ほのかに春めいた夜気が、隙間風として我が物顔で入り込んでくる。司の、鬘の長い髪がなびく。

「うまいな、これ」

「でしょ。気球屋って喫茶店。セットメニューが変な名前ばっかりでさ」

 喫茶店で買ったサンドウィッチは、みるみる源の胃に消えていく。

 司は狭い小屋の中で、そんな源の向かいに座っていた。今日は、深緑と青が主のチェックのプリーツ・スカートに白いシャツと、校章入りのベスト。そんな格好にはいささか不似合いに、幅の広い腕輪もしている。

「それで、今日はどうしたんだい? 番狐もいないみたいだし」

「そんなこと言ってるから、諒に嫌われるんだよ」

「あいつが俺を嫌いなのは、そんな理由じゃないよ。人間、真実や現実を突きつけられると腹が立つものなんだ」

「意味がわかりません」

 にこりとさわやかに、司は受け流した。源が、最後のひとかけらを口に放り込みながら、目だけで微笑む。

「鏡に映った己の姿が厭で、目を逸らす奴もいるってことさ。誰しもが君のように強いわけじゃないんだよ、司」

「どうしてそこで名前が挙がるのかわからないです」

 言って、司は、ふと気付いたように手を伸ばした。

 本や雑貨が積み上げられた一角に、ちょこんと、安っぽい文庫サイズのアルバムがあった。ケースから出したところで、源に取り上げられる。

 笑顔の中で、先ほどとは逆に、眼だけが醒めていた。

「何を迷っているのかな?」

 司は微苦笑して、困ったようにわずかに首を傾げた。ルナなら、こんな仕草も可愛いだろうなと、ぼんやりと思う。

「迷ってはいないんです。どう切り出せばいいのかわからないだけで」

「今日は、わからないばかり言っているね」

「そうですね」

 頷いて、上げた視線を源に当てる。

「可南子さんを襲った人たちが殺された事件に、ゲンさんはどう関わってるんですか?」

「ひどいな、いきなり犯人扱いかい?」

「無関係、て関係もありますね」

「ああ、そうか」

 司の見ている前で、装われていた苦笑は取り払われ、虚ろな無表情が剥き出しになった。息だけの笑い声がこぼれ落ちる。

「司、僕はもう決めたんだ。あと少し、黙って見ていてくれるだけでいい。いや、見てくれなくていい。目を閉じて、少しだけ眠っていてくれたらいい。大丈夫。誰も、真相になんて気付きやしないよ。いや、気付いたって問題はない。人間の犯人が話題に上るだけだ」

 人外の存在が明るみに出なければ、狩人の感知するところではない。だが司は、頷かなかった。

「ゲンさんたちが死を選ばないなら、目をつぶります」

「強者が弱者を理解することはないと言うね」

「強者と弱者の定義がわかりません」

「本当に、わからないばかり言っているね」

「言わせてるのはゲンさんです」

 司が祈るような気分でいることを、怒っていることを、源は気付いているだろうか。表情めいたものを浮かべる源の顔を見つめながら、司は、例えば泣いたらすべてが丸く収まると言われたら、どれだけだって泣く用意はあるのになと、馬鹿なことを考えた。

 そんな都合のいい展開がないことを、司は知っている。源だってそうに違いない。

 残念だ、と、源が呟くように言った。

「君なら、わかってくれると思ったのに。それとも、あれかな。人間相手に報復するというのが駄目なのかな。気持ちは同じなのにね」

 源の胸中に燃えさかっているだろう漆黒の炎を、司も知っている。何よりも高温の、凍てつく炎。

 かつて司は、その炎に焚きつけられるままに命を握りつぶした。祖母の姿をしたものに対して、親しかった人の中に巣食ったものに対して。そうして、己の心にも刃を突き立てた。

 ともすると再燃しそうな焼け跡に念入りに目を光らせ、司は立ち上がる。小屋の外に出るのを、源は止めようともしなかった。代わりに、巨きないぬがいた。母を殺された小いぬは、いまや十分に成長している。

 わずかな光も強く反射する眼は、赤く充血している。唸り声を上げる口からは間断なくよだれが流れ、何も知らずに見れば、狂犬病を疑うだろう。実際、どうにか自我を保っていられる程度。それだけでも賞賛に値する。それほどに、時として人の血と死は、彼らにとって腐毒となる。

