< 人名 >

太刀葉奏(たちは・かなで)  相良夏雪(さがら・かゆき)  相良美幸(さがら・みゆき)
高柳葛生(たかやなぎ・くずう)  更級和弥(さらしな・かずや)  行(ゆき) 山根木安芸(やまねぎ・あき)
御劔弓歌(みつるぎ・ゆみか)  宮島玲奈(みやじま・れな)  金田(かねだ) 久木(ひさき)  佐々木京香(ささき・きょうか)

現在出ている部分まで。今回も、一人増えただけですか。


「わー」
 合わせ鏡の中に映る、何人もの自分に感心するように声を上げる。奏は、そんな夏雪に、思わず微笑がこぼれていた。
 何度、この姪に救われただろう。
 そんなことを考えながら、ぼんやりと鏡を見つめる。並ぶ夏雪とは、哀しいことに、少ししか身長差がない。密かに、奏は夏雪の身長がこの程度で留まることを祈っている。
「競争しようか?」
「俺は構わないけど、無傷で出られる自信ある?」
「・・・いくらなんでもそれはひどいよお兄ちゃん」
 棒読みのところが、既に怪しい。
 しかし、冗談抜きにしても、足元に水の流れている鏡迷宮なのだ。鏡に気を取られ、足でも滑らせたら大変だ。緊急時の連絡先を事前に記入し、子供や年配者などの入場を条件付でしか認めていないのも、無理のない話だろう。
 それにしても、そんなものをテーマパークに設置してしまうところが思い切っている。
「鏡の迷宮かあ。お母さん、入りたがらなかったよね」
「ああ・・・。そう言えば、そうだっけ」
「あれ、一回、思いっきり頭ぶつけたからだって。お父さんとのデート中に」
 そう言って、笑う。
 何気ないはずの会話に、奏は、和弥の言葉を思い出す。姉を、殺したかも知れない男の名前。
 和弥にそれを聞いてから、どこか、心の一部が冷えている感覚がある。しかしそれは、きっと以前からあったものなのだ。ただ、隠れていただけで。
「じゃあ、姉さんの二の舞にならないように気をつけなよ」
「はいはい」
  軽く水音をさせながら、慎重に歩いていく。入り口で履き替えたサンダルで、指の間を抜ける水がくすぐったい。
 二人は、当然のように腕を組んでいた。傍から見れば恋人やどこかしら似通っていることから兄妹などに見られるかもしれないが、叔父と姪だ。ワカメとタラちゃんの逆だねと、夏雪が言ったことがある。
 水を撥ねて、角を曲がったところで、奏は、本日二人目の知り合いを発見することとなった。今度も、向こうはまだ気付いていないようだった。
 わずかな間だったが、鏡の迷路の向こうに見えたのは、確実に弓歌だった。
「ちょっと、立ち止まらないでよ急に」
「あ・・・ああ。ごめん」
 立ち尽くしていたのかと、歩き出す。
 弓歌の隣には、壮年の男がいた。奏らと同じように腕を組み、楽しそうに笑い合っていた。資料で見た、弓歌の父や兄ではない。奏と夏雪がそうであるように、恋人ではなく親しい血縁者や友人ということも考えられないでもないし、恋人同士だということも考えられる。
 だがどうしても、剣美学院に巣食っているらしい売春組織を思い出し、奏は、落ち着かない気分になった。
「どうかしたの?」
「いや。別に」
「お父さんといい、どうして、嘘が下手なのかな。レストランでのことじゃないよね? さっき急にだもん」
「ああ・・・いや、本当に、何でもないよ」
 角度の問題で前にいた二人は見えなかったのか、それとも結び付けて考えられないでいるのか、不思議そうに首を傾げる。
「ちょっと、考え事してた」
「何、仕事? 恋愛? さっきのお兄ちゃんの友達のこと?」
 好奇心を刺激されたのか、きらきらと目を輝かせる。歩みを再開させながらも、奏は苦笑いを浮かべた。
 こういったところは、夏雪もちゃんと「女の子」だと思う。そんなことを本人に告げれば、「じゃあ普段のあたしは何なのよ」と返るだろうことは、まず間違いないのだが。
 先を行っているだろう弓歌に声が届くことを懸念して、わずかに声を低め、さあどうだろうねと、はぐらかす。
「そう言えばあたし、お兄ちゃんの恋愛話とか聞いたことないなー。ねえ、何かないの? 今つきあってる人は?」
「残念ながら」
「誰か紹介しようか?」
「遠慮しとくよ」
「そう? まあ、社会人から見たら、高校生なんて子供かー」
 あながちそうとも言えない、と奏は思うが、そんなことを言えばややこしくなるだけと判っている。賢明にも、曖昧に微笑を浮かべるだけに収めた。
「でも、自分では子供と思わないだろう?」
「んー。そうでもないよ。やっぱり色々とね。二十歳になったら別かな、とも思うけど、子供は子供だよ」
「ふうん。夏雪は大人だなあ」
「ええ? なんでそんな結論になるの」
