「見事な蔵書ですね」
「そうなのか?」
「そうなのかって…ここの管理はあなたがされているのでしょう?」
「俺は、傷んでたのを直しただけ。ここからろくに出たことがないのに、どうやったら他との比べようがあるってんだよ?」
にやにやと、むしろこちらの反応を楽しむようで、悪いことを言ったという気分にはならなかった。そういったところは、付き合いやすそうな性格だ。
「まあ、そう言ってもらえると集めたゴセンゾたちが喜ぶかも」
飲める?と訊いて、返事を待たずに酒を注ぐ。琥珀色のそれは見るからに質がよさそうだが、手をつけずにおく。
彼は、そんなエバンスの反応にはお構いなしに、グラスを一息に飲み干すと、無造作に次を注いだ。顔色一つ変えないところを見ると、強いのだろうか。
「エバンス・リード魔導士。あんたは、俺を殺しに来たってのでいいんだよな?」
「…そうと決まったわけではありません」
「なんだ、そうなんだ」
あっけらかんと言って、再びグラスを呷る。
「それよりも、何故私の名を?」
魔導士の身分どころか、ほとんど変えてはいないとはいえ本名まで知られ、顔をしかめてしまう。
しかし彼は、半ば呆れるようにして笑った。馬鹿にした感じがないのが、せめてもの救いだ。案外感情を表に出しやすい自分を、エバンスは知っていた。
今日の思いがけないシュムとの再会がその際たるもので、余計なことを口走ったと思う。
「金品と一緒に閉じ込められた檻の中の野獣の周りには、金を取ろうと近寄ってくる奴がわんさか来るもんだ。俺は、世間知らずでも無知じゃあない。こういったことに絡むのは宮廷魔導士で、その中で二十代っていったら、国王に連なる方しかいないってもんだろ?」
淡々と言い、その間にも酒を流し込む。
砕けた口調とは裏腹に、彼は己を見せない。あのステファンでは、到底扱いかねたことだろう。
身柄をどうするかは保留するとしても、このままドーター家に置いておくのは問題だろう。一旦、都にでも連れて行った方がいいかもしれない。あそこならば、エバンスよりもずっと格上の魔導士が二人いる。しかしそれは、事態が露見したときに、大いに問題視されてしまうだろう。
そこまで考えてようやくエバンスは、自分が彼をさほど危険に考えていないことに気付いた。契約の獣を恐れる自分がそう捉えないのは、人の血と混ざって気配を変えたその血と、あまりに人と同じ振る舞いのせいだろうか。しかし言動は、見せ掛けだけなら契約の魔物自体でも変わらないはずだ。
思考が絡まりかけたエバンスは、ほとんど意識せずに近くにあったグラスを手に取り、口にした。その直後に強いアルコールに喉を灼かれ、酒を一息に干したことに気付いた。
「おっ、いい飲みっぷり。いける口だな」
面白そうに言って、空いたエバンスのグラスに次を注ぐ。
エバンスは、グラスの足を掴んだまま酒の表面を揺らした。さすがに、二杯目を飲むつもりはない。そもそも、一滴も飲むつもりはなかったのだ。
「条件に君自身のことが含まれていなかったのは、殺されると思っていたからか?」
「いやあ、さすがにそこまでは。言った通り、許されるなら旅にでも出ようかと思ったんだけど?」
真正面から見据えても、軽薄な表情は揺るがない。本心なのか裏があるのか、いまいち掴めない。
「では、南の森にこだわる理由は?」
「答えて、鵜呑みにするのか?」
「聞いてみて判断する」
「なるほどね」
広間での無表情とは打って変わって、部屋に移ってからというもの、軽い印象を与える笑顔を浮かべている。
エバンスの答えに笑い声を上げると、考える間もなく回答を口に乗せた。
「あそこは、俺の遊び場だったから。生きてる間くらい、そのままで在ってほしいと思って?」
「…条件のうちの三つ目、いやもしかすると二つ目も、交渉の余地を残すためのものか?」
「何のこと?」
「相続放棄を条件に飲ませるとしても、いささか負担が大きいと考えるだろう。だが、そのうちの二つまでを諦めさせれば、認める気にもなる。あるいはそれを利用して、管理人に自分自身を指定して、今までと同じ生活を送ることもできる」
「へー、お見事」
にやにやと笑って、讃えるようにグラスをエバンスの方へと傾ける。
エバンスが今口にしたのは基本的な交渉術で、小は庶民同士の頼み事から、大は国同士の取引など、いくらでも応用して使われているものだ。もし言った通りだとすれば、とんだ狸だ。どこが世間知らずなのか。