 司は、そんな彼らを見つめた。

「選んでくれないなら、あなたたちを殺しても止めさせます」

「妙な話だ。死なせるのを拒めば殺すなんてね」

「死ぬつもりの人を止めても、意味がない。やろうと思えばどうやってだって死ねるけど、四六時中見張るわけにもいかないし。それなら、なくなる命が減る方を選びます」

 数の問題では、もちろんない。それでも、司は選ぶ。

 どうして自分は天才じゃないんだろう。どうしてもっと上手く立ち回れないんだろう。最悪の結果を回避する方法はいくつもあったはずで、自分でない誰かは、それを選び取れたかもしれない。

 そんな考えが、いつだって心に根を張っている。

 だけど今ここにいて、現実を動かしているのは、どうしようもなく自分で。

「ご立派」 

 ぽつんと、押し出された声。

 飛び掛れば司くらい容易く押し倒しそうないぬは、源との間の空気をどう読み取ったものか迷うように、しかし司を逃すことなく、戸口に立つ源を窺う。

 司が火月を取り出すと、一層獰猛な唸り声を上げた。わずかでも気を抜いたり視線を逸らしたりすれば、即座に飛び掛ってくるだろう。

「諒はその辺りに潜んでるのかな」

「被害者候補をお願いしてます」

「おや。二対一で?」

 当然ながら一人では不利だが、司は、宮凪に貰った札を持って来ていた。使いこなせる自信はまったくといっていいほどにないが、ないよりはましかもしれない。

 諒には、源のところに行くとは言っていない。一人で、相対したかった。

「――可南子さん、どうするんですか」

 視線はいぬを射たまま、そして胸中で強く叫びながら――焼き尽くすのでなく、捕らえる術を寄越せと――司は、言葉を手繰り寄せる。だがそれも、源を揺らがせることすらできない。

「奇跡が起これば、いつか眼を覚ますかもしれない。その前に栄養の補給を止められなければね。もっとも、眼を覚まさない方が幸せかもしれない。ああ、僕たちがやったことを、彼女が喜ばないことくらいわかっているよ」

 何を待っているのかもわからないまま待ち続ける司に、淡々と声は降り注ぐ。

「疲れたんだ。後悔にも倦んで、無残に中途半端な希望に手を伸ばすことにも飽いて。そんなときにね、丁度、聞こえたんだ。彼らの一人が、どうも可南子の病棟で働いていたらしくてね。もしも意識が戻ったらどうするんだ、戻るわけがない、その前に何とかする、それはまずい、なんて、揉めてた。そこでようやく、加害者がまだ生きていたってことを思い出したよ。捕まってすらいなかったってね。彼らは傷一つなく、生きている。罪の意識だって、どれだけあるのか。何だか、馬鹿らしくなったよ」

 源の動く気配があって、後ろから刺されるかな、と考える。そう思ったところで、いぬから目を逸らせばそれまでで、回避は難しそうだ。

 でもそれは、厭だ。無駄に命を落とすだけなんて真っ平で。

 ――出し惜しみするんじゃない。いいのか、ここで力を発揮しなかったら、お前はまたしばらく眠りにつくんだ。

 御守をはじめて扱ったとき、その歓喜が感じられた。これも、妖たちは知らないことかもしれない。この不可思議な力の塊は、感情を持っている。だからこそ、訴える方法もあるはずだと、信じたい。

「君にはわからないかな」

「絶望なら、経験してますけど?」

「そこまで明確なものじゃあないね」

 ひたりと、背後に人の気配がある。司の眼は、ひたすらに正面を見ている。

「阿呆か!」

 諒の声が先行し、音もなく、光が開く。同時に司の背後を風が走った。その間に司自身は、咄嗟に目を閉じ、横に、身を投げ出すように転がっている。耳の傍を唸り声が駆け抜けた。

 そして即座に身を起こす。手を離した刀は即座に掻き消えており、改めて抜き放つ、つもりができず、いぬに喰いつかれる。司はそれを、幅広の腕輪で受けた。ちゃちな装飾品ではなく防具用に作られているというのに、歪むのが判った。

