< 人名 >

太刀葉奏(たちは・かなで)  高柳葛生(たかやなぎ・くずう)  御劔弓歌(みつるぎ・ゆみか)  行(ゆき)  夏雪(かゆき)

現在出ている部分まで。


「いくら童顔で女顔だからって酷いです!」
 悲痛な声が、昼下がりの事務所に響き渡った。泣きが入っているというよりも、今から世を儚んで身投げでもしてしまいそうなほどに、悲痛だった。
 しかし、事務所内にいる者たちは、それを気に留めた風でもない。
「いくら叫んでも変わらんぞ、奏」
「もう、話は通してあります」
「酷いです、俺は行くなんてまだ一言だって! それに、教師としていくとか、行さんが行くとか、方法はあるじゃないですか!」
 高校生くらいにも見える、華奢な青年は、そう言って叫ぶ。
 所長の机を叩いたときには、どうやら一緒に、涙も飛んだようだった。
 しかししらっと、横から冷たい声が投げかけられる。
「何度も言いますが、私は所員ではなくて秘書です。それに、私は臨時の英語教師として赴任が手配済みです」
 とりあえず、美人と呼ぶのに躊躇の必要のない二十歳中頃に見える女性は、書類整理の手を止めることもなく、淡々と言い切った。
「それに、教師は大人側の情報を集めるのには役立ちますが、生徒間での情報や、護衛には、やはり同じ生徒として収まる方が適切です」
「大体なあ、お前に教師なんてできるのか?」
 朗らかに笑う三十ほどの熊男に、青年は、くっ、と言葉に詰まる。
 それを受けて、熊男はますますにやにやと笑った。
「それを、あなたが言うのは不適切と思います、所長。あなただって、太刀葉君を笑えたものではなかったでしょう」
「・・・人には、それぞれ得手不得手というものがあってだな」
 義兄と、姉の親友と。そんな友人同士の会話に、だが青年の顔色は、晴れることはない。
「・・・いくらなんでもばれますよ・・・」
「大丈夫よ、太刀葉君。この学校はね、今時珍しく制服なの。しかも、古風な」
「それが一番の問題なんでしょう?!」
「大丈夫だって。制服って、あまり体の線が判らない造りになっているのよ。冬服だから、余計にね。ほら、届いているから見てみて」
 身を捻って紙袋から出し、差し出された制服に、青年は思わず後ずさる。
 厚めの、濃紺の生地。肩を覆う長いエリに、白の線。スカーフも白い。そして、プリーツのスカート。
「だから無理ですってば! 女子校に潜入なんていくらなんでもっ!!」


「舘奏です。中途半端な時期ですけど、よろしくお願いします」
 軽く頭を下げて、奏は自己紹介を終えた。至って落ち着いて見えるが、実のところ、内心ではどうにかしてくれと絶叫しているところだった。
「それじゃあ、空いている席が舘さんのところだから。隣が委員長だから、わからないところは色々と訊いてね。皆も、困っていたら助けてあげて」
 小学生なら、いや、幼稚園児ならそれでもいいとして、今の高校生にそんなことを言っても、素直にうなずけるものなのか。そんな違和感を感じながらも、奏は、空いている机に鞄を置いて、椅子を引いた。
 左隣は校庭の見下ろせる窓で、左隣を見ると、長い黒髪の綺麗な美少女が笑い掛けてくる。
「よろしく」
「あ。よろしく。ええと、あなたが委員長?」
「ええ。御劔弓歌。後で、校舎の案内をするわ。放課後、空いてる?」
「う、うん。ありがとう」
 にこりと、笑顔を返された。
 わずかにそれに見惚れながら、同時に心中で叫ぶ。何故、気付かない。
 ――いくらなんでも声変わりもしてるっていうのに、もう二十歳も過ぎて二年や三年経つのに、なんだって誰も、それに気付かないんだよっ!?
 半ば泣きそうになりながら、そんなことは微塵も出さず、ホームルームからそのまま始まった授業のために、真新しい教科書を出す。
 太刀葉奏、今年で二十四歳になる、れっきとした青年の女子校潜入は、こうして和やかに始まった。

「あと一年だから、一年生と二年生のところは案内しなくてもいいでしょうけど・・・作り自体は、ここと変わらないわよ」
「・・・それにしても、凄い造りなんですねえ」
 一学年十クラス、通路は繋がっているものの、学年ごとに校舎は独立していて、特別教室も併せて四棟。それが高等部だけの建物で、他にも中等部や初等部、幼等部に大学部もある。
 広い敷地は、見ようと思えば星形に見えて、それぞれの角の部分に各部が分かれている。大学部は一部のみで、大部分は少し離れた別のキャンパスにあるらしい。
 事前に、そういったことは聞いていたものの、実際に目の当たりにすれば、余計に凄く見える。さすがは私立、というのも何か妙だが。
 ちなみに、星形の真ん中は、体育館やテニスコートや運動場と、運動関係を一手に担っていた。
 それらに、おそらくは幼等部から、もしかしたらそれ以前から慣れ親しんでいる御劔は、奏の感想に笑みをこぼした。
「確かに、凄いわね。慣れちゃうと当然のような気がしてしまうけれど。特別塔に、行きましょうか」
「あ、はい」
「ねえ、舘さん」
「はい?」
 きょとんとして見返すと、御劔は、卵形の白い顔を優雅に傾げて、柔らかく言った。
「癖だったら構わないのだけど・・・敬語、使わなくていいわよ?」
「あ――はい、あ、や、・・・うん」
 女とばれてはいけないと考えて、所謂「女らしい」言葉を使った方がいいのかと、考えながら気後れして、なんとなく敬語を使っていた。しかし、やはり不自然だったか。
 この間高校に入った姪の言葉遣いを思い出しながら、困ったなあと、顔には出さないように苦労しながら心中でぼやく。
 御劔は、綺麗でやさしくて、男から見れば高嶺の花、ひょっとすると理想に近いのかも知れない。女子校ということで、奏としては目を見張るほどに砕けた雰囲気の中でも、一人、気品のようなものを漂わせている。
 そして、生徒会長にして理事長の娘で。
 今回、依頼人が理事長だから、御劔にならばれてもなんとかなるかも知れない――とも、ついつい考えてしまう奏だった。
