学校の放課後

    

< 人名 >

新城音弥(あらき・おとや)  八坂瑞貴(やさか・みずき)  清長美鈴(きよなが・みすず)  新城宗佑(あらき・そうすけ)

現在出ている部分まで。



「お目覚めになりましたか?」
「ふえ?」
 聞き慣れない堅苦しい声。というかここはどこだ。揺れている車の中――?
「あ」
 うわやらかした、と思いつつ、とりあえず体を起こす。車の後部座席を占領して眠り込んでいたらしい。今日はじめて袖を通した制服も、どうにもしわができている。まあ、セーラーの冬服だからわかりにくいけど。
 そこで再び、声を上げそうになった。
 さっきの夢。人のいない見たことのない教室で目覚めたあれ。今と同じ格好をしていた。…まあ、だからどうってこともないのだけども。
 髪を手櫛で梳きながら、前を見る。ミラー越しに、運転中の秘書の人が一瞥を寄越したのが判った。苦笑も呆れも見られない。無表情で、何が楽しくて生きてるのか、と思わせる。それとも単に、雇用主の隠し子の面倒を見させられている現状が不満なだけだろうか。 
 とりあえず、頭を下げておくことにした。
「すみません」
「いえ。お疲れになったんでしょう。そろそろ到着です」
 淡々と、好意や気遣いが感じられない代わりに皮肉や嫌味も感じられない声音で返ってくる。こういう人は嫌いじゃない。ただ、そうですか、と返した私の顔は、バックミラーで見る限り微笑していた。とりあえず笑顔を見せてしまうのは、癖だ。
 窓の外をぼんやりと見詰めると、なるほど、田園風景の中にぽこりと、いっそ異様とさえ言えそうな校舎群があった。
 ちょっと見ただけでは、博物館か個人の豪奢な邸宅か、と思いそうな建物。大雑把には、中央に校舎が固めてあり、北側に宿舎が、南側にそれ以外の関連施設が配置されているとか。ああ、教員宿舎は西側。正門からすれば裏側だ。その後ろは山裾だったりする。
 ちなみに、私がそれらのことを把握しているのは、今朝方閑すぎて、学園案内のパンフレットを熟読してしまったから。
 それによると、この来栖学園は戦後間もなく創立された。全寮制で、幼等部から高等部まで男女合わせて一万数千人ほど、生徒でない者も含めても二万人は超えないだろう人数が暮らしているらしい。
 最寄の駅と商店街までは、車で一時間弱。辛うじてでも都市部と呼べそうなところに出るには、そこから更に電車で一時間ほど。ちなみに、学園に至るバスはなく、タクシーを呼ぶか学園の車を借りるしかない。必然、実務に関わる関係者も、ほとんどが宿舎生活というのが現実だとか。
 ネットで調べた情報によると、わけありで入学する生徒が多いとか。一例を挙げるなら、親が大物政治家で、それを恃みに万引きから始まり見初めた少女を妊娠させた挙句に母子共に殴り殺した馬鹿息子。さる大家の近親婚でできてしまった娘。そして面白いのが、それらの一方、汚れきった外気にさらしたくないという理由で入学させられた箱入り娘と息子たち。
 さて私は、どちらの理由だろう。…まあ間違いなく、前者なのだろう。
 ちなみに、来栖というのは創立者の苗字で、特定の宗教的象徴とは関係がない。が、それに乗じてか単に創立者か関係者が思うところがあったのか、宗教学が選択授業に取り入れられているのが珍しい。
 来栖学園には大学も大学院もあるが、それらは打って変わって、県庁所在地の華やかで適度に田舎な一角にあったりする。
「必要なものがあれば、いつでも声をおかけください」
「はあ」
 はて、常に「父親」の傍らにいるはずのこの男に、私は何を望めばいいものか。
 そうそう、私がここにいる理由。それは、生物学上と多分法律上も親子になる新城宗佑(あらきそうすけ)にある。 
 突然出現した「父親」は大手企業の代表取締役で、しかもその企業は、色々ときな臭い噂の絶えないところだった。多分、ヤのつく人々と直結のつながりがあるのじゃないか。
 ところで母親は、今頃第二の人生を踏み出せているはずだ。彼女に幸いあれ。己の子どもではあっても憎しみしか抱けない男の子どもでもある私を、愛情は注げないまでも、よくまあ虐待ひとつせずに育ててくれたものだと思う。私ならきっと、中絶したかそれが間に合わないなら密かに殺すか捨てた。
 そのところの事情を知ったのはついこの間なのだけど、そこではじめて、母からの愛情が感じられない理由を理解した。どうせなら、もっと早く教えてくれていた方が、私に悪いところがあるだろうかと思い悩まずに済んだというのに。