「だからッ、動けないのが厭なら力貸せって言ってるだろ!?」

 思わずこぼれた叫びは、いぬや源、諒にではなく、お守りに向かっていた。

 刀が、抜き放たれる。脇差ほどの長さのそれは、見ようによってはよほど、小柄な司に似合っている。

 遅い、と、司が言い捨てた。

「捕らえろ水月!」

 今にも腕輪ごと司の手首を捩じ切りそうないぬの顔を、どこからか現れた水が覆う。やがてそれは水球になる。それでもいぬは、手首を離さない。

「…凄いけどこれ…まずくない?」

 長時間放置すれば窒息死はまず確実で、かといって、解いてしまえばやはり手首は無事にはすまなさそうで。

「阿呆」

 いつの間にか回り込んでいた諒が、いぬの後方から手を伸ばして首筋を押さえ、数秒。水球に手を入れると、力任せに口をこじ開けた。ようやく、手首が開放される。

「死なせたくないなら水戻せ」

「あ。う、うん、えっと、えっと…もういいってば!」

 初めてで扱いに慣れていないからか、気が張っているからか、なかなか戻せない。司は焦って、声に出して叫んでいた。

 ぱしゃん、と、音を立てて球を作っていた水が落ちて地面にしみ込む。

 わずかに涙目で、顔を上げると月光を背負った諒がいる。司は、無理矢理視線を逸らした。背面を見ると、意識を失ったように、源が地面に倒れていた。諒がどうにかしたのだろう。

「…ゲンさん」

 一度目を閉じ、開く。右手には、持ち慣れたいつもの日本刀――火月が握られている。

 司はそっと、源の傍らに膝をつく。刃先は、喉元に当てた。

「ゲンさん、起きてください」

 何度か呼びかけると、ふうっと、夢からの目覚めのように源の双眸が開く。焦点がどこに当てられているのかまでは、人並みの司の視力では見えない。いつの間にか、日はとっぷりと暮れている。

「呆気ないものだなあ」

「ゲンさん。最後です。――考え直しませんか?」

「可南子が眼を覚ましたら、頼むよ。――ギンエイ」

「っわ! と、とと…ぎゃー」

 諒の声が間延びして、それに重なるように水音が聞こえた。だかそれらを、司がはっきりと聞いていたわけではない。

 司の目の前には、闇にも拘らず、鮮明な赤が見えていた。

 いぬが源の喉を噛み切り、源が火月の切っ先をつかんでいぬの喉を掻き切る。ぬるりと、司に赤い色がかかった。

「……ゲン、さん………?」

「悪ぃなぁ、もぅ、つかれたんだ。おわりたかっただけなんだ」

 ぱっくりと裂けた喉を痙攣させ、半ば息になった言葉を吐き出す。最期に、少し皮肉気な、いつもの笑みを浮かべた。

「お前は、僕みたいになるなよ」

 聞き取りにくい言葉を残し、荒い息だけを続け、やがて、それすらもなくなる。いぬの方も、荒い息が徐々に消えていった。

 司は、そんな一人と一匹をただ、見つめていた。

 どれだけ経ったのか、誰かの気配を感じて立ち上がる。振り向こうともせず、血に濡れた刀を構える。

「燃やし尽くせ、火月」 

 司の想いに応じて、二つの抜け殻と、ぼろぼろの小屋が一気に炎に包まれる。

 放火事件ってことで取り上げられるかな、ホームレスを焼き殺した放火犯、って。司の頭の片隅で、そんな予想が為される。

 いくら夜には人気のない場所とはいえ、いつ誰に見られるか判らない。早くこの場を立ち去れ、と訴える己の中の声に従えず、司は、そこに立ち尽くしていた。間近の炎が、暑いを通り越して、痛い。

