霧雨が漂っていた。風が吹けば簡単に流される、雨粒が触れているのかいないのかすら、おぼつかない。夜の闇の中とあれば、尚更だ。
――とっとと帰っとくんだったなァ。
ついつい酒が過ぎ、居座ったせいでこの様だ。長旅からの帰り道、あと少しで家だからと、気を抜いたのがまずかったらしい。
なつかしの我が家までは、小さな森を抜ければすぐだ。
この森は小さなくせに、知らなければ近くに集落があるとは気付けないほどに、深い。やたらと、木が密集しているのだ。月夜ですら、ろくに光は差し込まない。今日なぞ、真っ暗闇だ。
危ないから回り道をすればいいのだが、突き抜けるほうがずっと早い。
「ったく、鬱陶しい雨だ」
いささか呂律も怪しく、呟く。
今回の商売は上々だったが、例えば貴族連中からすれば、はした金に過ぎないとは厭というほどにわかっている。何しろ、男の主な商売相手は、そういった金持ち連中だ。
貧乏人を食い物にする奴らの機嫌取りなんて、笑えねェ。そう思いながらも、自分よりも貧乏な者らを更に食い物にしているのだから、いよいよ笑えない。
「ちッ」
地面から出ていた根に、つまづいた。
酒で足元が危うくなっていたこともあり、みっともなく胸から倒れこんだ。霧雨は長時間降り続いていたらしく、感じるのはそれほどではないが、地面はじっとりとぬれていた。水気をたっぶりと含んだ草や苔と、ぬかるんだ土の感触が気持ち悪い。
「ちくしょう、たたりかァ?」
ふざけて呟き、ふと顔を上げると、明かりが見えた。真っ暗闇だから距離が掴めないが、焚き火ではないだろうか。
位置を見誤った旅人が、近くに民家どころか宿屋があるとも知らず、野宿を決め込むのは珍しいことではない。
――どんな奴だ?
興味がわいた。期待をするつもりはないが、ひょっとすると、家につく前にもう一仕事できるかもしれない。追い剥ぎの真似事は得意ではないが、眠った隙に荷を持ち逃げするならアリだ。
――勤勉だなァ、おれも。
複数いるらしく、会話が聞こえた。全ての内容がはっきりと聞き取れるわけではないが、隣国へ抜ける算段を立てているようだ。
ひとつが子供の声に聞こえ、男はわずかに眉をひそめた。だが、抱くつもりのなかった期待も、頭をもたげる。親子連れだろうか。
「おおーい、誰かいるのかーっ?」
いくらか近付いたところで、男は声を張り上げた。気付かれずに忍び寄ることが無理ならば、多少馴れ馴れしくして、打ち解けた方がいい。勿論、ふりにすぎないのだが。
わざと足音を立て、大げさに木々を押しのけて明かりに近付くと、焚き火はどうやら、大きく枝を広げる大木の近くにあると判った。頭上の枝に上着なのか寝具なのか、布を広げ、多少なりと雨除けをしてある。
「うわぁ」
長い髪を素っ気無く束ねた少女が、驚き半分、呆れ半分の声を上げた。何事かと男が周囲を見回すと、笑みを見せた。花がほころぶような笑顔は、かなりの上物だ。
「おじさん、凄く汚れてる。転んだの? 水溜りにでも突っ込んだみたいだよ」
「ああ…さっきこけたんだが、まさかこんなに泥がついてるとはなあ…ちょっと、あたらせてもらっていいかな?」
「どうぞ」
すんなりと、場を詰める。
少女に寄り添われる形になったのは、少女の保護者だろう男だ。赤毛が炎に照らされ、ずいぶんと鮮やかに見える。顔を伏せているが、人相が判らないほどではない。
――チクショウ、もてるだろうなァ。
野性味のある顔と雰囲気で、女にもてなければ嘘だ。男は密かに不公平を糾弾したが、表情はあくまで穏やかに。
しかし、どういった関係だろう。
二人の年齢差は十そこそこといったところだが、兄弟にも親子にも見えない。そもそも、血のつながりは感じられない。かといって、まさか恋人ということもないだろうし、では親戚か、あるいは護衛がついているのか。
適当に会話を交わしながら訊いてみると、回答はあっさりと得られた。
「仕事仲間なんだ」
そう言って、少女は剣を見せた。一見ありふれたもののように見えるが、その実、使い込まれた名刀の気配がする。しかし到底、少女の細腕でそんなものが使いこなせるとも思えない。
――はねっ返り娘とその後見人、ってとこか。物好きな。
娘も剣も、さぞ高値で売れるだろう。お守りに甘んじる馬鹿がいるとは、驚いた話だ。
心の内でせせら笑い、男は、赤毛の男が眠りにつくのを待つことにした。寝込みを襲われれば、大抵の者は呆気なく終わる。
そして、好機は訪れる。
――悪く思うなよ。
見知らぬ者を信用する甘さが悪い、見栄えよく生まれたことを恨め、巡り合わせの悪さを嘆け。
ナイフは、すぐにも獲物の息の根を止める――はず、だった。
「何人、殺した?」
「――!」
喉を掻き切るはずだったナイフは、二本の指に挟み込まれている。ただそれだけだというのに、岩にでも喰い込んだかのように、ぴくりとも動かせない。
ゆるりと、赤毛の男がこちらを覗き込んできた。
「ひっ」
番人もいないのに一定の炎を上げる焚き火の明かりで、赤い瞳がはっきりと見えた。赤い――人であるはずのない、瞳の色。
「男――だけじゃないな、女も…売り払ったのか。随分と、恨みを買っているな」
淡々とした言葉に、突き刺すような視線。そして、何故か――にやりと、笑った。
その瞬間に、男の恐怖は頂点に達した。
ナイフを放り出し、見苦しく地面に這い蹲りながら、後も見ず、ぬかるみに滑るのも、木にぶつかるのにも構わず、走り出す。
――化け物だ…ッ!
まとわりつく霧雨が、闇の触手のように思えた。引きずり込まれれば、その先にはあの化け物がいるに違いない。
命からがら家にたどり着いた男は、我が家に駆け込んだ翌朝ようやく、女たちを売り払った金のほとんどを、森に落としてきたことに気付いた。
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