人魚の言い分


         追記 番外

 昼食後、訪れた私立博物館は、意外にもメーシャの好みに合ったらしい。様々に筆の躍る、コンクールに参加した絵を眺めている。その前の常設展示の絵画では、古人の描いた人魚が月夜に泳ぐ絵に興味を持っていたようだった。

 古い絵は、専門外のくせに保存具合などに目がいってしまうせいで、純粋に絵を楽しむなら、近年描かれた物がいい。セリムは、そんな自説を改めて実感しながら、メーシャから目を離さないようにて、絵を眺めていた。

 そして、ふと思い出す。

『その絵に、興味があるんですか?』

 服屋の、女性の声がよみがえる。もっとも、そのときには服屋ではなく、セリムの通う大学の、芸術科の学生だったはずだ。

『選外の参加作品でしょう? 熱心に見る価値がありますか?』

『いい評価は得られなかったようだけど、俺は、とても好きだね。絵の価値なんて、詰まるところは個々人の趣味の問題だよ。そんな風に言うものではないと、思うね』

 うっかりと、自分が言った台詞まで思い出してしまい、偉そうだなと、恥ずかしくなる。間違ったことを言ったつもりはないが、いささか偉ぶっている気がしないでもない。評論家が聞けば、怒られそうだ。それも、出会ったばかりの見ず知らずの相手に言ったのだから、もう。

 そのとき声をかけてきた彼女の名前は、確か――リズモア・ウェーデリル。

 出会ったときにセリムが眺めていた絵の作者と同じ名で、後で、恋人から友人だと紹介されて名前を聞いたときに、仰天したものだった。作者が、作品の熱心な見物人に、興味を持って話しかけてきたのだったのだ。

 嬉しかったと言ってくれたが、それにしても恥ずかしい出来事だった。それを忘れていたとは、我がことながら呆れてしまう。

「ねえ」

「――ん?」

 シャツの裾を引っ張って小声で呼びかけられ、セリムは、ウェーデリルとの出会いの記憶から、過去の恋人との思い出まで思い出しかけていたあたまを切り替えた。

 メーシャは、何故か、深刻そうな面もちをしている。

「話・・・聴いてもらえる?」

「話? うん、いいよ。喫茶室にでも行こうか?」

「・・・誰にも、聞かれない?」

「密談か」

「冗談じゃないのよ」

「冗談じゃないよ」

 怒ったように、思い詰めた目で睨み付けるメーシャの言葉をほとんどそのまま返して、考えをめぐらせる。

 内密に話をしたいというなら、密室か人の多いところの方が向いている。生憎と、ここの喫茶室はいつも閑散としており、他者の声に会話を紛れ込ませることも、誰もかもを閉め出してしまうこともできない。

 どこが最適だろう。

 どのくらい重要な話なのかは知らないが、ミーシャ重くみている以上、できる限りのことはするつもりでいる。保護区を繰り返し抜け出す理由でも教えてもらえるなら、上出来だ。

 幾つか案を思い浮かべて、消去法などで一つに絞る。

「――仕方ない。裏技を使おう」

「え?」

「ついてきて」

 博物館を出て、東に曲がる。海とは逆方向で、広場とも逆方向になる。

 少し歩くと、山裾に蹲るようにして、小さな建物がある。このあたりに来ると、人の姿も少なくなった。

「・・・何、ここ?」

「この山を登ったら、天文台があるんだ。ここは、その予備施設だか副施設だか。知り合いがいるから、部屋を貸してもらえる」

 知り合い。

 言葉にしてしまうと、薄っぺらいそんなものになってしまうのかと、いつも思う。本当は、家族とでも呼びたいところだ。幼い頃から避難所のように駆け込んでいた場所と人は、よほど血の繋がった家族よりも近しい。

 セリムは、続けて四回、ベルを鳴らした。一度置いて、再び鳴らす。しばらくして、音を立てて、重々しい扉が開いた。

「久しぶりねえ、忘れられたと思っていましたよ、セリムぼっちゃん。あら、恋人?」

「被保護者のメーシャ。ご無沙汰してました、リース」

 恰幅のいい中年女性の出現に、メーシャは目を丸くしていた。それに気付きながらも、懐かしさに、泣きたいような気持ちになる。しばらく、来ることをやめていた。

「本当にご無沙汰ですよ。挨拶まで仰々しくなっちゃって。さあ、とにかく上がってちょうだいな。暑いでしょう?」

 リースはそう言って、笑顔で、二人を迎え入れた。

 建物の中は、陰になっているからか山が近いからか、幾分空気が冷たく、思わず溜息が洩れた。冷房でない涼しさはかなり貴重で、セリムのお気に入りだった。

 先に立ったリースは、二人を食堂の大きなテーブルにつかせると、自分は、お茶の用意を始める。いいと言っても聞き入れず、鼻歌まで歌っている。

「本当に、いいのに。部屋を少し、借りたいだけだったから・・・」

「駄目ですよ。久しぶりに来てくれたんですから、たっぷりと相手をしてくれないと。堅苦しい挨拶に時間を費やしながら、お茶を飲む閑もないってことはないでしょう? セリムぽっちゃん、アイクを呼んでくださいな」