 また。

 守れなかった。

「司」

 呼ぶ声が聞こえたが、炎から目を逸らすことはできなかった。

 口を開いてもいいことはないとわかっていても、止めることもできず、言葉が滑り落ちる。

「…どうして?」

「あ?」

「向こう居てって言ったのに、どうしてここ、いるの」

「お前ね。死に掛けてまでそんなこと言う? 助かったのは誰のおかげだよ?」

「こうするって、知ってた?」

「ばーか」

 否定なのか肯定なのかわからないままようやく司は、視線を諒に向けた。今なら、炎の光である程度は表情が判る。

 諒の狐色の髪が、炎の色に染まって赤毛に見えた。

「どうして、来たの」

「補佐の仕事の第一は、狩人の指示の遵守じゃなくて、狩人を守ることだからな」

 すました顔はいつもと変わらず、空しいくらいに感情が読み取れない。おまけに、揺れ動く炎は、光以上に影も際立たせた。

「一番は仕事の遂行でしょ。もしやったのがゲンさんたちじゃなかったり他の人も関わってたら、失敗に終わってる」

「そっちは椚に任せてきた。どうだ、抜かりないだろ」

「こっちを助けるくらいなら、ゲンさんたちを助けてほしかった」

 一瞬、諒の顔が歪んだ。だがそれがあまりに刹那で、司は、見間違いと判断した。実のところ、うっかり漏らしてしまった本音に、すっかり余裕を失っていた。

 まだ死にたくないと口にしながら、司はずっと、死んでもいいと思っていた。誰か終わらせてくれないかと、これ以上酷いことをする前に、誰か、自分を止めてくれはしないかと。だから本当は、自分一人が助かるくらいなら、源たちに助かってほしかった。

 夜風が吹き抜け、一層に炎を揺らした。

「死に方を決めた奴を引っ張り出すほど、野暮じゃないつもりだぜ?」

「…そんなかっこつけ、わからない」

 わからないばかりだな、という、源の声が耳に蘇る。司は、震える唇を引き結んだ。

 わからない。わかりたくない。だってわかってしまったら、司はきっと、呆気ないほど簡単に命を引き渡してしまう。

 ぽん、と、司の頭に手が乗せられた。

「とりあえず離れよう。放火及び殺人で捕まったら笑えねえ」

「…諒、一人で帰って」

「おい?」

「ここに残るわけじゃない。ちょっと、行きたいとこあるだけ」

 諒にじっと見つめられたが、司は、目を逸らさなかった。ぎこちなく、微笑してみせる。もう大丈夫と、証明でもするように。

 諒の、深々とした溜息の音が聞こえた。

「今日、バイクなんだ。後ろ乗せてやる」

 少し迷う。それでもしばらくして司は、肯いた。行き先を告げる。

 予備のヘルメットを渡され、諒の腰に手を回すと、しがみつくようにして司は目を閉じた。風の音と、司のものか諒のものか、あるいは二人の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。

 ねむいなと、司は、半ば眠ったような頭で思った。

 眠りが死に近いと、死の疑似体験だと言ったのは誰だっただろう。死ぬことを、眠りにつくと言ったりもする。それだけ近いのか、それとも、小さな類似にさえ想起してしまうほどに恐れているのか。

 どちらにしても、人は、考えることをやめられない生き物なのだと実感させられる。

 源に、司は憧れていた。

 はじめて源を知ったのは、役所の窓口だった。それは、言ってしまえば、通り過ぎた風景ほどの出会いだった。実際その後、弟と遊びに入った山で諒を伴った源に出くわしたときには、既に出会っていたとは気付かなかったほどだ。

 しばらくの間、諒も源も、司にとってはたまに遊んでくれる「楽しい大人」でしかなかった。狩人のことを知るのは、祖母を喪った後、だまし討ちのように、諒に御守りを手渡されてからのことだ。

 狩人になってから、源の強さに驚いた。狩人の仕事をしながら役所の仕事をこなし、恋人を大切にして、邪魔でしかなかっただろう司たちの相手もしてくれた。それらが破綻してしまっても、時折危ういものは感じさせても、日々を送っていた。

 それなのに、どこで間違えたのだろう。あるいは、始めから間違っていたのだろうか。だとしたら、今の司も間違っているのだろうか。

 いくつもの答えの出ない問いかけが、風の音に乗って司の頭の中を駆け回っていた。

 やがてそれは、到着を告げる諒の声に塞き止められる。

「どうするつもりだ」

「あとは一人で帰れるから、いいよ。ありがと」

 ひょいと飛び下りて、ヘルメットを投げ返す。風に乗って、散り残っていた桜の花弁が流れてきた。

「阿呆」

 諒の声を、背で聞いた。

 司が見上げるのは、少なくとも建前としては、人の命を助けるために作られた建物。灯りが見えるのは、ほぼ確実にナースステーションだろう。

 東雲市立病院、という厳しいようでありふれたプレートの嵌められた正門は、夜間は閉められている。どこかの洋館の鉄柵のようなそれは両開きになっていて、二メートルほどはあるだろうか。