 音楽室や美術室、化学実験室にコンピュータールームと、四階から順に案内してもらい、二階の放送室や生徒会室、職員室も通って、最後に家庭科室や被服室といったところを通り、最後の保健室に辿り着いた頃には、結構な時間が経っていた。
 ありふれた造りの保健室には、誰もいなかった。
「あら、高柳先生、いらっしゃらないのね」
「・・・高柳?」
「ええ、高柳先生。本当は三田先生なのだけど、産休に入ってしまわれて。男性だけど、評判はいいわよ。また今度、会いに来てみる?」
「・・・まあそのうち、何かあれば来るだろうし・・・わざわざ・・・」
「それもそうね。とりあえず、校舎は一通り案内したけれど。今日のところは、これでいいわね?」
「うん、十分。ありがとう」
 いささか頬を引きつらせながらも微笑むと、にこりと、御劔も笑みを返した。
 さらりと、艶やかな長い髪を掻き上げる。
「私はまだやることが残っているから、ここまでだけれど・・・外までは、大丈夫?」
「う、うん」
「嫌味じゃないのよ、毎年、新入生や転校生は、一人や二人校内で迷ってしまう人がいて・・・。似たような建物が多くて、方向感覚を無くしてしまうみたいなの」
「ああ・・・少しわかる気もするなあ」
「わかっては駄目よ。一年とはいえ、慣れなくちゃ。それじゃあ、一緒に帰れなくてごめんなさいね。また明日」
「うん。また明日」
 手を振って見送ってから、はっと気付く。気遣っていたのははじめの方だけで、ほとんど普段の言葉で話していた。しかし、何も言われなかったからそんなに違和感もないのだろうか。
 安心していいのか悲しむべきか、よくわからない。
「・・・帰ろう」
 何か、嬉しくない名も聞いてしまったし。ただの偶然だろうが、少しばかり厭な予感もする。
 まだ、無人の保健室の中にいた奏は、ぐったりと疲れながら一歩を踏み出し、その途端に戸口に現われた人影に、絶句して足を止めていた。  
「ああ、ごめんごめん。野暮用で出てたんだ」
 白衣を着た青年は、そう言って笑い掛けてきた。
 少し長めの髪は、茶色っぽい。陽に当たれば金色にも見えるそれが、地毛だということを奏は知っている。
 奏よりも十数センチは高い背は、むしろ平均的で、奏の方が、年齢と性のわりに身長が低いのだ。
 走って逃げるか、普通の生徒を装うか、全てばらすか。咄嗟に浮かんだ三択のうち、逃亡策は、入り口から入ってきたばかりの青年の横をすり抜けるときに、腕を掴まれるだろうと却下する。反射神経はいいし、何故か人を捕まえ慣れている。
 そうなると、あとは二択。
「怪我? 病気? 相談?」
 迂闊に顔を上げられない。そうしていると、肩に、そっと手が置かれた。
「それとも、恋のお相手とか?」
 考えるよりも先に、体が動いていた。
 振り向きざまに肩に置かれた手を払いのけ、そのまま拳を顎に振り上げる。見事アッパーが決まり、青年の体は、嘘のように後ろに倒れた。
「あ」
 しまった。
 生理的嫌悪に、考えなしに殴り倒してしまった。奏は、恐る恐る、倒れた青年を覗き込んだ。とりあえず、頸動脈は鼓動している。
 このまま逃げる、ということも考えたが、下手をすれば大騒ぎだ。初日から一体なんだって、だから無理だって言ったのに、と密かに愚痴りながら、ぺしぺしと青年の頬を叩いた。
「う・・・うう・・・?」
「冷やした方がいいか? 冷凍庫、氷入ってるよな?」
「え・・・あれ・・・奏・・・・・・!? おまッ、そのカッコ・・・ッ!」
「とりあえず冷やしとけ。ごめんな、殴るって選択肢はなかったんだけど。・・・お前、いつもあんなことやってるの? クビになるぞ?」
 驚きすぎて、酸欠の金魚のように口を開け閉めするだけの青年に、奏は、女装(しかも年齢詐称)を当然かのように、堂々と振る舞った。弱みを見せた方が負けだ。
 下手に叫ばない奴でよかったと、密かに息を吐く。
「お前、仕事何時まで?」
「え? あと二時間くらい・・・」
「じゃあ、『けせらせら』でそれくらいに。いいな?」
「う、うん?」
 いまだ何一つ事情を飲み込めず、呆然とする青年との話を一方的に打ち切って、奏は立ち上がった。
 保健室を出ると、躊躇いもなく校舎を出て、五カ所ある門のうち、一番近い西門に向かった。

 喫茶店「けせらせら」の名は、スペイン語の「que・sera・sera 」から来ている。「なるようになる」という意味のあるこの言葉は、ヒッチコックの劇中曲としての方が知られているのかも知れない。しかし少なくとも、この喫茶店の命名者は、スペイン語の辞書から拾ってきたらしい。
 奏がそんなことを知っているのは、喫茶店の経営者が友人の父親だからだった。ちなみに、その友人は現在、武者修行と称して全国どころか全世界を渡り歩いているらしい。喫茶店を継ぐためだと言っているが、八割方は趣味だろう。
 咄嗟に、高柳との待ち合わせにこの喫茶店を指定したのは、奏が少しの間通うことになってしまった、高柳の勤務先から離れているということが一つ。しかし最大の理由は、店長を父に持つ人物が高校時代の友人であり、奏たちが通っていた高校からあまり離れていないこともあって、高校時代、入り浸っていたからだ。
 高校時代の友人たちとは、考えてみれば、ありふれたファーストフード店やファミリーレストランよりも、いくらか割高のこの喫茶店に、よく来ていた。
 だから、ここが思い浮かんだ。
「いらっしゃいませ。――おや。君は、和弥の友達の。久しぶりだねえ」
「ご無沙汰してます。待ち合わせなんですけど・・・」
 店の奥、植木鉢の観用樹に隠れるようなところからでも、二人の声は聞こえた。店内を流れる洋楽の間でも、聞き取れる通る声。もっともそれは、店内に客が少ないということもあるだろう。
 ひらりと、奏は手を振った。そもそも、店長に示されてこちらを向いていたらしい青年は、気付いて片手を上げて合図を返した。
