日常


「酒を。何でもいい、強いやつをたのむ」

 裏錆びた、それでいて建物の外では喧騒が感じられる店。たまに訪れる城下の酒場だが、エバンスが酒の注文をするのははじめてだった。顔見知りのウェイトレスが、驚いたように見つめてくる。

「あ、俺は水でいいや。それと、料理は」

 ウェイトレスに口を挟む余地なく数品を注文して追い払い、キールは、戸惑った面持ちでエバンスを見据えた。

 緑の瞳が、心配そうな光を灯している。あれだけの経歴を生きてきて、こうやって人を気遣えるのは、余程性質がいいか育ての親の教育がよかったのだろう。

「…あのさ。あんま口挟むつもりはないけど、何があったんだよ?」

「あの馬鹿が、正餐に君を出席させると言った。今は、客人も城内にいる」

「そりゃあ…」

 無茶だなあ、とでも続けたかったのだろうが、ぽかんと口を開けたまま言葉が途切れてしまっている。

 キールには悪いが、彼を公の場で紹介するのは害こそあって益がない。城内に留まらせている、それどころか、存在を知りながら生かしているという現状ですらいい状況ではないというのに。

 しかし、王が――兄が、何故そんなことにまで踏み出そうとしているのかは、思い当たるところがある。キールに対して、エバンスがあまり構えていないことを兄は知ってしまっている。敢えて言えば、友人と呼べる位置にいるのだと。

 兄が自分に甘いのは知っていたが、ここまで来るとそれだけではすまない。弟を宮廷魔導士に据える程度ならよくある話で済むが、一介の魔導士であるはずの者に国を揺るがしかねない問題への対処を預け、その上、そこにエバンス寄りの一石を投じようとしている。

 冗談では済まない。

「すまないが、今日はこのままここにでも泊まってもらえるか」

「そりゃいいけど…いいのか?」

 そこで運ばれて来たグラスを一息に空けて、もう一杯たのむ。ウェイトレスは、目を真ん丸に見開いて肯いた。キールを見ると、こちらも目を丸くしている。だがすぐに打ち消され、すっと眼が細められた。

「なあ。問題は、俺なんだろ? 俺の扱いでこんなことになってんだろ?」

 違う、とは言えなかった。何も、言葉が出ない。

 その間に、緑の瞳は皮肉気な光を湛える。それは、諦めの色にも似ていた。

「いいよ。もう、十分だ」

「――何がだ」

「あんたはよくやった。やれるだけのことをやってくれた。だから、もう見切ってもいいと思う。出て行くだけじゃ片付かないだろうし、公開処刑でも何でも、やってくれてかまわない」

「本気か」

「ああ」 

「そうか」

 キールは、笑っていた。数日前に、育て親に送りたいから日持ちする名産品を買って来てくれと言ったときと同じように、笑顔だった。

 気付けば、力いっぱい殴りつけていた。

「な…に、すんだよ…っ」

 立ち上がり様に殴り上げられ、もう一度拳を叩き込む。ウェイトレスの悲鳴が上がった気がするが、後回しだ。他の客は見物に回っている。

 似たような位置にある緑の瞳に苛立ちが見えて、心からの言葉ではなかったのだと確信する。良かったと、そう思っている自分に気付いた。それと同じくらいに、自分に対して腹立たしさも感じる。そこまで追い込んだのは、エバンスだ。

 キィと、小さく鼠の鳴き声がした。

「…連れて来てたのか」

 キールの襟元からひょこりと顔をのぞかせた片目の小さな鼠に、思わず声が洩れる。

 ふっと息を吐いたキールは、倒れたときに巻き込んだテーブルを起こし、こちらも倒れていた椅子を戻して座った。

「座れよ。おーい、ごめん、グラス割っちゃったから片付けるもの持って来てくれる? あ、酒と水追加で」

 周囲の客たちはなんだ終わりか、とざわめきつつそれぞれの会話や食事に戻り、やって来たやせ細った店主に笑顔で詫びつつ割れ物を片付けるのを手伝い、ウェイトレスの運んできた酒のグラスを自分に、水のグラスをこちらに回し、キールは、乾杯、とグラスを打ちつけた。