「わかったよ」

 諦めて、部屋の隅に垂れ下がった紐を引っ張った。

 紐の端が別の部屋に繋がっていて、そこにいるアイクに知らせるようになっている。ここでも独特の引っ張り方をして、セリムが来たことを報せる。

 不思議そうに見つめるメーシャに簡単に説明して、顔を近付けて小声で囁きかける。

「少し、待ってもらえる? 急いだ方がいいなら――」

「いいえ。多分、大差ないわ。大丈夫」

 首を振るメーシャは、随分と大人しい。今まで散々と悪態をつかれていたものだから、少々調子が狂ってしまい、セリムは視線を外した。

 元々、女の子の相手は得意ではない。いや、他者との付き合い自体がそうで、度々、失敗して怒らせてしまう。正直なところ、自分と付き合ってくれるのは奇特な人だけだと、本気で思うセリムだった。

 片足を引きずるような足音が聞こえて、扉が開かれた。

 開いた途端に、セリム目掛けて杖が飛んでくる。反射的に手で挟んで止めたものの、久々で手が痺れた。

 姿を見せた老人に、思わず苦笑を向ける。懐かしい挨拶だ。

「相変わらず手加減なしですね」

「ふん、なまってはいないようだな」

「・・・?!」

「ほらほら、お客様が驚いてるでしょう。それに、挨拶が済んだらお座りなさい。気にしないでね、いつものことなのよ」

 杖を近くの壁に立てかけるセリムと、「客がおったか」と呟く老人を、子供を叱るような目でたしなめて、スコーンのついたティーセットを運んでくるリース。

 リースに笑いかけられて、驚きを口の中に押し止めたメーシャは、老人に続いて入ってきた少年に気付いて、首を傾げた。

 今年で十七になる少年は、小柄な老人よりも少し高い程度の身長で、切り損ねたように伸びた不揃いの前髪の隙間から、冷たい一瞥を向けてきた。メーシャは、呆気にとられてそれを見つめていた。

 その視線を辿って、セリムが思わず腰を上げる。

「アダム、来てたのか!」

「それは僕の台詞。僕の仕事場は天文台だから、こっちに下りてきても何の不思議もないだろう」

「それはそうだけど。久しぶりだなあ」

「会う機会がなかったのは、そっちがここに来るのをやめたからだろう。来なくなったと思ったら、そんなちんちくりん連れてきて。趣味、悪くなった?」

「一日限りの被保護者だよ。メーシャ、こいつはアダム・ベントラッセ。この年で、天文台の栄えある研究員なんだ。口が悪いのは性格のせいだから、気にしなくていい」

「僕に言わせれば、セリムの方がずっと口が悪い」

 腕組みして、空いているセリムの向かいの椅子に座る。セリムも、応じて腰を下ろした。そんな二人を、リースたちが微笑するように見守る。

 アダムは、セリムよりも数歳年下だが、飛び級を重ね、働き始めたのはセリムよりも早かった。

 セリム同様に身成に構うことはない。顔の作りといい物言いといい、いささかきつい印象があるが、実際に付き合ってみるとそうでもない。

 誰かを親友と呼ぶとすれば、セリムには、アダムしか思い浮かばない。

 二人が始めて知り合ったのは、アダムが研修で天文台に来て、この建物に降りてきたときだった。天文台と建物は、直通の通路が繋がっている。

 楽しげな会話が弾み、おいしいお茶が振る舞われる中、メーシャは、一人居心地が悪そうにしている。

 会話の途中でそれに気づき、セリムは、話を他の三人に預け、メーシャに顔を近付けた。小さく声をかける。

「部屋、移ろうか」

「え?」

「話があるんだったね。ごめん、俺だけ楽しんでた。――リース、空いてる部屋を借りるよ」

 アダムだけが咎めるような視線を向けてきたが、それも強くはない。どうぞと促されて、適当な一室に移った。

 天文台で働く職員や研究者の仮眠室の役割もしており、空き部屋はいくらでもある。それでもさすがに、寝台のある部屋は避けて、雑誌や日持ちする菓子の置いてある休憩室を選ぶ。

