正直なところ、エバンスが壁に飲み込まれたように見えたときは目を剥いた。
「おい――」
咄嗟に手を伸ばし、腕を掴んでいた。どう見てもまともな状態ではなかったエバンスの後を距離を置いて追ったのは、その夢遊病状態の原因を知るためだったはずだ。それを途中で止めたら意味がない、と気づいたのは後になってのこと。
しかし、思ったよりもエバンスの――あるいはエバンスを引きずる力は強く、そのまま頭から突っ込む羽目になった。
「!?」
衝撃でもあるかと思ったが、そのまま通り抜けた。幻術だったのだろう。ただ、変に引っ張られたせいで、バランスを崩して地面に転がった。
「っー」
ぶつけた額をさすっていると、目の前にそれがあった。
一本の木だ。
刺さりそうな細い葉も血管が這ったような幹も、全てが赤い。濁った血のような、赤黒い色をしている。闇を見透かして、カイはそれを見つめていた。
風もないのに枝が揺れ、はっとしてカイはエバンスを振り仰いだ。
焦点の定まらない瞳で、青年は木の前に立ち尽くしていた。そこを、腹目掛けて押し出した。そのまま幻の壁を突き抜ける。エバンスは背を打ちつけたようだが、知ったことではない。
「おい、目を覚ませ! 起きろ!」
襟首を掴んで揺さぶるが、一向に反応がない。ちッと舌打ちをして、面倒臭ぇと吐き捨てた。
鳩尾に拳を叩き込んで、完全に意識を取り上げる。
そうして自分は、厳しいかおで、本当はない壁を睨みつけた。その向こうに、あの木がある。あれが、獲物をおびき寄せているのだ。
見覚えがあった。
あれは、こちらの世界の植物ではない。こことは違う、カイの暮らす世界のもののはずだ。それとも、こちらにもあるのだろうか。どちらにしてもカイが知っているのは、あれが他の植物や小動物の生気を吸って生きるものだということだ。
見たことのあるものよりもふた周りほど大きく、色もあそこまで濃くはなかった気がする。人の生気を奪い去っているのは、そういったところに相違点があるのだろうか。それとも逆で、人の生気を吸ってこうなったのか。
「苗床か」
あの木がカイの知っているものと同じ性質なら、独特のにおいで生き物をひきつけ、動植物に種を蒔き、そこから生気を吸収しているのだろう。そうして、十分に養分を蓄えると――発芽させる。苗床は、種を蒔かれた動植物は、その新たな命の苗床となり、全てを吸い取られて終わる。
木を燃やせば方がつくのか、どうにかして種を取り除かなければならないのかが判らない。カイはあの木の獲物ではなく、そんなことを考える必要もなかったのだ。こんなことになると判っていれば、もっと調べておいたのに。
大本だけでも叩いていきたいが、もし、本体の消滅が種に悪影響を与えたらと思うとぞっとする。とりあえず今回は、戻って報告だ。それから、元の世界に調べに戻ってもいい。風を起こして種を飛ばすため、エバンスに種が蒔かれることを免れたかどうかは心もとないが、ここにいてもいいことがないことだけは確かだ。
癪に障るが、デルフォードでも訊けば何か知っているかもしれない。彼は、能力を別にしてもカイよりもずっと長生きをしている。
「戻るぞ、って、担いでくしかないか」
声をかけたが、目が覚める様子はない。
カイは、溜息をひとつ落とすと、倒れ伏したエバンスを担ぎ上げた。思っていたよりも重いが、支えきれないほどではない。腰にきそうだという呟きは、ただの戯言だ。
そのときふと、違和感を感じた。誰かが側にいるような感覚。気絶したエバンス以外は誰もいないはずだというのに――しかも、背後から。
「…誰だ」
振り向きもせず口にした呟きのような言葉に、悪びれない笑い声が返った。楽しそうなそれは、大人と言い切るには少し足りないくらいの少女のものに聞こえた。
『気付いてくれてありがとう。お願いがあるの。頼まれてくれない?』
「他を当たれ」
『もしここにいる理由が赤い木にあるなら、話を聞いても損はないわよ』
「何を知っている」
振り向いても、姿として見えるものはない。ただ、気配だけがあった。幻術の壁の向こうにいるのか、それとも声だけの存在だというのか。
少女の声は、大人びた風に笑った。
『ここで起こった全てを、知っているし知らないわ』
「問答をしにきたわけじゃない」
『そうね。では、要件だけ言うわ。お城にキールという人がいるはずだから、つれてきてもらえないかしら。彼に、あの木を切り倒してほしいの。その後は、そうね。焼けばいいかしら』
思いがけず出てきたキールの名に、表情は変えないものの、内心で首を傾げた。
「何故、そいつなんだ。他の――例えば俺では、駄目なのか」
『多分無理よ。あれは、きっと反撃をしてくる。あなたには逃れる術のない方法で。例えば、貴方が今担いでいる男の子や、あの可愛い女の子。その子たちを盾にされたら、対抗できるのかしら?』
黙って、気配のするほうを睨みつける。歌うように、少女の声は続けた。
『だけど彼なら、大丈夫』
「どんな根拠があってそう言う」
『だって、本能の強い生き物ほど自分は攻撃できないもの』
「――何?」
『勘違いしないでね。彼は、あんな化物なんかじゃない。ただあれは、彼に通っているのと同じ血を浴びて、同じものを糧にしたから、一種の分身なの』
少女の声は、嘘や出鱈目を言っているようではなかった。ただ淡々と、全てをそのまま認めるかのように。そしてキールを、少なくとも侮蔑していないことだけは判った。
そこでカイは、ほとんど唐突に少女の年齢は自分が思っているよりも上なのだろうと、思った。
少女らしき気配が、じっとカイの答えを待っている。
視線を元に戻したカイは、担いだままだったエバンスを担ぎ直した。自分が気絶させたにも拘らず、何も知らずに呑気な奴だという勝手な感想を持つ。
「話はしてみる」
『ありがとう』
最後の一言だけが何故か、泣く一歩手前のように感じられ、咄嗟に振り返りそうになったが、そのまま歩を進めた。ひとつの手がかりは、どうやら手に入れたらしい。しかし、何もそれだけが唯一とも限らないだろう。
とりあえずは、シュムの元に戻ってからだ。
大人しくしていればいいが、とちらりと考えたカイは、洞窟の途中で呆然としているように見えるシュムとどうすればいいのか判らないといった体のキールの姿を発見するに及び、がっくりと頭を垂れた。
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