その夜、寝静まった屋敷の中で、戻は庭に面した廊下に座り込んでいた。冷えるが、誰も通らないから邪魔にはならないだろう。

 晴れ渡った空には月はなく、濃い闇の中には虫の声が響いている。こうも暗くては、今日、空と陸が踏み荒らした庭の様子さえ判らない。そんな暗闇を、危なげなく歩いて来る者がいた。

 虫の声が、止む。

「今晩は。月見ですか?」

「何処に月が出ている。酔狂なことを言うな」

「貴方にそんなことを言われるとは思いませんでした。見えないものを見るのは、戻さんの十八番でしょう」

 にっこりと微笑んだ顔が見えるわけでもないのだが、半ば無意識に戒の顔から目を逸らした。

「何故あいつを俺に会わせたたんだ」

「言ったはずですよ。いくら貴方でも、一人で行くのは危険だから、と」

「違うな」

 憮然と言い捨てる戻に、戒は笑みを浮かべた。どこか、悪戯をする少年を思わせる。

「どうしてですか?」

「そんな心配をする奴が、あんな厄介な奴を寄越すものか。どうせ、拾ったものの、扱いにでも困ったんだろう」

「酷い言い様ですね」

「気にするな」

「そうもいきませんよ。これから、しばらくは一緒に行動するんですから。僕も、陸君も」

 思わず、見えもしない顔をまじまじと見てしまう。戒には、この店がある。ここにようやく、自分の居場所を造ったのではないか。

「・・・まだ、あの夢を見てるのか」

 溜息をつく。昔に言った約束を、戒はまだ覚えている。大抵は年月とともに失われるような、他愛もない約束を。

「勿論。空をどうしようかと思っていたんですけどね。考える必要はありませんでしたね」

「ただの偶然だ」

「かもしれませんね。それでも構いませんよ。偶然と必然の違いなんて、些細なものですから」 

 何年か前、まだ二人が十分に子供だった頃、戻は度々、養父である道士の瞬采 [シュンサイ] について、この店を訪れていた。采は、戒の祖父母には邪険にされ、母には目を背けられ、戒には憎まれていた。自身は、己の責に苛まれ、妖は全て「退治」するべきだと思っていた過去を悔やみながら。

 本当は、戻を連れて行く気などなかっただろう。戻が采から離れることを激しく拒まなければ、彼が己の罪の場所へ、大切にしていた戻を連れて行くはずはなかった。だが、そうなっていれば、戻と戒が深く関わることもなかっただろう。約束を交わすことも。

 出会った二人は、当初は酷く反発し、やがて、互いを認めた。特に戒が大きく変わり、戻に対して、到底年下相手とは思えないような扱いをするようになっていた。

 ある時二人は、「国を作る」という話をしていた。今の国が自分たちには住みにくい所だと、気付いていたのだ。傍から見ればただの子供の空想だが、多くの子供がそうであるように、二人は真剣だった。

「折角皇奏国 [コウソウコク] に行くんですから、それくらいやってみても良いでしょう?」

「目的が違うだろう。俺は、保身の為に行くんだからな」 

「余計な目的が幾つかあっても良いじゃないですか。大差はありませんよ」

 皇奏国。

 それは、太古の、伝説となっている国の名前だ。『璃桃書 [リトウショ] 』に拠れば、緑の溢れる、平和な国だったと言う。

 この国の太祖は、飛衝 [ヒショウ] という名の青年だという。彼は「陸・海・空」の全てを掌握し、それらの名の部下が、いつも側にいた。

 伝説と化した彼らを真似ようとした国は多い。例えば、瀬閾国 [セイキコク] 瓜閻国 [カエンコク] 笙嵐国 [ショウランコク] 。有名なのはこの三国だが、それだけではない。大抵の国が、大枠としては模倣しているとも言える。この漢稀国 [カラキコク] も例外ではない。

 戒は、それを行えと言っているのだ。一国の皇弟を目の前にして。媚びるでもなく、昔のままに。国取りを唆しているようにもとれる。

「余裕があればな」

「無ければつくればいいじゃないですか」

「それもあり、か・・・・」  

 ぼんやりと見上げる瞳には、暗い夜空の代わりに、昔の、自分が何に属するのかも知らなかった頃を映しているのかもしれない。

 それを知ったのは、今から約二年前、戻が十五の時だった。有希 [ユウキ] 十三年、棺桶に足を突っ込みかけていた漢稀の皇帝は、突如として子供探しを始めた。商人の娘との間にできたという子を探し、国中を兵士が駈け回った。

 そのかいあって、戻が発見され、同時に己の出自を知ったのは、捜索開始から二年後、有希十五年の事だった。早い話が、養父と貧しいながらも長閑に暮らしていたところに、土足で踏み込んで来たのだ。

