「きゃーっ!」
女の悲鳴に、シュムは剣を取って立ち上がった。即座にズボンをはいてシャツをとると、部屋を出る。
その間に、ほぼ反射だった行動に次いで、眠っていた頭が動き出す。二階の手すりから一階を見下ろしたときには、さっきの悲鳴がニナのものだったことに気付いていた。
ついでに、数日前の一件に伴う既視感も憶えたが、そのことにはほとんど注意を払わない。あのときは、色々と判断を誤った。飲み過ぎていたのだ。
「離れて!」
入り口を囲むように立つ四、五人に鋭く言って、自分は、シャツを被って飛び降りる。着地と同時に駆けて、すぐに、腰を抜かしてへたり込むニナの横に立った。その目線の先には、腐りかけの死体のような、奇妙な物体が立っていた。
それを距離を置いて取り囲むのは、どれも旅装の武器を手にした者たちだった。出立するところだったのだろう。腕に自信のない者は、遠巻きに見るか、テーブルについたまま、固まったようになっていた。
ニナが取り囲む中にいるのは、目の前のものが入ってきたときに近くにいて、そのまま動けなくなってしまったのだろう。
「いたのか、台風シュム」
「久々だな、その二つ名。だけど再会を喜ぶのは後にしよう、キドニー。何が起きた?」
「人が一人、あれに取り込まれた。一瞬でだ。店を出ようとして、軽く接触しただけで、大きな体があれに埋まってた。心当たりは?」
「ある。厭だけどね。こいつはあたしの領分だ。下がっててくれないか」
「そうはいくか!」
誰もが、咀嚼するように体を蠢かせる、辛うじて人の形を保ったそれから目を離さずにいた。迂闊に手を出せないと、判りきっていた。人型のそれの立つ床は、足の形にそこだけ、どろりと腐り爛れていた。
声を上げたのは、まだ若い男だった。
「こいつは、マーシュを・・・殺しやがった! 大人しく引き下がれるか!」
「下がってろ。これは、人も喰う質の悪い同族喰らいだ。しかも、知力はほとんど残っていない。そんなものに立ち向かって、無駄に命を落としたいか!?」
やはり目は逸らさずに、シュムは短く怒鳴った。ほとんどの者が息を呑んで、見掛けだけは幼い少女に圧倒された。それには、「人も喰う」という言葉も一役買っていただろう。
「キドニー、連れを起こしてきてくれないか。寝起きが悪いから、剣を忘れないで。ニナ、案内を」
返事はなかったが、まずキドニーが、そしてそれに促されてニナが、行動を起こした。友好的な昔馴染みがいて良かったと、ちらりと思う。
シュムは、体の蠢きが徐々に治まっていく物体から、一歩引いた。
「誰か、結界の張れる人は? 視界遮断、それか幻術でもいい」
シュムにもやれないことはないが、得意ではない。人型を威嚇しながらやってのける自信は、正直なところ全くない。
「・・・幻術なら、少し・・・」
おぼつかなげに、一人が手を挙げる。シュムはそちらは見ずに、もう一歩引いた。人型の物体が、ゆっくりと、シュムに近付いた。
「じゃあ、外に出て目眩ましを。これが出ても、騒ぎにならないように。人を散らして。火を使うから、できるなら水以外の属性で」
「それなら、眠り術でも・・・」
「やり合う間に人が取り込まれる」
口を挟んだ一人に冷静に言って、シュムはもう少し下がった。人型の前進に伴って、取り囲んだ輪は崩れていた。
「早く。これは、あたしに惹きつけられてる。外に出すから、術を」
「でもどこから?!」
半ばパニックに陥ったらしい男は、入り口と人型との距離を測るように見ていた。この距離では、飛びかかってこられかねない。そう判じたのだろう。瞬く間もなく捕らえられた獲物の、必死なのに澱んだ瞳は、悪夢を見せるには十分だった。
「窓がある」
「触れれば喰われるのに!?」
「距離はあるだろう!」
苛立って、とうとうシュムは声を荒らげた。そこに二階から剣戟の音が聞こえ、男たちはますます身をすくめる。