仮にその思惑がなくても、予想外のことを言われても表情を崩さない、あるいはそれすらも予想していたという時点で、狸は確実だ。
「で、そこから導き出される俺の評価は、生存死亡のどっちになった?」
酒をなみなみと注いだグラスを弄ぶ彼を、見据える。恐れる様子もなく、エバンスの回答さえどうでもいいというような態度だ。
よくこれだけの人物が今まで大人しくしていたものだと思い、ふと引っかかったものがあった。大人しくしていた理由は? 国王は、母親の存在が枷だったと言っていたが。
「君は…母君を大切にしていたのか」
はじめて、薄笑いを浮かべていた顔が凍りつく。一瞬で表情を取り戻すが、そのわずかな空白が、エバンスの推測が正鵠を射ていたことを明らかにしていた。
「…一体、どこをどう繋いだらそんなことになるんだか。いっそあんな女がいなければ、俺も苦労せずに済んだってもんだけどな?」
「君は、名を知られるという最大の危険を犯しているからな。生憎と俺にはその苦労や危険の実感はないが、それだけでも大変なことだろうな」
「同情して気を引こうとしたって、無駄だぜ?」
「事実を言っただけだ。こういったことに関わっていれば、誰だって君の父方の者たちの名の枷については熟知している」
契約の獣は、本名に対して命じられたことには逆らえない。厳密に言えば、逆らえた時には、最大で命を落とすことになる。契約違反が精神的な禁忌であるのに対し、こちらは、肉体をも含めての直截のものだ。
そうなると、名が知れていることは、誰かに操られる可能性を思えば庇いようのない危険だ。あるいは逆に、名を用いての命令があれば自決するようにでもしておけば、そのことを盾に、宮中にも置けるかもしれない。
だがそれは、幸福とは言えない状況だろう。事情を正確に把握していれば、これほど簡単な暗殺手段もないということになる。それ以前に、本人が望むはずもない。かといって、このままここに置いておくのも、旅させるのも、問題がある。
何か、奇策はないものか。
考え込んでいたエバンスは、彼が一緒に黙り込んでいることに気付き、顔を上げた。こちらを見ていたらしい視線とぶつかり、そこに、思いがけず動揺の色を見た。
「何か?」
「いや。…なあ、あんたならどう思う? 執事の息子と駆け落ちしたからって、何もかも否定されないといけないものか?」
「何のことだ?」
話が読めずに首を傾げたが、彼は、それ以上言葉を重ねるつもりはないようだった。
それならと、言われたことだけを考えてみる。駆け落ちの条件は親の反対か身分の違いといったところだろうが、言葉をそのまま受け取れば、両方だろう。裕福な、貴族の娘と執事の息子――次期執事候補。
身分違いの結婚は、男性側の身分が高くても苦労し、中には社会不適合者とみなされてしまう場合もある。女性であれば、男性側について家を出たものの、今までよりも貧しい生活に耐えられず、決裂してしまうことも多い。
そんな一般事例を思い浮かべていたところで、エバンスの兄も身分違いの結婚をして、しかも数少ない成功例だということを思い出して、知らずに溜息を吐き出していた。その成功例でさえ、数え切れないほどの苦労があった。
「個人的な意見としては、わざわざ苦労を買って出ているのだから、それ以上責めるなと言ってやりたいな。自分がそれほどの恋愛をできなかったからといって、ひがむことはないだろうに」
ぶっと、吹き出す音に驚いて目をやると、彼が体を折ってくつくつと笑っていた。
「…笑うようなことを言ったか?」
つい、険の混じった声になる。
その勢いでグラスを干すと、笑いながらも律儀に、彼が酒を注いだ。笑っているせいで、ビンが小刻みに動いていて危なっかしい。エバンスは無言で酒瓶を奪うと、自分で注いだ。
「なあ、あんたなんで、名を変えない? 王家とのつながりを嬉しがるようには見えないけど?」
リードは国姓、つまりは王家の姓だ。
エバンスも、王位継承権を捨てて魔導士に弟子入りしたときには、名を変えようと思っていた。それを辞めたのは、あの人のせいだ。
溜息に似た息を吐く。既に酒臭い。
「兄が…泣くと脅しをかけてきた。あの人は、そんな対策しか考え付かなくて…あまりの馬鹿馬鹿しさに、名乗りを変えたところで血がつながっていることが同じなら一緒だと、それに姉上も…お前と気が合いそうだ、兄上は」
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