 合わせ鏡に目が眩まないように気をつけながら、訝しげに視線を向けてくる。
 子供と自覚する子供は少ない。そうして、それだけで、十分に「大人」だろうと思う。高校生だった奏は、そんなことは考えもしなかった。振り返って、気付く。
「卒業したらわかるよ」
「お兄ちゃん、すっかり老成しちゃったねえ。実はお父さんより、年取ってない?」
「義兄さんは、あれは化け物だよ。俺からしたら」
 きょとんとして、次いで、明るく笑う。
 しかし、あれは狸だ。化ける妖怪の狸に違いない。義兄の年齢に、奏もあそこまで成長できるかは怪しいものだ。
 もっとも、それを成長と呼ぶならの話ではあるのだが。
 急に、夏雪が声を弾ませた。
「あっ、あれ! 出口じゃない?」
「・・・夏雪」
 勢いよく指差して直進し、指先を鏡面に、したたかに打ちつける姪。奏は、半ば呆れて、痛みをこらえてうずくまる夏雪を見守った。
 注意しろと、言ったはずだが。
「・・・うぅ・・・こんなの反則・・・」
 涙目になりながらもよろよろと立ち上がった夏雪を支え、奏は、出口を目指した。
 ここまで来たら、さすがに迷うこともないだろう。

「お帰り。どうだった、デートは」
 幾分不機嫌そうな熊が、二人を出迎えた。台所から、一瞬、首だけ振り返る。今日の夕飯は炒飯らしい。それと何故か、ちくわの素揚げ。
 にっこりと、夏雪は微笑んだ。
「楽しかったよ。お父さんも来れば良かったね」
「悪魔か」
「あ、これお土産。アクアサイドの横に、良さそうな酒屋があったから、義兄さんも今度行ってみたら?」
「おお」
 日本酒の酒瓶を置くと、嬉しそうに相好を崩した。義兄は、弱いが、好きなのだ。
 とりあえずは機嫌が直ったらしい様子に、奏は、夏雪と笑い合った。ちなみに、その店を先に見つけたのは奏だが、土産に買おうと言ったのは、夏雪の方だ。
 義兄は、器用にも中華鍋を振ってご飯を混ぜると、三等分して皿に持った。それを夏雪に運ばせ、自身は、数日前に栓を開けた紹興酒と小さなグラスを二つ持ってくる。その間に、奏はスプンと箸を引っ張り出していた。
 それぞれ席に就き、各々でいただきます、と言った後に、奏は、一人丸まる一本が割り当てられているちくわの素揚げをつついた。
「ところで、このちくわは? いそべ揚げ、でもないみたいだけど」
「そりゃあ、揚げただけだからな」
「なんでまた」
「あー、賞味期限が一週間ほど前でな」
「・・・加熱処理ですか」
 半ば呆れ、半ば感心して呟くと、向かいで、夏雪が胡乱そうにちくわをつついていた。いっそ、聞かない方が良かったのかもしれない。
 どうせ、三人とも完食するのだろうが。
 奏が覚悟を決めてかじると、普通のちくわの味で、本当に危険なものを食卓に載せるはずがないと判りつつも、少し安心した。
 そんな奏を見て、ようやく夏雪もかじりつく。
「何だお前ら、そんな悲壮な顔をしてまで食べなくてもいいぞ」
「悲壮というよりも、毒見の心境だよ」
「うんうん、言えてる」
「好き放題言うな。誰も、使わないで置いとくからこんなことになるんだぞ」
 そこで、捨てようという発想にならないところが、律儀というか勿体無い症というか。
 なんだかんだと話しながらも、夕飯は、順調に消費されていく。義兄は紹興酒をなめるように飲み、奏も適当に飲んでいるが、未青年の夏雪だけは、自分でほうじ茶を淹れていた。
 食事を追える頃には、二人とも、夏雪にそのほうじ茶を分けてもらい、のんびりと、酔っていもいない酔いを醒ます。
 そんな二人に対して、夏雪は、当番の皿洗いに立っている。
 奏は、刑事ドラマを映しているテレビを眺めやっていたが、夏雪と十分に離れていることを確認し、そっと、義兄に呼びかけた。
「義兄さん。御劔弓歌には、叔父か年の離れた従兄弟はいましたか?」
「うん? 何だ急に」
 こちらも声をひそめ、口元は笑いながらも、目が意外に鋭い。
 気になって尋ねたが、やはり、夏雪が寝てからか日を待つべきだっただろうか、と思った。奏は、そっと夏雪を見やった。
 父と叔父の会話に気付いた風もなく、姪は洗剤を洗い流している。
「・・・今日、彼女が四十くらいに見える男性と歩いているのを、見たんです」
「漫画の主人公並みにヒントにぶつかるなあ、お前」
「関係があるとは限りませんよ」
「明日、事務所に寄れ」
 わずかにむっとして返したのだが、義兄は、ただ肩をすくめ、それだけを告げた。目線は、テレビに戻っている。
 奏も、それに倣う。
 昔ながらの刑事ものとは一味違ったテレビドラマは、事件捜査が、新たな証言の出現によって、大きく展開が変わるところのようだった。
「あ。お兄ちゃん、後で本借りに部屋に行っていい?」
