「ねえ、あれ何?」
「閣議場だ。『王』たちが会議をする場所」
「ふうん? 王って誰?」
「今は、ジャル・ポール、サガン・リグ・ムア、サロメ・ディーア、リシャス・テロメア、イヴ・ベントラッセ」
足を止めて、メーシャは首を傾げた。腰まである長い髪が揺れて、ぱさりと音を立てた。
考えてみれば、セリムは、水中で海藻のように揺らぐそれしか見たことはなく、こうやって見てみると、重そうだ。
セリムは、何とはなしに、少しだけ下がっている眼鏡を押し上げて、王立博物館の隣に立つ、堂々とした尖塔の建物を見上げた。
閣議場と、その左右にそびえる王立博物館と王立図書館は、この世界の知識の粋とされている。地上で育てば子供でも知っていることだが、人魚のメーシャは、見るのも初めてだろう。
「今、五人の名前言った? どうしてそんなにいるの?」
「え――」
あまりに基本の情報で、ぱちぱちと、意味もなくまばたきをする。
しかし、考えてみれば当たり前のことだ。所謂「人魚」や「人馬」らとの交流を断ち切ってしまったのは、あまりにも前のことなのだ。この大陸が、一つの集団としてまとまっていることも、知らなくても不思議ではない。
意識せず、眼鏡のつるを軽くつまむ。いつの頃かの、癖だった。
「今、この大陸は一つの機関が中心になって治めているんだ。それが、王府。五人の人物を最高責任者に据えての、議会と考えてもらって構わない。・・・と、わかるかな、俺の説明」
「あんた、馬鹿にしてる?」
物凄い目つきで睨まれた。ただセリムは、いつも説明が固いと言われるから、それを心配しただけだったのだが。
機嫌を悪くしたらしいメーシャは、つんと背を向けた。
「どこに行くつもりだ?」
「服。こんなださい格好の人、ほとんどいないじゃない」
「・・・俺の服なんだけどな、それ・・・」
身成には構わないし、そもそもそういったセンスはない。自覚はあるが、なんとも虚しく、呟いてしまうセリムだった。
しかしメーシャは気にもしてくれず。当たりをつけて店を覗き込む。
どこか真剣に見える様子は微笑ましく、見ていてもなんとなく嬉しい。
メーシャに気付いた店員が近付き、声をかける。いささか臆しながらも、メーシャは、ごく普通に会話をしている。そのやりとりを、ぼうっと聴くでもなしに聞きながら、セリムは、その店の縁石に腰掛けた。
もしも事が露見したら――その可能性は、大いにある――大問題になるだろう。良くて降格減給、悪くて刑事裁判。その場合当然、研究員の職は失うことになるだろう。
それなのに何故。
改めて自問したところで、答は拍子抜けするほど簡単に返る。
何度も、観賞用に密売されながらも、安全なはずの保護区を抜け出すのは、理由があるからだろう。それが、傍から見れば些細なものであったとしても、何らかの形で解消されなければ、いつまでも繰り返す。いい加減懲りる、ということは、これだけ顔を合わせれば考えにくい。
今は、運良く業者が摘発されて助かっているが、そのうち、ひっそりと闇に消えていくかも知れない。
それは、厭だ。何度も顔を合わせ、内容のない憎まれ口しか聞いていないが、見知った相手だ。
知らなければ、水棲生物関係の仕事をやらされなければ、そんなことがあったと聞かされたところで、気にしない。速やかに、古書の世界に戻れる。昔の出来事や知識の中に、埋没できる。
けれどセリムは、顔を合わせてしまった。
そうして、後日、メーシャに何かあったと知ったときには、何かできたかも知れないのにと、悔やむ自分を容易に想像できた。そんな馬鹿げた後悔は、もうたくさんだ。
「ちょっと!」
「――? 呼んだ?」
「さっきから何回も! お金、払ってよ」
「ああ・・・いくら?」
