鼓動


「リリー」

 そっと、名を呼ぶ。寝顔は安らかで、それだけが救いのように思えた。

 彼女には、まだ結婚を明らかにしていなかったときの義姉に対して抱いたのと同じ、あるいはそれ以上の、感情を持っていたのは本当だ。だから、結婚すると知ったときには、引き止めたいと思ったりもした。だがそんな権利はないと、努めて忘れようとした。

 結婚して数年、子供が生まれないと見切りをつけた夫に離縁され、それだけでなく、騙して娼館に売られた。そうして流れて、今はここにいるのだと言った。

 溜息を押し殺し、エバンスは立ち上がった。リリアをなだめ、どうにか眠らせることができたが、こちらは眠れそうにもない。

 本当は、相手の女性を薬か術で眠らせるか、早々に相手をして休もうと思っていたのだが、こうなっては、相手が無防備な分、同じ部屋にいるだけでもきつい。

 自己嫌悪とわずかな苛立ちを抱えながら、エバンスは小屋を出た。

 もう大分日は長くなったと思っていたが、それとも思っていた以上に時間が経っていたのか、屋外は、闇に沈んでいた。そこかしこで声がもれ聞こえるかと思ったが、あの青年がいるところを除けば一番端にある小屋だったからか、それほどでもない。しかしやはり、それなりの空気は感じられた。

「はぁ」

 思わず、溜息が零れ落ちる。

 こんなことになるなら、青年の処分を決められずに考える時間がほしいなどと思って、徒歩にするのではかなった。決定を先送りにしなければ、今頃は疾うに、城の中だ。こんなところで、思いがけない再会もなかっただろう。知らなければよかった。多分、お互いにとって。

 気は進まないが、青年の寝る部屋を、隅でいいから間借りしようか。

 リリアの眠る小屋の裏手に広がる森での野宿と天秤にかけ、そんなことも考える。一日の徹夜くらいは慣れたものだが、歩き通しの数日の後で、これが更に数日続くと考えると、しかもその間、青年の処分を考えつつ見張るとなれば、せめて横にでもなっていなければ危なそうだ。

「?」

 不意に、何かを感じた。魔物――あるいは、魔族、悪魔、契約の獣。俗称も全てあわせると数十には上りそうなそれは、とにかく、人ならざる者たちの総称だ。それらは、人の命を担保に、力を貸すこともする。 エバンスも一度、不本意ながら、契約を交わしたことがある。

 その際、代価を支払うときに感じたのと同じ気配だった。命が引き出される動き。契約者がここにいるのかと、エバンスは、意識を凝らし、この寂れた集落を見渡した。

「あそこか」

 エバンスがいるのとは逆向きに、老婆と女たちがいたのとは離れた小屋から、気配がする。

 思わず駆け出してから、どうするつもりかと自問した。以前なら、気付くこともなかっただろうが気付いたとしたら、魔物を殺すなり元の世界へ戻すなりしただろう。今となっては、躊躇いがある。騙されて命を落とすものは論外として、それもシュムなら自業自得と言い切ってしまうかもしれないが、とにかくこういったことも、真っ当な取引ではないかとも思えてしまう。

 小屋の戸に手をかけたときに、唐突にその気配は消えた。

「…失礼」

 呟くように言って、戸を開く。明かりをつけていないのか、外以上に黒々とした闇が横たわっていた。

「なぁに? 相手をしろって言うなら、相応に弾んでもらうわよ?」

「いや…君は、何者だ?」

 月明かりで、相手をしていた男は、女の膝に倒れこむようにもたれていると判った。生きているのか死んでいるのか、眠っているのか起きているのか、判然としない。

 だが、何の反応もないのだから、意識がないのは違いないだろう。

「何者って? 決まってるじゃない、アタシたちは、ただの女。あんたたちが、ただの男であるようにね」

 女は、すいと立ち上がると、乱れた着衣を、手早く整えた。

 やつれた面差しに、くたびれた巻き毛が下りかかっている。まだ三十には届いていないだろうのに、病やつれのように生気が感じられず、そのことが、女を貧相に見せる。しかしそれらは、闇にいくらか覆い隠され、エバンスに判ったのは、投げやりな調子と姿形くらいのものだった。

 女は、どうやら笑みを形作ったようだった。

「あら、色男じゃない。ローズのお相手は終わったのかしら? どう、もう一戦」

「お断りします。…普通の人ではありませんね、何者ですか」

「だったら、何? どうしてあんたに言わなくちゃならないの。用事がないなら行ってくれない?」

「色々と立て込んでまして。申し訳ありませんが、簡単に見過ごすこともできないんです。問題がないと判断できれば、関わりません。説明を、いただけますか」

 腕組みをして入り口に寄りかかった女は、じろりとエバンスを睨みつけ、溜息をついた。

「これも、天の采配ってヤツ、かしらねえ」

 やはり投げやりに、疲れたように微笑む。しかしその笑みは、先ほどのような作り物ではなかった。

「アンタ、魔導師ってヤツ? ちょうどいいわ、教えて。魂の共有を解くには、どうすればいい?」

「え」

 ごくごく稀に、魔物と人で、魂を共有することがある。禁呪だが、互いに名を呼び合うという簡単なものだけに、期せずして起こることも、それこそ稀には、ある。ただし通常、魔物はその身を縛る本名を隠しているのだが。

 魂を共有する者らは、それぞれの能力や寿命といった、いくつものことも共有するようになる。例えば、片割れが命を落とすことになれば、もう片方も死ぬ。離れて生活することもできないはずだった。

 そして、成立の簡単さとは裏腹に、解除は。

「――聞いたことがありません」

「知ってるんだよ。一人だけなら、助かる方法はあるんでしょ? もう、限界。カルアを、助けてあげて」

 エバンスを見る瞳には、決意があった。



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