「ここ、あんたのおごりな。まあそもそも、俺、ほとんど金持ってねーけど」

「…どういうつもりだ」

「ま、売り言葉に買い言葉ってやつで。勢いだけじゃなくて、そうすりゃいいのにって思ってるのは本当だけどな? あんたが兄さんに言ったのと同じ」

 言葉に詰まったのを、料理が運ばれてきたことに気を取られた振りで誤魔化す。が、できていなかったことは、すぐに判った。

 茹で上がったソーセージの端をフォークで切り取ると、隠すように手で覆ってテーブルに乗せた鼠に食べさせている。キールは、残ったソーセージにフォークを突き刺すと、やや首を傾げるようにしてエバンスを見た。

「あんたさ、もっと自分勝手になるべきじゃないか? なんかあんた見てっと、自分のことは後回しにして人のことばっかやってんだろ。それはいーことなんだろうけどさ、人ばっかを大切にするあんたを見てるあんたのことを大切に思う人はたまらないと思う」

 キィ、と、潜めたように鼠が啼く。キールは、そちらを一瞥すると肩をすくめてソーセージを齧った。

「もうちょっと、自分を気遣ってやれよ。あんたが周りを大切にするなら、周りのためにって理由でいいからさ」

 突き放したようでいて気遣われているのが判る口調で、キールは淡々と告げる。

 エバンスは、湧き上がる言葉にならない気持ちを押し潰したくなって、キールの側に置かれた酒のグラスを取って干した。言った通りに強いものを持って来てくれたようで、先ほどの分と併せて、いつもであれば酔いつぶれている量だ。だが今は、酔いは回るものの、鈍く重い。

 叩きつけるように置いたコップが、音を立てた。緑の瞳が、心配そうに見つめる。

「ずっと、恵まれた暮らしを与えられたんだ。それなのに俺は、何一つ返せていない」

「うーん、それ言ったら俺もだけどさ? むしろ俺なんて、ごく潰しのろくでなしだけど。なんだってあんた、そんなに謙虚ってーか悲観的ってーか…そんな考え方なわけ? うちの城主なんて、それが当然の権利だと思ってるに違いないぜ?」

「昔、誘拐されたことがあるんだ」

 酔って重くなった頭が、勝手に言葉を紡ぎ出す。自分が口にした言葉を聞いてからようやく、エバンスは、なるほどと思った。

 今まで、そこが起点と気付いてはいなかった。

「いつだったかな、まだ兄がシュムさんのことも知らずにアンジーのところにただの少年のふりをして行っていて、俺も、それが羨ましくて町に出るようになっていて。魔導師になるなんて思ってもなかった。七歳…六歳か、五歳くらいだったのかも。魔導師になると父を説得するのに随分かかったはずだから…今思えば間抜けな話だ、友人と思っていた奴に貴族階級と知られて、売られたんだ。隣の村外れの小屋に閉じ込められて、身代金の話がなかなかまとまらなくて、二週間くらいかかった。父にしてみれば、兄がいるんだから、というのもあっただろう。それでも何かあった際の保険には必要だっただろうが、存在すら無視しているようなやつらの言うことを呑める筈もない。煮え切らない対応に腹を立てた兄がどうやってだか場所を探し当てて乗り込んで来て、呆気なく一緒に捕まって。結局、俺の力が暴発して男たちのほとんどが死んで、俺たちは解放された。もみ消されて、あまり知られてはいない話だ。もっとも、貴族連中の間では語らなくとも知られている話だろうがな。そのせいで、父の早すぎる死は俺か兄の暗殺じゃないかとの噂も流れたくらいだ。そのときに、色々と思い知らされたよ。その後も、密偵じみた真似をしてあちこちを歩けば、多少なりとわかる。わかったつもりになる。俺は――誰かの命や権利を奪ってまで生きるだけの、理由がほしい」

 ことりと、何かが動いたような気がした。胸の奥の、何か。

 人のもののように自分の声を聞きながら、そんなものを求めていたのかと、エバンスは胸の中で呟きを漏らした。

 体が重くて、ほとんどテーブルに突っ伏していた。だから、顔も上げられなかった。

「死にたくないから生きるってのも、立派な理由だろ」

 こぼれ落ちたような言葉を、キールがどんな表情で口にしたのか、エバンスにはわからなかった。柔らかな闇に、ゆっくりと埋もれていく。

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