シュムは舌打ちして、もうこのまま外に出すかと、そう決めかけていた。しかしそこで、古い記憶を呼び起こす。
「ミーシャ! いないか、ミーシャ! 金は払う、外の人を追い払てくれ!」
「仕事?! いいわよ、いくらで・・・あれえ、シュム?」
場違いに華やかな女性は、流行の格好をして、しかし、術師に共通の野暮ったいローブを乱雑に羽織っていた。寝起きらしく、縮れた肩までの髪が、好き放題にはねていた。
記憶通りに、剣士のキドニーと術師のミーシャが組んでいたことに感謝して、シュムは振り返らずに同じ言葉を繰り返した。
「高いわよ!」
「相場通りでね!」
「待ってて、すぐ済ませる」
短い言葉の応酬は、どちらも笑うかのようだった。久々の再開だ。
ミーシャは、踊るように階段を駆け下りて、目を見張る男たちの横をすり抜けて窓から外に出た。
「シュム!」
「おはよう、外に出たら炎を貸してね」
待っていた二階からの声に、笑みを含んで返す。それだけの余裕が生まれていた。
今では、人型は入口から大分離れ、シュムは壁際に追いつめられそうになっていた。一度に飛びかからず、ゆらゆらと揺れるようにして距離を縮める。もしくは、俊敏には動けないのか。
上階からは、反射的な了解の声と、それに続く呻き声とが聞こえた。
「なんだってそいつが・・・」
「手だよ。きっとね。処分し忘れてた」
「いいわよ!」
ミーシャの呼び声に、シュムは、身を沈めて人型の横をすり抜けた。人型は、ねっとりとした手を伸ばしたが、シュムの動きには追いつかなかった。そうして、誘導されて再び入り口に向かう。足の形に腐る石畳が残った。
これはあの男の手だと、シュムは確信していた。手かどうかはともかく、あの男だということはカイも同じ意見だろう。気配が同じだ。あの男が残したものといえば、おそらくは、あのとき手枷に残した両手だけだ。屋敷を焼き払わずにいたことに、シュムは今更ながら気付いたのだった。
同族喰らいには、どんな油断も命取りとなるというのに。
おそらくは、シュムたちがこちらに戻ったときについてきたのだろう。そうして、人を取り込んで、シュムの――「ごちそう」の匂いを追ってここまできた。手だけのそれに、残っているのは少しでも生き長らえるという本能だけだろう。それには、まずは動ける体と、それに伴って能力を取り込み、強くなる必要があった。
ここに来るまでに喰われただろう人々を思うと、気が重かった。
「これでいいんでしょ?」
戸口に立ったミーシャが、気軽に声をかける。
通りには、誰もいない。窓から覗く顔もない。強い術の気配に、それが何かは見定められないが、報酬の多さを思って、シュムは軽く溜息をついた。
「何よ、不満?」
「いいや、ありがとう」
頬を膨らませるミーシャに軽く肩をすくめて言うと、にこりと笑う。途端に返ってきた報酬を期待する笑顔に、変わりないなと、妙におかしくなった。
完全に宿を出た人型に向かい合って、剣を構える。
「カイ!」
「わかってるよ。どっちに?」
「両方」
戸口に姿を見せたカイは、火球を二つ作り慎重に、人型と、シュムの持つ剣とに投げつけた。
火のついた人型は暴れ狂い、消そうと必死になった。そもそも生物の体は燃えにくいのだが、カイの放った火は高温なので、じりじりとだが確実に焼いていく。逃げようにも、他にも炎を出して牽制するカイと、剣に炎を纏ったシュムに妨害される。
通常の剣であれば、とっくに高温の火に耐えきれず、墨と化していただろう。シュムは、毎度のことながら、この剣を与えてくれた師に感謝した。
そうして、あるいは最後に取り込もうとしたのか、すがるように伸ばされた手を、炎を纏わせた剣で払いのけた。切り捨てて妙なところにいかれても困るので、剣は、盾のように、近付けないために使われた。
全てが灰になるまでに、それでもしばらくかかった。
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