よく晴れ渡っていた。見事に雲一つ無い空は、何故か安っぽく見える。そんな事を考えながら、静は、無表情に地に臥している部下たちを見下ろした。
「こ、これは一体何が・・・」
「判りませんか?」
短く返す声は、半ば反射的に発されたためにどこか遠く聞こえた。やはり、あの人は行ってしまった。『翠』ごときで止められるはずは無いとも思っていたが、全くその通りというのも虚しい。
敵対するしかないのかと、既に決着のついていた自問が繰り返された。否、まだ可能性は残されている。明言はされていないが、与えられたのは国内のみの任務なのだから。だがそれは、更に酷い事ではないだろうか。
昨夜『翠』の周囲の警備に当っていなかった兵士の声を聞き流しながら、静は広がる大地の向こうに、夜明けからさほど経っていない青空を見ていた。
* * *
五人は、馬に乗っていた。戒と戻の手つきは大したものだが、陸はどう見ても素人、空に至っては、手綱を握ってもいない。それでも、他の馬と同じ方向に走っているのだから不思議だ。幸だけは、戒の後ろに相乗りしている。
この馬は、偶然通りかかった夜盗から譲り受けたものだ。「親切にも」と、戒なら付け加えるところだろう。
「ねえ、どこまで乗せてもらうの?」
その言い方に、ひょっとしてこの子は動物と会話が出来るのかしらと、幸は思った。森で動物に囲まれて暮らしていたというし、空なら不思議では無い気がする。やはり、あれは野生の産物だ。幸は、自分を棚に上げてそう考えていた。
「適当に、どこか町にでも着いたら馬を放す。距離が稼げれば良いからな」
「ああ、それならもう少し行けばありますよ。その町から見える山を越えれば、国境です」
「なんだ、国境って意外と近いのね」
今までに歩いてきた距離をものともしていないからこそ、言える言葉である。
「あれって何だったんだろうね。緑消えちゃって、勿体無かったね」
一瞬、四人が奇妙な表情で見交わした。やはり、自分の言ったことを覚えていない。あの時の空は、明らかに今の彼女ではなかった。
「ねえねえ戻、あれのやり方今度教えてね」
「・・・一朝一夕で出来るのものじゃない」
「イッチョウイッセキって?」
「すぐには覚えられないということですよ」
「時間かかってもいいから、やってみたい!」
玩具を見つけた子供の眼だ。どうやら、戻の術は空の好奇心を刺激してしまったようだ。だが、始めに火をつけたときから未だ、術を教えた事はない。
今朝、日の昇らないうちに起こされ、ここを抜けると告げられた。ぐるぐる回るだけだと、ふてくされたように陸が告げた。追求されるかとも思ったが、戻は一瞥しただけだった。変わらない、冷たい瞳に顔を背けると、そこでは幸が笑いを噛み殺していた。
そうして、刀を手に戻が極符を踏んだのだ。それは、道士のごく一般的な結界破りだった。それで軍特製の捕縛具を破れるのだから、戻の能力もそれなりに高いのだろう。かけられた術を解かれた『翠』は、黒くなった符と小さな檻、植物の種子を残して消えた。外にいた者達は、一行の敵ではなかった。
「腐っても坊主か・・・」
「道士ですよ、陸君」
また知らずに呟いていたらしく、陸の顔が強張る。戒の笑顔が怖いのは、被害妄想だろうか。空は見ても無駄なので他の二人を見てみると、幸は呆れ顔で、戻は珍しく、少し考える風だった。
「な、何か文句あるかっ?」
つい焦って訊くと、やはりどこかぼんやりとした表情を向ける。実はこいつ、まだ寝てるんじゃないか?
