第十場


「どうぞ、お気をつけて」

 晴れ空の下、見送りはロバートだけだった。まあそんなものだろうと、エバンスは、心のうちで肩をすくめる。

 同行者は、青年とその伯母だ。

「ロブ、いいのか?」

「墓石の下とはいえ、あいつ一人で置いとくわけにもいきませんでしょう。書と森の手入れは、ちゃんとしときますよ」

 青年が遺産放棄の代わりに出した条件は、結局、使用人――というよりも青年にとっては育ての親の、ロバートに譲られた。青年は当初、伯母を考えていたようなのだが、やんわりと拒否されてしまっている。

 青年自身は、はじめから、居座るつもりはなかったのだという。それはそうだろうと、エバンスも思う。

「ほら、行ってください。俺には、そのうち、便りや土産でもくれたら十分です」

「――うん」

 親しい人は、枷になる。この場に身を留めるための、無茶を妨げる、重石となる。それの一切ない状態を自由と呼ぶなら、どんなに淋しいだろうと、思う。

 エバンスと伯母のアトゥアも、それぞれに礼を言い置いて、ようやく山に入った。

 アトゥアを家まで送りとどけ、そこからは、城を目指す。片付けるべき問題が山積みのその場所に、好んで戻りたいわけではないが、今は、そこしか戻れる場所がないだろう。

「ひとつ、昔話をしましょうか」

 山を一つ越えただけでたどり着いた我が家で、アトゥアは、誘ったお茶を入れながら、柔らかく言った。

「一人の、女の人がいたの。彼女は、家柄はそれなりに良かったけれど、財産はなかった。彼女は頭が良かったから、己の身を活かして、それらを補おうと考えた。勿論、だからといって自分が不幸になるつもりもなくて、まず上出来と呼べる成果を収めた彼女は、とりあえず満足していたわ」

 エバンスも青年も、彼女が誰かを知っている。アトゥアもそれは承知しているだろうが、決して、名を出そうとはしなかった。

「だけどね。彼女は、知ってしまうの。たった一つの出会いで、変わってしまった。私がそうだったようにね」

 微笑む彼女の傍らには、使い古されたコートがかかっていた。アトゥアが着るには大きく、男物のそれ。それだけでなく、他にもいくつか、伴侶がいたことを思わせる品々が、部屋には散らばっていた。

 子供が二人いるが、一人は嫁に行き、一人は中央の城下町で職人見習いをしているという。

「彼女は、選んだ人や生活を厭っていたわけではないの。でも、それ以上のものを見つけてしまった。だけど彼女は、それだけを手にしようと思えるほど馬鹿にはなれなくて――卑怯で、怖がりだった。その人を失って、だけど子供は残されて、それでも、寄せられる思いを振り切れるほどに、強くはなれなかった。身勝手な話だけれど。だから――子供に対しても、同じ事を繰り返したのでしょうね」

 アトゥアは、硬直した青年にお茶を勧めた。だが青年は、暖かな湯気を虚ろに見つめるだけだ。

 エバンスは、アトゥアが話し始めてからずっと、一旦立ち去ろうかどうか迷い、決めかねていた。卑怯なのは自分だと、強く思う。

 カイが洞窟の声の主から聞いた話を語ったときも同じで、青年を見張らなければと思い、だが立ち入ったことを聞くのは駄目だと思い、しかしどちらに決めることもせず、その場にいた。そんな選択が一番、卑怯だ。

 だからエバンスには、「彼女」を責めようがない。

 アトゥアは、青年の瞳を覗き込んだ。

「これは、私がそう思っただけだけれどね。彼女は、好き勝手ができなくて、結局たくさんの人を傷つけたの。でもそれは、傷つけようと思ったり、どうでもいいと思っていたからではないのよ。だからあなたは、彼女に腹を立てても、恨んでもいいの。でもそれに囚われずに、好きなことをなさい」

 言ってから、アトゥアは苦笑を浮かべた。

「ちょっと口が過ぎたわね。言われなくても、あなたはちゃんと自分で道を見つけているようだものね。ごめんなさい、年を取るとお節介になるものね」

 青年は相変わらず黙り込んでいるが、怒っているわけではないだろう。いや、あるいは、母親に対して腹を立てているかもしれない。

 カイが洞窟で聞いたのは、「彼女」――ティアト・ナクシスあるいはティアト・ドーターのものだった。死んでなお居残った彼女は、彼女のただ一人愛した者が人ではなく、そうして、異界から紛れ込んだ植物の糧になったことを語った。

 元々、あの洞窟は生体に異常なほどの発育を促す場であったらしい。そこで力を得たあの植物の最大の栄養源となり、後に事情を知った彼女は、こちらも糧となることで、他の被害を出さないようにした。もっともこれが長持ちしたのは、息子の予想外の協力があったためでもある。

 それらを直に語る時間は、あったはずだった。彼女はつい最近まで心身ともに生きていて、青年も、他者の目があったとはいえ、同じ場所で生きていたのだから。

『どこまでも意気地なしでごめんなさい。だから、許さなくていいわ。ただ――愛していたことだけ、知っていて』

 カイを介して伝えられた言葉に、青年は、何も言わなかった。もっともその頃には、「彼女」は、呪縛から逃れ、消え去っていたのだろうけれど。

「ありがとう、伯母さん。落ち着いたらまた、手紙でも出すよ」

「ええ。待ってるわ」

 結局青年は、出されたお茶には手も伸ばさず、伯母の家を出た。



 - 一覧 - 
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送