店員に言うと、笑顔で値段を告げる。高すぎる物ではないが、セリムの普段着に比べると高い。安物しか着ていないのだ。少々、痛い出費だ。
代金を払ってお釣りをもらったときに、店員は、少し驚いた顔をした。
栗色のセミロングの女性だが、何か驚かれるような要因があったかと、首を傾げる。その反応に気付いて、店員は、はっとして目を逸らした。メーシャに笑顔を向ける。
「お客さん、あちらで着替えて行きますか? 今着ている服は、袋にでも」
「ええ。そうさせてもらうわ」
そう言って、店の奥の布で区切ったスペースへ移動するメーシャをぼうっと見送っていると、ねえ、と声をかけられた。
「あなた、イヴと付き合ってたでしょう? おぼえてない? 私、会ったことあるのよ」
「え――あ。芸術科の?」
「そう。今は、小さいながらも店持ちよ。あなたは、博物館に勤めてるんだった?」
「どうして知ってるの?」
「イヴとは、まだ会ってるから。ここのお得意さまよ。ねえ、今はあの子と付き合ってるの?」
「まさか。被保護者だよ。ああ、出て来――」
仕切りの布の向こうから姿を現わしたメーシャは、夏仕様の海色のワンピースがよく似合っていた。セリムは、メーシャを十五・六と思っていたが、こうやってみると、もう少し大人かも知れない。
元恋人の友人は、作品を眺める研究員のような目でメーシャを見て、満足そうに微笑んだ。セリムも、つられて見つめる。
「・・・何」
じろりと、睨み付けるように見られて、悪いことはしてないよなと、自問自答する。しかし、体の線は先程よりも出ているような気がするのだが。敢えて、それには触れない。
「似合ってると思って。きれいな青だ。瞳によく合ってる。袋、持つよ。それじゃあ、ありがとう」
最後は、店員の女性に向けたものだ。名前を聞いたかも知れないが、思い出せないのが申し訳ない。
女性は、くすりと笑った。
「こちらこそ、ありがとう。折角近くにあるんだから、また寄ってくれると嬉しいわ」
「考えとく。服は、とてもきれいだと思うよ」
ただ、それが自分に合うかは別問題で。
そうして、二人は再び大広場に戻った。
メーシャは、ひらりひらりと翻る裾が気になるのか、何度も、体を捻っていた。心なし、いくらか嬉しそうにも見える。
「さて。どこに行きたい?」
「何があるかも知らないわよ」
「ああ、そうか。それじゃあ、どんなところに行きたい?」
「・・・あんたのお薦めは?」
何故か、探るような問いかけに、眼鏡のつるに手を伸ばす。
「俺のお薦めは、女の子には不好評甚だしくてね」
「いいわよ、それで。最初から期待してないし」
「・・・君、言葉で身を滅ぼさないように気をつけなよ」
一言多い。
さてそれじゃあ、と考えをめぐらせる。
博物館――は、さすがに仕事場で、誰に見咎められるかわかったものではないから却下するとして、図書館も、調べ物がなければ退屈か。そもそも、セリムたちが使う文字は読めるのだろうか。そう言えば、近くの市立博物館の絵画スペースで、例年通り公募の絵画コンクールがあったはずだ。あれはどうだろう。あの博物館なら、王立には及ばないながら、各種資料も豊富だ。
決めて、顔を上げると、広場中央の大時計が鳴った。反響する鉦の音に、鳥がばたばたと羽ばたく。正午になったようだ。
「とりあえず、ご飯でも食べようか。どんなのが食べたい?」
「なんでもいいわよ」
「そう言われると、逆に決めにくいよ。この辺りは、色々揃ってるから。好きなものや、嫌いなものは?」
「・・・できれば、生の方がいいわ」
「それじゃあ、あっちだ。サラダと鮮魚の店がある」
一段ときれいになったメーシャを伴って、時計塔の西側に向かう。
生の魚を捌いてそのまま出す店は珍しく、実は、先輩に連れられて行って、合わずに吐きかけたというのは、この際内緒だ。他のメニューもあるから、なんとかなるだろう。