「え? いいけど、どうしたの急に」
「感想文の宿題。高校生になってまでやらせないでほしいよ」
 読書自体よりも、感想文を書くのが嫌いな夏雪は、食器を布巾で拭きながら、盛大に溜息をついて見せた。
 奏の通っていた高校では、そんなものが出た覚えはなかった。
「その提出、いつ?」
「明日」
「図書館で、書きやすいの借りたら良かったのに」
「行き損ねたの」
 ちなみに、奏の本棚には、SFやファンタジーが主に並んでいたりする。義兄の方はといえば、雑多ながら、推理ものが多い。
「義兄さんのところのやつの方が書きやすくない? 意外に、純文学とか置いてあったと思うけど」
「意外にって何だ」
「いや、まあ」
「厭。どうせ時間費やすなら、少しでも楽しめるやつがいい。感想文なんて、出したらそれでオッケーなんだから」
「純文学書きが聞いたら怒るぞ、それ」
 義兄が、半ば呆れ、半ば面白がるように突っ込みを入れる。
 夏雪は、手の水分をぬぐいながら、二人の方へとやってきた。洗物に邪魔と、束ねていた髪を解く。
「好みの問題よ。あたしは楽しめないけど、楽しめる人は楽しめる。それでいいじゃない」
 奏は、義兄と目線を交わして苦笑した。正論だ。

「何かお勧めある?」
 当然のようにベッドに陣取った夏雪に苦笑して、奏は、本棚をざっと見渡した。そう、数があるわけではない。
 そこから、文庫本を一冊抜き出した。長いシリーズ物の一冊目だが、奏が持っているのはこの一冊だけだ。以降は、一度集めたものの、処分してしまった。
「ベタだけど、これは?」
「あー、廃工場に立てこもるあれ? 去年書いちゃった」
「そっか。じゃあこれは?」
「傑作集? 短編?」
「ああ。夏雪も、話くらい知ってるんじゃないかな、賢者の贈り物とか、最後の一葉とか」
 うん?と首を傾げる姪は、手渡した文庫をめくり、説明を求めて顔を上げた。
「貧しい夫婦がいて、クリスマスの贈り物に、妻は夫のために自慢の髪を売って時計の鎖を、夫は妻のために大切な時計を売って髪留めを、それぞれ買ったっていう話。俺が言うと、情緒も何もないけど」
「あ! はいはい、知ってる。それが、賢者の贈り物? 最後の一葉?」
「賢者の贈り物」
「じゃあそれでいこう。それと他に、お勧め、ない?」
「感想文用じゃなくて?」
「感想文を書かなくていい読書が、本来の読書の姿だと思わない?」
 その台詞に同意して、奏は再び、本の背を眺めやった。
 ところが、奏が候補を挙げるよりも先に、夏雪が、抜き出されていたエメラルドグリーンの背表紙に気付いた。読みかけで置いたままになっていた、劇の原作だ。
「これは?」
「ああ・・・。うん、それ、俺は好きだよ」
「SF?」
「に、なるのかな、全部じゃないけど。色々。それも短編集だよ」
 へえと、ぱらぱらと頁をめくる。
 人が本を読んでいるのを見るのは、なんとなく妙な感じがする。何を読んでいるのかが気になる、知っているものであれば反応が気にかかる、ということもあるのだが、一心に活字を負う様子が、何か異次元めいたものに映る。
 自分も、他からはそう見えているのだろうかと、わずかに夢想した。
『いるか、奏』
 あるはずのない聞き覚えのある声に、奏はぎょっとして、あたふたと声の主を探した。
「お兄ちゃん、パソコン」
「あ。そうか」
 部屋に入ってすぐに、ほぼ条件反射でパソコンの電源も入れていたらしい。ラインからの声だ。
「じゃあ、二冊借りていくね」
「ああ。あんまり夜更かしするなよ」
「はーい」
 苦笑して立ち上がった夏雪を、いささか説教くさい言葉で送り出すと、パソコンに向かった。珍しく、今回も画像なしだ。
「タカ? どこで何やってるんだ、お前」
『いたか』
「いない方が良かったのか?」
 からかったわけではなく、いつもの軽快さが感じられず、訝しんでのことだった。
『今、出られるか』
 短い沈黙の後の言葉に、壁の掛け時計に目をやる。まだ、十時にもなっていない。明日も学校があるが、多少寝不足でも、授業を真面目に聞く必要がないだけ、楽と言えば楽だ。
 それよりも、友人の反応の方が気にかかる。
「いいよ。どこにいるんだ?」
 告げられたのは、駅の近くのネットカフェだった。それならと、近くの公園にと言いかけて、恋人だらけだと思い至る。
 居酒屋とファミリーレストランとドーナツショップとでどれがいいと訊き、高柳は、しばらく迷った末に、少し距離のあるマンションに囲まれた公園を指定した。
 奏は、手早くパソコンの電源を落とすと、財布とバイクの鍵を掴み、階下の義兄に声をかけて家を出た。携帯電話を忘れたののに気付いたのは、道を半ば走ってからのことだった。
「よお」
