夜、寺から離れた軍の野営地に一人の使者がたどり着いた。急ぎ運んだ命書は無事に指揮官の手に渡り、現在、その使者はテントで休んでいる。渡す方の仕事はそれで一旦は終りだが、渡された方はそうもいかない。
「今度は何だって?」
「どうやってここに来たのですか」
「歩いて」
無言で近くにあった銃を掴む静。対する烈は、大袈裟に手を振った。
「やめろって、そんな物騒な物。顔パスで入れたんだって。一応、有名人だからな」
自嘲じみた声音に何かを感じ、本意を探ろうと表情を窺うが、笑みを貼り付けたかのようなそれからは、何も読み取れない。それでも、静の手が銃から離れることはなかった。
「まあ、物理的な話だったら忠実な従卒殿がいなかったからだ。あれは、なかなかに忠実だな。で、上官殿は何だって?」
「・・・央楼に戻るように、と」
「ふうん。それで、静ちゃんはどうする?」
からかうような口調だが、意外に瞳は冷めている。嘘や誤魔化しを許さない光が、静を捕らえる。疲れているようだからと累を休ませたことが、今更ながら悔やまれる。静は、烈から眼を逸らした。望んでもいない台詞が、意外にはっきりと口から零れ落ちる。
「従います。命令ですから」
「直接と間接、どっちが罪深いかって話だな」
「何を・・」
「お前さんは馬鹿正直だから、そうも思ったんだろう。ま、昌は始めからそのつもりだっただろうがな」
本当は、気付いていた。自分達が、追放の為に使われている事を。戻達が目指す皇奏国は遠く、道は険しい。国外には、漢稀以上に妖がいる。法律が整っていない国も珍しくはないし、異民族と言葉が通じない場合もあるだろう。もし刺客が差し向けられないとしても、生きて帰ってくる確率は低い。
では。
直に手を下すか。そのまま見殺しにするか。大切な、友人を。――まだ望みのある方に、というのは、誤魔化しだろうか。
「とにかく、僕は帰朝します。貴方はどうするのですか」
「俺は誰の命令も受けていない。やりたいようにやるに決まってるだろう。今のところ、誰かに帰れとも言われてないしな」
本来であれば、烈を咎めるべきだろう。だが、静はそれをしなかった。無言で、立ち去ろうとする後ろ姿を見送る。しかし、悠然と出て行こうとした烈は、困ったような笑顔で静を振り返った。
「静ちゃん、立派な犬がいるんだが、何とかしてくれないか? 飼い主の言うことしか聞かないんだろ?」
テントの入口では、累が正確に銃口を向けていた。
* * *
数日後、一行は寺を後にした。その日寺に居たのは、来た時と同じ青年だった。戻だけが、青年と和尚が同一人物だということをはっきりと知っている。それが、和尚の血の作用なのだという。妖人としての特徴的な色はないが、体が変化する。それが元々の性質を受け継いだものなのか、妖と人の血による作用なのか、あるいはただの突然変異なのかは判然としない。
『若返ったと思えば、悪いものでもない。調整が自分では出来ないところが少しばかり厄介だがな』
そう言って、和尚は人を喰った笑みを浮かべた。案外、俺みたいな奴は沢山いて、何食わぬ顔で暮らしているのかもしれないぞ、と続けた。
『そこら辺を理解しておかんと、連中と付き合っていくのは少しばかり辛いかも知れんぞ』
微笑で返す戻に、和尚は最後に一言言い添えた。
『妖と人は、案外近いのかもしれんな』
それは、願いのようにも聞こえた。
戻は何も言わずにいたが、話を聞いた上で、それなりに考えはあった。だが、確証がない上に、まとまっていない。そもそも、必要とされていなかっただろう。言いたければ、今度言えばいい。
何時のことになるかと考えて、戻は苦笑した。この山の国境を再び見るのは――。
「国境ってどれ?」
「もう通り過ぎてしまいましたよ」
「ええ、だって、ただ山があっただけだよ?」
「別に縄が張ってあるわけじゃね―んだよ」
「そうだったんだ」
明らかにショックを受ける空と密かに驚いている幸の隣で、戒が苦笑し、陸が呆れた顔をする。そんな彼らを見て、戻は穏やかな微笑を浮かべたのだった。
「おい。馬鹿をやってないで、早く歩け。日が暮れる」
それは、既に日常と化した光景だった。きっと、この先も。
* * *
『後漢書』『六書』によると、輝鐘の治世は武将の陳衝によって覆される。しかし、短いその中断期を経ても国力が衰えることはなく、子の聯稟の再興した後期には豊かな貿易と広い領土、聖国と称された皇奏国を踏まえた政策により、むしろ栄えたほどだ。
前期・後期に渡り四百年続いた漢稀国は、海宝十二年、烏戎族の侵入により滅ぶ。その漢稀に最後まで仕えた者には、妖人が多かったとも伝えられる。
未だ、時の将軍・愁の支持者は多い。敵対者である烏戎族の者でさえ賛美し、その死を悼んだとも伝えられる。その先祖には前期末に皇奏国のあった地に赴いた者がいたとも言われるが、愁将軍が妖人であったということ同様に、詳しくは判らない。
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