「悪かった。俺は、リースに育ててもらったようなものだから・・・どうしても甘えてしまって。ああ、そこの菓子、適当につまんでいいよ」

 黒塗りの器に入った飴を絡めた干菓子を見つめるメーシャにそう言って、ひっそりと溜息をつく。

 リースは昔、セリムの家で家政婦をしていた。そこで、半ば乳母のような役割まで負って、辞めた後も、セリムは、次の勤め先のここに度々遊びに来ていた。

 距離を置いたのに、甘えは抜けなかった。

「別に。謝ること、ないわよ。・・・お茶、おいしかったし」

「ありがとう。きっと喜ぶよ」

「・・・話って、いうのは・・・」

 躊躇うように言って、部屋のあちこちに視線をめぐらせる。やがて、意を決したように、セリムを正面から見つめる。

 青い、海を思わせる瞳に、吸い込まれるような気持ちになる。

「あなた、保護地区って呼んでるところのこと、どのくらい知ってる?」

「どのくらいって――」

 保護地区には、大まかに分けて三種類ある。主に、絶滅を危ぶまれる動植物を保護するためのもの、景観や自然体系を保護するためのもの、人魚や人馬など、人と近しいが違うものを保護するためのもの。

 どれも、立ち入りには制限が加えられ、入出は記録される。そして出る際には、不当な持ち出しがないか、検査を受けさせられるところもある。管理は、全て王府が直接に行なっていた。

 その程度の知識だと、正直に言うと、メーシャは怒るように唇を歪めた。

「それで、本当に保護されていると思っているの?」

「・・・違うのか?」

「ええ、保護してくれているわよ、種としてはね。絶やさないように気を配って、足りないとされるものは補ってくれる。ありがたい施しよね? いえ、飼育と言うべきかしら?」

 烈しい言い様に、言葉を失う。

 動植物についてはともかく、メーシャのような種族からそんな言葉を聞かされるとは思っていなかった。保護区では、食料に足る生態系を維持して、自然に暮らしているのではないのか。

「不自然なほどに整えられた環境で、数が増えたあたしたちを、どうしてると思う? 密猟者に目こぼしして、引き渡してるのよ。そうすれば、露見しても糾弾されるのは密猟者の方。問題はないものね。――皆、諦めてきているわ。数が減れば、強制的にでも子供を作らせようとする。同じ言葉を使っているはずなのに、会話の成立する相手なんていない。檻は強固で、逃げてもすぐに捕まる。この腕輪だって、初めてじゃないわ。いつも、あそこでつけられてる。それなら、もう、何も考えずにいた方がいいって、諦めてる。運が良ければ安穏と一生を終えられる、って」

 強い眼が、正面から睨み付けてくる。しかしそこに、うっすらと涙がにじんでいることにも、セリムは気付いていた。

「・・・捕まったのは、わざと?」

「ええ、そうよ。あいつらは、腕輪を外してくれるし監視もあそこほどはきつくない。あるはずもないけど、誰か、話を聞いてわかってくれる人がいれば何かできるかも知れないと思ったのよ」

「近くには、いなかったのか? 監視員あたりは」

「・・・一人だけ、いたわ。今はどこにいるのか、知らない」

 左遷されたのか、口を封じられたのか。

 しかし、だからこそ、外に探そうとも考えられたのだろう。誰一人として耳を傾ける「人」がいなければ、協力を頼もうなどと考えもしなかったかも知れない。

「俺に言ってくれたら――って言っても、無理か」

 セリムは、彼女たちを閉じ込めている側だ。少なくとも、メーシャにはそう映っていただろう。訴えることなど、考えられなかったに違いない。

 人魚と人が、距離を置きながらも共に生活していた時代からは、随分と離れたところに来てしまっているのだ。

「今回、ようやく信用できるかも知れないと考えてくれたわけか」

 そう嘆息すると、メーシャは視線を逸らした。

「はじめは、こんな機会は二度とないって、利用するつもりでいたのよ。思いがけず、陸を歩ける足まで手に入れたし。それなのに――あなた、無茶苦茶よ。何がしたいのか判らない。まるで、あたしの為みたいな行動して」

「そう言われると、いささか心苦しいな。俺は、飽くまで俺のためにしか動いてないから」

「どういうこと?」

「ああ、俺が誰かと取り引きしてるって事じゃないよ。警戒されるような裏はない。ただ、俺が、何度も話したことのある君が、死体になって発見されるのは厭だと思っただけのことで」