 バイクをそのまま乗り入れると、水銀灯に照らされた中途半端な暗闇で、高柳が片手を挙げて応じた。
 小さなブランコに無理やり座っている姿が妙で、しかし笑うよりも、奏は眉根を寄せた。
 バイクから降りると、隣のブランコに腰掛け、途中のコンビニで買った中華まんを差し出した。手を出さないので、とりあえず一つを押し付けて、自分も手に取る。
「もう五月だっていうのに、まだ置いてるんだな」
「・・・嫌がらせか?」
 中華まんを二つに割った高柳に恨めしげに見つめられ、思わず、噴き出していた。
 手元には、湯気の立つ、あんまん。高柳は、温かい餡子というものが許せないらしい。作りたての餡子は例外なく温かいのにと言うと、厭そうな顔をするのだった。
「悪い。四分の一で当たったな」
 笑って、手をつけていない残り二つを、収まってる紙袋ごと手渡した。奏の夜食は、ピザまんとあんまんになるようだ。
 受け取ると、紙袋から取り出した中華まんをもてあそびながら、高柳は、視線を足元に落としたままだった。
 奏はそうしてしばらく、無言の友人の横で、黙々と湯気の立つ中華まんをほおばっていた。
「訊かないのか」
「やっと喋ったかと思ったら、それか」
「今日、見ただろ。気にならないのか」
「あれ。呼び出した理由を、じゃなかったのか?」
 予想違いに首を傾げると、高柳は、突っ伏すように身体を折った。ブランコが緩くゆれる。
 地面から湧き出るように低い笑い声が聞こえて、奏は、ぎょっとしてわずかに身を引いた。
「どうしてそう、ことごとく予想を覆すかな、お前は」
 それはお前だろうと思ったが、口にはしなかった。どうも、お互い様らしい。
 高柳は、身体を起こすと、ゆっくりと、低いブランコを揺らし始めた。
「あれな。俺の母親だ。本当の、生みの親の方。俺だけ父方に引き取られたって、言ったっけ?」
「ああ」
「あの人担いで来るなんて、あっちもよっぽど、焦ったらしいな。俺は約束、守ってるつもりなんだけどな」
 渡した紙袋が投げ渡され、高柳は、立ち上がって、ブランコを強く漕ぎ始めた。鎖が、成人男子の体重に悲鳴のような音を立てる。
 そんな中でも、高柳の声は、静かなままに耳に届いた。
「あの人自身は、俺のことを思ってくれてるんだろうから、余計やりきれないっていうかさ」
 高柳の母は、現役の看護婦だということだった。少なくとも、奏が聞いた時点ではそうだった。
 高柳は、中学に上がる頃まで、母との二人暮らしだった。そこで引き取られたのは、父親の妻がそれ以上は子供を望めない体になり、そうして、その時点で高柳と同齢の長女と四歳年下の次女しかいないから、ということだった。
 どこの武家だよな、と、そう、少年は皮肉気に笑って言った。奏は、その瞳が冷え切っていたことを覚えている。氷の張った湖面を覗き込むような、そんな感覚を。
 高柳家の申し出を、認知はされていた少年の母は、本人に告げて話し合ったらしい。
 不規則な生活でほしい物だって買えないような生活より、よっぽどいいんじゃないかと、その人はさばさばと言ったらしい。
「俺は。あの人が、本当に高柳の家に行った方が俺が幸せだろうって、そう思ってたって知ってる。きっと、何が不満なんだろうって思ってるんだ。俺は今でも、あの人との二人きりの生活も悪くはなかったな、って、思ってるってのに」
 愛されてるんだよ。そう、ふざけるようにして口にした言葉を覚えている。だからここにいられるんだと、ひっそりと、教室のざわめきに紛れるように言ったことも。
 あれは、文化祭の準備中のことではなかっただろうか。ただの雑談に紛れた、告白だった。
 ブランコは、今や、座った奏の頭の高さくらいには、その端を持ち上げていた。奏は、まだ温かい紙袋を抱えたまま、闇に溶け込み、表情の伺えない横顔を眺めた。
「それでも、お前はそこを選ばなかったんだろう」
「ああ」
「戻りたいか?」
 ふっと、笑った気配がした。意味のないことを訊いている自覚は、ある。懐かしんだところで、選択をやり直したいと思ったところで、戻れるものではないと、高柳自身が知っているはずだ。
 奏が、家を出た二年間を悔やんだように。
 高柳は、振り子運動を続けるブランコの台を蹴りつけ、高い放物線の先から飛び降りた。着地した後も、飛んだ反動で乱れながら揺れ動くブランコは残った。
「っ、危ないな!」
 妙な幅に揺れ動くブランコ台に危うくぶつかりかけ、奏は、非難の声を上げた。
 地面に両足をつけた高柳は、やけに子供じみた笑みを浮かべて振り返る。
「そのくらいで頭はたかれるような奴じゃないだろ?」
「だからって、やっていいものじゃないだろ。せめて一言いえよ」