 数日後、養父は殺された。

 理由は未だ明らかにされていない。采が、非の打ち所のない反論でも言ったのかもしれない。ただ、どんな理由であろうと、戻が許せるはずがないことだけは確かだ。 

 そもそも、皇帝には戻よりも年長の息子がおり、自身の兄弟も多いのだから、わざわざ戻を探す必要はなかったのだ。くたびれた良心故の出来事だったとしても、戻がそれに感謝をすることは無い。欲しくもない権力の渦に放り込まれたことだけで、充分以上に迷惑だ。

 前帝の喪があけるのを待って、今年、兄が王位を継いだ。戻としては、現帝の即位と同時に城を抜け出せ、寧ろ清々としていると言って良い。だが、完全に開放されたわけではない。

 まず、戻は無断で城を飛び出してきたことになっている。公にはそう公表し、内部では秘密裏の任命を受けているとされ、実際には罠の中に突き落とされたのだ。

 先帝があれだけはっきりと戻の存在を知らしめたために、現帝の弟は、確実に存在が知られてしまっている。城内で死ぬと外聞が悪く、同情は皇弟に集まる。おまけに、現帝に見切りをつけた者が、どういうかたちで戻を担ぎ出すか判らない。ただでさえ、現帝の人望は薄いのだ。

 そして、戻には養父の件がある。このまま、逃げるだけで良しとするわけにはいかなかった。だから城を抜け出す際にも、密かに幾つかの機密書類は持って出た。少しでも、この皇室の害になればいい。日々を真面目に暮らす民には悪いが、この国が滅びても構わない。それが戻の本音だった。

 どの道、対立は避けられない。避けたくはない。

 それでも筋書き通りに皇奏国に向かうのは、戻にも戒との会話が残っていたからだろうか。それに、采もよく彼の国の話をした――。

「それでは。おやすみなさい、戻さん」

「・・ああ」

 初冬の空は、深い闇色をしていた。

*   *   *

 遅くなった夜明けの少し前に、一行は発とうとしていた。町が動き出そうとしている時間だ。

「鈴、お店を頼みますね。わからないことがあれば、 [ハク] に聞いてください」

「ええ、わかっているわ。何度もそればかりよ、兄様。そんなに信用がないのかしら?」

「まさか。頼りにしていますよ」

 町の外れまで見送りに来てくれた鈴にしきりに言葉をかける戒の近くでは、戻が人の悪い笑みを浮かべて立っており、その後ろでは幸が興味深げに戒と鈴を見ている。少し離れたところでは、すっかりなついた空が、陸に何か話しかけている。

 なんとも、賑やかな一行だ。

「それでは、戒を借りていきます」

「はい。皆さん、無事に帰ってきてくださいね」

「大丈夫よ、強いもの。戒も強いんでしょ?」

「一応、武芸は一通りやっていますが・・・」

「そうね、兄様、強いものね」

 そう言って、鈴は少し淋しげに笑った。そして、戒や幸が言葉をかけるよりも先に、陸が怒鳴る。

「行くんだろ、早くしろよ」

「ああ、そうだな。行くか」

 戻の声に、早くも陸と幸が歩き出している。空は、何を思ったのか、鈴の所に戻ってきた。  

「ご飯、ありがとう。すっごくおいしかったよ」  

「有難う。次に来たときも、私が作るわね」

「うん!」

 本当に嬉しいらしく、今にも躍り出しそうだ。そんな様子を、幸が呆れるように見ている。彼女には、少し前まで一人きりだったのが嘘のように思えた。

「戒。先に行っているからな。行くぞ、空、幸」

「リョウカイ!」

「空、どこでそんな言葉覚えたのよ」

「瓦版屋さんが言ってた」

 相変わらず元気な空と幸とかすかに笑っている戻を見送り、ようやく戒は鈴を見た。

「いい加減な従兄ですみません。迷惑ばかりかけて」

「気にしてないわ。もう慣れたもの」

「そう言われると、返す言葉がありませんね」

「ねえ、兄様・・戒さん。絶対に帰って来てね。私、待ってるから。あなたの帰る所はここにあるのよ」 

「鈴・・・・」

「言いたかったのはそれだけ。良い? 帰って来なかったら許さないわよ」

「――はい。行って来ます」

「いってらっしゃい」

 そう離れていない一行に追いつくと、戻と幸がからかうように笑っているのが見えた。

「何か?」

「詐欺師みてー」

「聞こえてますよ、陸くん」

 小声で言ったか口に出したつもりはなかったのだろう陸が、ぎくりとして振り向く。そこには、にっこりと微笑む戒の姿があった。
出発
「またねー」

 空が元気に叫ぶ声にかき消され、悲鳴が上がった。



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