遭遇


 明るい日差しに渋々目を開くと、見慣れない、狭いながらに住み心地の良さそうな一室にいた。

 悪酔いしたらしく重い頭を少々苦労して持ち上げると、寝ているベッドの隣のサイドボードの、コップに入った水と文字の書かれた木の皮に気付く。

 とりあえず水を飲み干し、文字を眼で追う。

 姉さんへ、という呼びかけで始まったそれは、シュムが昨夜は酔いつぶれてアンジーの部屋に泊まり、彼女は働きに出たことを告げていた。

「字、覚えたんだ…」

 農村では一人か二人でも字が読める者がいればいい方で、書くとなると、どこかに頼みに行かなければならない、ということも珍しくはない。街中でも、ある程度は読めても、書くことのできない者は多いだろう。

 シュムは魔術について学ぶ際に必要なのと便利なのとで身に着けたが、二十歳ほどの働く娘は、余程の事情か情熱と運がなければ習得はできないだろう。

 二十歳――いや。十八歳のはずだ。

 アンジーの年齢を思い、郷里を出てから六年になるのかと気付く。その間、一度も戻っていない。そうして、アンジーとは七つ離れているから、シュムは二十五歳になるはずだ。

 自分の年齢を数えるのは、里を出るのと同時に止めてしまった。時間が経っても体の成長がないのだから、虚しいだけだ。シュムの体は、十一のときで成長を止めてしまっている。

 それはそういう体質で、病と呼ぶ者もあった。あるときを境に体の成長が止まり、普通の者よりもいくらか長寿。ありふれてはいないがいくらでも前例はある症状で、シュムに魔術に関するほぼ全てを教えてくれた師も、同じ体質だった。

 不老長生だと、そうなることを望み羨む者もいるらしいが、十一という未成長の段階で止まられてしまっては、何かと不便で仕方がない。

「起きたか」

「…カイ?」

 ひょい、と、光の差し込む窓から、オレンジ色の狐に似た生き物が入って来た。日差しに、金色にも見える。

 シュムは長く瞬きをすると、ああ、と手を打った。

「昨日、一緒に呑んだんだっけ?」

「…記憶、大丈夫か」

「うーん、大丈夫、と、思いたい。えっと昨日は、野生のテンコが欲しいって依頼こなしてー、区切りついたからって破目外そうかなってー、二軒目に入った店でアズと顔合わせてー、カイ呼び出して店戻って、うん、二人で一樽くらい空けたんだった? 覚えてる覚えてる」

「どうだか…」

 狐は器用にも溜息をつくと、サイドボードに飛び乗った。シュムの顔をのぞきこむ。

「あの娘と何かあったのか?」

「カイって、ほんとそのものずばり訊いてくるね。いいけど。うん、遠慮とか気遣いとかしないカイがあたしは大好きだけど」

「その遠回り止めろ。厭なら訊かねえ」

 怒っているわけでもなく、淡々と距離を取る。出会ったときからカイは、冷たい癖に距離の取り方が優しい。

 シュムは、皮紙代わりに使われている木の皮を伏せて、しっかりと身体を起こした。顔を洗いたいが、水場は共用で部屋の外にあるのだろう。定住の部屋を持たないためそこまで詳しくはないが、それが一般的だという知識くらいはある。

「カイは、どうしてたの? ここに泊まったわけじゃないんだよね?」

 隣にもう一部屋あってそちらに泊まったとしたら、窓から入って来るわけがない。

 昨日の格好のまま布団に包まっていたシュムは、とりあえず外に出られる程度に軽く身だしなみを整え、床に足を下ろした。

 カイはじっと、そんなシュムの様子を窺っている。心なし、眉間に皺が寄っている気がする。思わず、苦笑が零れた。

「あの子は、妹。家出てから全然会ってなかったから、吃驚しちゃった」

「それでか」

 はあぁ、と、あまりに深く溜息をつかれ、首を傾げる。じろりと、赤い瞳に睨まれた。

「昨日、眼や髪を隠す間もなく引っ張って行っただろ。お前、俺を使って遠ざけようとしたんだな。生憎妹自身には効果がなかったみたいだけどな、おかげで、他の奴らにはさんざん怯えられたんだよ。鬱陶しいから、こっちになってんだろ」

 「こっち」は、今の獣の姿だ。人の姿にもなれる。他にもやろうと思えば色々な姿を取れるが、一応、基本の形はオレンジ色の獣とオレンジ髪の男なのだという。

 そんなカイは当然のように人ではなく、魔物や悪魔と呼ばれたりもする。赤い瞳と鮮やかすぎるオレンジの髪は人との違いが顕著で、一目で、人外と判る。そうして彼らは一般的に、恐れ、忌まれる。

 シュムは、そんなカイの頭を躊躇なく撫でた。シュムにとってカイは、友達で、大切な約束を交わした相手だ。ただ恐れる要素が、どこにも見当たらない。

「ごめん。どうする? 戻る? こっちいるなら、あたしが悪いんだし、姿変えられるくらいの契約しとこうか。その方が、一人でも自由に動けるし」

「…お前、俺がこっちで好き放題したらどうするつもりだ」

 彼らは、契約の獣とも呼ばれる。それは、魔法陣によって異界から召還され、完全にこちらに来るためには、人に触れる必要があるためだ。魔導の基本として、その前に、契約者の命の一部と引き換えに力を貸すという契約を交わし、それを鎖とした行動の制限を前提に呼び込む。