 あはははは、と、声を上げて笑われた。夜の住宅街だというのに、遠慮も気遣いもあったものではない。
 奏は、まだ揺れ続けるブランコを避けて、立ち上がった。自前の中華まんは平らげ、持っているのは、友人に買って来た紙袋入りの二つだけだ。
「タカ」
「うん?」
「送る。お前、明日も学校だろ」
「はあ? 送るって、女の子じゃないぞ俺は」
「じゃあ言い直す。早く帰った方がいい。だけど話し足りないから、家まで行ってもいいか?」
 そういうことなら、と、上機嫌で頷く。
 匂いではあまり気付かなかったが、酔っているのはほぼ確実だろうと思う。自覚がなければよほどだ。そうして、酔っ払いは酔っ払っているとは認めない。
 奏は、ひっそりと溜息をついて、バイクを押した。
「全く。もっと判りやすく酔っ払えよな」
 苦笑して呟くと、奏は、先を行く友人に早いと文句をつけ、後を追った。


 翌朝、奏は、玉子焼きの匂いで目が覚めた。
「・・・え?」
 おかしい、今朝は自分が朝食の当番のはずだった、と気付くのとほぼ同時に、時計に目をやった。起きなければならない時間を過ぎている。
 言葉もなく、慌ててベッドから跳び起きた。一足とびに階段を駆け下りると、制服姿の夏雪が朝食をとる傍ら、熊に似た義兄がフライパンを握っていた。
「ご、ごめん、義兄さん」
「気にするな。それよりも、高柳君は起こさなくていいのか?」
「あ。そうか。うん」
 慌ててきびすを返し、勢いを壁についた手で無理やり殺し、二人を振り返った。
「義兄さんごめん、明日の朝俺が作るから。夏雪も、悪かった」
 軽く苦笑して、それぞれに気にするな、と告げる二人にありがとうと言って、奏は、客間に向かった。
 昨夜、いよいよ酔いの回った高柳は途中でつぶれ、奏は、どうにか見つけた電話ボックスから義兄に電話して迎えに来てもらう羽目になった。勝手に財布を探って確認した住所は、高校時代のものではなかった。
 ところがその酔っ払いは、家に着いた途端に意識を戻し、気付くと、酒を飲みながら色々と話し込んでしまっていた。寝過ごしたのは、そのせいだ。
「タカ、入るぞ」
 ドアを叩いてから入ると、友人は、まだ夢の中にいた。
 平和な寝顔は、昨夜色々と吐き出せたからだろうか。あまり飲まなかった奏は、昨日は、どちらかといえば聞き役だった。
 男の寝顔を眺める趣味もなく、多少は手加減して、あたまを叩いた。
「・・・う」
「起きろ。朝だぞ、学校行く必要があるだろ」
「・・・そつぎょうしたぞーおれはー」
「寝ぼけるな、馬鹿」
 修学旅行ではやたらに早起きだった覚えがあるが、これは酒のせいか年のせいかと、そんなことを考えながら、奏は、ぺしぺしと友人の頭を叩き続けた。
「今お前は、高校の養護教員だろ。起きろ」
「・・・ああ・・・? かなでー? なんでー?」
「・・・韻踏ませるなよ」
 偶然と判ってはいるが、つい、呆れてしまう。
 しかし奏では、浮上しかけた意識を見送るような真似はしなかった。
「朝ご飯できてる。とりあえず食べろ」
 おうー、と、力なく返った声に、またしても容赦なく身体をゆすり、どうにか、上体を起こさせることに成功する。服は昨日のままで、ジャケットは脱いだから免れたものの他が寝じわになっているから、義兄の服を借りるか、と勝手に決める。奏の服では、腹立たしいことに小さい。
 起き上がった高柳に肩を貸し、数割の体重を預けられたまま、引き摺っていく。細身の奏だが、大学時代の引越しのバイトを始め、意外に体力仕事もこなしている。
 どうにか一階のリビングにたどり着くと、丁度、夏雪が部屋を出るところだった。もう、朝錬のための登校時間らしい。
「おはようございます、高柳さん」
「ん・・・おはようー」
「それじゃあ、行ってきます。頑張ってね、お兄ちゃん」
「ああ。行ってらっしゃい」
 励ましの言葉に、苦笑を返して送り出す。
 とりあえず首だけ向けると、義兄が、テーブルに二人分の朝食を並べて待っていてくれた。自分は、既に食べ終えたようだ。
 少し迷ったが、そのまま突っ切って、風呂場へと向かう。義兄が、にやりと笑うのが見えた。
 そうしてたどり着いた風呂で、奏は、タイルの床に高柳を座らせて、シャワーヘッドを取ると、自分にはかからないよう注意しながら、水の蛇口を捻った。
「っわ?!」
「目は覚めたか?」
「目って、奏、お前?! 何、なんで俺水責め?」
「いや、責めてないから。シャワー浴びて、酒の匂い落としとけよ。行くんだろう、学校。それとも休むか?」
 止めていない水を浴びたまま、ようやく、高柳の目がしっかりと開く。いいやと、首を振った。
「じゃあ、服出しとく」