「ところで、本当にいいんですかね。むちゃくちゃ高そうなんですけど、学費とか」
 密かに死体を始末するのよりきっと高い。
 そんな物騒なことを考えているとは知りもしないだろうが、秘書の人は、バックミラーで見る限りはやはり無表情に言った。
「気になさるようなことではありませんよ。むしろ、貴女の意向も聞かずに決められたのだから、立腹されてもよろしいのでは?」
 リップク…なかなか漢字変換ができず、ちょっと困った。小娘相手に固い言い回しを使わないで欲しい。というかこの人、出会った当初からずっと敬語だけど、馬鹿らしくはならないのか。
 秘書の人は、多分二十代半ばくらい。でも、落ち着きすぎの雰囲気からすると、もっと上なのかもしれない。何と言うか、得体の知れない空気がある。
 長めの前髪は細いフレームの眼鏡が上手い具合に散らして、これで笑顔でも見せられたら、二枚目俳優ですと言われてうっかり信じそうになるだろう。でも、ずっと無表情。一月ほど前に出会って、昨日今日はほとんど一日中一緒にいたというのに、のっぺりとしたそれしか見たことがない。
 ついでに、指がすらりと長くて、ピアノでも弾かせたら凄く似合いそうだ。
「思うところがあれば仰ればよろしいでしょう。十数年に亘って養育を放棄していた父親です。そのくらい、当然の報いだと思いますが?」
「八幡さんって、あの人に対して容赦ないですね」
「日頃の行いの成果ですね。それと失礼ながら、八坂です」
「え。あ、うわ、ごめんなさい! 神社つながりで覚えてたらうっかり」
「…いえ」
 今の間は何だ、怒らせただろうか。鏡越しの能面からは何一つ読み取れない。
 しかし本当に、つかめない人だ。でもまあ、嫌いじゃない。うん、むしろ好きかもしれない。
 とはいえ、あまり知らない人なのだからなんとなく距離はある。というか、物心ついて以来、それを一切抱かない人がいただろうか。多分いない。まあいいか。
 私が投げやりな自問自答をしているうちに、正門前に到着していた。ゆっくりと、車が止まる。そして秘書の人は、当然のようにシートベルトを外した。   
「少々お待ちください」
「はい?」
 ドアを開けて外へ。何事かと見ていると、秘書の人は、これも当たり前のように、閉ざされた正門の端にあるインタフォンらしきもののところまで歩いて行った。何か話している。
「…つかれた」
 するりとこぼれた呟きに、自分で驚いた。が、納得する。
 うん、疲れた。
 前の家では、看護師という多少不規則な労働形態の母は、いないかいても眠っているかお互い顔を合わせないようにしているかで。人が傍にいるだけで、こんなに疲れるものなのか。
 …しまった。寮生活なんて、これ以上に人だらけじゃないか。昨日今日は少なくとも秘書の人だけで、ホテルはそれぞれに一部屋だった。寮だと、たしか相部屋。いつも他人がいる生活とはどんなものだろう。駄目だ、想像の埒外だ。
 流されるままだった行動を少し後悔したけど、もう遅い。
 正門は開きつつあって秘書の人も車に戻ってくる。そしてそれ以前に私は、どんなことをしても生きてやる、というほどの気概がない。どこをどう探したって。「父親」の庇護下にいれば楽ができると、知ってしまっている。
 ――まあ、いいや。
 なるようになるさ。「ケセラセラ」のメロディに乗せて、そんなことを嘯く。
「お待たせしました。まず、生徒会室に向かいましょう」
「はい?」
「ここは極端なほどに生徒の自治が進んでまして。必要なものも注意事項も、とりあえず全て、生徒会から受け取る必要があります」
「――日曜やのに、仕事してるんですか?」
 自転車にも軽々追い越されそうなくらいにのろのろと敷地内を走る車の中で、正直、呆れ返った。生徒の自治はパンフレットやネットにも特色として挙がっていたけど、いくらなんでもやりすぎじゃないのか。
 だけど秘書の人は、涼しい無表情で肯定した。
「ここでは、生徒会が国会のようなものですからね。ただ、本物よりも活動的かつ広範囲に及んだ上で身軽ですが」
 熱意や責任感はこちらの方が強いかもしれませんね、と、さらりと厳しいことを口にする。
 そして淡々と、着きましたよと、エンジンを切ってシートベルトを外す。
「私もご一緒しますので、少しお待ちください。ああ、荷物は後で運びましょう」
「一緒って…一人でも行けますけど?」
