「その日」は、唐突にやってきた。
もっとも、それは幾分か早まっただけのことで、最早それしか手段が残されていないことは、小さな主君にもカイにもわかっていた。
「この屋敷は、お二人では広すぎるでしょう。幸い、南に好い保養地を持っています。そちらに移られては?」
「まあ。ご親切に」
最低限のもてなしに紅茶を出すと、カイはそっと部屋を後にした。落ちぶれたとはいえ、子爵とその妻を、豪商でしかない男と一緒に残すのは忍びなかったが、そうしなければ主人の荷支度が手伝えない。
もうカイの他には誰一人使用人のいない屋敷を、足音を殺して歩いていく。何人もを取り仕切っていた父の時代を知っているだけに、あまりにわびしい。カイ自身、主人を送り出してしまえばここを出なくてはならない。次の仕事は、あの豪商の伝手で決まっている。
胃の底にわだかまる絶望を宥めやり、カイは、主人の部屋に入った。
「父様たちは?」
「…話は弾まれていたようです」
「そう」
まだ幼いとさえ言えそうな主人は、疲れたような笑みを浮かべた。
儚げな、童話のお姫様のような少女。その実、木登りをしてみたり気に食わない客のポケットに蛙を忍ばせたりするようなおてんば振りを、カイは知っている。学ぶことが好きで、女に学は必要ないと言われてからもこっそりと書を読み漁っていたことも。
少女は、父親から受け継いだ濃緑の瞳をカイへと向けた。
「最後まで迷惑をかけるわね」
「いえ。何も、お役に立てず申し訳ありません」
「そんなことないわ。…みんな、見放して出て行ってしまって。あなたもそうしてよかったのよ、カイ。いえ…そうすべきだったのよ、きっと。どうするの、これから」
豪商から紹介されている屋敷の名を告げると、少女は寂しげに笑んだ。
「よかった、あそこなら我が家のようなことにはならないでしょうね。カイ、今までありがとう」
「…荷の、準備を」
「昨日手伝ってくれたので全部よ。身一つで行ってもいいと言われているもの。むしろ、こんなものを持ち込むなと言われかねないわ」
ふっと視線が揺らぎ、一瞬、泣くのかと思った。
人前で泣くのをよしとしない少女の泣き顔を知るのは、もしかすると自分だけかもしれないと、カイは思っていた。人に見つからないようなところに隠れてひっそりと泣く少女を、見つけるのはいつもカイだった。
だが少女は泣かず、何かを言うかのように口を開きかけ、閉ざしてしまった。
「荷物を、運びましょう」
「ええ…お願い」
今日を限りに、荷を運び、馬車で去って行く背を見送れば、きっと二度と会うことはないだろう。この主人を歳の離れた妻として迎える豪商に紹介された職に、就くつもりはなかった。どこでもいいから、遠く、離れてしまいたい。
「カイ。元気でね」
「はい。お嬢様も」
束の間見つめあった二人は、和やかに話しながら降りて来た子爵夫妻と豪商に、それぞれの注意を向けた。
手を伸ばせば。
届くと、知っていたのに。
その手を、伸ばすことができなかった。
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