< 人名 >

太刀葉奏(たちは・かなで)  高柳葛生(たかやなぎ・くずう)  行(ゆき)  夏雪(かゆき)  和弥(かずや)
御劔弓歌(みつるぎ・ゆみか)  宮島玲奈(みやじま・れな)  金田(かねだ) 久木(ひさき)  佐々木京香(ささき・きょうか)

現在出ている部分まで。・・・わあ、人増えてるー(汗)。


 高柳は、思わず目を逸らした。
「・・・あのさあ。体育、休む必要ないんじゃないか?」
「いくらなんでもばれるだろう」
 憤慨と言うよりも不満げに、奏は高柳を睨み付けた。
 昔ながらのセーラー服で、生地が厚くゆったりとしている。だから体の線は判りにくいし、そもそも制服を着て通っているなら女子だと、先入観がはたらくから気付かれないはず。そう説得されて、今に至る。しかし、体操服だとそうもいかない。
 そう言うが、高柳は、いやいやと首を振る。
「それを言った人は正しい。先入観ってのは凄いもんだぞ。麦茶の入れ物に入ってたからうっかりめんつゆ飲んだってのはよく聞く話だけど、あれだって、匂いカイで気付いてるはずなのに、黙殺しちゃってるんだよな。意識上の盲点や死角なんて、大体が思い込みによるものなんだぞ」
「・・・だから?」
「ここは女子校だ。生徒は、年齢は多少前後しても、みんな女の子だ。そう思ってたら、多少変なところがあったって、そんなはずがないって勝手に打ち消してくれる。案外、ばれないと思う」
「そうか?」
「まあ多少は、細工した方がいいだろうけど。胸には詰め物でもしとけ。で、なるべくジャージ脱がないようにしてればいいし。もうしばらくは、ジャージの子も多いだろ」
 そう言われて、とりあえず検討してみる。
 しばらくの間、そうやって、奏は考え込んでいた。
「とりあえず、考えておく。・・・ありがとう」
 酷く厭そうに言う。後で義兄か行に相談しようと思うが、あっさり高柳の案に賛同されそうで厭だ。しかし、どれだけこの学校にいるかも判らないのに、体育を休み続けるのも不自然というものだろう。
 これ以上話していると、何か墓穴を掘りそうだと、奏は額を押さえた。
「・・・悪い、少し寝させてもらう」
「ああ。カーテン閉めとけよ」
「うん」
 のろのろと、ベッドに移動する。囲む仕切りのカーテンを閉めるときに、高柳が机の後ろの戸棚から、本や書類を引っぱり出すのが見えた。なんだかんだ言って、真面目に仕事をしてるんだろうなと、案外失礼なことを思った。

 宿題を終わらせていなかった数学を乗り切って、三時間目は芸術の選択授業だった。
 合唱、合奏、作曲、美術鑑賞、描画、工作、工芸、ダンス、演劇・・・細かい分野に区切られた選択肢の中から、選んだのは行だが、奏の受ける授業は演劇だった。描画にでもしてくれた方が安全なのにと思うが、そう言っても、有能な同僚は微笑するだけだった。
「あれ、君が転校生の? うわあ、ラッキー!」
 ショートカットで丸顔の少女は、面食らう奏にも関わらず、握った手を元気良く振った。結構痛い。
 昨今の主流に洩れず、前期と後期の二期制の剣美学院では、年に二度の発表会が恒例になっている。文化祭とは別に、その日が取ってあるのだ。
 演劇の授業では、今期は、三グループに分かれての発表のようだった。それぞれ一グループが、二十人程度。三学年が合同で行なうため、人数はそれなりに集まる。
 時間割表に書かれた教室に辿り着き、とりあえず近くにいた子に声をかけた結果がこれだ。意味がわからない。周囲にいた生徒が数人、こちらを見ていた。
「凄いねえ、こんな偶然あるんだ! あ、ボク、宮島玲奈。Bグループのリーダーだから、よろしくね。ちなみに演出だから」
「よ、よろしく・・・?」
「こっちもよろしくお願いします、太刀葉先輩。二年の金田です。人数の関係で、先輩は私たちのBグループに入ってもらいます」
 そう、にこりとも笑わずに言ったのは、赤っぽい茶の癖毛を一つにまとめた少女。奏よりも身長が数センチ高く、なんとなく威圧される。
「ちなみに、Aグループはロミオとジュリエットの一部を、Cグループは劇団から台本を借ります。私たちのBグループは、短編小説の脚本化です。本来なら、先輩には、どこのグループがいいかを選んでもらって、そこで裏方をやってもらうことになるはずだったのですが、先日、このグループの役者が一人、入院してしまいました。今期は学校を休むそうなので、できれば、役者をお願いしたいのですが」
 淡々と言いながら、薄い台本が手渡される。緑の表紙のついたそれは、奏も読んだことのある小説だった。登場人物は、五人ほどしかいなかったはずだが。
 ぱらぱらとめくってみると、所々、台詞にマーカーで線が引いてある。それを見て、え、と声を漏らす。
「これ・・・主人公のような気がするけど・・・」
「そうです。もっとも、この台本では、主人公格の役は三つありますから、とりわけ、というものでもありませんが。おいしい役どころではありますね」
「他の人がやった方が」
「他の役者が二役をするのは無理です。そして裏方は、裏方がいいと言っていまして。先輩が断われば、投票になります」
 そう言っている間に始業のチャイムが鳴ったのだが、Bグループは宮島と金田を中心にしているらしく、三人の周囲に十数人が集まってきている。どれも、先程から視線を向けていた生徒たちだと気付く。見る目に、期待が込められている。
 教師は来ないのか、と思うが、指導役は、今は他のグループを見ているらしい。
「だけどねえ。たっちー美人だから、まずきまりだね。見栄えいいしやりたくないし。決まり決まり」
「えっ、そんな?!」
「ダメ? どうしても、ダメ?」
「う・・・」
「ダメ?」
「・・・いいよ」
「やたーっ! 決まったね!」
 はじめから決まっていたじゃないか、と、奏は心の中でだけぐったりとした。引きつった笑みを浮かべる。
「だけど、演技力にまで責任は持てないよ」
「ちなみに、敵対する社長役は私です。よろしくお願いしますね、太刀葉先輩」
 そう言って軽く、金田は頭を下げた。
 そして、すぐに顔を上げると、宮島を見た。
「それじゃあ、始めますか?」
「だね。はいっ、てことで解散〜」
「え?」
 これからじゃないのかと、意外に思って声を漏らすと、奏とほぼ同じ目線で、宮島がにこりと笑った。
 集まっていた数人は、安堵したようにして、台本を広げて本格的に座り込んだり、ノートを広げたりしている。
 困惑して、問うように見返した。にこりと、やはり微笑み返される。