 司は、その半ばほどにある取っ手を目指して跳躍し、そこを足場に、更に跳んだ。着地はそのまま、自由落下。

「病室? 中庭?」

 当然のようについてきた諒は、司のような二段階跳躍ではなく、一跳び。いつもであれば、御守を出せばそのくらい、と、司は妙なところで対抗心を燃やしただろう。

「中庭」

「…何を見せられたんだ」

「知りたい?」

「ああ」

 珍しく何の衒いもなく真っ直ぐな応えに、司は苦笑していた。そんなにも、危うく見えるのか。

 束の間逡巡し、司は、足を止めた。件の桜までには、まだ少し距離がある。人気のない中庭は、密やかな夜の気配に満ちていた。

「一人で行ってみて。そうしたら、多分わかる。今度は、危なくなったらあたしが止めるよ」

「今話せば、済むことだろ」

「言いたくない。大丈夫、この機に乗じて諒を始末しようなんて思ってないって」

「…カラ元気は止せ」

 返事はせずに、歩みを再開させた。

 司たちと同じ夜の底に、その木も立っていた。

 花も咲かせず、それどころか、立ち枯れたようにすら見える。

「どうする? 厭なら、結界だけ解いて少し離れてて。試してみるなら、あたしが離れてる」

 ほぼ確実に、司が見るものと諒が見るものは違うだろう。だが、同じくらいに我を見失わせるものだろうとの確信はあった。

「結界、解いて」

「司」

「――破るよ?」

 動かない諒を置いて、司は、火月を抜き放った。鈴の鳴るような音がして、結界が壊れたと知れる。

「待て。――離れてろ」

「わかった」

 一歩引くが、火月は抜いたままにした。併せて、使う機会のなかった札の、動きを封じるものを一枚、引き抜いて指に挟む。裏面に糊付けがしてあるようで、舐めれば使えるだろう。

 諒は、躊躇を見せることなく桜に近付いた。伸ばした手が触れるか触れないかの刹那。

「――静」

 掠れた、声が聞こえた。掻き抱くように伸ばされた手は、空を掴む。

 諒の眼に映っているものは司には見えず、ただ、見たことのない表情が、病院から洩れる明かりに照らされていた。

 目を逸らして、そのままにしておきたくなる。悲劇に見えても望むならそれでいいのにと、つい思いたくなってしまう。

「そこまで」

 札を、諒の背に貼る。一瞬、司にも諒の見ていたものが見えた気がした。髪の長い少女が哀しげに笑って、消える。

 司の目に映ったのは、違う人だった。

「やあ、司」

「…ゲンさん」

 ついさっき命を絶った人に呼びかけられ、司は、笑おうとして失敗した。

「どうしたんだい、そんな顔して。――御守りを引かなかったことを後悔してるのか? 引いていれば、ギンエイは助かったかもしれない」

 それは、司が思ったことだった。言い当てられたことに、ああ、と思う。ここまで来て、まだ思い違いをするつもりだったのか。これは幻で――源では、ありえないというのに。

 泣きそうになった。

「ゲンさん」

「うん?」

「何を隠してるの?」

「何、って?」

 源の笑顔は崩れない。

「順当に考えて、根元、かな。人をおびき寄せたのは、そこにある何かのためでしょ?」

「…司」

 唐突に、「源」が無表情になる。途轍もなく希薄な存在感に、思わず手を伸ばしかけ、司は、刀を握っていることに気付いて手を下ろした。

 眼を閉じて、開く。

 刀が、火月から水月に変わる。

「――穿て、水月」

「やめろ司!」

 御守に任せ、根元にある何かを傷つけないように、高圧の水で切り出す。

 やがて表われたのは、小さな塊。闇にうずもれ、極限まで膨らんだような、艶やかな物体。それは、まだ首もすわらない子どもに見えた。病院だから気付いてくれるだろうと誰かが捨てて行ったのか。まさか、病院で亡くなった子どもではないだろう。