「とりあえず礼言っとくけど、いつかお返ししてやるから、楽しみに待ってろ」
「はいはい」
 適当に返事をして浴室を後にすると、義兄が、着替え一式を用意していてくれた。
「相変わらず厳しいなあ、お前の眠気覚ましは」
「効果的でしょう?」
「・・・まあ、水を張った水面器に沈められるよりは、ましか」
「・・・誰がやったんです、それ」
「俺にも悪友がいてなあ・・・」
 思いがけず、朝からしみじみと呟く義兄の姿を見る破目になった奏だった。
 ふと、義兄の「悪友」の言葉に、一人の人物を思い出す。その人が、義兄をそう評していたはずだ。
「それって、山根木さん?」
「ん? よくわかったな」
 今回、奏にカツラ一式を渡した、影の共犯者でもある。美容師だが、度々事務所の手伝いもすることから、奏も面識があった。
 なるほど、類は友をもって集まる。
 奏は、自分のことを棚に上げて納得した。
 義兄は不思議そうに、首を傾げているが、奏は肩をすくめて、とりあえず脱衣所を後にする。何も、こんな狭いところで立ち尽くしている必要もない。奏自身、いささかの余裕はあるとはいえ、登校しなければならない。
「あ。遅れたけど、服、ありがとう」
「うん、高柳君だと幅が余りそうだな。ひょろっとしてるから」
「義兄さんが、がっしりしすぎてるんじゃない?」
「ふん、これでも健康優良児だぞ」
「優良『児』って年でもないと思うけどね」
 奏は、義兄と話しながら、とりあえず顔くらい洗うかと、一度はリビングに踏み入った身体を、風呂場の横の洗面所へと反転させた。
「じゃあ、俺はもう一眠りするからな」
「ああ、うん。ありがとう、義兄さん」
 奏と行が学園の仕事にかかりきりで、所長は好き勝手に出社して適当に仕事をこなしてるのよ、と、行が呆れ気味にもらしていたことを思い出す。秘書としては問題視したくもなるのだろうが、今の奏には、とても注意はできなかった。

「おはよう」
「あ。おはよう」
「今日は遅かったのね」
「う、うん、ちょっと寝過ごして・・・」
 行のマンション近くの学校寄りの公園で高柳を下ろして、それから着替え、自転車に乗り換えての登校だ。時間にあまり余裕がなく、一時間目の生物室に直行していた。予鈴の直後に滑り込んだようなものだ。
 弓歌は、休み前と変わらず穏やかな微笑みを向けてくれるが、奏としては、アクアサイドで見掛けたことが気になって仕方がない。
 それでも、その動揺を気取られるようなことはなかった。そして、二時間目は体育なのだが、まだ思いきることもできず、学校での接触は避けると言っていたものの、また保健室に行く必要があった。
「ねえ、奏ちゃん。あの人・・・隣の、宮島さん、だったかしら。知り合い?」
「え?」
 突然の質問に、首を傾げる。弓歌がそっと指し示すのは、前の方に座っている宮島だ。今朝、その前を通って教室に入ったが、やはり何の反応もなかった。
 どうして、と問うと、弓歌は、小首を傾げた。
「さっき、こっちを見ていた気がしたの。気のせいかもしれないけど」
「ふうん? 選択の芸術が同じだけど」
「奏ちゃんは、何を取っているのだった?」
「演劇だよ」
 弓歌が更に何か言いかけたが、教師が入ってきて、とりあえず話はそこで途切れた。
 起立、礼と、ありふれた号令がかけられた。
 座るとすぐに、授業が開始される。はきはきと進められる様子は、嫌いではない。
 奏は、ぼんやりと授業を聞き流しながら、何をやってるんだろうと、改めて思った。
 やはり、何かがおかしくはないか。いくら大口の依頼だからとはいえ、三人しかいない人手をほぼ全て割いて、成り立つのだろうか。まだ、一年と少し。現場での体当たり的な仕事が多かったこともあり、大学時代の気まぐれ名バイトを含めると三年ほどは関わりをもっているが、奏は事務所のことを大まかにしか把握していない。それでも、このやり方には首を傾げざるを得ない。
 そもそも、高校生どころか女でもない奏を、女子高に編入させるというのは、いくらなんでもやりすぎだろう。露見したら、信頼も名声も、一気に落ちるに違いない。
 それとも、それらを度外視してまで見極めたいものが何か、奏には知らされてはいないが潜んでいるのか。
「はぁ」
 知らず知らずのうちに、溜息がこぼれていた。
 一体自分は、何をしているのか。
 ぐるぐると、何度も考えたようなことが頭の中を回る。授業は、聞き流すどころか全く、聞こえていないような状態だった。
 こんな不自然な状態を、長期にわたって続けられるはずがない。だが通常、潜入調査というものは、長期でなければ収穫は難しい。では、狙いを探るとすれば、短期でも見つけられて、かつ、生徒でなければ接触できないもの、か?