「いや・・。お前は腐ったらただの使えない河童だと言ったらどうなるかと」
「ブッ殺ス」
馬のついでに貰った刀に手をかける陸の前に、戒が自然に馬を割り込ませる。その背で、幸が呆れて首を振る。空が一人で、無邪気な笑みを浮かべていた。
「あ。雨だ」
呟く声に呼応するかのように、大粒の雫が一行に降り注いだ。
* * *
色の無い雫が、あちこちに溜まっていく。意外に近いところから、蛙のにぎやかな声が聞こえた。高らかに、雨の到来を伝えているのだろう。
「すみません、突然大人数で押しかけてしまって」
「旅の途中だろ。知り合いでもないところに、どうやって連絡を入れるんだ。突然以外に来ようも無いだろう」
「それもそうですね」
精悍な顔立ちの青年に、戒が笑いかける。相手は素っ気無く、思い思いにくつろぐほかの面々に目をやった。
空は落ち着き無く好奇心をあらわにして辺りを見回し、陸がそれを呆れたように見ている。また、幸はしきりに濡れてしまった髪を気にしている。一方戻は、方あぐらで静かに座っていた。
「たいした一行だな」
人と妖人、それどころか、普通は判らないにしても 妖 さえもが一緒にいるのだ。嫌味や皮肉で済むなら良い方だ。
「済みません、本当に。雨が止めばすぐに出て行きますから」
「しばらくここの掃除をしていない。済まないと思うならそれをやってくれ」
見るからに古びている堂を見て、言う。陸はいっそ堂をつぶせば早いのに、という不謹慎なことを考えていたが、そんな内心を知ってか知らずか、戒は堂の方を見てから、青年に目を戻した。
「どこをしましょうか」
「本堂の掃除とその辺の草むしりを。朝一番でな」
「・・・有難う御座います」
間を置いた言葉に続き、ふわりと微笑む。今は、まだ昼を過ぎたばかりだった。無愛想ではあるが、怯えるでもなく、泊まって良いと言ってくれたことが嬉しかった。
「もっと判りやすく言や良いじゃねーか」
「布団は自分で出せ。要る物があれば取りに来い。大体はあの部屋にいる」
陸の一言を無視して口早にそれだけ言うと、戸を閉めて出ていった。入口近くの自室に戻るのか、雨音に紛れて古い床板を踏む音だけが聞こえた。
幸は、青年の出て行った戸と小さく笑っている戒を見比べ、呆れ顔を浮かべた。そして、憮然としている陸を見て溜息をつく。
「知らなかったわ。ひねくれた人間って実は多かったのね」
「何が言いたいんだ」
「別に。ただ、三人もそんなのがいたら疲れるなあって思っただけよ」
「誰のこと?」
明るい声が、無邪気に割って入る。幸は、空の湿って深紅になっている髪を布で拭きながら、陸から目を逸らした。視線の先には戒がいる。
「いいかげん笑うのやめたら? 戒って、笑い上戸なの?」
「さあ、どうでしょう」
「ねえ、三人って誰と誰と誰?」
「少なくとも空は入ってないわよ」
「じゃあ幸は入ってるの?」
「どうしてあたしが入るのよ。一緒にしないでよね」
賑やかに話す二人を見て陸が「うるせー奴等」と呟くと、戒が口の端に微笑を浮かべて振り向く。とりあえず、笑いはおさまったらしい。
「明るくて良いじゃないですか」
「こういうのはうるさいって言うんだよ。――ん?」
幸と空の二人に向いていた視線が、うつむいたままの戻に向かう。反射的にからかいの言葉がでかけた陸だが、顔を伏せて身動きもしない様子に眉をひそめる。見てみれば、戻は濡れた服をしぼりもせず、この部屋に入ってから姿勢が全く変わっていない。
「おい、寝てるのか?」
返事がない。荒い呼吸に肩が上下しているのが見える。異変に気付いた戒が、立ち上がる。陸が肩を叩くと、反応もなく体が傾いた。
「戻さん!」
* * *
「戻、起きないね」
片膝を抱えて、空が言った。瞳が、不安に揺れている。
「心配要りませんよ、ただの風邪だそうですから」
自分でさえ信じていない言葉を口にしながら、戒は空に見えない位置で拳を握りしめた。
雨宿りをして、その礼をしたらすぐに立ち去るつもりだった。この山さえ越えれば国外だ。国を出れば、おそらく軍の手出しはなくなるだろう。そもそも、あの中途半端なやり方からして、軍を国外へ出るのを早めるために動かしたのかもしれない、とも思っている。そうであれば、国外へ出る邪魔をするよりも、残っている方が問題になるだろう。だが、戻がこの状態では、そうもいかない。幾分良くなりはしたものの、依然熱は高く、意識も戻っていないのだ。
「空ちゃん。ここは僕が見ていますから、幸ちゃんと一緒に町に行ってきたらどうですか? 今なら、追いかければ間に合いますよ」
ここに幾日か泊まることは確実になったので、幸に必要なものを買いに行ってもらったのだ。陸は町に行くのを嫌がり、いつもなら真っ先に出掛けようとする空も戻の側を離れたがらない。幸は、愚痴を言いながらも仕方ないといった風一人でに出て行った。
陸は、妖人であることから酷い扱いを受けている。空も似たようなものだが、それ以上に好奇心が勝っている。しかし、妖である幸の方が人間に見えるというのだから皮肉なものだ。今の状態で空を無理に町に連れ出すのは気がひけるが、このままにしておくわけにもいかない。戒は、自分のことは敢えて無視して、そう考えていた。
「二人とも、休んだ方がいい。この先も旅を続けるつもりならな」
湯のみを手に、和尚が入ってきた。今朝になってみれば、昨日の青年は姿を消し、この中年の和尚がいた。