 司は咄嗟に、反射的に込み上げた吐き気をこらえた。次いで込み上げたのは言いようのない空しさと、泣きたくなるような感情の昂ぶりだった。

「死んだものにどれだけ力を注ぎ込んでも…生き返らない。どうやったって…!」

 言い切れず、司は、「源」を見つめて刀を構えた。長い、一本の日本刀。それを、桜の根元に向ける。

「火月――滅せ」

 小さな塊は刀に貫かれ、長い時間ちろちろと炎を留め、それでも最後には炭と化した。妨害は、なかった。

 司たちはそれを、声もなく見守った。しめやかな儀式のように、張り詰めた時間は淡々と流れていった。焔の終焉を見届けると、土を被せた。

「やっぱり――無理だったのか」

 それは、まだ源の姿をしていた。表情はなく、感情など感じられない。ただ儚げに、散りかける花のように、呟いた。どこも見ていない瞳が、司を見つめる。

「生きて欲しかった。ここで、泣いていたから。でも――無理、だったんだな」

「うん…無理だったよ」

「そっか。もう、駄目なのか」

 闇に溶けた言葉と一緒に、源の姿をしていたものも消えた。

 ひび割れた桜の樹肌を眺め上げて、司は日本刀を仕舞った。根元の塊に視線を移し、どうしようもなく立ち尽くす。

 例え偽者でも、また、源に去られてしまった。何一つ救えないまま、この手からは全てこぼれ落ちて、司は残っている。

 風が、吹いた。

「随分無理したな。放っといても枯れるぜ、こりゃ」

 努めて軽い諒の声に、一人きりではなかったと思い出す。安堵するはずのそれが、今は重い。

「札…外したっけ」

「剥がれた。いいだろ、終わったんだ。帰ろうぜ」

 諒も、桜の見せた幻を体験している。だからだろう、平静を装っても、言葉はわずかに揺れていた。早々に向けられた背は、司に呼びかけておきながら、拒絶しているように思えた。

 司は、何も握っていない自分の掌を見た。

「…ここで御守りの力を注いでも、変わらないだろうね」

「まあ、そりゃあ」

「気付いてるでしょ。同じことだよ」

 司が諒を見ると、合わせたかのように、残り少ない桜の花びらが夜風に舞った。花時雨に紛れながら司は、自分の言動を人事のように感じていた。 

 もういっそ、全て終わらせてしまおうか。

「失われたものはそこまで。あの子ども、見たでしょ。死体に力を注いだところで、生き返ったりはしない」

「…言うな」

「けなげだね。捨てられたのかな、たまたま根元に埋められた子どもに養分を――生きている人を殺して奪った養分を与えて、自らのことも省みずに全て与えて、できたのはせいぜいが、死体を太らせることだけ。生きるには程遠い。ねえ、諒も気付いてたんだよね? だから、長い間御守りに手が届くところにいながら、試せなかった。だって、試したら判ってしまう」

「言うな!」 

「言うよ。無駄に時間を過ごしてきたね、諒。絶対に再会は叶わないのに」

 拳を、避けたつもりで掠めた。御守りを出していれば、余裕で避けられただろう。それを手にしていなければ、むしろ避けられたことが奇跡的だ。

 闇に、諒の表情は判らない。だが、月の光を弾いた眼が、司を睨みつけていることだけは判った。

「育たないものに養分を与えたって無駄。ねえ諒、なんて意味のないことをしてるんだろうね、あなたも――あたしも」

 繰り出される拳や蹴りを紙一重で避けながら、司は言葉を紡ぐ。この場になっても、自分にそんな芸当ができるとは思ってもみなかった。御守りを手にしない司は、ただちょっと、体力があるだけの高校生に過ぎないというのに。

 だからきっと、諒は本気ではない。あるいは、怒りが強すぎて動きが散漫になっている。

「大体、全部的外れなんだ。生き返らされて、それで大団円? その後はどうするの? その前のことは? 全部、水に流して仲良くしようって、できるの? 諒に感謝して、それはそこだけで終わる? 返しきれない恩を売りつけるようなものじゃない?」

 さすがに、攻撃が体を掠める。掠めたところは痺れたように重くなり、爪が掠めたのか、血が出ているところもあった。

 そして、中庭の端に追い詰められ、殴りかかってきた一撃を避けて諒の背を足場に、木の枝に跳び移る。

「終わったことはそこまでなんだ。どうして、それを続けようとする? 続かないんだよ、どうしたって」

 言いながら、何を言っているのかがわからなくなってくる。

 言っている相手が諒なのかも、わからなくなる。
「みんな、失くしたものばっかり、失くしそうなものばっかり」

 幹に頭を寄せて、司は目を閉じた。夜に、その身を委ねるように。



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