「たっちーは、とりあえず台本読んでて? 見られるなら見ててもいいけど。一回目は、ボクが代わりにやるから。あ、その間に衣装も終わらせといてね」
「りょーかい」
 応えたのは奏ではなく、別の生徒。大学ノートを持って、奏を手招く。
 とりあえず大人しく従って近付くと、古風な眼鏡をかけた少女は、小首を傾げるようにして奏の全身を眺めやった。
 思わず、身を固くした奏に気付いてか、はっとしたようにして、何度もまばたきをした。
「あっ、すみません。中部三年の、久木です。衣装担当です、よろしくお願いします」
「チューブ・・・?」
 随分と前から活動している、兄がよく聴く音楽グループが思い浮かぶが、そんなはずもない。久木は、一度驚いたように目を見張って、ああ、と、小さく肯いた。
「中等部です。略して中部。たっちー先輩は、転校したばかりなんですよね、すみません」
「たっちーって・・・」
 それは、宮島に有無を言わさずつけられた呼び名ではなかろうか。定着なのか。くらりと、奏は架空の頭痛にめまいを覚えた。
 少女は、ノートをめくった。
「近未来劇ですから、持ち寄って済ませようと思ってるんです。たっちー先輩の役は、食品安全管理局の職員・・・役人みたいなものですから、スーツを用意しますね。シャツはありますか?」
「スーツも、借りられるよ」
「男物ですよ?」
「うん。兄がいるから」
 嘘ではない。しかし、この場合、スーツは勿論、自分のものを持って来るつもりだ。
 それじゃあと、少女はノートに書き込みながら言う。
「黒でお願いします。シャツは・・・水色で。ありますか?」
「ごめん、シャツは。白ならあるんだけど」
「じゃあ、それは用意しますね。ネクタイも、こちらでも用意しますけど、あれば持ってきてもらえますか?」
「うん。何本くらい?」
「できれば、あるだけ。実際に合わせてみて、いいものにしようかと思ってるんです。あっ、革靴もありますか? ヒールなしで」
「ああ・・・それも借りるよ」
 借りるも何も、それも自分のものなのだが。
 少し不思議そうに、久木は首を傾げた。
「お兄さんにですか?」
「うん」
「サイズ、合いますか?」
「あ・・・うん。ほとんど、体格変わらないから」
「へえー。凄いですねえ」
 実は冷や汗をかきながら、うんそうだね、と、奏も相づちを打った。
 しかし訝しむこともなく、久木はノートを見直した。少し覗いてみると、それぞれの役の衣装イメージが書いてあるらしかった。
「それじゃあ、スーツと靴とネクタイ、お願いします。学校に置いていてもいいなら、来週にでも持ってきてください。一応、専用のロッカーはあるんです。鍵もついてるんですけど、不安ならそのうち」
「それじゃあ、なるべく来週に持ってくるよ」
「お願いします」
 そう言って、久木はノートを閉じた。
 じっと見つめられて、奏は首を傾げた。それに気付いて、誤魔化すように笑う。
「あっ、終わりです。どうぞ、読んでください、台本」
「うん・・・?」
 開いて眺めるが、やはり、見られている。まさかばれてはいないよなあ、と思いながら、ざっと目を通した。
 演じやすいようにか、二役が女に変わっているだけで、あとは大体、奏が読んだものと同じだ。説明まで台詞で言うため、長いものもあるが、大体は、短い会話で成り立っている。全くの門外漢だが、そこそこいいのではないかと思う。
 奏が、この台本の原作を読んだのは、高校生の時だった。
 学校の近くに立っていた、今時珍しいような、いかにもな古本屋で、何気なく取った一冊だった。数十年前に発行されたものと知って、古びていない内容に驚いた覚えがある。今でもその文庫は、二度の引っ越しに付き添って、奏の本棚に並んでいる。
 久々に、帰ったら読み直そうかと考えて顔を上げると、久木と目があった。
「何か、ある?」
 目が合ってしまった以上、無視するのも如何なものかと、穏やかに訊く。久木は、ええとと、俯いて言葉に詰まったあとで思い切ったように顔を上げた。眼鏡が、少しずれてしまっている。
「役者、受けてくれてありがとうございます。万が一回ってきたらどうしようって思ってたんです。あたし、一対一なら平気だけど、大勢の前って、ダメなんです。それに」
 ここでまた躊躇って、しかし、笑顔になる。
 笑うと随分可愛らしくて、奏も、つられて笑い返していた。だがそれも、次の言葉を聞いて固まった。
「たっちー先輩、美人だから。きっと、すっごく評判になりますよ。男役だから、余計に」
「・・・そ、そう」
「絶対そうですって。ミッキー先輩には悪いけど、たっちー先輩の方が、絶対いいです」
「・・・ミッキー先輩、って?」
 命名者はやはり宮島だろうかと思いつつ、脳裏に、有名な擬人化ネズミが浮かぶのを止められなかった。少し、由来が気になるところだ。
 久木は、明らかに「しまった!」と言うように、口元を手でおおった。不思議に思った奏が促すと、気にするように練習している金田たちを見て、ちらりと、奏に目線を戻した。
「内緒にしてもらえますか?」
「うん。口は堅いよ」
 そう言うと、安心したように、共犯者めいた目線を寄越す。間違っても、この子には秘密を漏らさないようにしよう、と心に決める。
 ちなみに、姪の夏雪曰く、内緒話の七割方は、どうでもいいような内容らしいのだが。
「ミッキー先輩って、禁句なんです。いきなり入院して、パニックだったから」
「だけど・・・それは仕方がないんじゃあ・・・」
「そりゃあ、事故や病気なら別ですけど」
「違うの?」
「中絶らしいですよ」
 さらりと言われた言葉に、奏の方が動転した。思わず、下手なことを口走らないように唇を噛む。
 久木は、奏の反応に気付かずに、わずかに冷笑を浮かべた。
「遊んでたらしいから、不思議じゃないですけどね。親は知らなかったみたいですけど。それで大騒ぎして、学校はしばらく休みなんです」
「・・・それはまた・・・」
「あの人、嘘は上手いから。ショックを装って学校さぼってるって、噂です。それで代わりがたっちー先輩なんて、ラッキーです」
「そ、そう?」
「はい。役者、頑張ってくださいね。楽しみにしてます」
 そう言って、まるで無邪気に、久木は笑った。

「謀りましたね」
 押し出された声に、義兄は、すっとぼけた顔をした。困惑しない時点で、既に白状したようなものだ。
 夕刻、事務所での光景だった。奏は一度、行の部屋に寄って扮装を解いている。