 そんなものがあるだろうか。
 現在、奏が曲がりなりにも入手できているものといえば、生徒が数名、中絶をしているらしいという噂が耳に入るくらいだ。
 売春組織に声をかけられ、仲間に呼び込まれる――となれば、一挙に話は進むかもしれないが、そう都合のいい運びになるはずもない。不自然な時機の転校生とあれば、警戒はしなくとも、とりあえずは距離をおくだろう。
「奏ちゃん」
「え?」
「ふりでも、問題やった方がいいわよ」
 そっと囁きかけられ、首を傾げると、弓歌は教科書の例題を指し示した。いつの間にか、演習問題をやることになっていたようだった。
 遺伝の法則は、高校時代に覚えたはずだが、七割がた抜け落ちている。ありがとうと囁き返し、一応解くべきかなと、実は購入ではなく借りている教科書を眺めやった奏に、生物教師の声がかかった。
「それでは、舘さん。問い一の答えを言ってください」
 遅かった助言に、奏は、表情を強張らせた。下手に目立つべきではないと判るが、判らないものは判らない。当てずっぽうで、と思ったところに、弓歌が、流麗な字で書いたメモを滑らせてくれた。
 それを読み上げて、どうにか免れた奏だった。
 当てるのは前からじゃあ、と思っていると、奏の次は、前の席の生徒だった。どうやら、ぼんやりとしていたのはお見通しだったらしい。
 どこまでも心臓に悪い、と、改めて、現状の不満を呟いた。

 保健室には、先客がいた。
「何。あんたまた来たの」
 不満を前面に睨み付けられ、奏は、怯みつつ記憶を掘り返した。相手は、入ってすぐのソファーに座って、高柳と話をしていたようだった。
 顔は、確実に覚えている。前の一時間目の体育の時間に遭遇した少女だ。二年生で、高柳を「くずちゃんセンセー」と呼んでいた。
 鈴木京香・・・違うかもしれないが、近い名のはずだ。
「佐々木。保健室に来る奴にガンつけるなよ、何割かは体調悪いんだから」
 何割か、というその比率は如何なものだろうか、と思ったが、口には出さない。ここで親しい口を利けば、ややこしくなるだけだ。
 高柳の前でも態度を変えない少女は、好ましいと思うが、あからさまな敵意を向けられるのは嬉しくない状況だ。
 そうして、佐々木だったのか、という思う。・・・佐々木、京香。
 改めて名を思い浮かべて、奏は、どこかで聞いた名だったと思い出す。高柳からではない。どこだったか。校内だろうと思う。クラスメイトか、合同授業でかと順繰りに辿り、思い至る。中絶の疑いのある少女を調べていたときに、耳にしたのだ。
 当人ではなく、その友人。高木紀沙と、親しいという話だった。
「たち――、突っ立ってないで、理由書いて座るなり寝るなりしとけ」
「あ。はい」
 「は」をどうにか呑み込んだらしい気配が感じられ、苦笑を噛み殺す。名字で呼ぶよう心がけるということ自体に、違和感があるだろう。
 高柳の机に近寄った奏の背に、棘立った声が投げかけられた。
「あんた、こそこそと調べ回ってるでしょう」
「何を?」
「キサのこと、聞いて回ってた。あの子に何かあったら、赦さない」
 思ったままを口走りそうな少女なのに、感情を押さえて言うところが逆に、本気だと思わせた。年齢に似合わずというのか、あるいは相応に、迫力がある。
 入室理由を「体調不良」と書き込んだ奏は、慎重に表情を隠して、振り返った。
「佐々木、ここは学校だってことを忘れるなよ。舘――面倒臭ぇ、奏。放課後、空いてるな?」
「高柳先生?」
 ぎょっとして、慌てて高柳を見る。
 友人は、片頬で笑うようにして、目を細めて見つめ返した。
「どうなんだ?」
「空いて・・・ます、けど」
「佐々木、お前は?」
「なんで、そいつは名前なの」
「そんなとこ引っかかるなよ。こいつは、知人の身内で前から知ってる奴なんだよ。で?」
 こんな状況ながら、嘘はついていない発言に、感心してしまう。義兄にしても夏雪にしても、知人には違いない。
「・・・空ける」
「じゃあ、放課後、駅裏の宝島ってネットカフェに集合な。ちょっと判りにくいところにあるから、迷ったら携帯電話にかけてくれ。授業終わってから・・・そうだな、一時間内には行くようにする。なるべく、私服でな」
 宝島は、奏も名前だけは知っている。小人数のシアタールームも設置している、ビルの一階以外を全て使った店だ。一階は、店名までは忘れたが、コンビニエンスストアのはずだ。
 一時間。事務所に寄る時間は、あるといえばあるが、電話かラインで済ませた方が無難だろうと、予測を立てた。
 一体何を考えている、と問い詰めたいところだが、それには京香の目があるし、学校内だ。大人しく、高柳の決定に応じる旨頷くと、奏は、ベッドを借りると断って潜り込んむ。
 しばらくはぼうっとしていたが、すぐに、眠りに落ち込んだ。
 年月を経て薄汚れた仕切りカーテンの向こうで、京香と高柳が、チェーンのファーストフード店の新商品について、楽しげに喋っているのが、聞こえた。

 放課後、奏は、一旦行のマンションまで戻り、着替えの中に埋もれている携帯電話を手に取った。
 十五分ほどを使い、持ち時間が減るのは惜しいが、何が露見するか判らず学校に携帯電話を持って行っていないのだから、仕方がない。
「メール?」
 小さなライトが点滅して、メールの到着を知らせている。開くと、和弥からだった。急だが、明日の昼過ぎには旅に戻るということだった。なんでも、なんとか口説き落としたいと思っていた職人が、ようやく仕事場を見せてもいいと言ってきてくれたらしい。
 日時を確認すると、昨夜、高柳から連絡をもらって少し後くらいだった。
 これでまたしばらく会えないのか、と思う。昨夜、何事もなくメールを見ることができたら、時間をつくって会えたかもしれない。