 そうして、テーブルまでやってくると、じっと奏を見て、なんだ、と呟いた。
「髪伸ばしたのかと思ったら、全ッ然変わってないじゃないか」
「・・・とりあえず訊くけど、一体何を期待してたんだ、お前?」
 挨拶も抜きの会話は、四年以上前の頃に、時間を巻き戻したかのような錯覚を与える。ほぼ毎日顔を合わせていた高校生の頃からは、大学生活を挟み、それなりの時間が経ったはずだというのに。
 直に合うのは卒業以来と気付いて、意外に思う。もっとも、ライン(ヴァーチャル・ライン/映像通信)では何度か話したから、そのせいもあるかもしれない。
 当然だが白衣は脱ぎ、黒のシャツにジャケットを羽織った青年は、軽く肩をすくめた。
「だって、四年ぶりに会ったらあれだろ? 性転換でもしたかと思うだろ、普通? 髪長かったし」
「あれは鬘(かつら)。言っとくけど、趣味でも特技でもないからな」
「あ、違うの?」
「違う」
「でも、特技ではあると思うぜ? 女顔だとは思ってたけど、まさかあそこまで違和感ないとはなあ。童顔だし」
 拳を固めた奏が行動に移す前に、先程たのんだらしいカフェオレが運ばれてきて、仕方なく掌を広げた。
 そろそろ初老になるだろう店長は、にこにこと笑って、「ごゆっくり」と言い置いていく。
「高校の時に、頑固に逆転喫茶とか反対してたのになあ。まあ、やらなくて正解だよな」
「俺以上に反対してたのは、お前だったと思うけど?」
「当たり前だろ。女の子の男装は、まだいい。野郎の女装なんて見て、どこが楽しいんだよ?」
「まあ、正論だな」
 そういう趣味の人がいないとは限らないけど、と心の隅で付け加えるが、大多数の意見としては正しいだろう。
 その割りには、セーラー服姿の奏を見て気味悪がらなかったあたりが、なんとも複雑だ。奇妙に見えてはならないのだが、違和感があまりにないのも、何か情けないような、虚しいような気がする。
「それより、お前だろ。あんなところで何やってんだ?」
「それは、そっくり返したい台詞でもあるんだけど。タカ、お前確かさ、医師免許とれたって言ってなかった?」
 数年前に法が改正されて通常は八年かかるところを、教養部分を圧縮して実技や実習に絞り、約半分で医学部を卒業した、「美形の天才児」。そんなあおりのついた週刊誌の記事を見たことがあるし、何よりも、本人にラインで聞いたはずだ。
 その上、高柳病院といえば、県立や国立の病院とさえ肩を並べかねない、巨大な個人経営の総合病院だ。そこの息子が、医師免許を取得できなかったならともかく、何を考えているのか。奏にはよくわからなかった。てっきり、家の病院に、医師として収まるものと思い込んでいたのだが。
 カフェオレを一口飲んで、あれか、と、高柳は遠くに目を向けた。
「俺が言うのも妙な話だけど、美形って誰、って思わなかったか?」
「誰がそんな話をしてる、不美形」
「うわ、やな造語作るなー」
「『造語』で既に『言葉を造る』なんだから、言葉がかぶってる。お前のそれは、頭痛が痛いや巾着袋や馬から落馬すると同レベルだ」
 さして面白くもなさそうな、しかし断言する言葉に、高柳は、小さく吹き出して、くつくつと笑う。
「変わってないなあ、奏」
「そっちこそ、進歩がない。前にも、似たようなことやったぞ」
「そうだっけ? まあいいだろ。俺の事情も追々話すとして、とりあえずは、髪を伸ばした理由を教えてもらおうか?」
「・・・だから鬘だって」
「例えだろうが、例え」
 溜息をついて、奏は覚悟を決めた。
 覚悟、というほど大層なものではないが、高柳という悪友が相手だと、話さなくてもいいことまで話してしまいそうで、そこが厄介なのだった。ちなみに、奏の天敵は他にもいて、それらが上司や同僚というあたり、かなりありがたくない。
「とりあえず、俺の就職先って言ってた?」
「んー? えーっと、ちょっと待て。事務秘書?は沢見だし、体育教師は吉川で、バーのマスターは金沢で・・・」
 十数人の名前と職業が上がる。その半数近くは奏も知っている名で、そんな仕事をしているのかと、うっかり感心してしまう。
 しかし最終的に、高柳は、ぽんと手を打って肯いた。
「聞いてないな!」
「遅っ」
 馬鹿だこいつはと、呟く奏だった。
「我ながら、言ってなかったのは意外だったけど。義兄の探偵事務所で働いてるんだ」
「探偵事務所? お前が?」
 意外そうと言うよりも、どちらかといえば訝しそうに、高柳は首を傾げた。それに、ああと肯く。
「なんでまた。てっきり、あのまま民族学続けて教授にでもなるもんだと。民話採集だっけ? フィールドワーク、めちゃめちゃ楽しんでただろ?」
「今でも面白いとは思ってるけど、それで生活していけるとは、元々思ってなかったし。大学自体、勧められなかったら行かなかったよ」
「ふうん・・・そういうもんかねえ。お前の書く論文って、門外漢の俺でも面白いと思ったけどなあ」
「・・・見せたこと、あった?」
「ん? お前が行ってたとこ、医学部もあっただろ? そこと共同ネットワーク構築してたからな。そこから入ったら、学内の情報くらい楽に」
「見るなよ。本当に、無駄に能力豊かなんだから・・・」
 異例の医学部での飛び級も、「高柳葛生」だからこその実現だ。
 飛び級自体は、近年日本でもそれなりに普及しているが、人の命を扱う分野となれば、さすがに話は別だ。それをやってのけたのだから、よほどの才覚者には違いないのだが。
 そもそも、高校卒業まで一切飛び級を利用しなかったというのに、大学でのみ利用するというのも、妙な話だ。おそらくは気分の問題だったのだろうと、奏や親しい友人たちは見ていた。
「だーからさ、俺のことはいいんだって。探偵社に就職して、じゃあ、そこの依頼で?」
「ああ」
「女装させて自分の学校に通わせるなんて、やっぱりただ者じゃなかったなあ、あの爺さん。どんな趣味だ?」
「・・・。多分、とてつもなく趣味の悪い思い違いをしてると思う」