「何を言ってるんだ、奏?」
「目を逸らさない、狼狽えない、わざわざ名前を呼んだ。呆れるほどに判りやすいですね、義兄さん」
「・・・ばれたか?」
「ばれる嘘しかつかないんだから、当然でしょう」
 冷ややかに睨み付けて、来客用のソファーに腰を落とす。
 この義兄が、いつかはばらす、あるいはばれる嘘か、一生通し抜く嘘くらいしかつかないとは、奏も知っている。今回は、その前者だったということだ。
 そうと知ったところで、腹立ちが収まるわけもなく、向かいのソファーに、水羊羹を持って移動してきた髭男を睨み付けた。
「三木玲於奈、高木妃沙。それ以外に、一体誰の情報を抜いたんですか。依頼者の渡したものを、全部見せてください」
「ほお、もうその二人の名前を聞いたのか。いつもながら、優秀だなあ、奏」
「・・・だから。話を逸らそうとしてるのも、判りやすいです」
「ぬ」
 言葉の後に、わざわざ名を呼ぶのは、誤魔化そうとしているときだ。
 奏は、プラスチックの容器に入った水羊羹をすくい取りながら、溜息をついた。行とは別の意味で、やりにくい相手だ。敢えて分類するなら、高柳と同じ部類になるだろう。
「どうせ、行さんと二人で、報せない方がいいと判断したんでしょう。だけど俺だって、嘘くらいつけます」
「どうかなあ。奏は、すぐに顔に出るから」
「つまみ食いしたときの義兄さんよりはまし」
「ぬ。ここで家庭内事情を引き出すのは卑怯だぞ」
「タヌキ相手には、それくらいしないと効かないでしょう」
 しらっと言って、スプンをかじる義兄を見る。どう言ったところで、本当に必要と判断したなら、一言たりとももらさないだろうとも解っている。
 本当に、喰えない相手だ。
「話を戻すが、その二人は何者なんだ、奏?」
「飽くまで噂ですけどね。高等部の三年と二年で、どちらも中絶したらしいですよ。三木玲於奈は休学中で、高木妃沙は普通に通っています」
「ふうむ。嘆かわしいが、珍しいことでもないな」
「・・・わかりましたよ。大人しくします」
 深々と溜息をついて、空になった羊羹の容器を持って立ち上がる。
 姉は子宮に難点を抱えており、子供を産むことは無理だと言われていた。産めたとしても、未熟児で、母胎か子供か、あるいは両方が死ぬだろうと知らされていた。それでも、無謀にも出産を決めて、その上生きた。
 奇跡だと、誰かが言った。
 夏雪の名前の由来もそれで、「夏に雪が降るみたいに、奇跡みたいなことだから」と言ったらしい。本人は、それを聞いて「それって異常気象だよねえ」と、照れたように笑っていたが。
 義兄は、強く反対して、姉に説得されたのだった。その内容までは知らないが、説得というよりも、教え諭されたのではないかと、奏は思っている。
 そんな義兄が、あまりに一般的な言葉をさらりと口にするからには、相応の意志が読み取れた。
「それじゃあ、失礼します。邪魔してすみませんでしたね」
「また、後でな」
 飄々と、手を上げる義兄に苦笑して、奏は、プラスチックケースを簡易炊事場の流しに置いた。そのまま出ようとして、思いついて降り返る。
「今日の夕飯は、ピーマンの肉詰めですから。早く帰ってきてくださいね」
「むう」
「好き嫌いは、教育上悪いですからね。たくさん作って待ってますよ」
 にっこりと、ささやかな嫌がらせをして、奏は事務所を後にした。帰りには、ピーマンを買いにスーパーに寄ろう。

 その日の夜、食事を済ませた奏は、せがまれて、夏雪の宿題をみていた。数学の問題で、奏は、なんとか解けるものの、決して得意ではない。
 実験的に導入されている、教科書やノート代わりにもなる、ノートパソコンに似たTPS(Total Portable System 携帯用総体機器 通称:トポス)の画面を睨んで、頭を掻く。
「うーん」
「わからない?」
「ああ、うん、いや、見当はついたんだけど、そうじゃなくて」
「なくて?」
 不思議そうに、先を促す夏雪に肯いて、TPSのモニター画面を指差す。
「旧い人間だなんて思ったこともなかったけど、こういったものに違和感を感じるのって、古くさいのかなあ、と思って。やっぱりどうしても、学校っていうと、紙の本とノートって思っちゃって」
「ああ。うん、だけどそれは、あたしも思うよ。これはこれで面白いけど、なんて言うかな、紙で見る方が安心っていうのはある」
 夏雪が同意するに至って、奏には一つの推測が浮かんだ。
 この考え方は、世代のものではなく、この家のものだ。家中に紙の本が溢れており、電子文庫も、一応端末はあるのだが、使われることもなくほこりを被っている。もう、何世代も前の機種だ。夏雪も奏も、幼い頃からモニタで読むよりもずっと、紙面で読む方に慣れ親しんでいる。
 それが逆行している感覚かといえば、そうではなくて、多様化していくだけだろうと、奏は思っている。それでも、TPSのように、最大の教育機関が電子機器の取り込みを伺っているとなると、その説も危うい気がする。義兄の頃の、「IT教育」とは、多少意味合いが異なってくるからだ。
 義兄や奏たちの頃は、電子機器はまだまだ過渡期であり、使えない人も多くいたためか、使い方自体を教えられる段階だった。その先は、言ってしまえば個人の領域だ。しかし最近では、得意不得意はあっても、使えることが前提で多くの物事が設定されている。言うなれば、以前の電子機器は二次方程式で、現在は加減乗除といったところか。
 自分も、その多くの利益を享受しているはずなのに、何か違和感を憶える。ただの感傷だろうか。
「まあ、便利と不便半々ってところだけどねー。ノートは、やっぱり書いた方が覚えられるし。あたし結局、トポスのノート機能ってほとんど使ってないもん、授業中」
「ふうん。これって、アンケートとか採るんだった?」
「うん、半期ごとに。とりあえず、あたしたちが初モニターだしね」
「そっか」
 言いながら、TPSを操作して、今取り掛かっている問題に必要な公式を呼び出す。机の上には、ノートの他に、他の教科のディスクも散らばっていた。少し見てみたくて、奏が持ってくるよう頼んだのだった。TPSは、本体の容量確保のために、教科書分は、MOディスクを入れて使うようになっているのだった。
 夏雪に解説をしながら、頭の片隅で、今日受けた授業を振り返る。目的からは逸れるのだが、元々勉強は嫌いではなく、しばらくの間、勉強が必要ないか専門分野にどっぷりと浸っていた身としては、新鮮に感じられた。
