「ちょっとなによっ、なんでこんなに馬鹿強いのよっ!」
「煩い」
凍てた炎の瞳が、一人高みの見物を決め込んでいる戻を睨んだ。それに気付いているはずだが、彼の態度に変化は無い。その事が、余計に彼女の怒りを煽る。
それは、一瞬だった。
視線を逸らした彼女の足を、遠慮の無い蹴りが掬う。息を呑むほどに綺麗な金の髪が、大きく広がる。無様に転んだ彼女の腕を、子供の手が捩じ上げる。彼女の完璧とも言える肢体は、今や力任せに押さえつけられ、自由を禁じられていた。
その原因たる少女・空は、彼女を押さえつけたまま、小さく呟いた。
「つまんないの」
その言葉に、逆上した。自分の命が、この小さな少女に握られているということさえ、忘れる。
「冗談じゃないわよ! つまらないならとっとと何処か行きなさいよ! 人をなんだと思ってるのよっ」
「そんなこと言われても。そっちから仕掛けて来たんだよ? それに、よそ見されたら、誰だって勝てるよ」
嫌味や自慢ではなく、当然のように言われ、唖然とする。妖である自分よりも、野生に近い。まるで、野の獣そのものだ。今は見えない、妖と人との血が流れている証の瞳と髪を思い出す。
「大体、人じゃないだろう。空、もう良い。放してやれ」
「うん。立てる?」
少女が体重を感じさせずに背から飛び退き、無邪気に顔を覗き込む。そして、呆気にとられている彼女の前で、その身体が傾いた。
* * *
空が村で大人しくつながれていた理由を、深く考えてはいなかった。そもそも戻は、空が戦闘において役立つとは思っていなかったのだ。ここまで行動を共にした間に頑丈さや力があることは判っていたが、否、だからこそ、「人」を傷つけることはできないと、村で捕らえられていたときも抵抗する気がなかったのだと見なしていた。
だが、実際は違った。襲って来た妖相手に、嬉々として戦っていたのだから。
「ねえ、この子どうしたの。さっきまであんなに元気だったじゃない」
「まだいたのか」
「何よそれ。誰がこの子をここに運んだと思って」
「空」
意味のつながらない台詞に、思わず秀麗な顔を見返す。戻は、意識を失ったままの空から視線を転じ、繰り返した。
「空だ。名があるんだから、それで呼んでやれ」
「・・・・わかったわよ。それで、・・空、はどうなったの。何が起きたの」
緩やかに波打つ金の髪と、凍った蒼の瞳。美麗な容貌と均整のとれた身体は、誰もの視線を集めるだろうと予想される。ただ、正体を知ってなお言い寄ってくる者が、果たして幾人いるのか。時には、人をも喰っているのだから。
「ねえ、どうなったのよ。この子・・・空は、死ぬの?]
打算よりも先に、感情がはたらいている。打ちのめされ、力の差を見せつけられたにも拘らず、何故か恨む気持ちは全くなかった。突然のことに、気持ちがついていっていないのかも知れない。
そんな彼女の内心を知ってか知らずか、戻が無表情な瞳を向ける。全てを見透かすような瞳だ、と思った。決まりが悪く、つい目を逸らす。
「この辺に唐草 は生えているか」
「何よそれ」
「丈の低い、根が赤色の植物だ。岩場によく生えている」
「ああ、あの白い花が咲くやつ?」
「それだ。取ってこい」
「はあ? あんた何様のつもりよ」
更に言おうとする彼女を、戻が冷えた瞳で睨んだ。その横では、空が荒く息を吐いている。最初はただ気を失っただけだったのが、熱を持ち、徐々にひどくなっている。
「空の熱を下げるために要るんだ。早く取ってこい」
「・・・わかったわよ」
威厳とでも言うべき迫力に押され、金の髪をなびかせながら駆けて行く。まだ名前も知らない少年が何をしようとしているのか、見当もつかない。何故、空がああなったのかも。それらを知ったのは、彼女が唐草を持って戻った後のことだった。
赤い根の草を礼も言わずに受け取った戻は、それを噛み砕き、直に空に飲ませた。何度かそれを繰り返すと、徐々に空の容態が落ち着いていく。青く澄んでいた空が濃紺色に染まるころには、ただ寝ているだけに落ち着いていた。
成り行き上、戻と一緒に焚き火を囲むことになった彼女は、ぼんやりと炎を見つめながら今日のあわただしい出来事を反芻していた。誰かとあれだけ話したのも久しぶりだし、こんな風に温かい夜を迎えるのも久しぶりだった。
『唐草は月割草の毒消しになる。月割草の花粉を乾燥させたものは神経に作用し、五感のすべてを鈍くする働きがあり、少々の使用では問題ないが、幾度も使うと後になってその反作用が来る。空の症状がそれだ』
戻にしつこく問い質し、得た断片をまとめるとこうなる。そのほかのことは解らなかったが、『誰が』空にその花粉を飲ませていたかは見当がついた。その目的も。
「だから人間って嫌いよ」
「同感だな」
「あんたも人間でしょ」
「だから言うんだ」
何気なく言う戻に、そんな答えが返ってくるとは思っていなかったので、驚かされた。そして、次に聞こえた台詞に一番驚いたのも、彼女だった。
「あたしも、一緒に行っても良い?」
「好きにしろ」
無意識のうちに零れ落ちた言葉を、戻ははじめから知っているかのようだった。慌てて取り消そうとするよりも先に、闇色の瞳がこちらを見ていることに気付いてしまい、更に慌てる。
「べ、別に、どうでもいいのよ、ただ、」
「名は?」
「え・・・・・? あたし・・・?」
「他に誰かいるのか」
名前。
呼ばれなくなって久しい。もともとは仲間と暮らしていたような気がするのだが、いつの間にか独りになっていた。忘れているのだ。何故こうもあっさりと忘れたのか、考えることもなかった。生きる為に必要がないからだ。自分の名前など、とっくの昔に忘れている。
否。
必要がないと思いながら、捨てられずにいた。
「幸よ。似合わない名前だけどね」
熟睡する空と乾いた空気の横で、戻は短く呟いた。「そうか」と。ただ、それだけ。
炎が、相変わらず小さな空間を照らしている。たった三人の、全く違う旅行者たちを。
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