木はやはり赤黒く、脈打っていた。
「申し訳ない。切り倒すのは、手伝えそうにない」
額を押さえてそう告げたエバンスは、幻の壁に触れるか触れないかのところまで、後ずさった。しかしたいまつは手放さず、灯りと熱を提供する。
あの声も、幻の壁は越えられないのか、ついてきてはいない。あの壁は、物としては存在しないが、何らかの効用があるのかもしれない。
青年の血を摂り込んだとはいえ、よく保った方だろう。もっとも、比較対象がないのだから、本当のところは判らないが。
「まあもともとは、俺一人のはずだったし? にーさんは? 平気?」
「今のところは。とっととやるぞ」
伸びてきた枝を斧で払い、一歩前に出る。見てみれば、枝は青年には近付いても、迷うようにその周囲をさまようだけだ。そうと判れば。
「任せた」
「はいよ。気をつけて」
そっちこそ、と言いたいが、枝や根が伸び、巨大蛙が突進して来て、そうそう気も抜いていられないかと思い直す。エバンスは、既に術がかけられているから使えるらしい、符を使いこなし、身を守っている。ただしこれは、枚数の関係上、急場凌ぎにしかならない。早く済ませたいところだ。
それならこちらは、囮に徹するだけだ。
「わ!」
声がして、思わず目を見開いた。
シュムがいる。困ったような戸惑ったようなかおで、カイを見つめる。すぐ後ろが幻の壁で、そこを通り抜けたばかりのように見えた。
「ごめん、でもやっぱり気になって。キールの血も、ちょっともらった」
「…嘘だろ?」
笑いたくなった。
立っているのは、確かにシュムだ。髪を高い位置で束ね、動きやすさが第一の格好に、師から贈られた剣を佩いている。幼い顔立ちに不似合いな、大人びた眼。悪いと知りながら、我を通してしまう言葉。当人でなければ知り得ないだろう、情報。
「体術も、一応習ってたんだしね」
そう言って、こちらに歩み寄る。頼むよと、カイは知らずに呟いていた。
「ねえ、カイ――」
カイは、こちらに伸びてくる枝根を、半ば反射で切り落とした。そのまま、斧の背を向けて、シュムを打ち付ける。
鈍い、切り落とすよりもずっと重い衝撃が、腕にきた。
シュムは、打たれて吹き飛ばされた。
また、笑いそうになる。笑うしかない。
「チビ。まだか」
「こっちも頑張ってんだけどさ! さすがに、殺されるとなると分身でも攻撃するらしくって! わ、危ね!」
「カイ」
シュムの声が、呼ぶ。静かに。
「ねえ、あたしだよ? 幻じゃないんだよ? 酷いよ…」
「――なあ、シュム?」
「なに?」
シュムに近寄り、下がってしまった腕に、根が一本、絡みついた。引きちぎる。次は、枝が刺さる。引き抜いた。
「カイ」
その声で、呼ぶなと怒鳴りたかった。俺は、呼んでいいと言っていない。――それでも、一抹の躊躇いがあった。もし、本人なら?
違う、違うはずだと否定しても、それは湧き起こってくる。
一度は約束したが、シュムを己の手で殺してしまったら――自分は壊れるだろうと、カイは知っている。
「シュム。俺の、本当の名を知っているな?」
「知ってるよ」
「言ってくれ」
「言えない。そういうものじゃない。どうしたの、カイ」
枝と根が、腕と足に絡みついた。もう、振り払う気力は残っていなかった。だがカイの身体は、勝手に動いた。
斧が、シュムに叩きつけられた。
「―――――!」
言葉にならない叫びがほとばしり、それとほぼ同時に、「シュム」は消えた。
青年が木を切り倒したと、気付いたのは随分と経ってからだった。両肩に、二人分の掌を感じた。
耳に、シュムの言葉が蘇る。耳元にあった息吹さえ、はっきりと覚えている。
『カイラス・ディタ・トレイディアスに命じる。グロックスの洞窟で、あたし――シュム・リーディストを見たら、あなたの本名を告げるように質問して、それに言葉で答えたなら、それを斬って』
保険だよ。あたしが質問に答えられるくらいに正気なら、答える前に逃げるから。正気じゃないなら、会話は成立しないでしょう?
そう微笑んだシュムは、遠い日の約束を、カイが守ると信じきっているのだろうか。それがどんなものだろうと、シュムを殺し、何も感じないと、思っているのだろうか。
カイは、笑いたくなった。
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