 そして、行の英語の授業を受けて、その教え方のうまさに舌を巻いた。教員免許をとりはしたが、十数年放置して、授業をしたのは教育実習字のみというのは嘘だろうと、言いたくなるほどだった。儲からない探偵事務所の秘書よりもよほど、向いているのではないかと思う。
「ありがとう、おやすみ」
「おやすみ」
 解き終えて、夏雪は自室に引き上げていった。ちなみに、夕食でピーマン責めにあって、義兄は食後から部屋に引きこもってしまっている。娘の教育に悪いからと、嫌いな物まで無理に食べる姿勢は、微笑ましくも涙を誘う。その甲斐あってか、夏雪に好き嫌いはなく、そして、父がピーマン嫌いということも知らないのだった。
 何とはなしに溜息を一つこぼすと、部屋の電気を消して、奏も二階に上がった。あとはメールだけ確認して、寝てしまおうと思っていた。
 部屋に入って、電気をつけるよりも先にパソコンの電源を入れる。
 旧い部品を組み合わせた手作りだからかソフトの入れすぎか、奏の主パソコンは立ち上がりが遅い。最新機種とは随分な差だ。体積も大きいが、奏がはじめて組み立てたもので、完全に壊れるまでは手放す気になれない。ちゃんと、こまめなバックアップは取っている。これも、古臭い感情だろう。
 立ち上がりを待つ間に、書棚から文庫本を引き抜く。白と緑を混ぜたような、濁ったエメラルドグリーンのような色の背表紙。保存状態が悪いわけではなく、年月によって古びた本。そっと、ページをめくった。
「なんだかなあ・・・」
 少し読んで、息をはく。
 高柳に、この小説に授業、喫茶「けせらせら」。どれも、高校の頃を思い出させた。高校時代は、遠いようで近いようで、はっきりしない。当時を懐かしんだところで戻れないことだけは確実で、それが、何か妙な感じだった。
 姉や義兄、夏雪と暮らし、この家から通っていた。大学は、二年の間一人暮らしで、その後が義兄と夏雪との生活。そう考えると、気楽で幸せだった頃との、境目がその辺りだったのかも知れない。
 姉は突然の事故死で、まだ犯人は捕まっていない。犯人が手の届くところにいれば、奏は、報復をせずにいられる自信がなかった。恨みを返したところで意味がなく、更なる嘆きをよぶだけだとは、十分に知っている。しかしそれでも、姉が亡く、犯人が生きている状態を赦せるのか。そこまで、自分の度量は広くない。優しくもない。
『かなー? いないー?』
「・・・和弥?」
 起動すると、すぐにメールの送受信とラインへの接続を設定してある。そうやって呼びかけられた声が、懐かしい友人の声で、奏は、文庫本を投げ出す勢いで画面に向き合った。
 画像はなく、発信元も明らかになっていない。最近のカフェや公共施設からではなく、数世代前のものと判断して、文庫本を置いて、慌ててヘッドセットのマイクを装着する。
「和弥? お前、和弥か?」
『いるじゃん、やっぱ。久しぶりー』
 回線が繋がっていても、席を外していることもある。それでの反応だが、のんびりとした声に、少し苦笑する。
「久しぶり。昨日、『けせらせら』に行ったよ。おじさん、元気そうだった」
『ああ、ほんと? かな、まだ店に行ってくれてたんだ?』
「たまたま、久しぶりに。タカに会ってね」
『くずー? まだ仲いいんだ、あれと』
 高柳の下の名前の、葛生を伸ばすように発音する。そう言えば、そんな呼び方だったと思い出す。思いがけず、懐かしい。
「実際に会うのは、卒業以来。医者じゃなくて保険医になってたよ」
『ええ? 生徒に手ぇ出しそー。思い切ったコトするなあ、とったガッコ』
「俺も思う。今どこにいるの?」
『えーっとね、南の方』
「はあ?」
 わざとだったのか、笑い声が聞こえる。思わず、奏も笑ってしまう。
 人一倍元気だった、友人の顔を思い描く。ぼやけてしまっているそれに気付いて、淋しく思った。
「こっち、帰ってこない? みんなにも声かけてみるし。成人式も出なかっただろ? 久しぶりに」
『あー、うん、いいねー。うん。明日帰るよ』
「明日?」
『うん。夜くらいにそっちつくから、飲みに行こ』
「明日の夜って。急だなあ」
『善は急げ! 空いてない?』
 突拍子もないところが相変わらずで、むしろ、磨きが掛かっていそうでこわい。金曜の夜か、と呟いて、少し考えた。
「俺は大丈夫だけど・・・」
『じゃあそれで。くずーとか、適当に声かけて?』
「わかった」
 いくら週末とは言え、いや、週末だからこそ、付き合ってくれる者は少ないような気がする。それでも、気まぐれな和弥に会うのが楽しみで、日を延ばすのも少し厭だ。
 それから、とりあえずは「けせらせら」で六時に集合と決めて、和弥は通信を切った。奏の方は、知っているだけの和弥と共通の友人に、ラインが繋がっていれば呼びかけて、他には片端からメールを送る。浮かれている自分を自覚する。
 メールの送受信やラインの通話で、夜は更けていった。

「あ」
「え?」
 移動教室の途中で、すれ違いざまに呟かれて、奏は、思わず振り返った。咄嗟の行動だったのだが、これで関係がなければ恥ずかしい。
 しかし、振り返ったことで思い切り顔を合わせてしまい、関係はあったけどどうしよう、と焦る。呟いたのは、保健室で会った少女だった。
 少女は、睨むようにして奏を見つめたが、ふいと視線を逸らすと、そのまま歩み去っていった。ぽかんと、それを見送る。
「奏ちゃん? どうかしたの? 今の子は・・・二年生だったみたいだけど」
「あ・・・いや、何でもないよ。行こう、遅れる」
 にこりと微笑み掛けて、先に歩き出す。すぐに、御劔もそれに並んだ。さらりと流れる髪に、少しどきどきする。
 それでも、努めて平静を装う。
「ごめん。ただでさえ遅れてるのに」
「元々、私も職員室に用事があったのよ」
 そう言って、微笑む。
 今二人がいるのは、特別教室のある棟だが、目的地の生物室は一階上になる。奏たちの教室は三階だから、そのまま横に移動すれば良かったのだが、担任に呼ばれ、職員室に行っていた。
 御劔は、ついでと言いながら、奏に付き合ってくれたようなところがある。優しい子だ、と思う。
「それに、岩永先生はいつも来られるのが遅いから。少しくらい遅れても、大丈夫」
「そう――!」
 階段を上る途中、降りてくる生徒に当たってバランスを崩した御劔の腕を掴む。空いたもう片方は階段の手すりを掴んでいる。一瞬の出来事で、動いたあとで、奏はどっと汗をかいた。