「ん? 学校に通うのが依頼だろ?」
 けろりとした返事に、突っ込む気も失せて、奏は無言で溜息をついた。まさか本気のはずもないが、何故こうも、人の気を削ぐ反応ばかり用意しているのか。
 変わらないなと懐かしく思う一方で、もっと付き合いやすい人物になっていてもよかったのにとも、思う。難しいところだ。
「学校内での調べものをたのまれてるんだ。内容は言えないけど、とりあえず、邪魔はしないでほしい」
「ああ、正体ばらすなって?」
「その通り。一応、全部知ってるのは依頼主だけで、調査のために潜入してるのを知ってるのも一部の人だけだから。場所が場所だけに、男だっていうのは極秘。・・・まさか、タカがいるなんて思わなかったのに」
「まあ、保健医味方に付けてりゃ便利だぜ、この場合。一つ貸しな」
「わかってる」
 とてつもなく不本意だが、仕方がない。
 悩みどころは、事務所にこのことを報告するかどうかだ。本来は報告するべきだろうが、この友人は調査対象にはならないと――少なくとも、今までの付き合いからすると思うのだが、行や義兄もそう判断するとは限らない。下手に調べたり疑うと高柳の野次馬根性を煽りかねないのだが、言って納得してくれるものか。庇っていると取られても、仕方のないものがあるだけに難しいだろう。
 しかしそもそも、奏があの義兄に物事を隠し果(おお)せたことは少ない。やはりここは、素直に言っておくべきか。
 何にしても、心労を背負い込むのは自分のような気がして、不条理だと、密かに思う。
 悩む奏を眺めて、にやりと、高柳は笑った。
「それで、調べるのはヤクか、ウリか?」
 覚醒剤か売春か。そう言われて、奏は自分の顔色が変わるのが判った。
「何故それを」
「知りたいか?」
「タカヤナギ・・・!」
 こんなことでこの友人を疑いはしないが、何かを知っているなら聞き出さなければならない。
 にやりと笑った高柳は、しかし、次の瞬間には大爆笑した。ぎょっとした、数少ない客の目が向く。もっとも、それを気にするのは奏だけで、高柳の方は一向に頓着しない。
 こんなことが何回もあったような気がすると、奏は気分的に痛む頭を押さえた。この数年、ラインかメールでしかやりとりをしていなかったために、うっかりと失念していたようだ。
「とりあえず、その馬鹿笑いをやめないと和弥の親父さんに迷惑がかかる」
「だいじょーぶ。ほら、そんなには気にしないもんだって」
 店内は、ゆったりとした洋楽にのって、落ち着いた雰囲気を取り戻している。高柳の肩越しに、ちらりと見えた店主は、穏やかに笑んで、ウィンクさえ寄越した。
「それで、どういうことなんだ?」
 落ち着こう、と自分を宥めながら口にした奏だったが、対する高柳はまた吹き出して、とうとうテーブルに突っ伏してしまった。
 呆然として、ようやく気付く。
 途端に、かっと頭に――むしろ顔に、血が上る。
「だっ、騙したっ、引っかけたな、お前!?」
「引っかかるお前が馬鹿。ほんっと変わらないなー、もちっと学習しないと、探偵なんてやってけないぜ?」
 カマかけに簡単に引っかかった自分の馬鹿さ加減に、奏は返す言葉がなかった。自棄になって、すっかりぬるくなったコーヒーを一気に呷る。
 噎せて、余計に惨めになっただけだったが。
 そこで、はあと、高柳は溜息をついた。
「こうなったら、洗いざらいぶちまけちまえ。そうしたら、手伝ってやるぞ」
「・・・誰が」
「まあ、いいけどな。御用のときは、是非とも保健室まで」
 にこりと、嫌味なほどにさわやかに笑う。実際、嫌味に違いない。
 そして高柳は、楽しそうにメニューを取った。
「ついでだから、メシ食ってくわ。一人暮らし満喫しすぎて、作る気にならなくってさー。お前どうする?」
「帰る」
 立ち上がると、高柳は不吉な一言を投げかけた。
「じゃ、また明日な」

 疲れた、と、そのまま玄関にへたり込みたくなるのを押しやって、奏は、リビングの方に「ただいま」と声をかけた。すると、十代中頃の少女が顔を出して、笑顔を見せる。
「おかえり。ご飯できてるけど、すぐに食べる?」
「うん。鞄置いたらすぐ行く」
 了解、と言って、少女は顔を引っ込めた。
 奏は、宿題の出た教科の教科書とノートの入った鞄を持って、二階の自室へと階段を上る。登った突き当たりの右が奏の、左が先程の少女、姪の夏雪の部屋だった。
 姪と言っても、奏と夏雪は七つしか離れておらず、その倍も年の離れていた姉――夏雪の母よりも、よほど兄妹のようだった。五歳の時点で両親は共になく、翌年から姉夫婦と暮らし、更にその翌年には夏雪が生まれた、という家庭環境も、それに拍車をかけているだろう。
 大学進学と同時に姉夫婦の元を離れた奏だったが、三年前に姉が事故死してすぐに、家に戻った。高校までを過ごした部屋は、片付ける暇がなかったのか、出た頃のままだった。
 鞄を机の横に置くと、すぐに踵を返す。宿題は、夏雪が寝てからすることにしよう。いくらなんでも、姪に今回の事態は言えない。言ったら最後、確実に面白がられて、挙げ句にはセーラー服姿の写真まで撮られてしまいそうだ。
「・・・恐ろしい」
 呟くと、身震いをした。
 向かうリビングからは、いい匂いがする。どうやら今日は、シチューのようだった。
「あれ、義兄さんは?」
「遅くなるって。ねえ、お兄ちゃん、今度の日曜ヒマ?」
 夏雪は奏を「兄」と呼び、奏はその夏雪の父をやはり「兄」と呼ぶ。その通りには違いないのだが、考えてみれば妙なものだ。そのせいで、夏雪と父を見比べて、「随分と年の離れたご兄弟ですね」と驚かれたこともあった。
 奏は、とりあえず椅子に座って、箸立てに混ざって立つスプーンに手を伸ばしながら、考えるように首を傾げた。
「多分、空いてると思うけど」
 誰との約束もしていないし、学校の方は、土日は休みだ。それまでに何か起こるか、別件の依頼が急に割り込んでこない限りは大丈夫だろう。