 助手席に乗せていた書類ケースから目当てのものを見つけ出したらしい秘書の人は、体ごとひねって私を振り返り、無表情に首を傾げた。
「お聞きになってませんか? 私も、事務職員としてここで暮らすことになっています」
「え?」
「臨時雇いですが」
 そう言って秘書の人は、A4の紙を差し出した。そこには、八坂瑞貴を三ヶ月間雇うといったことが書かれている。採用通知か。私が読み取ったのを確認すると、するりと用紙を戻す。
「母校で教鞭をとる、というのもやってみたかったんですが、あいにく、教員免許を持っていませんでした」
「母校?」
「はい。わけあって、中学から高校まではここの住人でした。OBというやつですね」
「はあ………?」
 懐かしいな、と言いながら、顔はやはり無表情だ。私の視線に気付いたのか、彼は息だけで微苦笑した。
「表情がなくてすみません」
「え? えー…謝るところですか、それ?」
 と言うか、自覚してたのか。突っ込んでよかったんだ。
「お怒りになる方は多いですよ。悪い癖です」
「それはまた、習得の難しそうな。ポーカーにでも明け暮れてたんですか」
 何をどう言ったものか迷って、くだらないことを口走る。もう少し、回転の速い脳みそか気の利いた脳みそを持って生まれたかった。うん? この二つは、もしかすると同じ物だろうか。とにかく、最低に近い応答だろう。
 だというのに、一瞬。ほんの一瞬、彼は、ひらりと微笑んだ。 
 もっと笑えばいいのに、という、きっと無神経だろう言葉を飲み込んで、私は別のことを口にした。微妙に気が動転している。
「それじゃあ、生徒会室の位置を教えてください、先輩」
「そうでしたね。申し訳ありません」
 詫びられ、じっと、彼を凝視した。
「何か?」
「ずっと気になってて、でも少しの間ならいいかと思ってたんですけど。そうじゃないなら言います。気を使わなくていいですよ。あなたを雇っていたのは、私じゃなくて私の父だとかいう人ですから」
「けれど、間接的にはやはり、雇用主でしょう?」
「でも今は、学校に雇われてるんでしょ?」
「ああ。実は、給料は二重取りになります」
 さらりと。
 つまりは、ここに残るのも「父親」の指示ということらしい。「父親」が何をしたいのか、さっぱりわからない。        
 母がどうしようもない経済難に見舞われたと思ったら、唐突に出現した「父親」。それらを片付ける代わりに私の親権を手にしたかと思えば、一緒に暮らすでもなく、中三の十一月という中途半端にもほどがある時期に、陸の小島に入学させられた。
 仮説一。
 母からは視界に入れるのすらおぞましく思われているにも拘らず、感謝されなくても役に立ちたいと思うほどに愛している。今まで姿を見せなかったのが不思議なくらいの、いや、やったことを考えればそれは当然なのか、とりあえず、金持ちで献身にあふれたお役立ちのストーカー。とすると、過去に母をレイプしたのも、突っ走ってしまった若気の至りか。これは、嫌われていると理解しているだけましな部類に入るのかも知れない。
 仮説二。
 実は、母から話を持ちかけた。脅迫の類だ。なるほど、今まで嫌々私を育ててきたのは、こういったときの切り札としてということか。今ならDNA鑑定も容易く、私が誕生した一件は一度は警察沙汰にもなったらしいから、立証は可能だろう。長々と切り札を温存して今に至ったのは、これまではそれほどの危機がなかったからだろうか。
 仮説三。
 何らかの理由で、「父親」に直系の血縁者が必要になった。金持ちで顔は十人並みなんだから今でも遅くはないはずだけど、急遽必要になったのかもしれない。そうすると、入学は一時の隠れ蓑か。しかしその後に何が待ち受けているのか。ううむ、政略結婚くらいしか思い浮かばない。
 他にもいくらでも仮説は立てられるだろうけども、突っ込みどころを踏まえた上でありそうだと思えるのは、今のところ私にはこの三つくらいしか考えられない。     
 しかし、私係にされてしまったということは、この人は秘書ではなかったのか。まあどうだっていいけど。      
「間接的にでも私も雇用者なら、命令ということでお願いします」
「何がご不満で?」
「慇懃無礼っぽいところが」
 つい即答してしまったけど、彼――ええと、八幡は違って八坂青年(?)は、無表情にまじまじと、私を見詰めた。そうして、柔らかく微笑んだ。
「気が向いたらそうしましょう」
「…実は遊んでませんか」
