かちゃん、と音がして、シュムは目をしばたかせた。
夢から覚めたかのような心持ちで、周囲を見回す。古いが手入れの行き届いた、暖かな部屋の一室。生まれ育った、なじんだ場所だ。テーブルの上には、山のような書物と文字を書きつけたメモ、湯気の立つ紅茶が置かれている。今音を立てたのは、添え置かれたスプンだろう。
「…お嬢様…?」
わずかに不思議そうな声に、今度こそ我に返る。
まだ若い、三十手前といったところだろうか。白いシャツも黒いジャケットも隙一つなく着こなし、半分ほどの年齢でしかないシュムに、恭しく仕えている。
シュムは、この青年がまだ少年だった頃から知っている。青年は、シュムを生まれる前から知っているはずだ。その頃には既に、親子で仕えていたのだから。
「カイ…。ごめんなさい、一瞬、私寝てたのかしら」
「お嬢様。今日はもう、お休みになった方が」
「…時間がないのよ。もう、一月もないわ。期限までに資金を調達する術が見つからなければ、身売りでもするしかなくなるわ。私なんかに値がつけば、だけど」
「お嬢様、そのような…」
「違った。私に、ではないわね。忘れ去られかけているこの古い家系に、ね」
自嘲めいた苦い言葉に、カイが憂いを込めた紺碧の瞳を向ける。幼い頃から、誰に怒られるよりもこの瞳に哀しげに見つめられると堪えたことを思い出す。
シュムは、邪魔だからと束ねていた髪の先をとらえて、指先でもてあそんだ。鮮やかな金色を、売れば少しでもお金になるかと何度か思ったが、カイに引き止められてまだ長いままだ。
「お嬢様。もう…よろしいのでは、ないですか」
張り詰めた声音と真剣な眼差しに、それがどれだけ思い悩んで押し出された言葉なのかがわかる。シュム自身、何度そう思ったか知れない。
それでも。
「駄目よ。父様も母様も、私も、働いたことなんてないもの。のたれ死んでしまうわ」
「…」
何かを言いかけたように開きかけた口は、だが、噛み締めるように閉ざされてしまう。気付けば、扉が音を立てて開く。
そこに立つのは、金髪碧眼の美女。シュムの髪はこの母譲りだ。
「まだ起きているの? 若いからって、肌に悪いわよ。やだ、バトラー。いるのなら寝かせなさいよ」
「申し訳ありません、奥様」
「…私が起きていたのです、カイは悪くありません」
「そう。とにかく、もう寝なさいね」
可愛らしくあくびを噛み殺し、母は去って行く。シュムはうつろに、書きなぐったメモの自分の字を見つめた。
母も父も、財政が破綻していることをそれほど気にしていない。使用人がもうほとんどいないことや食事が質素になったことに文句を言いながら、今までのような買い物もやめようとしない。現実を見るつもりがないのか理解できないのか、娘のシュムにさえわからなくなってきた。
どれだけ金策にはしろうとも、両親がそれでは、借財すら減らせない。それどころか、増える一方だ。
「お嬢様。もう今日は、お休みください」
「そうね。母様にも叱られてしまったわ。カイ、つき合わせてしまってごめんなさいね」
「いえ」
「…冷めてしまったわ」
冷えて香りもとんでしまった紅茶を、それでもシュムはゆっくりと飲み干した。
望みは、あった。
叶える術も、きっと。
それでも踏み出せなかったのは、何故だろう。
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