 そうすると、出来立てのシチューをふたり分の皿に移す夏雪の顔が明るく輝いた。
「じゃあ、水族館行かない? ほら、水族館って言うか、テーマパークに水槽があるって言うか」
「ああ、アクアサイド?」
「それそれ。タダ券もらったの」
 テーブルクロスのかけられた机の上には、湯気の立つシチューの他、やはり湯気の立つオムライスと、彩りの鮮やかなサラダが並ぶ。この家の住人は揃って一通りの家事ができるが、中でも、夏雪の洋食は抜きん出ていた。
 ちなみに、夏雪ほどではないが、奏の得意料理は煮物全般で、残りの一人は中華だった。
 いただきますと声に出して、それぞれスプンを差し入れる。
「いいよ」
「ほんと? やったあ。一回行ってみたかったんだよね、あそこ。急に行けなくなったらしくってさ。アトラクションはいまいちだけど、水族館がそこそこ人気あるんだって」
「どうせなら、友達誘った方が良くない? 送るくらいするけど」
「駄目駄目、みんな断わられた」
 だからお鉢が回ってきたのかと、苦笑する。そして気付いて、断わりを入れる。
「あ、でも、急に仕事が入るかも知れないけど」
「そのときは、お兄ちゃんのおごりで別の日に連れて行ってね」
「はいはい」
 姪のちゃっかりさ加減に半ば感心して、奏は温かいシチューをすくった。

 その日のうちには、義兄は帰ってこなかった。感覚としては「今日」なのだろうが、時刻は日を越えていた。
「ん? 何やってるんだ?」
 顔を合わせた途端の台詞に、奏は厭そうに顔をしかめた。広げているのは、ルーズリーフと数学の教科書。
 義兄の質問に答えるよりも先に、テーブルの上に並べられた料理を示す。
「残したら次の料理番はよろしく、って言ってた」
「言ってたって、夏雪は?」
「昨日から朝練が始まってるじゃないか。眠いの厭だからって、早くに寝たよ」
 そのおかげで、奏は堂々とノートを広げられているのだが。自室でやらないのは、義兄を待っていたためだった。
 やはり、話はしておかなければならないのだろう。早速シチューを火にかける義兄の熊のような姿を横目に、奏は溜息をついた。
「義兄さん。今やってる仕事で、話しておきたいことがあるんですけど」
 事務所であれば「所長」という呼び名と一応の敬語。家の中では兄に対するもの。その間の中途半端さが、なんとも、奏の心境を表わしていた。
 義兄は、どっしりとした体ごと、首を傾げた。
「今のって言うと・・・ああ、どうだった、登校一日目は? まさか、もうばれたって話じゃないよな?」
「まあ、そんなところ」
「何?!」
「ばれたと言うか、元から知ってた奴がいるってのが正しいんですけどね。覚えてます? 高校の同級生。高柳病院の息子」
 ああ、と、半ば吐息のような声を漏らして、義兄は椅子に座り込んだ。そしてそれでも、シチューを掻き回すお玉を止めていない。
「保険医になってました。・・・仕方ないから、ある程度は話しました」
 迷って、そう付け加える。
 義兄は、シチュー鍋を温める火を止めて、横に伏せて置いてあった器に注いだ。
 今回の依頼は大口で、事と次第によっては警察沙汰にもなりかねなかった。それなのに奏を「女子生徒」として潜入させるあたりがふざけている、と思うが、全ては所長の判断だ。
 熊面の義兄は、ふむと呟いて、シチュー皿を持って奏のいるテーブルまで移動して、今度はオムライスをレンジに入れる。
「あの高柳君がなあ。医者になるんじゃなかったのか?」
「俺も、まだ詳しいことは聞いてないですけど」
「そうか。まあ、大丈夫だろう。念のため、行のことは言わないでおいてくれ。あの二人は面識はなかったはずだからな。行にも、言うなよ」
「はあ」
 あまりにあっさりとした反応に――どの程度話したのか、との追求さえなくて、奏は、思わず間の抜けた声を返した。
 それを受けて、義兄は、すねるように口を尖らせた。
「なんだ、不満か?」
「いや、そういうわけじゃ」
「じゃあどういうわけだ?」
 台詞だけ取ると、そこそこ威厳や貫禄もありそうなものだが、いそいそと、温まったオムライスのラップを外しながらでは、間違いなくそんなものは皆無だ。
 そんな落差を、今まで厭というほど見てきた奏は、気にせずに言葉を選ぶことに四苦八苦している。
 そうして半ば、自棄になる。
「もし、あいつが売春の関係者だったら問題なんじゃないですか」
 オムライスを匙ですくった態勢で、義兄は元から丸い目を、更に丸くして、まばたきをした。
「それ、本気か?」
「・・・本気というか、俺にはそんなことがあるとは思えないけど、だけど、そうやって疑ってかかるべきじゃないんですか」
「奏は、大丈夫だと思うんだろう?」
「俺が知ってる高柳なら。だけどそんなの、あてにならない」
「そうか? 結構あてにしてもいいと思うぞ。まあ、買ってる方なら判らんけどな。とりあえず売らせる方としては、考えにくいだろう。あの性格だしなあ」
 のんびりとした調子で、何故か自信たっぷりに言う義兄に、今度は奏の方がまばたきをする。
「何か、あっさり凄いことを言ってない?」
「んん? 何がだ?」
「・・・いや。もう、いいけど。・・・お休み」
「ああ、おやすみ」
 宿題を終わらせてしまうつもりでいたが、疲れて、立ち上がる。義兄はのほほんと、何事もなかったかのように、遅い夕食に専念しようとしていた。



 翌朝、コーラス部の早朝練習に出掛ける夏雪と共に家を出て、奏は、相良探偵事務所秘書――といっても、ほとんど所員と変わりはないのだが――の行清花[ユキサヤカ]の家に向かった。ちなみに、交通手段はバイクだった。
 行は奏が潜入している剣美学院に、英語教師としてやはり潜入しているが、学院付属の教師用の寮に入っているために、部屋はしばらくの間無人になる。