「さあどうでしょう?」
 そう言えば、「父親」を批判していた気がする。雇用主に忠誠というわけではないのか。でもそうすると、はて、私の世話係でいくらもらって納得したのやら。それなりに自尊心やら矜持やらがありそうなのだけど。少なくとも、小娘相手に仕えてよしとする人ではないような。
 まあいいや。
 とりあえず、車を降りないと話にならない。父だという人が何を企んでいようと、八坂従業員(?)が何を任命されていようと、流されるままに来ようと決めたのは私だし、実際問題、車の中で押し問答をしていて何になる。
 着替えや日用品一式はすべてトランクに収まっていて、手荷物すらない。車に乗るまで羽織っていたコートを持つと、ほとんど身一つで外に出た。肌寒いくらいの風が吹いているけど、日が照っているから、外で過ごすにはちょうどいいかもしれない。コートを着るほどでもなさそうだ。
 寝転んでいたせいで妙なことになっていないかと制服をはたいている間に、八坂さん(これが一番無難)は自分も車から出ると鍵をかけ、あらかじめ空けておいたらしいトランクの上蓋を持ち上げた。
 しまった、出遅れた。
「すみません」
「蓋、閉めてもらえますか?」
「…はい」
 荷物出してもらって、と言うつもりで手まで出したのに、小学校の修学旅行用に買った大きすぎる旅行カバンと使わないから、とくれた母のものだったボストンバッグ、それから自分のものだろうトランクを軽々と引き出した八坂さんは、空になった車のトランクを示した。
 わかってやっているような気がするが、だからといって怒るようなことでもない。大人しく、言われた通りにする。
 では行きましょうか、と、八坂さんは前に立つ。ほっそりとした力のなさそうな見かけによらず、三つの荷物を軽々と持ち上げて歩き出す。少し迷って、横に並んだ。
「荷物、持ちます」
「ああ、助かります。落ちそうだったんです、実は」
 そう言って示されたのは、脇に抱えた書類ケース。いやそうじゃなくて。絶対、わかってやっている。 「私の、荷物。自分で持てます」
 と言うかそもそも、持ってもらう理由もない。付き人や執事じゃあるまいし。手を出すと、無表情がこちらを向いた。
「遠慮は必要ありませんよ」
「だから、持つって言ってるんです。人に荷物運ばせるのが当然なお嬢様暮らししてませんから。大体、ここの職員になるわけでしょう? 特定の生徒を贔屓するのは問題あると思いますけど?」
「正論ですね」
 やはり無表情ながら、素直に頷く。だからてっきり荷物を渡してくれるものと思ったら、書類ファイルを抱え直し、相変わらず姿勢正しくさっさかと歩いて行く。
 えええっ、と思わず間抜けな声が洩れて、数拍遅れて後を追う。
 喰えない人だ。狸親父の部下も狸なのか。いや、むしろこの人は狐っぽい。伏見神社の辺りで売ってる狐面が似合いそうだ。
「正論なら、どうしてそうなるんです」
「一般的には正論ですが、残念ながらこの学園ではそうでもないんです。生徒の関係者が職員として働いてることが多くて、あまりにも度を過ぎなければ見て見ぬふりがまかり通っています。まあ、それはそれで社会の風潮を学べていいんじゃないですか」
「ちょっ、学校教育ってもっと、公正とか公平とか」
「それを建前に、実はそんなものは通用しない、というところまで教えるのも教育の一環かもしれませんね」
 いやどうなんだそれ。
 段々面倒になってきて、がっちりと持たれているカバンは諦めて脇に挟んだ書類ケースを取り上げた。すかさず、ありがとうございます、と返されるのが少し悔しい。 
 だけどまあもう、どうでもいい。ここでそれが常識なら、そういうことにしておこう。
 おそらく今、一番問題にすべきはここでの生活に馴染めるかどうかで。何しろ、一体何の目的で引き取られたのか、ここに入学させられたのかが判らない。それはつまり、いつ呼び戻されるか判らない反面、いつまでいるのかも判らないということだ。最大、三年ちょっとはここにいることになる。それが短いのか長いのかはよく判らないけど、居心地は良いにこしたことはない。
「教科書なんかも、生徒会室でもらえるんですか?」
「ああ、いえ」
 どっちだ。
「共通授業のものは寮に用意されています。選択授業のものは、時間割を提出した後ですね」
 時間割を提出。ちょっと不思議な響きだ。