 踊り場まであと二、三段というところで、後ろ向きに落ちれば、下手をすれば大変なことになっていた。体が動いて、良かった。
「平気・・・?」
「え、ええ。ありがとう」
「良かった。危ないなあ。気付かずに行っちゃったみたいだけど」
 ゆっくりと手を離して、両手を使ったせいで落としてしまった教科書やノートを拾い上げる。筆箱は、下にまで落ちてしまっていた。
「ごめんなさい、教科書」
「どうせ、使ってれば汚れるものだよ。足とか、捻ってない? 違和感があったら、とりあえず診てもらった方がいいよ」
「大丈夫」
「後で痛むこともあるから、そうなったら我慢をしないようにね」
「ええ、ありがとう」
 再度階段を上りはじめる。まだ休み時間でざわめいているが、教室棟と違って、廊下に人の姿はなかった。
「時々、奏ちゃんって年上みたいね」
「そう?」
「一人っ子だから、なんだか嬉しいわ」
 そう言われて、あやふやな笑顔を返す。騙してるんだ、と思うと、気が重かった。
 始業のチャイムが鳴って、二人は足を早めた。
 そうして、チャイムの余韻が残っているうちに教室に入る。席が判らない奏は、迷って一旦止まる。御劔は、振り返って小首を傾げた。
「空いているところでいいと思うわ。成績順だから、後ろしか空いてないけど」
「成績順?」
 意外に思ったのが顔に出たらしく、御劔は苦笑を返した。促されて、階段状になった後ろの方に行く。
「単元ごとに小テストをするの。さすがに点数までは言わないけど、前から悪い順。あてるときは、前からあてるから理に適ってるとも言えるわね」
「ああ、なるほど」
 言って、一番後ろの列の端に座る弓歌に、やはり成績がいいのかと、なんとなく納得した。その隣が空いていると言われ、椅子を引く。奏が座ったのとほぼ同時に、生物教師が到着した。
 着古されたような白衣を羽織った、四十ほどの女性教師。教壇に立つと、クラス名簿と教室の中を見ながら、奏のところで目線を止めて、独りで肯く。
「それじゃあ、百四十二ページを開いて・・・」
 分厚い教科書を開いて、雑談を挟むこともなく始まる授業に耳を傾ける。
 その最中に、ぼんやりと一緒に授業を受ける生徒たちの後頭部を見ていると、一番前の列に座るショートカットの少女に目がいった。演劇の授業で一緒になっている、宮島だった。
 二クラス合同の授業だから、どうやら、宮島は隣のクラスだったらしい。
 一瞬、ちらりと振り返った宮島と目が合った。しかしそれだけで、淡々と授業は進む。
 奏は、御劔に取らせてもらったノートのコピーをめくった。昨日、同じ授業のものだけでもと、持ってきてくれたものだった。読みやすい、綺麗な字が並んでいる。
「ノート、わからないところがあったら言ってね」
「うん、ありがとう。助かるよ」
 小声での御劔との会話も挟み、そうやって七十分の授業は過ぎていった。
 二期制で、七十分授業が六時間。それが、今の剣美学院の時間割だ。奏が高校生の時はまだ五十分授業が多かったが、高校は今では、適切な授業時間を模索している最中だ。
 授業が終わって立ち上がると、教室を出ていく生徒たちの間から、また、宮島と目が合った。しかしそれだけで、すぐに逸らされてしまう。昨日の一時間程度の付き合いとはいえ、声くらいかけてきそうなものなのにと、少し意外に思う。
「次は・・・現国だった?」
「ええ。あと一時間で終わりね。明日は休みだし」
「補習はとってないの?」
 奏の義兄が中学校や高校に通っていた頃、盛んに騒がれた「ゆとり教育」の一環で行なわれた完全週休五日制は、一度は定着するかと思われたものの、今では、行なっているのは全国の二、三割といったところか。
 剣美学院では、とりあえずは少数派の週休五日制を選び、その上で、他校へ進学することを考える者を中心に、土曜に補習を充てている。だから、人によって休日の数は異なっていた。ちなみに、幼等部と大学部は一貫して週休六日となっている。
 並んで歩きながら、御劔は苦笑した。
「私は、このまま進学だから。生徒会の方も、まとめて済ませたいことが多くて」
「え、じゃあ、土曜日にも来てるの?」
「いつもじゃないけど。奏ちゃんは、補習とらないの?」
「もう少し、慣れてからにしようかと思って」
 実際とのところは、行や義兄から、受けろと言われていないだけのことだ。とった方がそれだけ多くの人と知り合えるのではないかと言ったが、とりあえずはいいと言われた。
 教室に戻ると、半数以上が戻っていた。賑やかと言うよりも騒々しくて、三日目になるが、奏は思わず、逃げ腰になる。
「あ、弓歌さん、舘さん!」
 かたまって話していた、数人に呼びかけられて荷物を置く間もなく足を運ぶ。
「ねえねえ、今日暇? 帰り、どっか寄ってかない?」
「ごめんなさい、用事があるの」
「そっかあ。舘さんは?」
「ごめん、私も・・・」
 二人揃っての不参加に、残念そうに声を漏らす。もっとも、御劔が無理なのは、予め判っているようでもあった。いつも忙しいのだろう。
 すぐに、駅前にある店の話題に移る。そうやっているうちに、次の授業を告げるチャイムが鳴り響いた。

 喫茶店「けせらせら」の入り口は、自動ドアではない。うち開きの、ドアノブと鈴の付いた扉で、開けると音がする。
 ちりんと、耳に馴染んだ音を立てて、奏は扉を押し開けた。
「遅いぞ、かな」
「ごめん。って、一応セーフだよね?」
 入ってすぐの、級友の声。反射的に謝って、入ってすぐのレジの向かいにかかっている時計を見遣る。六時丁度を指していた。
 その下で、店主が笑顔を見せている。慌てて、奏は挨拶を口にした。
「やあ、いらっしゃい」
 にこやかな笑みが、心なし、前よりも嬉しそうに見える。父一人子一人だから、やはり、和弥の帰宅が嬉しいのだろうかと思う。
 調理学校を出て以来約二年間、連絡は取っても帰ってくることはなかった和弥は、入ってすぐの四人掛けのテーブルで、頬を膨らませていた。その前には、空になったパフェの容器と、食べかけのサンドウィッチがある。
 むうと、奏を上目遣いに軽く睨む。
「何で誰も来ないんだよー。今日って、かなだけ?」
「俺だけだと不満? 和弥が唐突すぎるんだよ、いつも」
 苦笑して、向かいの椅子を引く。薄い茶のジャケットを羽織って、当たり前だが、制服は着替えてきている。
 和弥は、八つ当たり気味にサンドウィッチをつまんで、囓った。
「だって、思い立ったが吉日の善は急げだし」
「和弥の場合それは、短慮ってものだよ。すみません、コーヒーゼリーください」