 奏は、鍵を借り受けて、ここで制服に着替えて登校する。学院まで、自転車で行ける距離というのも利点だった。何より、事務所や家から制服で出れば近所の人に怪しまれるし、駅のトイレで着替えるのは、やらない方が無難だろう。
 自転車を校門近くの駐輪場に止めて教室に行くと、授業前のショートホームルームが始まるまでに三十分以上あるにも関わらず、既に何人もの生徒が来ていた。
「おはよう」
「おはよう」
 クラスメイトたちに声をかけたりかけられたりしながら、とりあえず奏は、自席に着いた。昨日やり損ねた宿題を終えたいところだが、そもそもの目的が勉強ではないのだから、優先すべきはそちらではないだろう。
 生徒から話を聞き出す、という難題に、奏は、こっそりと溜息をついて教室にいる少女たちをそれとなく見た。女友達は多い方だが、女の子として親しくなれるかは、不安なところだ。
 躊躇いつつ、とりあえず昨日の休み時間に声をかけてくれた――質問責めにした、といった方が正しいかも知れないが――子たちに声をかけようかとした奏は、隣りに人が立ったのに気付いて、顔を上げた。
「おはよう、舘さん」
「お、おはよう」
 御劔に微笑み掛けられて、何故か慌てて挨拶を返す。
 心持ちつり上がった、大きく見える目が、少しだけ不思議そうに奏を見つめる。奏はそれに、意味もなく笑い返した。話題を振る。
「みんな、早いね。まだ時間あるのに」
「遅い人は遅いけれどね。それに今日は、一時間目が体育だから。電車やバスの子はそうでもないけど、徒歩や自転車だと、少し早く来るみたい」
「御劔さんは? 電車じゃないの?」
「私は車。徒歩でもこれない距離じゃないのに、過保護なのよね。ねえ、舘さん。名前で呼んでもいい?」
「え? うん、いいけど・・・?」
「私も名前でいいから」
「う、うん」
 名前で呼んでいいかと、今まで奏は訊かれたことはなかった。大体はいつの間にか名前やあだ名に変わっていたような気がする。これは女の子だからなのか個人差なのかと、少し悩む。
 戸惑う奏を、御劔はくすりと笑った。そうして、さらりと、肩に掛かった髪を払う。
「そろそろ、私たちも着替えた方がいいわね」
「え」
 そう言われて、はっと奏は周囲を見た。少女たちは無造作に、教室で制服を脱いでいる。慌てて目を逸らす。
 更衣室があったはずなのに、と、今の状況では意味のないことを考えながら俯いていると、御劔が声をかけてくる。
「どうかしたの?」
「そういう――」
 咄嗟に顔を上げた奏は、セーラーを脱いで上半身が下着のみの御劔を真正面から見てしまい、くらりと一瞬、確かに視界が暗転した。
 がたんと、椅子の動く音がした。
「大丈夫!?」
「だ・・・だいじょう、ぶ」
 後ろに思い切りひっくり返りかけた奏だが、咄嗟に手を伸ばしたらしく、なんとか机にしがみついていた。さほど重くない机が奏に引きずられて倒れなかったのは、運がいいとしか言いようがないだろう。
 近くにいたクラスメイトたちも、心配そうに奏を見ていた。着替え途中の格好に、奏はまたもや、咄嗟に眼をつぶった。
 そうして、目ごと覆うように額を手で押さえる。
「ごめん、保健室に行って来る。先生に、言っておいてくれる?」
「ええ・・・」
「大したことじゃないんだけど、朝少し、気分が悪くて。大丈夫だと思ったけど、ちょっと無理だったみたい」
 気遣ってくれる少女たちを余計に騙すのは心苦しいが、奏としては、一刻も早く教室を出てしまいたい。
 御劔が付き添いを申し出てくれたが断わり、戸惑ったようなクラスメイトたちの視線を受けて、後ろの出入り口から外に出た。
 演技でなくよろよろと進んで、教室を一つ分歩いて、階段のところにまで出てから、大きく息を吐いた。
「〜っ」
 元々体育は休むつもりでいたが、まさか、あんな風に教室で着替えるとは思っていなかった。昨日御劔に案内してもらった校舎には、各階に一室、ちゃんと更衣室があったというのに。
 しかし考えてみれば、高校時代、奏も教室で着替えていた気がする。女子は更衣室に移動していたが、男子にはそんなものはなく、各自の教室だった。男子がいなければ更衣室も教室もそんなに変わりはないかと、とりあえず納得する。心情としてははまだ、違和感が残るが。
「・・・保健室か・・・」
 壁により掛かって少し休んだことで、跳ねていた鼓動はいくらか収まった。先生たちが来ないうちに保健室に移動してしまおうとして、朝早くから開いているものなのかと不安になる。
 基本的に、保健室には縁がなかった。
 しかしとりあえず、行くしかないと決めて、階段を下っていく。なんとなく手を当てたままの校舎の壁は、ひんやりと心地よかった。

「んん?」
 授業開始前から開いていた保健室で、奏の姿を認めて、高柳は首を傾げた。
「保健室登校?」
「違う」
 断言ついでに脱力して、奏は部屋に踏み行った。
 キャスター付きの椅子に座ったまま、高柳がそれを迎える。羽織っているだけの白衣は、朝一番だというのに、早くも着崩れている。そうして、思いついたように机に置かれていたノートを広げる。
「はい、入室記録。時間とクラスと番号と名前と、来室理由をどうぞ」
 鉛筆を渡されて、素直に書き込む。ところが、来室理由を「貧血」と書いたところで、吹き出す声が聞こえた。
「え? 貧血?」
「・・・何か文句でもありますか、タカヤナギセンセイ」
「いやあ? 別にい。あ、そうか、三年五組は、一時間目体育か」
「全部の時間割覚えてるのか?」
 驚いて、つい、そのまま素直に訊いてしまう。
 高柳は、いいやと首を振って、机の隅に貼ってある時間割を示した。一週間の時間割で、幾つかが「体育」という字で埋まっている。
「体育の授業のときは、怪我人が出ることがあるからな。大体ここにいるんだけど、殊更にいてくれってんで時間割もらってる」
「クラスまでは書いてないみたいだけど?」
「ああ、それは自然に」
「・・・まだ五月なのに?」
「五月だけど」
 にやりと笑う。どうにも裏があるように思えて仕方がないが、藪をつついて蛇を出すのも厭で、黙っておくことにする。
