第五場


「うわ、いきなりか」

 空間を越えるのと同時に横に跳んで、シュムは半ばぼやき、半ば叫んだ。まだ名残の燐光を放っている魔方陣の中央は、黒く抉れている。よけていなければどうなったかは、考えるまでもない。

 片膝をついた体勢で、シュムは、自分を笑って見ている男を睨みつけた。これと言って特徴がないこと、それが特徴と言えば言えた。

 シュムが今いる場所は、本来いる場所とは、おそらく層が違う。それは、言われなくても空気の感覚や雰囲気でわかった。肌がざわつく。気温は高く、湿気も高くてむしむしするほどなのに、寒気すらした。

 人のものと大差ない建物の作りに、逆に違和感を感じさせられる。今いる部屋の中で判る違いと言えば、妙に天井が高いことくらいか。これは偶然なのか、どちらかがどちらかに倣ったものなのだろうか。

「・・・後で観光でもして帰ろうかな」

 呟く口調は、本気とも冗談ともとれない。シュム自身、どうなのかよくわからない。

 ハーネット家の別荘には、アルの姿はなかった。そして、四男は殺されていた。少なくともこれでアルの契約は切れたと、冷静になろうとしたシュムは考えた。その死に同情することはなかったが、脆さに呆然とする。そんなことは知っているはずなのに、慣れることがない。

 即座に、黒い魔方陣の痕跡を頼りに自分用の扉を開けたシュムだが、その意味は十分にわかっているつもりだった。

 過去にも、魔方陣を使って異界へと行った者がいないわけではない。しかしその中に、生きて帰って来た者はない。向こうからだと術が発動しないのか、魔物にやられたのかは、生還者がいない以上判らない。

 そして、この男がシュム自身に来させたかった意味も、判る。

 黒い魔方陣の姿が実体でなかったことから考えても、それだけの能力がなかったのだろう。あるいは、この世界からの干渉はそれが精一杯なのか。どちらにしても、シュムが来ない限り手の出しようがなかったのだ。

「まさか、本当に来るとはね」

「呼んだのはそっちだろう。文句を言われる筋合いはない」

「文句など言ってはいないさ。歓迎しよう」

 自ら罠にかかった蝶を見るとき、蜘蛛はこんな表情をするのだろうか。シュムは、そんなことを思い浮かべてしまってから、ぞっとしないなと、打ち消した。想像を膨らませて、敵を必要以上に恐れることほど馬鹿なことはない。

 嬉しくないことに、体力はまだ完全には回復していない。むしろ、正式な魔方陣では無理だと判断して独自の方で描いたために、より消耗している。

「随分な歓迎だ」

 呟くような声が素っ気無いのは、半分は意図してのことだが、半分は疲れのせいだ。片膝は、まだ地面についたままだった。

「とりあえず、アルを渡してもらおうか」

「何故?」

「・・・まあ、言ったくらいで開放するとも思わないけど」

「渡してもいい」

 笑い顔のままの、唐突な一言だった。シュムは、素っ気無いと言うよりも心底疲れたようなかおをした。男を見る目も、どこか投げやりだ。

「で、条件は?」

「話が早い」

 悦に入った笑い。

 ハーネット家の四男といいこの男といい、厭になるほど芝居がかっている。シュムは頭痛を感じた。

 そうと気付かず、あるいは気付かない振りをして、男は片頬だけを上げて、いやに爬虫類じみた笑みを閃かせた。

「簡単なことだよ。ただ、それをつけてもらうだけだ」

 示されたのは、壁に取り付けられた、何かの文様の刻み込まれた拘束具。両手と両足とを嵌めるようになっており、御丁寧に重りまでついている。またかよ、と声にならない呻きをもらす。

 紋様には、見覚えがあった。魔封じのときに使う紋だ。

「よくまあ、調べたな・・・こんなのまで」

 力なく首を振る。シュムは、がっくりと肩を落として、そうして、顔を伏せて、笑った。

「本当に、よくやるよ」

 喉の奥で、音を立てて笑う。

 ようやくシュムの異変に気付いた男は、それでもまだ、余裕の笑みを浮かべていた。己の優位を、微塵も疑ってはいない。どうやったらこんな風になれるんだろうなあと、シュムはやや無軌道に考えていた。羨ましくはないが、感心はする。

 依然として片膝をついたまま、シュムは顔を上げた。

「断る、って言ったらどうする?」

「手間が増えるな」

「あ、そ。ところで、ひとつ忠告をしてあげよう。悪役というのは、姿を見せずにいる方が、得体の知れない恐怖感を植え付けられるものだ。例えば、姿を隠して私の友人を追い掛け回したように」

「・・・よくわかったな」

 ひくりと、片頬が歪む。それに対してシュムは、おやおや、と言って肩をすくめた。

「カマかけただけだったけど、図星だったらしいな。それも、今の状況から察するに、目的は私か。彼女も貧乏くじを引いたな。しかし、何がわからないって、なんだってこんな変な事態になってるかってことだな」

「ふっ、知りたいか」

 いや、興味ないけど。本心をあっさりと覆い隠して、シュムはゆっくりと頷いた。

「ああ。こんなことになったんだ。理由もなしじゃあ話にならない」

 平然とそんなことを言うが、干渉してくるから対抗するだけで、本当は知りたいとも思わない。だが、もしここで、男が三流役者よろしく説明を始めれば、体力回復の時間稼ぎにはなる。

 男が、にやりと笑った。あの、爬虫類じみた笑顔だった。

「その話は後にしよう。君はどうも、何かたくらんでいそうだ。もっとも、そんな身体で、何が出来るとも思わないが」

「そ」

 軽く受け流す。残念ではあるが、まあ仕方ないだろうとあっさりと諦める。

 そうして、男を見て、にやりと笑い返した。

「では、もう一つ忠告。勝ちたいと思うなら、悪役にはならないこと。何故なら、悪役というのは常に倒される立場の者を言うからだ。悪役とは、勝利できなかった側、敗者を言う」

 言葉遊びのような自分の言葉が消え去るのを待たずに、シュムは前に跳んだ。鋭く、足払いをかける。

 いくらか予想していたのか、男はそれをわずかに動くだけで避け、逆にシュムの身体を捕らえようと手を伸ばす。

 だがシュムは、絶妙の間合いでその手を跳ね除けると、壁を蹴って反転し、男に相対した。男はまだ、笑っていた。

「無駄だということが、判らないのかい?」

「とりあえず、何でも試してみるたちなんでね、悪役さん。例えば――」

 右手で素早く印を結んで、目晦ましの光の術を発動させる。男は、咄嗟のことに視力を奪われた。その隙にシュムが、目を堅く閉じたまま後ろ手に扉を探り、こじ開ける。

 扉があることまでは視認していだが、鍵がかかっていないかは、半ば賭だった。ほとんど幸運に乗った状態で、シュムは、部屋を出ることに性交した。


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