 総合学科というわけではないはずなのに、この学園はやたらと選択授業が多い。しかも、選択でないはずの共通授業も、ほとんどが習熟度別に分けられている。これは、途中でも変動ありらしいが。
 やはり今朝の閑にあかせて、一通りの説明には眼を通しているけど、細かいところはこれから行く生徒会室ででも解説してくれるのだろう。してくれなかったら、少し困る。
 迷いそうに広い敷地内を、八坂さんは躊躇なく進んで行く。数年前に在学していたからといって、覚えているものなのか。まあ、迷子の心配はなさそうだから助かる。
 と思ったら、それを見透かしたように、急に立ち止まり、一言。
「すみません、こっちは高等部でした」
 自信を持った迷子って。
「黙って遠回りしても気付かなかったと思いますけど」
「ああ、それは失敗しました」
 口調はにこやかなのに、顔はにこりともしない。癖と言っていたから構わないけど、不便なのか便利なのか判らない人だ。
 少し戻って、真っ直ぐ来た道を曲がる。その隣なのか後ろなのかはっきりしない位置で追いかける。歩く速さを合わせてくれていると気付いたのは、校舎に到着してからだった。考えてみれば、私よりもずっと背が高いのだから、歩幅からして違う。
 ガラス戸を体で押し開けて、入るのを待ってくれる。しまった、そのくらい先に開ければよかった。気遣いを半ば放棄して生活してきただけに、気付くのが遅い。
「ありがとうございます」
「どう致しまして」
「…この先も一緒なんですか? 事務局とかじゃなくて?」
「お厭ですか?」
 厭と言うか、単純に、いいのかと。それこそ、付き人じゃないのだから。
 ふっとほんの一瞬、微笑がひらめいた。
「貴方をお守りするのが、役目ですから」
「……どこの漫画の抜粋ですか、それ」
「秘密です」
 …冗談なのか本当なのか、八坂さんも「父親」もよく知らないから判らない。笑ったということは冗談か。それなら笑えない。
 何かもう諦めて校舎に入ると、やはり八坂さんは迷いなく進んで行った。生徒会室は、職員室の隣の校長室の隣にあるという。そして、扉は人がいれば常に開け放してあるのだとか。もっともこれは、八坂さんの在籍当時は、との注釈が入った。
 それは、今も受け継がれているようだった。
「失礼します、よろしいですか?」
「どうぞ。新城音弥さんと八坂瑞貴さんですね」
 私と同じセーラー服を着た女子生徒が、めくっていた書類から顔を上げて言った。名前が即座に判ったのは、さすがにこの中途半端な時期に、他の転入生はいないせいだろう。まさか、全校生徒の名前を覚えているということはないはずだ。そうだったとしても困らないけど。
 真っ直ぐな髪をさらりと肩に流した、着物を着せて琴でも弾かせれば絵に書いたような大和撫子になりそうなその人は、眼鏡を外して立ち上がった。
 新しい苗字と組み合わされると別人の名前みたいだ、とぼんやりと思っていた私は、うっかりと八坂さんの肩越しに目が合って、何故か慌てた。向こうは、慣れたように微笑を浮かべる。
「とりあえず、お座りください。生徒手帳と書類を何枚かお渡しします。八坂さんは、同席されますね」
「はい」
 返事をしそびれたまま、八坂さんと生徒会役員とに促されて、片隅に置かれたソファーに腰を落とす。三人くらい余裕で座れそうなそれは、いかにも生徒会室めいた雑然とした部屋の中で、浮きながら調和している。        
 低い小さなテーブルを挟んだ向かいには、病院の待合室にありそうな背もたれのないビニールシートの椅子。少し遅れて、生徒会役員は完璧なスカート捌きでそこに座った。
「改めて、はじめまして。来栖学園中等部副生徒会長の清長美鈴です」
 これはご丁寧に、だとか何か言ったような言わないような調子で、ぺこりと頭を下げる。雲泥の差が。本当にこの人、同世代なのか。それとも実は、今日びの中学生はこのくらいの挨拶、さらりと交し合えないといけないのか。そうだとしたら私は完全に置いてけぼりを食らっている。
 まあどうだっていい。
 生徒手帳だろう青いビニールカバーのかかった小さな冊子とA4の紙を何枚か手にした清長さんは、私と八坂さんの向かいで、人当たりの良さそうな微笑をたたえている。 
「大まかな規則は、この生徒手帳に載っています。もっとも、校則はあまり厳しくはありませんし、学校よりも、寮生活の方に戸惑う人の方が多いですね」
 穏やかに、清長さんは簡単に学園生活に必要だろうことを話してくれた。