 高柳は、壁掛けの時計を見て、お、と呟いた。椅子から立ち上がる。
「どうせ一時間、ここ休んでるんだろ。どこか座っとけ」
「どこか行くのか?」
「職員会議の、結果訊いてくる」
「そういうのは、出席して聞くものじゃあ・・・」
「産休だから、俺。何か扱い違ってさ。他ではそうでもないらしいけど、ここは、あんまり口出さしてくれないの」
 だからといって、不参加でいいものだろうか。そう思ったが、確かに、参加できない会議に座っているのも退屈だろうと、そのまま、出ていく高柳を見送った。
 誰もいなくなって、なんとなく周囲を見回してからソファーに座ると、奏は大きく溜息をついた。
「・・・いつまで続くんだろう・・・」
 たしか、高等部と中等部に売春をしている生徒がいるらしい、そしてどうやらそれは組織立ったもので学内にまとめ役がいるようだと、そういう話で、学園長からそれらを見つけ出すようにという依頼だったはずだ。
 不祥事だけに、なるべくなら表に出したくはない。しかし、見つけ出さなければ、売春組織は野放しだ。
 それを探し出せということだが、奏としては、事務所のみんなが総ぐるみで自分を騙しているという方が、よほど説得力がある。自分が、そういった面々に接触して、更には話を聞き出せるとは思えない。
 その上確実に、女子校に奏が――男が、生徒として潜り込んでいるとばれた方が、よほど問題になるはずだ。
「ああもう。行さん、なんとか調べがつかないかなあ。それに俺、いくらなんでも、夏服になったら無理だよ」
 心の中で呟いて、再度溜息をつく。
 制服だからこそ性別を疑わない、という行の言った先入観の強さが確かだったのか、よほどに奏が女の子のようなのか、とりあえずは、ばれなかったようだ。しかしそれも、生地が薄くなって体の線も判りやすくなる夏服に替われば、無理だろう。
 それは、体育においても同じことで、毎回体育を休むのを怪しまれる前に、適当な理由をでっち上げなければならない。病弱、というのは、フィールドワークで各地を飛び回った奏の身体では、いささか無理な話だった。
 そんな初歩的なことも決めずに飛び込んだのだから、無謀にすぎるが・・・それでも最終的に、なんとか辻褄を合わせてしまうのが、義兄の恐ろしく凄いところだった。ただ、振り回される方としてはたまったものではない。
「奏ちゃん」
「――あ。はい?」
 名前を呼ばれて、ぼうっと考え事をしていたところから我に返る。顔を向けると、御劔と他に数人が、入り口から顔を覗かせていた。
「大丈夫?」
「あ。うん。休んでれば――見学、してた方がいいかな?」
「気にしなくていいわよ」
「保健室の方がいいよ。見学って言っても、ぼーっとしてるだけだし」
「変に、胡桃に絡まれるだけだし」
 気安く言う端々から、どうやら胡桃という体育教師は好かれていないらしいと判る。
 どう反応をしたものか、曖昧に苦笑すると、予鈴が鳴って少女たちは運動場に目をやった。
 敷地の中央にそびえ立つ鐘楼の鉦は鳴らなくなって久しいらしいが、各校舎内の放送で、十分に事足りている。
「それじゃあ、また後でね」
「あーあ、いいなあ、高柳先生と一緒で」
「あたしもさぼりたいよ」
「ほら、奏ちゃんはわざとさぼってるわけじゃないんだし。ゆっくり休んでね」
 去っていく少女たちに手を振って、はぁと、三度目の溜息をついた。
「くずちゃんセンセー、って、あれ? センセーは?」
 閉まったばかりの戸が勢い良く引き開けられて、この学院では珍しく、スカートの丈を上げた、パーマがかかったような長い髪の生徒が入ってきた。
 元々、学園の制服のスカート丈はそう長くはないのだから、上げても妙になるだけではないかと奏は思うが、余計なお世話だろう。当人が良ければ、回りに迷惑をかけない限りは、とりあえずいいのだろうから。
 溜息の途中で息を止めてしまい、むせた奏は、少し涙目になって少女を見た。身長はおそらく、奏とそう変わらない。
「ねえ、センセーは?」
「高柳・・・先生なら、職員会議に」
「えー? もう終わってると思ってきたのに」
 少しふくれて、勝手に高柳の椅子を引いて座る。とりあえずソファーに座り直した奏は、ええとと、心の中で呟いた。それに、一時間目開始のチャイムが重なった。
 一時間目の開始を告げるそれに、そう言えば保健室は、少しさぼるのに高柳が愛用していたなと、思い出す。高柳に限らず、数人が寝に行っていたようだった。中年だった女性の養護教諭は、異常がなければ一時間で追い出したが、それでも寛容だったように思う。
 もっとも奏は、話に聞くだけでろくに面識もないのだが。
 そんな経緯で、高柳も生徒に甘いのだろうかと考えて、ちらりと少女を見ると、目があった。そもそも、少女は奏を観察していたようだった。
「えっと・・・何か?」
「何かって何よ」
「いや、見てたみたいだったから。何かついてる?」
 馬鹿にしたように、少女は奏をじろりと見た。思わず、身を竦める。
「あんた、なんでここにいるのよ」
「え・・・貧血で」
「そんなの、教室いればいいじゃない。それとも何、センセーに会いに来たわけ? いるのよね、相手にもされないのに押し掛ける奴」
 きつい口調だが、いっているそれが、正確にではないにしても、自身にも当てはまるのだろうと判って、奏には、微笑ましくすらあった。強い台詞の裏には、不安さえ窺える。
 あの級友は、容姿もあるが、その性格でもてていたと思い出す。
 そう言えば高校生当時、高柳は「恋人にしたい男子」で奏は「弟にしたい男子」として有名だった、ということまで思い出して、少し虚しくなる。
「何よ」
 奏が何も言い返さないからか、更に目つきが険しくなる。まさか正直に思ったことを告げるわけにもいかず、困ったように笑う。
 それが、少女を余計に煽ったのが判り、うわあと、口の中で呟く。そこに、保健室の戸が開けられた。このときばかりは、素直に級友に感謝する。
