「いーたーいーよーう」

「自業自得じゃの」

「冷たい。ヒメ、冷たい。アンタは雪の女王ですか」

「ふん、であればどうした」

 木陰で司は、しくしくと泣き真似を披露して見せた。ただそれだけの動作に、体のあちこちから悲鳴が上がる。

 木漏れ日と春の気候は心地よく、山の妖に分けてもらった軟膏でいくらか痛みが引いているとはいえ、殺すつもりがなかった割に諒の攻撃は容赦がなかった。朝、全身の熱っぽい痛みで目が覚めたときには呻いたものだ。

 学校は当然のように、病欠した。

「はーあ。相棒はあれだし上司はこれだし。世を儚んでもいいですか?」

「勝手にしろ」

 益体もない司の軽口に付き合ってくれているのは、着物姿の少女だった。恐れ多いはずの山の神は、ぼやき通しの司から離れたところで、のんびりと日向ぼっこをしている。

 不意に、日陰にうずもれる司に視線を向け、にぃと笑う。

「全く、可笑しな奴よの。痛い痛いと言いながら、愚痴を言うためだけに山登りをするのはヌシくらいのものよ」

「別に、愚痴りに来たわけじゃないんだけどなあ」

「ほう?」

「英気を養おうかと。もう、仕事三件も一気に立て込むし厭な記憶やら懐かしいのやら一切合財引っ張り出されてきちゃうし、太郎さんも諒も過去の出来事告白大会始めるし。三春さんいたら、甘え倒そうと思ったのに雪の女王なヒメしかいないなんて」

「あれも、そろそろ目覚めの時期か。来週あたりではないかの」

「だねー。まあ、軟膏もらえたからいいけど」

 家に一人でいてもぐだぐだと悩むだけで、かと言って学校に行っても寛げはしない上に諒がいる。

 昨夜は結局、木の上と下で言い合ううちに夜勤の看護師に発見されかかり、逃げ出して終わった。示し合わせてのことではなかったせいもあって、司は徒歩で帰宅する破目になった。

 今度諒に会ったら嫌味でも言ってやろうかと思うが、昨夜の言い合いは、なかったことにするのか引きずるのか、司自身、予想がつけられずにいた。

 司はまだ、狩人を辞めずにいる。昨夜あんなことがあっても、こうして笑っている。

「ヒメ」

「うん?」

「懐かしいことを思い出した。ヒメと出会って遊んで、御守りを受け取ったときのこと。…ヒメは、どうやって狩人を選んでるの?」

 痛みをこらえて寝転がると、土と草の匂いがした。やわらかく、かたい感触。

 少女は、いとおしむような眼差しで山の木々を見つめていた。司も、その視線を追おうと体勢を変えようとして痛みにやめた。仰向けのまま、木々の葉を透かして空を見上げる。

「選ぶのは我ではないよ」

「ええ?」

 御守りの授受も剥奪さえも、山の神を通して行われる。先日放棄を手伝った夜久では多少事情が違ったようだったが、少なくとも、東雲ではそうだ。

 だから司は、全て山の神が決めていると思い込んでいた。

「我は、認めるのみよ。ヌシらの決めたことをただ認め、受け入れることが我の役目。選ぶのは、ヌシや、この地に生きるものら。司。我の存在は、ちっぽけじゃ。腹を立てるのも無駄なほどにの。ヌシらの方が余程、我よりも力を持つ」

「でも」

「そうよの、昔は違ったやも知れん。だが今はどうじゃ。我はの、司。この地に生きるものらが支えてくれてようやく存在しておる。昔は人々も信じた。今となっては、ヌシが妖と呼ぶものらが、木々たちが去れば、我は一滴の存在も残さずに消え去ろう」

 言葉を失った司に、ようやくヒメは視線を向ける。木々を見るのと同じ、いつくしむ眼で。

「我の不在で困るものはおらぬよ。そういったものらは、我よりも先に消えておろう。我が存在するということが何より、我を必要とするものがおることの証左じゃて」

 それは、ヒメが皆を見送り、自身は見送る者がないということにはならないか。

 多大に人の手が加えられた山に、神々がいなくなるのは当然だ。山に斟酌なく手を加える人は神を信じず、必要とはしない。そして、それに対抗するには山の民――妖や木々たちは、あまりにか弱い。そして人々は、山の民のことは尚更に忘れようとしている。

 では。

「…狩人は、ヒメたちを消すのに手を貸してるってこと…?」

 妖の存在の隠蔽は、そこにつながりはしないか。

 だがヒメは、透明に微笑む。

「司。怯えずとも良いよ。ヌシの役目は辛い。なれど、必要とするものがおるのも確かよ。ヌシらに止められたものらは、恨みばかりを残したわけではない。止めたくても止まらなかった己を止めてくれと、そう叫ぶものらのために、我は力を預かっておるのよ」

「おかしいよ、ヒメ。それじゃあまるで、いいことをしてるみたいだ。そんなのっ…」

「のう、司。良し悪しなぞ何を何処から見るかで移り変わるものよ。だから、これだけは覚えておおき。ヌシの振るう力を恐れ、憎むものはおろう。されど、感謝し、そこにしか救われぬものも、確かにおるのよ」

 すうと近付いて、ヒメは司の眼を覆った。ひやりとしたヒメの手からは、緑の匂いがした。

「司。辛ければ、その力を我に戻すか? ただ人に戻るも良かろう。皆には我からとくと言い聞かせよう」

「どうして…ヒメは、そこまで…」

 まだ朝に目覚めてから数時間と経っていないというのに、司は、眠りの淵に落ち込んでいくのを感じた。半ば寝惚けて訊いた問いに、ヒメはかすかに笑い、切なげな眼をした。

「司。ヌシは我の娘にして友だからの。神とて、贔屓くらいするものよ」

 声は、風に流れて消えた。



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