 まずは授業のことで、一時間半が日に六時間。とは言っても、選択の関係で、六時間みっしり授業があるとは限らない。月曜から土曜まであるが、これも、選択次第で休みの日は増やせる。大学みたいだと思っていると、清長さんもそう言った。やはり大学と同じように二期制で、その分試験は少ないけど範囲は広いとか。
 授業の簡単な説明や部活については、一覧表を貰った。そのうち、残り四ヶ月足らずで途中から始めるのが難しそうなものには注釈が書き込んであるとか。なんて丁寧な。
 あとは、今年はあまり関係がないだろうけれどと前置きして、年中行事の話や、簡単に、構内図を見ながらの案内。
 寮は二人部屋で、同室者がパートナーとなり相互責任を持つので、そちらから説明があるだろうと言われた。他には、何枚か、申請書類を書いて、授業選択のために必要な時間割票と入部届けなどを手渡され、話は終わりと告げられる。
 このくらいなら、わざわざ休みの日に待っていなくても案内冊子にでもまとめて渡しておけばいいようなものだけど。少し拍子抜けした。
「そうそう。生徒会室は、基本的には開放されてます。気軽に来て下さいね」
「…はあ」
 縁はなさそうだけど。
 開け放された生徒会室の扉の向こうから見送られ、私と八坂さんは部屋を出た。荷物は少し増えたけど、相変わらず、カバンは持たれたまま。どこまでついてくるつもりだ、この人。        
「生徒会から説明を受ける必要があるのか、と思われませんでしたか?」
「え。あ、はい」
「印象付けることが第一ですからね、ああいうのは。…それにしては、生徒会長の姿がありませんでしたが」
「休み通り休みにしたんじゃないですか?」
「…そうかも知れませんね」
 まだ少し納得がいかない、とでもいうようにわずかに首を傾げる。やはり無表情だけど。
 そこで会話は途切れ、いくらなんでもどこまでついてくるのか、と問い詰めるのは気が引けてさてどう切り出そうかと頭を悩ませる。もっとも、気分どうこうの前に、真っ向から言ってもまたはぐらかされるような気がする。
 そう思っていたら。
「あ。八坂さん、ですか?」
「はい、そうですが、何か?」
 ずらっと並ぶ靴箱。集靴場に出たところで、張りのある女性の声に呼び止められる。八坂さんは、体ごと振り返って訊き返した。
 立っていたのは、八坂さんと同年代くらいだろう女性。わかりやすい事務服を着て、ああこの人は事務員さんなのかと、一目で判る。学校の事務局でも事務服、着るのか。
 八坂さんの無表情をものともせず、女性は、眼鏡の奥で眼をぱっと輝かせた。
「良かった、間に合って。お知らせしたいことがあるんです、事務局に立ち寄って頂けますか?」
「今すぐ…ですか?」
「はい。あ、そちら、明日から通学される新城さん?」
「…はぁ」
 二人のやり取りを見るともなく見ていた私に話が飛んで、どうにも気の抜けた声が出た。事務員さんはきにせず、にっこりと笑いかけてきた。
「寮は、山裾の大きな風見鶏がついた鳳凰館ですよ。山に向かって行かれたら、すぐに判ります」
「ありがとうございます」
 これは一人で行けということか。元々そうしたかったところだから、正直助かる。今度は割とあっさりと、荷物の奪還に成功した。今のうちだ。
「八坂さんも、ありがとうございました。では、失礼します」
 ここは、とっとと逃げるに限る。「父親」からどんな指示を受けていようと、一旦集団生活に紛れればそうも構っては来れないだろう。これで、むず痒い扱いからはおさらば…したい。
 八坂さんが何か言ったような気もするけど、事務員さんを振り切って追いかけてくるようなことはなかった。安心して、山に向かって歩き出す。
 寮はたしか、鳳凰館と麒麟館、龍館の三つ。どれも瑞祥の幻獣で、随分と仰々しい名前だ。しかも、鳳凰館に風見鶏って。それじゃあ、麒麟館はキリンで龍館はヘビかタツノオトシゴでも目印についているのかもしれない。だったら、ちょっと面白いかも。
 そんなことを考えていたせいか、うっかり、道を逸れていた。たどり着いたところには、山裾は山裾だけど寮らしき建物がない。倒壊寸前の二階建ての建物なら、ある。
「…どこ、ここ。って言うかいくら広くっても学校の敷地内! 何で迷う、阿呆か私! 間抜けやん!」
 地図、さっきもらった地図、と取り出そうとして、書類カバンを持ったままと気付く。しまった、これは私の荷物じゃない。辞令入ってるし、まずくないか。
 …まずい、なあ。きっと。呟いて、溜息が落ちる。