 そう思ったが、仕方のないことと、思いきる。今更どう思ったところで、変わりはしない。後でメールを送ろうと、それだけを気に留める。
 そうして、携帯電話の電話帳から「山根木安芸」を選択して、店の電話番号にかけた。
『はい、ありがとうございます、ヘアサロンリリィです』
「お忙しいところすみません、太刀葉と言いますが、山根木さんはいらっしゃいますか?」
『はい、少々お待ちください』
 はきはきとした女性が、保留の「峠の我が家」の曲を鳴らして、受話器を置いた。
 山根木は、年齢は義兄よりも若いが、近所に住んでいて、幼年時からの顔見知りであるらしい。その縁でか、時々、バイトのように事務所を手伝ってもくれる。
『はい、換わりましたー。カツラか頭皮に何かあった?』
「いえ、そうじゃないんです。・・・義兄から、今僕が受けている仕事、どのくらい聞いてますか?」
『ああ、女子高生に化けるんだってねえ。いやあ、変装するとなったら立派な漫画の中の住人だな』
「・・・山根木さん」
 思わず、情けない声が出る。身も蓋もないと言うのか、そのものずばりと言うのか。
 奏は、額に手をやって溜息をついた。
『うん? 悪いこと言っちゃったか?』
「それは措いて、相談があるんです」
『うん? 俺に?』
「はい。その・・・女子高生ってことで人に会うんですけど、どんな服を着たらいいでしょう」
『ゆきちゃんの服借りたら?』
 夏雪の物が借りられるなら、体格にさして差はないのだから、確かに楽だ。しかしそのためには家に戻る必要があり、そんなことができるわけがない。それでは、行に家を借りている意味がない。
 無理だと言うと、予想していたのか、すぐに次の言葉が出てきた。
『まあ、じゃあ、一揃い買っといてあげるから、店に来な』
「あのっ、可愛いのとかびらびらしてるのはやめてくださいよ!?」
『俺の見立てを信用なさいって』
 頷いていいものか、悩む言葉だ。
 とりあえず奏は、制服から朝に着てきた自分の服に着替えると、部屋を後にした。長い髪に手こずりながらもヘルメットをかぶると、バイクにまたがる。
 山根木の勤務先が駅近くにあるのは、カツラをかぶった状態を知人や友人に見られるかも知れない危険がある反面、時間短縮としては都合が良かった。
 駅前までは、バイクでは十分程度。
 貰い物のそれとヘルメットで風を受けながら、特に急がせるでもなく走らせて、奏は、ぼんやりと今の生活を考えた。
 多分、姉が健在であれば、家に戻ることはなかっただろう。どこかの企業に就職して、盆暮れにでも顔を出すかもしれないといった程度だったかもしれない。そこでは、どんな人に出会って、どんな自分がいただろう。
 人生の分岐点、という言葉が思い浮かぶ。善しきにつけ悪しきにつけ、そんなものは、大小を問わなければ日々繰り返されている。
 姉の死も、そんな一つだろうか。
 埒もないことを考えているうちに、人通りも増え、店長が初老の婦人という山根木の勤務先に到着していた。
「いらっしゃいませー」
 レンガ造りの小屋風の概観を裏切らず、内装もどこか懐かしさを思わせる。
 笑顔の店員に笑顔を返して、山根木に用があると告げる前に、向こうが奏を見つけ出した。はず、なのだが、その視線が、驚いたように張り付く。
「山根木さん?」
「あ。太刀葉君か!」
「・・・思いっきり見てましたよね、さっき」
「いや、似てるなあとは思ったんだが。見違えた見違えた」
 そう言って、笑い飛ばす。
 山根木は、熊に似た義兄とは違って、ほっそりすらっとして俊敏なところが、動物に例えるなら狐を思わせる。あるいは、アフリカにでもいる足の早い肉食動物か。いや、草食動物に見えそうな肉食動物といった方が正確か。
 休憩入ります、と言って、山根木は、奏を連れて店の裏へと入った。ロッカールームのようなところだ。
「関係者以外立ち入り禁止じゃないんですか? 服もらえたら、公衆トイレでも行きますよ?」
「それでもいいなら止めないが、女子トイレに入るのか? 男子トイレなんかに入ったら、仰天されるが」
「あ」
 うっかりしていた。山根木は、にやりと笑うと、片隅に立てかけられていた紙袋からズボンとシャツを引っ張り出した。
「さっき会った子、美香ちゃんってんだけど、あの子に買ってきてもらった。・・・こうやって見ると、裸でさえなかったら、まず見破られそうにないなあ」
 反論しかけたのを察知してか、山根木は、男の長髪ってのは大概むさくるしいけど、太刀葉君のはそれがないし、そこまで長い髪がきれいに伸ばされてたら、まず女の子と思うんだよ、思い込みってのは凄いんだ、と、高柳や行と似たようなことを力説した。
 深々と、溜息を落とす。
 渡された服は、ズボンが裾のあたりとウェストを紐で絞るようなデザインになっていて、シャツの方は、ありふれたコットンシャツ。ただ、生地が厚めで、女性用だからか、いくらか華奢な印象を受けた。
 着替えて脱いだ服を空いた紙袋にしまうと、隅で盗み食いをするようにしてクッキーをかじっていた山根木に、おかしくないかと見てくれるよう頼んだ。全く、という返事に、安心よりも哀しくなる。
「あ、いくらになりました?」
 驚くほど高くはないが、奏が普段買う二着分よりは幾分高めの金額を払うと、代わりに紙片が渡された。
「領収書。経費だろう?」
「あ・・・そうか・・・。ありがとうございます」
「いやいや。ところで、太刀葉君」
「はい?」
「変質者には気をつけろ」
 一気に、脱力した。



 

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