きながら。


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