「気が重い…逃げて来たのにこれって。うーわーもう、何やってんだ」
「元気いーねー」
「っ?!」                 
 誰もいないと思いこんで一人呟いていたというのに、外れかけの扉を押し開けて人が出てきた。同年代で、学ラン着用。いや、学年章が三だから、同年代どころか同い年…とは限らないのか。三つ上かもしれない。
 やや崩れた感じが逆に女の子に受けそうな、そんな感じの男子生徒。埃がついているのは、もしかして、この倒壊寸前建築で寝てたのか。
 にっと男子生徒は笑った。
「迷子だって? 保護者にアナウンスかけてあげようか?」
「結構です」
 これ以上の厄介事はごめんだ。速やかに、踵を返す。来た道を戻れば、少なくとも中等部の校舎には辿り着けるだろう。書類カバンも返さないとだし。
「つれないなあ、音弥ちゃん」
 どれだけ有名人だ、私。驚くよりも呆れて、溜息が落ちる。いくら珍しい時期の転校生だからって。
 待てよ。休みの日に、制服姿で潜んでて、転校生の名前を知っている生徒。
「…生徒会長?」
「おお、正解。知ってたの?」
「今知りました」
 八坂さんの引っかかりはもっともだったらしい。この人も、制服を着てる以上一度は仕事をしようと思っていただろうに、どうしてこんなところに逃亡してるのか。
 まあそんなこと、どうだっていい。
 目的も目的地も変わらず、背を向けて歩き出す。とりあえず八坂さんに書類カバンを返して、今度こそ、真っ直ぐ進むだけでいいはずの寮を目指そう。                           「死神がひなたぼっこなんかするかなぁ」
「は?」
 つい、振り返ってしまった。生徒会長は、にやにやと笑っている。何を突拍子もないことを。――ん?
 死神。ひなたぼっこ。…青空。
 夢の光景を思い出した。雲ひとつなく晴れ渡った、晴れやか過ぎてこわくなるくらいの空。のどかなのに、おそれるべき何かが潜んでいるような、そんな青空。 それを見て、何気なく呟いた言葉。
 どうしてそれを、ついさっきまで見たこともなかったこの男が口にする。
 思わず生徒会長を見ると、笑っているのに眼の奥が、値踏みをするように冷静だ。ぞくりと、何故か背筋が寒くなった。それでも眼を逸らせないのは、逸らせば逃げたような気分になるからだろう。
「迷子なら、案内してあげようか?」
「ありがとうございます、結構です」
 我ながら、かわいげのない。
 それでも、生徒会長は笑みを崩さなかった。八坂さんとは逆の状態で無表情ではないのか、これは。こっちの方が鬱陶しいけど。     
 が、その「無表情」が崩れた。少し落胆したような、不満そうな表情になる。
「番人付き、か」
「はい?」
「音弥さん、すみません、荷物をお持たせしたままで」
「え」
 置いて来たはずの八坂さんが何故ここに。
 無表情に佇んでいる。別に息を切らしているわけでもなく、ただ、生徒会長を見る眼には妙に力がこもっているような。気のせいの可能性が高いけど。
 とりあえず、書類カバンを返す。
「そちらの方が、生徒会長ですか。綿ぼこり、付いてますよ」
「あれ。これはどうも」
「いえいえ。ああ、音弥さん、寮はあちらです」
「あ。えーと、何でここにいるって…?」
 まさか、発信機とかつけてないだろうなこの人。というか、この人の雇い主。そんな馬鹿げたことを考える。
 でもだって、一目で生徒会長を生徒会長と見抜いたり、別れてから姿を見失うくらいには時間が経ってるはずなのに追いついたり。ただ鋭いだけなのかもしれないけど、何か得体が知れない。
「真っ直ぐ、と言われて道なりに来たでしょう? 違うんですよ、ここの真っ直ぐは、色違いのレンガなんです」
「は?」
「主要な通りのレンガの色が故意に変えられていて、ちょっとした道標になっているんです。慣れていないと、説明が足りませんでしたね」
「詳しいですね」
 私ではなく、生徒会長が反応する。八坂さんは、無表情に視線を向ける。
「事務員の履歴書にまでは目を通されなかったようですね。卒業生です」
「センパイでしたか」
 無表情対笑顔。見ていてはらはらするのは何故だ。
 数瞬置いて、生徒会長は、ふっと力を抜くようにして息を吐いた。
「では、今回の案内はお譲りします。またね、音弥ちゃん」
 もう二度と会わなくても多分困りませんが。そう思いつつ、倒壊寸前建築に消えて行く生徒会長を見送る。何だったんだ、あの人は。
