第九場


 木はやはり赤黒く、脈打っていた。

「申し訳ない。切り倒すのは、手伝えそうにない」

 額を押さえてそう告げたエバンスは、幻の壁に触れるか触れないかのところまで、後ずさった。しかしたいまつは手放さず、灯りと熱を提供する。

 あの声も、幻の壁は越えられないのか、ついてきてはいない。あの壁は、物としては存在しないが、何らかの効用があるのかもしれない。

 青年の血を摂り込んだとはいえ、よく保った方だろう。もっとも、比較対象がないのだから、本当のところは判らないが。

「まあもともとは、俺一人のはずだったし? にーさんは? 平気?」

「今のところは。とっととやるぞ」

 伸びてきた枝を斧で払い、一歩前に出る。見てみれば、枝は青年には近付いても、迷うようにその周囲をさまようだけだ。そうと判れば。

「任せた」

「はいよ。気をつけて」

 そっちこそ、と言いたいが、枝や根が伸び、巨大蛙が突進して来て、そうそう気も抜いていられないかと思い直す。エバンスは、既に術がかけられているから使えるらしい、符を使いこなし、身を守っている。ただしこれは、枚数の関係上、急場凌ぎにしかならない。早く済ませたいところだ。

 それならこちらは、囮に徹するだけだ。

「わ!」

 声がして、思わず目を見開いた。

 シュムがいる。困ったような戸惑ったようなかおで、カイを見つめる。すぐ後ろが幻の壁で、そこを通り抜けたばかりのように見えた。

「ごめん、でもやっぱり気になって。キールの血も、ちょっともらった」

「…嘘だろ?」

 笑いたくなった。

 立っているのは、確かにシュムだ。髪を高い位置で束ね、動きやすさが第一の格好に、師から贈られた剣を佩いている。幼い顔立ちに不似合いな、大人びた眼。悪いと知りながら、我を通してしまう言葉。当人でなければ知り得ないだろう、情報。

「体術も、一応習ってたんだしね」

 そう言って、こちらに歩み寄る。頼むよと、カイは知らずに呟いていた。

「ねえ、カイ――」

 カイは、こちらに伸びてくる枝根を、半ば反射で切り落とした。そのまま、斧の背を向けて、シュムを打ち付ける。

 鈍い、切り落とすよりもずっと重い衝撃が、腕にきた。

 シュムは、打たれて吹き飛ばされた。

 また、笑いそうになる。笑うしかない。

「チビ。まだか」

「こっちも頑張ってんだけどさ! さすがに、殺されるとなると分身でも攻撃するらしくって! わ、危ね!」

「カイ」

 シュムの声が、呼ぶ。静かに。

「ねえ、あたしだよ? 幻じゃないんだよ? 酷いよ…」

「――なあ、シュム?」

「なに?」

 シュムに近寄り、下がってしまった腕に、根が一本、絡みついた。引きちぎる。次は、枝が刺さる。引き抜いた。

「カイ」

 その声で、呼ぶなと怒鳴りたかった。俺は、呼んでいいと言っていない。――それでも、一抹の躊躇いがあった。もし、本人なら?

 違う、違うはずだと否定しても、それは湧き起こってくる。

 一度は約束したが、シュムを己の手で殺してしまったら――自分は壊れるだろうと、カイは知っている。

「シュム。俺の、本当の名を知っているな?」

「知ってるよ」

「言ってくれ」

「言えない。そういうものじゃない。どうしたの、カイ」

 枝と根が、腕と足に絡みついた。もう、振り払う気力は残っていなかった。だがカイの身体は、勝手に動いた。

 斧が、シュムに叩きつけられた。

「―――――!」

 言葉にならない叫びがほとばしり、それとほぼ同時に、「シュム」は消えた。

 青年が木を切り倒したと、気付いたのは随分と経ってからだった。両肩に、二人分の掌を感じた。

 耳に、シュムの言葉が蘇る。耳元にあった息吹さえ、はっきりと覚えている。

『カイラス・ディタ・トレイディアスに命じる。グロックスの洞窟で、あたし――シュム・リーディストを見たら、あなたの本名を告げるように質問して、それに言葉で答えたなら、それを斬って』

 保険だよ。あたしが質問に答えられるくらいに正気なら、答える前に逃げるから。正気じゃないなら、会話は成立しないでしょう?

 そう微笑んだシュムは、遠い日の約束を、カイが守ると信じきっているのだろうか。それがどんなものだろうと、シュムを殺し、何も感じないと、思っているのだろうか。

 カイは、笑いたくなった。 



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