「はい。――和弥君、あまりわがままを言って困らせるものじゃないよ」
「言われなくたって・・・文句言ったわけじゃないんだよ、本当に」
 傍からは妙にも見えるが、和弥は父親と仲がいい。それを知っている奏は、やり取りとも言えない二人のやり取りに、微笑を浮かべた。
 そして、からかうのはこの辺にしておこうと思う。
「タカの方が先に来てると思ったんだけど、読みが外れたな」
「え? なんだ、くずー来るの?」
「来ないなんて言った覚えないよ。ちなみに、漱と鶴見は七時に向こうで合流で、鈴木は来れたら来るって」
「・・・騙されたー」
「相変わらず、変なところ騙しやすいね」
 自分のことは棚に上げて、笑った。むくれる和弥も、友人たちに会えると知ってか、少し嬉しそうだ。
 こうやって、昨日の今日で集まれるのは、そもそも二人の共通の友人が多かったのと、地元に就職した者が意外に多いからでもあった。
「でも、そうかー。リカとちなっちゃんとマサに会えるのか。みんな、今は何やってるの?」
 いくらか浮かれて、身を乗り出す。奏は、店主からアイスとクリームがトッピングされたガラスの器を受け取って、ええとと、思い出すように目線を泳がせた。
 そこに、ちりんと鈴が鳴る。店の扉が開いた。
「おーお、無駄にたくましくなったな姫」
「うわー、軽薄外見に磨きがかかったねくずー」
 久々の再会にも関わらずの憎まれ口の応酬に、奏は、たぬきときつねの化かし合いを幻視する。思えば、高校時代もそうで、この二人の仲の良さは、一見、仲が悪いかともとれるようだった。
「あ、コーヒーください」
 店主に告げて、奏の隣りに腰を下ろす。そのときに、鼻先を掠めた変に甘ったるい匂いに、奏が軽くむせた。
「何、この匂い」
「んー? ああ。病院寄ってきたら、主任に捕まってな。煙草だろ」
「病院? くずーって、保険医になって生徒を毒牙にかけてるんじゃなかったっけ?」
「おい奏。お前、このお天気女に何吹き込んだ?」
「万年春男に言われたくないー」
 呑気な、それでいてしかめ顔の二人に、思わず笑ってしまう。
 それぞれに不満そうなかおをされて、ごめんごめん、と、軽く謝る。その間に、コーヒーも運ばれてきていた。
「俺はただ、保険医やってるって言っただけ。病院は、当直のバイトしてるところ?」
「ああ」
「え、何なに? なんで保険医で病院のバイト?」
 再び身を乗り出した和弥に対して、高柳は、湯気の立つコーヒーカップを傾けた。目線を受けて、説明する気がないらしいと知った奏は、肩をすくめた。
 教えるつもりがないのではなく、自分で言うつもりがないらしい、というところが横着だ。
「現場を離れてると感覚が鈍る、って言って、当直だけはしてるんだってさ。学校と両立で」
「・・・教師って、バイト禁止じゃなかった?」
「私立だから」
「へえ、そういう問題なんだ」
 高柳の回答に、納得の体で肯く。奏は、そんなことも思い浮かばなかった自分が、実は馬鹿じゃないかと疑った。
「でもさー、そんなことするならそのまま医者になればいいのに。大体、医者って二年くらい研修しなきゃいけないんじゃなかった?」
「姫。興味のないことには底抜けに知識のないお前がそれだけ知ってたことが驚きだけどな、知識が古い」
「えー?」
 「カズヤ」を「カグヤ」と聞き間違えた、という単純な事実を起因とする和弥のあだ名は、はじめこそ嫌がっていたものの、定着してしまっている。それを言うなら、名前を呼ばれるのを嫌う高柳が、呼ぶのを許していることもそうか。
 そう言えば、今日すれ違った女生徒。昨日保健室で出会ったあの少女も、名を呼んでいたが。
 奏が、そんな関係のないことを考えている間にも、高柳の言葉は続く。結局のところ、横着がっても自分のことだ。
「医学部が六年制から八年制に伸びたのは、研修期間を内包してのことなんだよ。実質、最後の二年なんて大学には報告くらいだけどな。だから、就職してないだけでお医者様だぜ?」
「医者になったら言ってね。そこの病院には行かないようにするから」
「いつまで経っても可愛くないなあ、お前ってやつは」
「くずー相手に可愛くしても、不気味なだけだし」
 目の前で繰り広げられる不毛なやり取りに、奏は、半ば感心して溜息をつく。会話は二人に任せて、ゼリーに取り掛かる。
 この二人、付き合ってたんだよな。そう言えば。
 程良く苦いゼリーと甘すぎないクリームを口に運びながら、口の悪い二人をぼんやりと見つめる。
 二人の付き合いは、周囲からは意外ながらもそんなものか、という、どこか納得した感じで受け止められたものの、さしてそれまでと変わらず、気付くと分かれていた。それでも、それまでと付き合いが変わらなかったのが、不思議と言えば不思議だった。奏は、高柳から直接「付き合うことにした」と聞いたのだが、その後も特に変化は見られなかったように思う。
 もう、三年近く前の話だ。中途半端に近い。
「かな、探偵なんだ?」
「えーっと・・・多分、期待されてるのとはかなりなところで違うと思うけど。殺人事件には遭遇しないし、パズルゲームみたいな推理もしない」
 突然話を振られて、回想を振り切る。注意はいっていなかったものの、一応、話は聞いていたからこその反応だ。
 そんな奏の応えに、和弥が明るく、高柳がにやりと、笑う。
「懐かしい懐かしい。かな、変な感じに注釈入れるんだよねー」
「そうそう。ちょっと外れててなあ」
 殊更に悪意があって言うわけではないのだろうが、なんとなく、そう言って笑う二人に腹が立つ。何か言ってやろうかとも思ったが、時計に目をやって伝票を取る。
「そろそろ移動しようか。少し歩くから、丁度いいくらいになるだろう」
「予約?」
「うん。大丈夫だろうとは思ったけど、一応」
「まめな幹事さんでよかったな、姫」
「そうだね。間違っても、くずーに任せなかった自分を誉めたくなるね」
 なんだか羨ましくない仲の良さだな、と思う奏だった。とりあえず、三人分をまとめて払う。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」
「遅くなるから、先に寝ててね?」
「ああ。楽しんできなさい」
 優しい「ありがとうございました」と言う声に送られて、店を後にする。出てすぐに、高柳が手を出した。
「コーヒー代」
「ああ」
 受け取って、ポケットに落とす。それを見て、慌てて財布を捜す和弥を、苦笑して制する。