 そしてこの人も、何なんだ。
「折角ですから、ご案内します」
「え、でも」
「こちらですよ」
 一度迷子になった手前、あまりにも自然に先導されると断りにくい。その上八坂さんは、大きい方の荷物を、これもさりげなく奪い取った。
 空を仰ぐと、まだ昼過ぎで青々とした空には、水彩絵の具を刷毛で伸ばしたような雲が浮いていた。
「お邪魔、でしたか?」
「…はい?」
 慌てて、視線を八坂さんに向ける。真っ直ぐに前を見ていて、目は合わなかった。
「差し出がましい真似を」
「えーと。だから敬語、いいですって。それに、一度戻ろうと思ってました。書類持ったままだったし位置判らなくなってたし」
「すみません」
「いやだから。謝る必要、ないでしょう? 過保護って言いませんか、それ」
 母はまったくの放任だったから余計に、どうしていいものやらわからない。てっきり、学校に入ったらその後は放置、だと思っていたのに。         
 八坂さんは無表情に、わずかに肩をすくめた。
「敬語と過保護は関係ありませんよ」
 ああ、そうか。
「そうですね。敬語は、どちらかと言えば距離を置くものですね。ある意味、防御壁」
「これは手厳しい」
「そうですか? まあ、いいです。寮、そっちですか?」
 倒壊寸前建築に向かって右。さっき、八坂さんはそっちを示したはずだ。木立に隠れてはいるけど、建物がありそうな感じはする。
 八坂さんは虚を突かれたように瞬きをして、はい、と答えた。
 ああ、この人、完全に無表情ではないんだ。判り難いけど、車の中で笑ったみたいに、ちゃんと表情がある。当たり前と言えば当たり前のことに気付く。
 まあ、だからってどうってこともないけど。
「行きましょう。そうすれば、早く子守りからも解放できますよ」           
「子守ですか」
 声音だけではっきりと苦笑して、八坂さんはひらりと進行方向を示した。手品師みたいだ。優雅さと、胡散臭さの絶妙な同居。
「そちらで正解です。行きましょうか」
「…はい」
 自分から水を向けたはずなのに、八坂さんに誘導されている気がするのは何故だろう。多分、気のせいなのだろうけど。
 歩きながら、日本離れした風景だと改めて感心する。何だろう。足元のレンガやら石畳やらと、建物が東欧風のせいか。ああでも、木が多いせいもあるのかもしれない。いや、でも木だけなら日本の田舎も多いはず。
 …ああ。
 緑が多いのに、日本の田舎特有の田んぼも畑も見当たらなくて、それどころか土もなくて。そのせいだろうな、きっと。
 そうかここは別世界なんだ。私にとって、本当に。
「八坂さん」
「はい、何でしょう」
「――新城宗佑さんは、何で私を引き取ったか知ってますか」
 母に酷いことをして、私のことはきっと存在も知らなかった。突然湧いて出たあまりにもはっきりとした犯罪の証を、何だって。放置したはずの疑問が、頭をもたげる。
 八坂さんは、歩みを止めることはなかった。
「知っています」
「教えてください」
「ご自分でお訊きください。プライベートの携帯電話の番号は、名刺の裏にありますよ」
「口止めされてるんですか」
「いえ。これは、私の独断です」
「む」
 さらっと言われると引き下がりにくい。…もう、いいや。
 いつの間にか、風見鶏のある館に到着してしまったし。欧州のホテルみたいだ。
「ここからなら、迷うこともありませんね」
「はい」
 実はこの人、からかってるのか。顔色が読めないから判断しにくいけど。というよりも、本気で言われていたら厭だ。
 差し出されたカバンを手にして、とっとと入ってしまおう、と、そう思ったのに。ふと、立ち止まった。疑問の続き、というか、芋づる。
「八坂さんは」
「はい?」
「どうしてこんな役目を押し付けられたんですか」
 言った後で、しまった、と気付く。左遷ですか、何か失敗したんですか、と訊いたようなものじゃないのかこれは。
 八坂さんは、ふ、と、淡く笑った。
「利害が一致した、とでも申しましょうか」
「………は?」
「それでは、失礼します。また、後日」
 ってそれだけ言って去るなーっ、と、叫ぶこともできず。思わず呆然と、去って行く背中を見送ってしまった。イメージとしては真っ直ぐに姿勢正しく、だけど、わずかに猫背気味だった。ほんのわずか、だけど。


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