『話は聞いている。ここの掃除をしてもらえるなら、いくらいても構わん』
そう言ってもらえたおかげで、とりあえずはゆっくりと留まれる場所が確保できたのだった。
「それに、揃って暗い顔をしていては、却って体調が悪くなる。なあ?」
「戻!」
戻は、眼を開けると自分を凝視している二人の顔を眺め、溜息をついた。
「・・雁首そろえて何をやっているんだ」
「それはないでしょう、戻さん」
「ほら、わかっただろう。こいつは大丈夫だ。おまえたちは飯でも食って来い」
「でも・・・」
「・・うるさい。静かに、しろ。頭に響く」
ゆっくりと、だるそうに言葉を紡ぐ戻を見て、一度は安堵した戒が再び心配そうな表情になる。素っ気無い台詞が、妙に懐かしい。昨日まではそれが普通だったのに。
「親とはぐれた子供でもあるまい。掃除だってまだだろう」
「・・誰だ・・・?」
億劫そうに、力なく和尚を睨む。それを認めた和尚は、どこか狸を思わせる顔に、ふてぶてしい笑みを浮かべた。
「まだ会ったことはなかったか。だが、とりあえずお前さんのやることは、この薬茶を飲むことだ。熱で体力が落ちているんだからな」
* * *
戻のもとを追い出された空の足は、自然と周りを囲む森へと向かっていた。樹々から零れ落ちる光や、密度の濃い空気は慣れ親しんだものだった。彼女の住みかは、常にこういった所だったのだから。・・いつからかもわからない、昔から。
何かがよぎった。空ほどではないが、人としては珍しく鮮やかな赤毛。
「累」
無意識の呟きが、一拍置いて驚き、そして喜びに変わる。それは、いるはずのない人だった。空が一時共に生活していた、官軍に壊滅させられた山賊達のうちの一人。家族も同然の少年だ。
「累!」
「空・・・?」
喜んで駆け寄る空とは全く違い、その顔は驚愕にゆがんでいる。だが、会えたことで頭がいっぱいの空は、そのことには気付いていなかった。知らないのだ。累が今、誰のところにいるのか。彼女を見て、どう思ったのか。
「どうして」
「何が? どうしたの、累。なんだか変だよ」
「空。どうしてここに・・だって、他のみんなは・・・・」
「累?」
ようやく気付き、青ざめている累の顔を覗き込む。心配そうなそれは、あの頃と変わらなかった。ひどく懐かしい、忘れたはずの記憶が呼び起こされてしまう。そして同時に、辛い記憶も。
「なんでいるんだよ! だって皆、皆俺のせいで死んだのに! 殺されたのに! 俺が・・・。だから、出てきたのか? 幽霊になって?」
「何言ってるの、累」
「そうだよ、全部俺のせいだよ。俺が捕まって、みんなの場所教えて、そのせいで、・・だから、みんな、俺を恨んでるんだろ・・・?」
まだ声変わりもしていない少年は、そう言って泣いた。泣きたくなんてないのに、止まらないのだ。自分が捕まったせいでみんなを、仲間を、死なせてしまった。捕まりさえしなければ、場所を言いさえしなければ。そう悔やんで、自分だけが生き残ったことが悪いと思った。あの時静がいなければ自分も死ねたのにと、命の恩人を恨んだりもした。
いつまでもくすぶっていた罪の意識が、溢れ出していた。
「あたしは生きてるよ。おっちゃん達は・・・どうなったか、あたしは知らない。でも、そんなこと言わなかった。・・笑ってたよ、みんな」
官軍に襲撃され、捕らえられることもなく殺されてしまっただろうみんな。誰もが、笑っていた。きっと、最期まで。
『空。これはわがままだがな。生きろよ。俺達の分まで』
そう言って、逃すために自分を谷に突き落としたときの顔を、今も覚えている。恨み言など言っていなかった。まるであらかじめ知っていたことが起こったかのように、ただ冷静に、したたかな反撃を行う。最後の打ち上げ花火だと、誰かが言っていた。
空が恨むとすれば、怒るとすれば、自分を加えてくれなかったことに対して。自分だけを、生き延びさせたことに対して。でもその向こうに、戻達と会えたことがあるのなら。残るのは、『ありがとう』だけだ。
「楽しんでたんだよ。きっと」
本当に笑っていられるのと、どうして笑っていられるのと、訊く機会は永遠に閉ざされてしまったけれど。これは、事実に近い確信。
「・・・・・」
「生きろってさ。あれはあたしだけの言葉じゃないよ。累が生きてるなら、きっとみんなそう言ってる」
「僕が、みんなを殺した軍にいるって聞いても、そう言えるのか?」
「うん」
間髪いれずの応えに、目を見開く。そこに浮かぶのは、明らかな疑いと驚き、軽蔑。そして、わずかな感情の揺らぎ。空は、底抜けの笑顔で返した。
「累が選んだんだよ? 悪いわけないじゃない」
「違・・・」
思い返してみる。あの時、静が用済みになった累を始末しようとした軍人達を止めたとき、彼は何と言ったか。したい事をすればいいと。起こった事を戻すことは出来ないけれど、出来ることはするからと。今すぐではなくてもいいから、行きたい道を選べばいい、と。――選んだのは、自分?
「どんなことをやっても、おっちゃん達は帰ってこないから。忘れないけど、大丈夫だって前を向いてる方がいいよ。でも――あたしの邪魔するなら、手加減はしないけどね」
そう言った空の瞳は、真っ直ぐに累を射ていた。見慣れた、良く知っている眼だ。
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