「いいよ、店に着いてからで」
「そう? じゃあ、後にする。――いいなあ。落ち着く」
 ぽつりと、呟くように言って、そろそろ闇の降りてきた空を見上げる。赤い月が、やけに大きく見えた。
 奏が、訝しげに首を傾げると、和弥は苦笑で応えた。
「割り勘か、食べた分だけ払うのが。おごられるのって、借り作るみたいで居心地悪くって。おごっておごられて、ならまだいいんだけどさ」
「ラッキー、くらいに思ってりゃいいのに」
「少しならそれでいいけど。続くと、やっぱね。後ろめたいって言うか。断わったら妙なかおされるし」
 並んで、歩いている。
 奏と高柳に挟まれた和弥は、ごく自然に、言動は一般的な男に近い。しかし、束ねた長い髪や体つきなど、見れば女と判る。本人はそれを、忌避はしないものの、疎んでいる感があった。
 むうと、短く唸る。
「お金ないときは助かるけどね。それを気の毒に思っておごってくれるならともかく、女の子だし、って勝手に、庇護されるのはやだなーって」
「成る程」
「だけど、おごられて腹立てるのも変な話だな」
「状況の問題なんだよ。理想は、共同戦線だからね」
 きっぱりと言いきる和弥の横顔は、子供っぽいのに綺麗だった。奏は、いつもこういうところで驚かされる。
 期せずして、奏と高柳は、揃って和弥の肩を叩いていた。何も言わずに、ただ、手を乗せるだけ。それが、時には雄弁な言葉となることを、三人は知っていた。

「おい、大丈夫か?」
「だあいじょぶだいじょぶ」
「・・・いつも思うけど、どうして酔ってる人って、大丈夫だとか酔ってないとか言うんだろうね」
「なあ」
 足下の危なっかしい和弥を挟んで、二人は夜道を歩いていた。大通りを一本奥に入っているため、いくらか、ネオンは少ない。
 久しぶりに会った友人たちとは、駅で分かれた。三人が、電車に乗って帰るのを見送って、今やバスもなくなって、タクシーを使おうかとも思ったが、歩きを選んだ。
 和弥の家まで、奏も高柳もそう距離が変わらず、二人で送り届けることにする。少なくとも、一人で帰らせるのは危ない。
「なあに、そのいいかたー。まるでよってるみたいじゃないー」
「酔ってるよ、十分」
「よってないってー。ふたりよりのんだりょうすくないもん」
 それは、比べる対象が間違ってる、と奏は思う。自分はともかく、高柳はザルかウワバミだ。一緒に酒を飲むのは初めてだが、間違っても飲み比べはしたくない。
 実のところ奏は、自身の正気を危ぶんでいた。どうやら外には出にくいようなのだが、強くはない。
「タカ」
「ん?」
「もし俺倒れたら、とりあえず先に和弥送って、その後連れて帰ってくれない?」
「・・・酔ってるのか、お前も」
「うん。多分」
 そう言って笑うと、隣で、頬を上気させた和弥が、けらけらと笑っていた。いつも明るいが、酒が入って、変なくらいにハイになっている。泣き上戸でないだけ、ましか。
 多分大丈夫だろう、とは思うものの、気を張っていないと、目が泳ぐ。
「ちょっと、飲み過ぎたなあ。つられた」
「ふうん、そんなもんかねえ。少し、飲み足りないくらいだけど」
「それはお前がザルなだけ」
「いやいや、酔うときゃ酔うぞ?」
 騒ぎ疲れてか、無言になった和弥をそっと誘導しながら、奏は肩をすくめた。いくらか冷たい風が、火照った体に心地いい。
「どうだか」
「いやいや。徹夜明けとか」
「それは状況が悪すぎるだろ」
「・・・姫?」
 ふらりと、寄りかかられて高柳は訝しげな声を上げた。次いで、わ、と声を上げる。奏の目の前で、座り込みかけた和弥を、危ういところで抱きかかえたところだった。
 見ると、軽く寝息を立てている。
「子供か、こいつは」
 苦笑して、奏と同じくらいの、しかし大分しなやかさのある体を背負う。ぼんやりと、奏はそれを見ていた。
「タカといるときに見るのが、一番くつろいでる気がする」
「ん?」
「和弥」
「そうかあ?」
「何でわかれたんだ? 二人なら、十分共同戦線張れたと思うのに」
 そう言った途端に、それまで、のんびりとしていた高柳の口の端が、皮肉げに持ち上がった。水銀灯の明かりでそれを目にして、不愉快にさせたかな、と、少しだけ後悔する。
 しかし、疑問に思っていたのも本当のところだ。
「ただの、ガキの付き合いだろ? それに、こいつが好きだったのは、俺じゃない」
「ええ?」
「くつろいでるのは、俺を男だって思ってないからだろうな」
 嘘だろ、と言いかけて、闇を隔てて見える、苦々しげな表情に口を閉じる。いつもの、自信ありげなものでも、何かを仕掛けるような表情でもない。
 少し、意外だった。
 好きなように動いて、周りも、いつの間にかいいように動かしている。勿論、そこには大きな努力があるのだが、大げさに言えば、できないことはないという、そんな思い込みがあった。
 なんとなく会話が途切れたまま、和弥の家まで到着した。恐る恐る呼び鈴を押そうとしたら、その前に内側から開いた。
「すまないね、わざわざ」
 店の制服とそう変わらない私服姿で、和弥の父親は、娘を抱き留めて申し訳なさそうに微笑した。
「一杯、お茶でも飲んで行くかい? 店の残りで良ければ、ケーキもあるけど」
 そう穏やかに誘われたが、丁重に断わった。ケーキはともかく、酔い覚ましにお茶は惹かれるところだが、時間が時間だ。いくら親子共に親しいとは言え、上がり込むのは気が退けた。
 和弥を送り届けたことの礼を言われ、二人はその家に背を向けた。
「・・・いいよなあ、ああいう親父さん」
「うん・・・そうだね」
 高柳が、父親とあまり仲が良くないとは聞いている。それは、高柳の母が元は愛人だったというところに起因しているのだろう。そして、同年の異母兄弟がいるというところに。
 もっとも、そもそもの性格の反りが合わない、というのが大きなところらしいのだが。
 呟くような声が静かで、それだけに、実感がこもっているように思えた。案外、高柳も酔っているのかも知れないと思う。考えてみれば、養護教諭の仕事をこなしながら、週に何日か病院の当直を勤めるというのは、かなり無茶な話だ。
 そこで唐突に、声を上げる。
「あ、そうだ。佐々木京香に話聞かれたかも知れない」
「誰?」
 わざとらしくぼんと手を打った高柳に、訝しげに首を傾げる。風に当たって歩いたことで、酔いは、完全にではないものの醒めていた。
「あれだ。昨日、保健室で顔会わせてただろ? 二年の子。朝、お前が出ていった後、入ってきたから。確証はないけど態度も微妙だったし」
