第四場


「どういうことだ、エバンス!」

 怒鳴り込むようにして駆け込んできた兄を、エバンスは、荷物をまとめる手を止めた状態で、ぽかんと見上げた。

 兄は今、たかだか地方の豪農の出でしかない女性を妻とするべく奔走し、その傍らで父王の政務の補佐を勤めており、多忙を極めていたはずだ。しかも、少し前まではエバンスの魔導士への転向を認めさせるためにも尽力してくれて、少しでも時間があれば休みたいはずだが。

 怒鳴られる理由も判らず、ぼんやりと見つめる。

「名を捨てるなんて、どういうつもりだ!?」

「兄上、魔導士ではよくあることですよ。家柄よりも実力ですから、姓を捨てた方がいいときも…」

「俺はっ、お前を追い出すつもりで協力したんじゃない!」

「誰もそんなこといってませんよ」

 まだ十には届いていないエバンスは、あっさりと言い返した。兄が、エバンスの望みを叶えるためだけに手を貸したことは、疑いようもない。そこまでの恩知らずではない。

 そもそも、エバンスはこの歳にして、権力にびくつき群がる人々に嫌気がさしており、もしも兄が競争相手を蹴落とすために説得を手伝ってくれたとしても、喜んで感謝しただろう。

 それなのに、兄は顔を真っ赤にして睨みつける。

「名を捨てるなんて、聞いてない!」 

「こだわるようなことですか? 僕は僕ですよ?」

 人にとっての名は、区別するための記号に過ぎない。それなら、詐称詐欺でも行わない限り、どう名乗ろうと問題はないのではないか。正直なところ、王家などという大層なものとの縁が遠くなりそうで、助かったと思わないでもないが、どうでもいいことだと思うのも本当だ。

 どうしてもエバンスが理解できないでいることに気付き、兄は、いよいよ怒りを募らせた。

「っ、頭を冷やせ! それまで、修行に出るのは禁止だ!」

「兄上!」

 言うだけ言って、出て行ってしまう。頭を冷やす必要があるのは、どう考えても兄の方だと思うのだが。大体、宮廷魔導士の任についているエドモンドが一旦職を退くのは、エバンスのためだけといっても過言ではないのだ。わがままで遅らせられるものでもない。

 一体兄は何を考えているのかと、幼いエバンスは呆然とした。

「少し、よろしいですか?」

 閉まりきっていなかったらしい扉から、ひょこりと、若々しい女性が姿を現す。エバンスはまた、仰天した。

「義姉上!?」

「あら、そのお言葉は少し早いです。よろしかったら、アンジーとお呼びください」

「で、でも…」

「お茶を頂いてきました。一緒に飲みませんか?」

 兄と一つしか違わないはずだが、可愛らしく穏やかな女性に、エバンスは鼓動が早くなるのを感じた。

 兄がお忍びで城を抜けて出会った軽食屋の看板娘は、同様にして抜け出していたエバンスの、憧れの人でもある。あの兄のことだから最後には妻と認めさせてしまうだろうが、そう思っても、こうして二人きりでいると、恥ずかしくて嬉しい。

 もちろん部屋の扉は、完全な二人きりを避けるために開け放してあるのだが。

 結婚対策として兄は、はじめは無難に、一旦侯爵家の養子にでもして身分を整える策をとろうとしていたようだが、アンジーが今の姓を養子入りで捨てるつもりがないと明言したために、一層問題は硬化した。それなのに、渦中の人はのほほんとしている。

「さっきあの人、怒鳴り込んだでしょう。淋しいのよ」

「え?」

 きょとんとして、湯気をくゆらせる未来の義姉を見る。

 彼女は、穏やかに微笑んでいた。

「理解はできているのよ。名前を変えても、あなたの気持ちが変わらないということくらい。だけど、不安なの。淋しくて、不安なの」

「どういう…ことですか?」

 兄のことを言っているのか、養子入りを拒んだ彼女自身のことを言っているのか、エバンスには判断がつかなかった。それとも、同じことなのだろうか。

 アンジーは、お茶の入ったカップをエバンスに勧めた。受け取ると、いつの間にか冷えていた指先に、じわりと温もりがともる。

「あなたが、あまりにも未練を見せてくれないから。大切だと思っていてくれるのか、判らなくて。それでも、兄弟としてきっちりつながっていれば、なんとなく大丈夫のような気がするの。あなたが名乗る度に、同じ姓を言う度に、近い存在なのだと言える。それにね」

 くすりと、いたずらっぽい笑みを見せる。どきりとしたエバンスは、慌ててお茶を覗き込んだ。

「ついさっき、対立候補を追い出したからこんなムチャを通そうとするんだろう、なんて当てこすりをされたようなの。そのくらい、いつもなら笑って流すのに、少し疲れているのね。違うんだって大声で言いたくなったのよ。子供みたいね」

 今のエバンスの倍ほども生きている、陰謀渦巻く宮中でさえ頼れるあの兄が、アンジーにかかっては子供だ。凄い人だと、改めて思う。

「だからといって、あなたが従う義務もないのよ。あれは、あの人のわがままだから」

「義姉上も…」

「アンジーです。私が養子に入ることを拒んでいるのも、ただのわがまま」

 うっかりと口を滑らせてしまいそうになった言葉を、アンジーは間違えることなく受け取り、微笑んで答える。

 何故と訊きたかったが、それは失礼のような気がして、エバンスは、ひたすらにお茶に移る頼りない自分の顔を見つめた。

「少し、昔話をするわね」

 にこりと笑い、アンジーは背筋を伸ばした。懐かしむように、遠くを見る。

「姉がいるの。四つだったかしら、離れているのは。だけど姉は、特殊な事情で十一歳から体の成長が止まってしまったの。私に成長を抜かされて、泣いていた。…私も、それを知って泣いたわ。何もできなくて。姉は、私の前では笑っているの。大好きなのに、姉を泣かせるのは私だと思うと、とても辛かった。姉はやがて家を出てしまって、今は、いろいろなところを旅しているの。だから私は、姉に会いたくてお店で働いていたの。家には、帰ってこようとはしなかったから」

 するすると、流れるように言葉が出てくる。

 エバンスは、内容の全てを理解することはできなかったが、アンジーが姉を好きだということは判った。

「お姉さんと繋がる名前を、だから、簡単に変えたくはないの。お姉さんが迷惑だと思っても、私は、あの人の妹だということが嬉しいの」

 微笑むアンジーに、エバンスは何かを言おうとした。ところがその前に、開け放っていた扉が、わざわざ勢いよく叩きつけられた。再び駆け込んできた兄の姿に、目を丸くする。

「いいかっ、お前が名を変えるって言い張るなら、俺は泣くからなっ!」



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