エバンスは、ひっそりと一人で城を出るつもりでいた。
「ひっそりと」というのは、簡単に達成できると思っていた。他出が多いため、旅装にも、門番が軽く挨拶をする程度なのだ。だが、その考えはあっさりと裏切られた。
どこで聞いたのか、ミハイルが、一緒に連れて行ってくれないかとねだったのだ。
「まだ誰に師事するかも決まっていないでしょう? 僕は、叔父上がいいです」
「・・・私は、まだ弟子を持てるほどの者ではありません」
ただでさえ、ミハイルがアルを喚び出した一件をすぐに報せなかったと、兄共々、義姉に睨まれているのだ。今はまだ、夫婦喧嘩の余波を喰らったような形だが、ここで了承すれば、やはり「何も言ってくれなかった」と拗ねるのではないか。普段が分を弁えている人なだけに、そうやって怒られるのは厭だ。
そしてそれ以前に、まだ弟子を取れないと思っているのも本当のことで。
しかしミハイルは、不満そうに頬を膨らませた。
「立派に宮廷魔導師として活躍されているじゃないですか」
「私がそんな身分を名乗っていられるのは、総長様方がいらっしゃってくださるからです」
普通、宮廷魔導士というのは一人で、多くても二人といったところだ。中には、魔導士ギルドをそのまま抱え込んだような国もあるが、そういったものはごくわずかだ。
さて現在、この国には三人の宮廷魔導士がいる。
そもそもは二人だったのだが、宮廷魔導士の次長に師事していたエバンスが、どうにか独り立ちできるだろうとなったときに、次長が、高齢を口実に辞去、エバンスを後継にすると言いだしたのだ。
驚いた者は多かったが、誰よりも、エバンス本人が仰天した。
おまけに、それに応じて総長までが、やはり高齢を口実に――総長と次長では、総長の方がわずかに年上だった――引退を言いだし、エバンスは恐慌の域に達していた。
『エドモンドに押しつけられて、総長なんぞという地位に収まったのだ。奴が辞めるなら、わしも辞めて何が悪い』
問題発言を堂々と口にした老人たちに、エバンスは危うく叫ぶところだった。――悪魔が、二人いる。
いや、それらを受けてせっせと後押しをした兄も含めて、三人だ。
エバンス自身は、師から独り立ちを認められたら、早々にギルドに加盟の案内状を書いてもらい、そこの仕事で生計を立てるつもりでいた。兄や義姉が治めているのだから、やがては宮廷魔導士になるのもいいかも知れないとは思ったが、それはずっと先のことであるはずだった。
結局は、今の総長がそのまま残り、エバンスが次長でその師が補佐という形になったのだが、選べようもない身分や家柄で現職にあるようなもので、エバンスとしてはあまり気分のいいものではなかった。
それなのに、師と総長はエバンスが辞めるなら自分も辞めると脅しをかけ、周囲の者も内心はどうあれ、認めてしまったのだから。
――今でも、あの騒動の数日を思うと眩暈がする。
「私は、誰も旅に同道させるつもりはありません」
「だけど・・・あの人も行くと言っていたのに」
「――はい?」
一難が去らないうちに、また一難。
「誰が連れていくと言った?」
自室の隣に用意したアルの部屋に飛び込み、わめかないように押し殺した声は、地の底から上るようで、後を追ってきていたミハイルは、身を竦めた。
「ここに残ってもらうと、はっきり言ったはずだが。どこをどう曲解しても連れて行くなんてならないように、はっきり明確に言ったつもりだったが?」
「聞いたけれど、肯きはしなかった」
「それなら、封印でもしていってやろうか?」
「・・・目が据わっているよ」
無言で睨む。
契約期間内に戻れるかどうかは判らず、それは多少残念だったが、物騒な旅連れを持つよりも――エバンスは、決してシュムのようにはなれないという確信があった――、契約期限が切れるまでは他者と契約をしないようにという契約をして城内においていった方が安全と、そう考えた。師たちに頼んで、城内での生活も不便がないよう取り計らうつもりでいた。
しかしアルは、あっさりと肩をすくめた。
「そんなに問題はないだろう。お前も、契約通りに話も訊けるのだし、むしろいいことばかりではないのか? 契約は結べなくとも、多少のイタズラはできるのだしな。厄介事は厭だから、姿だって変える。悪くない話だと思うが」
「――ミハイル様」
「は、はい」
「これ以上の厄介は御免です。よろしいですね?」
「・・・はい」
気圧されてか、今度ばかりは大人しく応える。
しおしおと部屋を出るのを見送って、エバンスは、深く溜息をついた。そうして、アルを振り返る。
「今更だが、俺はお前を何と呼べばいい?」
「何と呼ばれていたか、聞いていなかったわけじゃないだろう?」
「それは、あの人の呼び名だろう。それでいいのか?」
エバンスは、今目の前にいる相手がシュムに対して本名を告げた上でそう呼んでいたのか、関係なく呼んでいたのかは知らない。しかし、名が彼らの種族にとって、人よりもずっと重んずべきものであることは理解していた。
「――ジャック、とでも呼べばいい」
「ジャック・・・?」
「ああ・・・何か?」
一瞬、動きを止めてしまったところを気付かれ、エバンスは、取り繕うように首を振って、不自然でない程度に表情を隠した。
「知人に、同じ名の人がいただけだ。平凡すぎて、意外な気がした、というのもあるが」
「口数が多いな」
「そうでもないだろう」
素っ気なく、ただ否定をした。
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