 今日の朝、メールに返事のなかった高柳に、直接どうするかを訊きに保健室に行った。そのときに、メールに返事がなかったのが病院に当直に行っていたからだと知って、ついでに色々と話を聞いた。
 だから、直接聞かれてまずいようなことは言っていないはずだが、それそれに愛称や下の名前で呼ぶほど親しいというのは、少し聴いていれば判っただろう。それは、少しばかりまずいかも知れない。ましてや、あの少女は高柳に好意を抱いていたようだった。
 それで睨まれたのかと、職員室から生物教室までの移動途中にすれ違った時のことを思い出す。
 迂闊だった。
「もし、直接何か訊かれたら、『舘奏』の兄と仲がいいって言っといてくれるか? 嘘じゃないし」
「ああ、わかった。名前は? 経歴はそのままお前でいいだろ」
「あー・・・カサネ、とか」
「珍しい人名だな」
「響きが似てる方が、何かの時にいいかと思ったんだけど。やっぱり変かな」
「まあいいか。訊いて来るとも限らないしな」
 肯いて、妙な感覚を覚える。今まで奏は、探偵事務所の所員ではあったが、小説に出てきそうな探偵行とは縁がなかった。地味な調査や張り込みが、主な仕事だ。それなのに今回は、絵に描くにも無茶苦茶な潜入調査。一体、何をやっているのだろう。
 そしてこれは――成り立っているのが薄気味悪いほどに、物凄い綱渡りだ。
 それなのに、お芝居のような感覚でいた。
「教えてくれてありがとう。とりあえず、極力保健室には行かないようにする」
「無難なところだな」
「ああ。――ありがとう」
「じゃあ、またな」
 肯定も否定もせずに、高柳は、分かれ道で軽く手を振った。奏も応じて、手を挙げる。
 そう言えば、まだあのアパートに住んでいるのかなと、今更に思った。考えてみれば、携帯電話やラインで連絡が取れるからと、現住所すら知らない。
 得体の知れない不安と、間抜けさを感じた。

「う・・・?」
 ぼんやりと目を開けて、枕の上の方にある目覚まし時計を見遣る。約九十度の針の角度に、寝過ごした、と呻く。
 六時間くらいは寝た計算だが、疲れがあまりとれておらず、動きの鈍い体を引きずって階下に降りる。まずは、顔を洗って歯を磨いて。そこでようやく、ちゃんと目覚めるのだった。
 自分の部屋に戻って服を着替えてまた一階に降りると、机の上に残された二枚のメモが目にはいる。それと、卵焼きとサラダの朝食。
 一枚は夏雪で、可愛らしくも綺麗な字で、昼食を家で食べるなら昨夜の残りの肉じゃがを片付けてほしいということ。
 もう一枚は義兄の角張った癖のある字で、今日は休みで事務所にも来なくていいということ。
「ふうん・・・」
 事務所で、すぐに済みそうな仕事か書類の整理でもするつもりだったのだが、あてが外れた。休んでいいと言われて、無理に行くほど仕事熱心でもない。
 食パンをトースターに入れて、ヤカンの湯を沸かす。
 何をしようか。読みかけの本はあるし、そろそろ部屋の掃除もしたい。紅茶やコーヒーがそろそろ切れかかっているはずだから、それを買いに行ってもいい。気になっている映画もある。それとは別に、学校の宿題や劇の――
「あ」
 劇の台本を覚える。
 それを考えて、自分の迂闊さに気付く。奏は、選択授業で、代役とはいえ役を配分されている。しかし、発表は夏休み直前で、それまで学校に通うのかは定かではない。むしろ、あと二月近くも騙し果せるとも思えず、解決できなくても、それまでに切り上げる可能性の方が高いのではないか。
 あそこで、とことん突っぱねるべきだったのだ。
 遅すぎる思考の到着に、奏は歯噛みした。この調子では、他にも色々と、まずいことをやっていそうだ。
 どっと、疲れと嫌悪感に襲われる。それまでの、体の疲れを押しやっての、明るい気分は吹き飛んでしまった。
 トースターが鳴り、パンにマーガリンをぬって囓りながら、奏は、自分の馬鹿さ加減に愛想を尽かしていた。
 しかし、後悔に浸っていても何もならない。奏は、そのことを厭になるほど知っていた。
 手早く朝食を済ませると、夏雪と義兄の残していった食器共々、洗って棚に仕舞う。この家では、基本的には食器洗いは順番だが、朝は各自で誰かが休日の場合は、休みで一番遅くに食べ終えた人物に任される。
 そうして奏は、シャツの袖をまくりながら移動して、家中の窓を開けて回った。
 次いで、自分の部屋と夏雪の部屋、義兄の部屋に入り、それぞれの布団を引っぱり出してくる。奏は、なるべく二人の個室には立ち入らないようにしていたが、布団を干すときだけは別だ。
 奏と夏雪のものは、それぞれのベランダの手すりにかけ、義兄のものは、狭い庭に立っている物干し台にかける。
 すぐに身を翻して、洗濯機の中の量を確認して、湯と洗剤を入れて回す。その場を後にして、風呂場の脱衣序の隅に立てかけてある掃除機を引っぱり出して、夏雪と義兄の部屋を除いた家中を徘徊する。その間、目に付いた大きなごみはごみ箱に投げ入れ、崩れている本や雑誌は本棚に整え、ばらけている新聞は束ねてビニール紐で括る。
 掃除を終えて、洗濯物を干しきると、昼に丁度いい時間になっていた。
 何かに行き詰まったり、考えても仕方のないことを考えてしまうときに掃除をするというのは、姉の癖だった。いつの間にかそれは、奏自身の癖にもなっていた。一種の逃避なのだろうが、逃げたり回り道だって、悪いことばかりじゃないのよ、と言っていた明るい声がよみがえる。
「・・・何食べようかな・・・」
 呟いてから、肉じゃがか、と思い出す。冷蔵庫を開けると、一人分には少し多いくらいの肉じゃがが入っていた。
 それを鍋に移して温め、卵を割る。冷蔵庫の中の冷やご飯を丼に移してレンジで温め、空いている方のガスコンロで湯を沸かす。食器棚に収まっている四角いタッパーの箱の中から、インスタントのみそ汁を一袋出して、汁茶碗に中身をあける。
 温まった肉じゃがに溶き卵をかけて、蓋をして火を止める。あとは、みそ汁のもとに湯をかけて、肉じゃがを丼のご飯の上に乗せるだけ。漬け物が欲しいところだが、生憎、それは切らしていた。
 食べながら、午後の算段を立てる。自分の部屋の片付けをして、その間に夏雪や義兄にメールで必要なものを訊いて、布団を取り込んで買い物に出かけよう。夕食は何にしようか。



 

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