 ところがカイは、今は何の契約も結んでいない。無契約の彼らはこちらの世界にも稀にいるが、大半が召還者や契約者を謀り、あるいは殺したもので、無契約というだけで問答無用で魔導師に攻撃されてもおかしくない。人よりも力を持つ彼らは、それだけ危険視されている。

 シュムは、笑った。

「その気があったら、今までに何回も機会はあったのに? それにカイ、そんなの面倒って思ってそうなんだけど。違う?」

 返事は、忌々しげな舌打ちだった。

「お前は、どうするんだ」

「仕事するよーもちろん。昨日で手持ちほとんど呑んじゃったからね。街出ようにも、携帯食料ほぼ底ついたし」

「馬鹿か」

 呆れ声に、笑うしかない。シュム自身、自棄酒じみていたとはいえ馬鹿な事をしたと思う。

 つまりはそれだけ動揺したということで、それほどに――妹との再会は、予想外だった。

 ありふれた農村の比較的裕福な家に、シュムとアンジーは生まれた。家を出た時点で、シュムにはアンジーの他にも三人の兄と二人の弟がいた。他にも、祖父母とおばやおじや従姉弟と、家族も親戚も山ほどいたが、少なくとも生きている者の中に、シュムと同じ体質の者はなかった。先祖にはいたのかもしれないが、だからどうというものでもない。

 そして子どもは、半人前の大人だ。必要ではあるが不十分。その環境で十歳余りのまま成長しないということは、厄介者の烙印を押されたようなものだ。

 十七のときにこの体質が判り、おまけに、己の体に宿る魔力を制する術を知らずにいたシュムは魔力の垂れ流し状態で、自他共に病弱と思い込んでいた。結果、周囲の目は一段と冷たくなった。

 そんな中、変わらず姉と慕ってくれたのはアンジーだけだった。シュムはそのことに慰められ、しかし、妬んでもいた。

 アンジーがシュムの体の年齢を抜いた日、シュムはカイと出会い一つの約束を交わした。そして、数ヵ月後に知り合った旅人に弟子入りし、やがて村を出た。

 二度と、戻るつもりはなかった。だから二度と、家族と会うこともないと思っていた。――ねがっていた。

 まさか、街中で再会するとは思ってもみなかった。あの父が、働き手としても、夫や子供という働き手の増補手段としても有用なアンジーを手放すなどと、考えてもみなかった。しかもどうやってか、文字まで読み書きできるようになっている。

 シュムは、アンジーとの再会が嬉しいのかそうでないのかすら、よく判らなかった。アンジーのことを、どう思っているのかも。

 だからカイに対して、肩をすくめて見せるしかない。

「で、カイは?」

 カイは鼻にしわを寄せて、考える素振りを見せた。

「しばらくは、ヒマだ」

「いつもだね」

「忙しいときに呼ばれたくらいで来るか」

「なるほど。で?」

「仕事とやらに付き合ってやる」

「一月くらいなら、つき合わせてあげてもいいよ。帰りたくなったらいつでも言って」

 にっとカイに笑い返したシュムは、手櫛ですいた髪をとりあえず束ね、ぐるりと部屋を見回した。

 簡素だが、ドライフラワーが飾ってあったり手作りの裁縫品が置かれていたり、楽しげな日常が窺い知れる。シュムが望むことすら諦めた幸せが、あふれているようにも見えた。

 すぐに、頭を振ってそれらを押しやる。

「さて、それじゃあどうしよう。その姿じゃちょっと不便だし、変装する分くらいは渡そうか。カイ、契約書作って」

「ああ」

 オレンジの狐は空中でくるりと一回転すると、黒い髪と黒い瞳の詰襟姿で着地した。髪の長さも、若干伸びている。

「わー、似非魔導師って感じだ。髪伸ばしたほうがそれっぽいよ」

「いや、目指してないし」

 言って、服を変える。襟元が苦しかったようだ。

 髪と眼の色は変わらないが、服は、こざっぱりとした動きやすいものに変わった。商家の三男坊のようで、またシュムが笑う。カイはそれを無視して、中空から羊皮紙を取り出した。

 受け取ったシュムは、ざっと書面に目を通し、そのまま付き返した。

「却下。これにサインしたら命だけ持っていかれるんだけど?」

「ばれたか」

「当然」

 書き連ねられているのはこの国の文字ではなく、それどころか、この世界のどの文字とも異なる。修行先で叩き込まれただけあって、それもシュムは難なく読みこなす。

 さほど期待もしていなかったように肩をすくめたカイが、返された分を消して別の一枚を取り出した。即座に、ざっと目を通す。

「ま、こんなとこかな。ペンは?」

「ほらよ」  

「ありがとう」

 サインをして、契約は完了する。すると、羊皮紙は全く同じ二枚に分かれ、シュムの手元とカイの元に残った。

 シュムはそれをきっちりと折り畳んで、部屋の隅にかけられたマントに仕舞った。それをふわりとまとい、餞別代りに師範からもらった剣を腰に佩く。

「さ、出ようか」

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