そのとき司は、迷子になっていた。
要とかくれんぼをしていて、広すぎる山の中で居場所を見失った。要が鬼で、見つかってはいけないはずなのに気付けば、泣きながら大声で名前を呼んでいた。
山は黄昏て、あと少しで闇が来ると判っていた。
怖いのは闇ではなくて、闇の中に息づくたくさんの生き物でもなくて、その中に放り出されることだった。生まれる前からずっと一緒だったはずの要と一緒でようやく、司は「一人」になれる。司だけでは、一人ぼっちの淋しさにも耐えられない。一人ですら、ないのだから。
「かなめ…」
無理な出し方をした上に泣いているせいで、声はほとんど出なくなっていた。
泣きながら歩いていると不意に、水辺に出た。まだ十分すぎるほどに子どもだった司から見ても小さな、泉。しかしその水は、滾々と湧き出て止まることを知らないかのようだった。
「何奴」
「…え?」
「何奴かと訊いておる。きりきりと答えぬか」
厳しげな女の子の声が聞こえて、司は束の間、泣いていたことすら忘れて声の主を探した。だが、見回してもそれらしい人影は見当たらない。
そのうちに、声の主の方が待ちきれなくなった。
「ええい、答えぬか!」
「えっと…なにを?」
「そちは何者じゃ」
「ソチハナニモノジャ、って、なに?」
言葉の意味がわからなくて、そのままを聞き返す。沈黙が落ちて、司は、誰だか知らないが声の主に見捨てられたと思い、要に助けを求めようとして、この場にいないことに気付いた。また、涙が盛り上がる。
「なんじゃ…あのときの子供か」
「ふぇ?」
今にも泣き出そうとしていた司の前に、真っ赤な着物を着た長い髪の女の子が姿を見せる。どこから出て来たものか、森の中では抜群に目立ちそうな姿だというのに、司は何も不思議に思わなかった。ただ、ぽかんと見つめる。
「ほれ、泣くな。やかましくてかなわん。母親はどうした。はぐれたか」
「ハハオヤ…おかあさん、いえにいるよ?」
「では一人で来たか。迷ったな。…いや、待て。迎えが来ておる。ふむ、クヌギのか。里に下りたあやつでは、ここまでは来難かろう」
司には理解できないことを呟くように口にして、女の子は司を見た。
「ヌシ、名は」
「え…えっと…?」
「名前は何という」
「あ。おきたつかさ、です!」
「沖田司…沖田…司、か。司、来い。我が案内してやろう」
あない、と言われてもよくわからなかったが、先に立ち、司を振り向く仕草でどこかに連れて行ってくれることはわかった。慌てて、後を追う。
しばらく下ると、司のよく知る大きな人がいた。
だが、司が喜びの声を上げるよりも先に、気まずげに、いささか呆けたような声がした。受けたのは赤い着物の女の子で、どこか得意げなかおをしている。
「…ヒメ様」
「久し振りじゃな、クヌギの。里の暮らしには慣れたかや? 我は寛容じゃ。山に立ち入る程度なれば、許して遣わそうぞ」
何かを言おうとして呑み込み、大きな人はただ、緊張したように深々と頭を下げた。司はそれを、不思議な思いで見つめる。今まで一度も、この人がこんなことをしたところを見たことがなかった。
「たろーさん? このこ、しってるの?」
「…ああ」
「そうなんだ」
親しい人の親しい人は親しい、という図式の元に、司は、女の子にも多大な親しみを感じて見つめた。――見つめようとした。
女の子は、いつの間にか姿を消していた。
「あれ…?」
「司、帰ろう。要が大泣きしている」
「うん」
要が待っているとあれば、戻るのが当たり前だ。
それでも司は、女の子が気になって後方に視線をめぐらせる。どうしても、赤い着物の端も見えなかった。
それなら、と、小さな司は手っ取り早い方法を取る。
「またこんどあそぼうねー!」
司の大声は、薄闇に響いて消えた。このとき司は、女の子が何者なのかを全く知らなかった。
それを知るのは、数年が経ってからのこと。その入り口は、夜だった。
山の奥で、司は、いくつもの視線に突き刺されていた。けれどそれらは沈黙を守り、姿を隠し、ただ視線だけが感じられた。
彼らに許されているのは、ただそれだけだった。
「気負わずとも良い。ヌシは既に、力自体は受けておるからの」
司の向かいに現れたのは、あでやかに着物を身に着けた女性だった。闇に溶けるようで一線を画している長い黒髪を流し、真っ赤な唇を持ち上げ、にぃと笑う。
「のう、フタミの」
フタミは二身。それが、妖でありながらにして人でもあった諒の二つ名と、司が知るのはしばらく後のことになる。そして、目の前の女性に既に出会っていると知るのも。子どもの姿しか、司は知らなかった。
知らないことの方が圧倒的に多い司の斜め後方で、名指された諒がどんな顔をしたのかは、司は知らない。そのとき司は、どこか呆けていた。
どこから生まれたとも知れない灯りが周囲には浮いており、見慣れた山の、夜の姿を照らし出している。音もなく満ちる得体の知れない気配と視線は、司が山で感じることはあっても、気のせいと思い込んでいたものだった。
違う世界へとはっきり踏み込んでしまったことを、このとき司はようやく実感しようとしていた。
「なれど、限りの事。力を欲すれば、かつてない苦痛を伴おう。ヌシ、覚悟は良いかの?」
「――はい」
まだ幼くて無力な司と要に、生きる術はない。だから司は、よくわからないなりに考えて、狩人になろうと思った。人の社会で生きるのに必要な金銭が手に入り、生半のものでは手を出せないほどの力を身に着ける。それは、願ってもないことだった。
逆に、より多くの危険を引き寄せることまでは、気が回らなかった。狩人になったために大切な人を失うことになるとは、考えもしなかった。
言ってしまえば軽率に、司は力を身の内に引き入れた。
その償いは、後々支払うことになる。それも、司以外のものによって。
だがこの時点でそのことは知らず、司はただ、受け渡された御守りの力に、感じたことのない痛みを受けて絶叫していた。
気絶することすら叶わず、体の内側から焼き鏝を当てられたかのような、液体となった炎を流し込んだかのような、いっそ自ら腹を掻っ捌いた方が優しいかもしれない痛みに、耐えていた。
土と草と苔の中に頽れ、這い蹲ることもできずに、痙攣するようにかすかにあがく。
夜を渡る風とただ炯炯と見つめる幾筋もの視線は、司に危害を加えない代わりに手を差し伸べようともせず、それは、傍らに立つ諒も同じだった。ただ、見詰める。
それが、司が本当に夜の生き物に紛れたときのこと。それ以来司は、ずっと、夜の底で刀を握り締めている。
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