 信じられないと、信じたいと、それぞれに揺らぐ気持ちが、メーシャの目から見て取れる。溜息を一つついて、セリムは、眼鏡のつるを持った。

「俺はね、それはそれは家柄のいいところに生まれたんだ。伝統があってお金もあって、権力もある。そんなところにね。だけど、親はそれを維持して喧伝するのに夢中で、子供に構う閑なんてほとんどなかった。兄が二人いるけど、彼らとの接点もろくになかったな。つけられていた乳母は、世話はしてくれるけどなつけなかった。俺はね、さっきいたリースに、親しく声をかけてもらえるのだけが嬉しかった」

 思い出の過去を、そこにいる人たちを、恨むつもりはさらさらない。しかし、好きになれないのも事実だった。いや、正確には、関心がない。乳母も当時家で働いていた人たちも、顔も思い出せない。両親でさえ、いくらか曖昧だ。

 両親や兄たちに嫌われていた覚えはないのだが、なにしろ、彼らは忙しかった。ただそれだけのことだ。

「俺が学校に入る二年前の年、弟が生まれた。乳児に用はなかったし、すぐに学校の寮に入ったから、ほとんど興味もなかった。だけど、休みに家に戻ると、リースの側にいるのを見た。弟も、リースを頼りにしていたんだな。だけど俺は、取られたようで、邪険に扱っていた。リースに諫められても、聞くことはなかった。そんな状態だから、弟は、俺がいる間はリースには近付かないようになっていた。リースが笑いかけても、無理矢理逃げたりして」

 今考えると、あれは、セリムを気遣って、嫌われることを避けての行動だったのではないかと思う。セリムは、冷たい態度はとったが、暴力を振るったりはしなかった。

 どうせ冷たく接されるのなら、リースと一緒にいた方が良かったはずだ。

「ある年、俺は、リースをほとんど無理矢理旅行に連れ出して、一夏を過ごした。家に戻ってみたら、弟は、衰弱して死にかけていたよ。ほとんど、食事を摂っていなかった」

 小食なのだと、誰も気に留めなかったらしい。夏の暑さにやられたのだろうと。しかし小さな体は、大人よりもずっと近くに、限界があった。

 後で、そのことを知って、涙をにじませた女中もいたらしいのだが、彼女は、事前にそれを知る立場になかった。多少仕事の範囲を出ても、干渉が必要な事態だったとも知らずにいた。子供の好きな女だった。

「リースは、それに責任を感じて辞めた。俺は、少し気まずい思いもしたけど、ろくに考えもせずに、その後も普通に学校に通って、リースの次の勤め先にも遊びに行っていた」

 リースに責められたこともあった。しかしセリムは、それも適当に押しやってしまっていた。弟は、まるではじめからいなかったかのように、そう、捉えていた。

「大学に通うのに、家には戻らなかったけど、このあたりで暮らすようになって。それまでに、さっきの口の悪い奴、セリムにも会って、親しくなって。何かの用で、家に行って、どうしてだったか、用のない部屋を開けた。――そこが、弟の部屋だった。一瞬、何かわからなかったよ。だけど、思い出して。俺は、自分のしでかしたことを知った。自分と同じ立場にいた弟を、すぐ触れられるところにいたのに、追いやった。知らなかったわけじゃない。よく知ってたのに、そんなことをやったんだ。弟を、わざとじゃなくても殺そうとした。丁度アダムと同じくらいの年齢で、あいつを見てると、自分のやったことを思い知らされた。恐ろしかったよ」

 恐怖と呼べばいいのか、嫌悪と呼べばいいのか。己に向いているだけに、逃れようがなかった。

 あのときは、誰かの罰を、確かに望んだ。誰かが罰してくれれば、いくらかでも楽になれると思った。

 どこまでも甘えていた。

「と、まあ、説明が長くなったな。そんなわけで、俺は、助けられたはずのものを、むざむざと見捨てるのが厭で、こんなことになったわけだよ。納得してくれた?」

「なんだか――」 

 ぱりんと、窓の割れる音がした。見せかけは普通の建物だが、素材も造りも、かなり頑丈になっている。窓は、全て防弾ガラスだ。簡単に割れるものではない。

 それらは、大陸統一前の名残だが、だからといって古びてはいない。どうやってか、アイクが予算をもぎ取り、今も維持しているはずだった。

 音を立てずに立ち上がったセリムは、メーシャにじっとしているよう指示して、扉に手をかけた。耳を当てても物音はなく、ゆっくりと透き間を空けたところで、急激な眠気に襲われる。

 睡眠ガスかと気付き、急いで閉めようとするが、動きは弛緩し、かちりと音を立てて閉まったことを確認することもできず、内鍵をかける間もなく、重くなった体が床に着く。

「セリム!?」

 誰かの、名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。


         追記 番外


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