「こんなところにいたのね、レス」
「こんなところって・・・執務室だよ、奥さん」
妻だけが呼ぶ愛称に、笑うように目を細める。見慣れた仕草だが、今日こそは切り出そうと、決心していた。
これ以上ここにいれば、命が危うい。
「話があるの。いいかしら?」
「良くない報せのようだね。座って」
執務室には、椅子はひとつしかない。それを勧められ、迷ったが、結局腰を落とした。
窓からは、海が見える。昼の光を浴びて、深く青く、きらめいていた。高価なガラスのはめられた窓は申し訳程度に開けられており、潮の香りが忍び入った。
それで、と、海の色に似た瞳が覗き込む。
「私、帰ろうと思うの」
顔が固まり、はあとため息をつく。
「それは、俺が王なんてものになったから?」
「そうね」
「俺だって、なりたくてなったわけじゃないんだ。まさか、二人もいた兄が両方さっさとこの世から去るとは思わないだろう」
「それは知ってるわよ。あなたが、王様なんて柄じゃないと思ってることも、その割にはそつがないことも」
王位が回ってきて、まったくの想定外だったとは思わないが、困惑したのは確かだろう。
「だけど、このままここに残れば、殺されると思うわ。私も、この子も。王妃に、私はふさわしくないのよ」
「それ、本気で言ってる?」
ごく冷静な視線に、怒ろうかと動く感情を知る。怒られるのも、嫌われるのも、望んではいない。それでも、黙っているわけにもいかない。
「私が何度殺されかけたか、知りたい? 噂話や陰口なんて、どのくらいあるのか知りたいとも思わないわ」
「そのことは、もう少しだけ待ってほしい」
「どういうこと?」
「今、信頼のおける部下を探している。武芸のできる女官を探しているのだけど、さすがにそれは無理かもしれない」
そうして、一呼吸置く。
「俺が訊きたいのは、王妃にふさわしくないなんて、本気で考えてるのかということだ」
「だって私は――ヒトじゃないもの」
「俺は、それを承知で君が好きなんだけど?」
「・・・でも、王になるはずじゃなかったでしょ」
「身分で、好きになる相手を変えろって? それは凄いな、王子は王女を好きになって、物乞いは物乞いを好きになるわけだ。富豪が落ちぶれたら、思いを寄せていた別の富豪の一人娘ではなくて、下女を好きになるとでも?」
「それとは話が違うわ!」
「いいや、君が言っているのはそういうことだ。俺が嫌になったなら、それでいい。だが、そんなことを気にして別れると言うなら、行かせない」
種族の違いは、「そんなこと」などという言葉で収まるものではない。
そのことは、よく知っているはずだった。いくら姿をそっくりにしても、違うものは違う。そう、知っているはずだった。
それなのに。
「行かないでくれ」
出会った頃と変わらない声が、言う。
「君も、君が一人で守ろうとしてる生まれてくる子供も、俺が守るから」
ただひたすらに真っ直ぐな誓い。
やはり残るのだと、ここで共に骨をうずめるだろうと、予感めいた確信を得る。窓に、視線を移す。あの海には、還らないのだ。
リランティス二世の治世は、五十年近くに及んだ。
その傍らに控えた王妃には、人魚だったという逸話も残る。