 高柳は、ソファーで笑みを張り付けた奏と、次いでぱっと嬉しそうに顔を輝かせた少女とを見て、呆れたようにして、苦笑した。
「今日はなんだ?」
「ズツウでアタマ痛いの。いていいでしょ?」
「今お前に必要なのは、頭痛薬より国語の授業だと思うぞ」
「えー?」
「悪いけど、今日は駄目」
「えっ」
 むっとして、奏を睨んでくる。今にも「この子のせい」、と口にしそうで、どうにも居心地が悪い。
 高柳は、それに気付いてか、少女の頭を軽くたたいてその視線をさりげなく遮った。
「野村先生に、また泣きつかれた。授業つまらないのは判るけど、合わせられないなら、飛び級使った方が楽だぞ?」
「・・・くずちゃんセンセー、センセーみたいなこと言う」
 拗ねるような少女に、高柳は柔らかく笑む。むうと唸って、少女は、頭に置かれていた高柳の手を払った。
 そのまま、戸口へと向かう。
「じゃあ、おじゃましましたっ」
 ぴしりと、強く戸を閉めて去っていく。問うように見上げた奏に、高柳は肩をすくめた。
「どうする? 寝るなら、ベッド使っていいぞ」
「ああ・・・うん」
 少女のことも事情も、話すつもりはないのだと判る。そもそも、奏には関係のないことなのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
 迷って、一時間どうしようかと考えていると、椅子に座って何かの書類をめくった高柳が、あ、と言って目線を寄越した。
「駄目か、寝たら」
「どうして?」
「だってそれ、カツラだろ? 誰か来るかも知れないから、外してたらまずいだろ。カーテンで覆っても、やっぱり見られる可能性はあるし」
 長い、真っ直ぐな黒髪をボールペンの先で示す。
 ああこれ、と、奏は、人毛と判断のつかないほどに精巧な人工毛の先をつまんだ。手触りにもさほど違和感はなく、触られたくらいでは気付かれないだろう。
 事務所で、行から制服と一緒に渡されたものだが、実は、所長――つまりは、奏の義兄の友人からの借り物だった。
「特殊な糊でつけてるから、お湯で落とさないとはずせないよ、これ。長い時間を過ごすのに、載せるだけのやつは不用心だろ」
「へえ、そんなのあるのか」
「俺も、はじめて知った」
「あ、そうだ。お前、教室でどんな言葉使ってる?」
「どんなって?」
 見る気が失せたのか、高柳の手元を離れた書類に、なんとなく目をやる。学校の配布物でよく見掛けるB4やB5ではなくて、A4のようだった。
「変に女らしくしようとか、思ってないだろうな?」
「・・・どうして?」
 当たらずとも遠からず、とは言わない。しかも、そうしようとして失敗したとは、かなり言いたくない。
 しかし、間の空いた応答で察知したのか、にやにやと笑っている。むっとするが、とりあえず何も言わずにおく。
「口調つくる必要ないと思うぜ?」
「それは」
「けなしてるわけじゃなくて。思い出したらわかると思うけど、男でも女でもあんまり変わらないだろ? このくらいの年齢なら、僕や俺って言ってる子も珍しくないし」
「ああ・・・そういう意味か」
「そう。また、いらないとこで悩んでるかと思って、親切に助言」
「自分で親切って言う時点で、七割減」
「ひでー」
 言って、笑ってしまう。素性が露見しないように気をつけなければならないはずなのに、どうにも、高柳と顔を合わせていると、毎日顔を合わせていた、気楽な高校生時代に戻ってしまう。
 過去と言い切るには近いはずの時間を、懐かしく思うのはただの感傷だろうか。
「そう言えば、どうして保険医に?」
「ああ。それ」
 苦笑して、書類を引き出しにしまうと、キャスターのついた椅子をくるりと回して体の向きを変える。用事は放棄したようだった。
「期待してるなら悪いけど、特に深い理由もないぞ? 単に、資格が取れたからだから」
「医者になるって言ってたのに?」
「なるさ。三年後にな」
「三年?」
「八年経ったら家に戻るって言ったからなあ。とりあえず後継げって言われてるし」
 そのあたりの事情は、詳しくではないが、奏も聞いていた。高柳から直接聞いたものは、大体が冗談めかしてあったが、人伝に耳にした噂は、深刻なものが多かった。
 自分のことだから気にしても仕方がないと、相談でもされない限り、奏はそれに触れたことはない。考えてみれば、奏自身、早くに両親を亡くしてかわいそう、と言うことになるはずで、そこを変に気遣わない人との友人付き合いの方が、長く続いている気がする。
 口調からは、医者になるのが厭だという感じは受けない。
「つまりそれは、無茶苦茶な飛び級をしたのは、浮いた時間をつくる為なのか?」
「さすが。正解者に拍手」
 ぱちぱちと、笑顔で拍手をしてみせる。
「浮いた四年間、一般就職や他の病院行っても良かったけどな。資格とれたから、取ってなってみた」
 おそらく、八年経ったら戻るというのは、留年は許さないといった話の流だっただろうと思う。それを逆手に取るのだから、あちらは激怒していることだろう。
 しかし、生まれてから中学まで、きっちりと家の方針通りに育ち、この先もそこに収まろうとしているのだとしたら、少しの息抜き期間くらいは大目に見るべきだ。相手方は、そうは思ってはいないだろうが。
「なってみた、はいいけど、生徒に手を出すなよ」
「んー。俺は、殊更に出す気はないけどな。むしろ、向こうが誘ってくる感じ?」
「・・・男は少なそうだしな、ここ」
「そういう言葉で括るなよ」
「そういう問題だろう?」
 嫌がらせに、にっこりと微笑む。因みにこのとき、奏に女装しているとの意識は薄く、高柳は、別の意味でがっくりとうなだれたのだった。
 美少女と形容しても、強い異論はないだろう外見の奏だった。





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